第4話 峠を越えて、列車は岡山へ

 新幹線の高架と交差し、20年来この地を走り続ける老舗特急はさらに播州平野を快走している。山側にあった高架はやがて海側に移り、白と青のツートンカラーの電車がその上を西へ東へと往来する。

 こちら白と赤のツートンカラーの気動車は田園地帯を通り抜け、つかの間の海を左手に見る。とはいえ新幹線のように高架を走るわけではないから、駅に阻まれ海がしっかり見えるというわけでもない。

 ほどなく相生通過。ここは本来特急停車駅ではないが、新幹線はこの駅の他西明石や玉島にも駅を設けている。いずれ夜行新幹線が走り始めたときに通過待ちをさせるための信号所的な意味合いでの駅設置である。ある意味、今の急行列車の客も新幹線で賄うという意思表示とも取れる。


 車内のほうは、姫路で幾分乗車があったものの半分も埋まっていない。

 よくて4分の1程度か。

 いつもならもっと空いている日もあるようだが、今日は岡山以東にしてはむしろ乗車率がいいほうだろう。もっとも岡山開業以前はほぼ満席状態であっだが、それだけ新幹線に客が移動したということ。

 たまに前6両の佐世保行の乗客が食堂車に向っていくのと、車内販売がときに通るくらい。車掌の車内検札はすでに終えており、巡回も頻繁にはない。


 列車は少しずつ山間へと入っていく。次の有年は、かつて赤穂への軽便鉄道の連絡駅であったが、国鉄赤穂線の開通に合わせて廃線となって久しい。次の上郡からは陰陽連絡のための国鉄智頭線が建設予定であるが、このところ思うように進んでいない模様。

 上郡を過ぎると、列車は徐々に上り勾配に差し掛かる。ここは船坂峠。

 かつて蒸気機関車の時代は補機もついていた列車や時期もあったが、この気動車にはその必要はない。かなり非力の部類に見られているが、それは後に製造された電車や岡山から山陰方面に向う「やくも」に使用されている181系気動車との比較上の話。82系気動車でもこの船坂峠や上りの瀬野~八本松間、いわゆるセノハチ程度の坂であれば悠々と走り抜けることが可能である。

 列車はエンジン音も高らかに峠を越えていく。トンネルを超えいささか下り坂に差し掛かった頃には、もう岡山県。

 列車は大きなカーブを快走し、県境の三石を通過。

 小津安二郎の映画で描かれた頃は蒸気機関車の牽引する客車列車であったが、今や赤とクリームのツートンカラーも鮮やかな気動車列車。

 この光景、すでに12年も続いている。


「岡山県に入ったようや。ところでハチキ君、眠くはならんのか?」

 書類に目を通していた石村教授が、メガネをかけなおして横の青年に尋ねた。

「ええ。先ほどの珈琲のおかげもありまして」

「さよか。ところで、この列車を開発するにあたっても、さまざまな学問が用いられているが、その中に物理学がもれなく入っていることは御存知であろう」

「それはもう、嫌でもわかります。効率よく前に向けて高速で走るためにはどうすればいいか、あと、いかに列車を衝撃なくとめることができるか。設計段階できちんと処置していないと、オオゴトではないですか」

「そのくらいわかっていればいいだろう。じゃあ、文系の諸学問、とりわけ君の先行しておる経営学や経済学、法学といったものも、この列車を走らせる陰にはきちんと横たわっていることも、御存知であろうな」

「そうですね。この列車の模型をわざわざ買ってきて走らせる奇特な人も世の中にはいますけど、これだけの車両を何本もそろえて毎日走らせるためには、莫大な費用が掛かっていますね。そのコストをどう回収していくか。いつもこんな状態では赤字でいつまでも走らせられませんが、岡山から先のようにたくさんの人が乗ってくれれば、そのコストは回収できて利益が生まれ、その利益でさらに新車や電化にも向けられましょう」


 列車はゆっくりと下り勾配を進み、和気へ。ここは同和鉱業片上鉄道の接続駅。

 海側の片上からやって来るこの路線は、この和気駅で国鉄と連絡し、県北の柳原へと向かう。今日は、気動車が客待ちをしている。

 無論「かもめ」はこの駅も軽々と通過していく。

 片上鉄道の校歌をくぐり、やがて吉井川の下流と並走を始める。

 すでに岡山県に入っているとはいえ、県都である岡山への到着には、まだしばらくの時間が必要である。


・・・・・・・ ・・・・・ ・


 さかのぼること数か月前、彼らが相互にその存在を認識したのは新入生のオリエンテーションの後、学内の喫茶店でのことだった。

 八木青年は、珈琲を飲みながらどの講座を履修すべきか検討していた。


 自然科学は最低でも2科目は受講しないといけない。文系学部で理科を必要としている学部学科はまずない。ましてここは私立大学。

 確かに数学は選択できないわけではない。現在でいう地歴公民の世界史や日本史よりいささか軽めの問題が出るが、そこまでして数学を選択科目に入れているのはなぜか。特に経済・経営系の学部では数学を使わざるを得ない局面があるからというのもある。法学部や一部の学科を除く文学部では必須とまではいかないが、数学を学んで抽象的思考ができるか否かは専門科目を学んでいく上での大きなカギとなる。学歴がなくても事業で成功する人がいるように、無論数学を学ばずとも、そのような思考ができないわけではない。とはいえ数学を思考の基礎として少しでも身に着けると、この手の学問をしていく上でも大きなアドバンテージとなるのだ。


 数学や物理学は避けたいと考えている八木青年のもとに、メガネをかけた中年の紳士がやって来た。

「となり、エエかな?」

「はい、どうぞ」

 少し間をおいて、メガネをかけた紳士は青年に問いかけた。

「ところで君、先ほどオリエンテーションで欠伸しかけていなかったかな?」

 さっきの物理学の先生や。青年はすぐに気づいた。


「え? いやまあ、その」

「君、学部は?」

「経営学部です」

「良かったら、名前を教えてくれるか」

「はい。こちらの学生証のとおりで、経営学部1回生の八木昭夫(やぎ、あきお)と申します。岡山市内の岡山西高校出身です」

「私は先に述べた通り、本学理工学部物理学科教授の石村修(いしむら、おさむ)です。ところでヤギ君、ハチキと書くのやね。高校は普通科か?」

「いえ。商業高校の商業科です。1年浪人して、この度晴れて入学できました」

「そうか。ヤギ君は商業高校からきたのか。大したものや。簿記のほうは?」

「全商、日商ともに1級まで在学中に取得しました。将来的には税理士か公認会計士を目指そうと考えております」

「それなら物理なんか高校時代に履修したためしもなかろう」


 教授の指摘に、新入生はグウの音ひとつ出せない。

「それなら、物理学の話など眠くもなるわな。でも、悪いことは言わん。折角の機会であるから、物理学、履修してミイヒンか。可でよければ今すぐにでも上げていいくらいやが、ちょっとでもうまいこと答案書けたら優くらい上げるよ。奨学金や授業料免除でもあれば助かるヤロ。どや?」

「奨学金までは頂いておりませんし授業料免除の新制もしておりませんけど、しかしなんで私、物理学を勉強セナあかんのですか?」

 教授は自らのカップを口にして黒い液体を飲み、続けた。


 何も君に物理学者になれとか高校の理科の教師になれとか、そんなことは求めておらん。税理士でも会計士でも、はたまた法律を学んで法律家になっても構わん。企業に勤めようが公務員になろうが、それもまたよし。

 セヤケドナ、物理学ちゅう世界をちょっとでも知っておけば、君の人生の大きな糧になることだけは約束したる。

 どうせ自然科学、最低2コマは取らなあかんネヤロ。やったらこの際、物理学や数学、そうやな、統計学も君らには悪くない。統計学や数学の教授とも知合いで仲エエからというわけでもないけどな、そこらも受けてみ。

 悪いことは言わん。食わず嫌い、もったいないや、ないか。

 

 しばらく沈黙が続くかと思いきや、八木青年は石村教授の提案を二つ返事で受け入れた。単位がどうこうもあるが、それよりも何か不思議な世界を体験させてもらえるのではないかという期待感が高まったからだという。


「もう一杯、珈琲飲まんかな。私がおごるから」

 石村教授は珈琲を2杯頼んだ。その後彼らは、数十分にわたりその地で話し込んでいた。教授の勧めどおり、八木青年は自然科目3科目を目下履修している。


・・・・・・・ ・・・・・ ・


 列車は既に肥沃で温暖な岡山平野へと入っている。熊山、万富、瀬戸と小駅を通過し、新幹線の高架と再び合流した。そろそろ、車内に動きが出てきている。岡山までの客と、岡山から四国や山陰方面への乗換客であろう。

 列車は東岡山を通過。岡山到着まであと数分。


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