第3話 別府鉄道、駅そば、そしてモノレールとの出会い
列車はそれまでの複々線から複線区間に入っている。
魚住を通過し、次の土山駅構内で明石市を離れる。土山駅は別府港まで行く別府鉄道の連絡駅。小型のディーゼル機関車と二軸の客車が客待ちをしている。列車は朝の山陽路を西へとさらに快調に進んでいる。次の停車駅は、姫路である。
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「ところでハチキ君、物理学というものは私の講義以外に接点はないであろうが、多少なりとも学んでみて、いかがかな?」
石村教授が八木青年に尋ねる。そもそもあのオリエンテーションの日に学内の喫茶でこの教授に遭わなければ、間違いなくこの世界のことなど知らぬままで来ていることは自分でもわかっている。だが、今横に座っている教授に出会わなければ出会えなかった世界というのは確実にあった。そのことは、八木青年は嫌というほど肌身にしみるレベルで理解している。
「高校は商業科でしたから、正直数学自体さほど学んでいませんし、どうなることかと思っていましたが、講義をお聞きしていて思うに、要はモノの動きを数値的に示す世界なのだと。数学を使っているのは素人レベルでもわかりますけど、あくまで数学はモノの動きを表現するための手段であることはわかります。そうですね、この世界における数学の位置取り、ぼくらが高校のときに商業高校で勉強した簿記の仕分と同じような位置取りじゃないかと感じられました」
横の教授、若者の話を至って興味深く聞いている。
「そや。君、ええとこ、気付いておるな。そこや、そこ。手段が目的になってしもたらあかんのや」
「手段が目的になる。ということは石村先生、手段のはずの対象が好きになり過ぎて目的化してしまうという理解でいいのでしょうか」
物理学者としてというより大学教員としての立場で、石村教授はかねて問題意識として抱いていることを八木青年に話し始めた。
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まったくもってヤギ君の御指摘のとおりや。
普通科高校で数学や物理を勉強してうちの研究室にやって来る子らぁ、確かに君と違って理数科目はしっかりやっておるから、一定以上の知識と素養をもってやって来る。せやけどあの子らの中には、いささか数学や物理学の知識や理論にのめり込んでしまうのもいる。
そうなると、あかんね。数学や物理学が好きになり過ぎたら危険なんや。
ヤギ君にとって物理学や数学は、言葉は悪いがズブの素人や。その代わり、簿記や会計学、さらには商業系の学問に対しては、うちの研究室の子らにとっての物理学や数学と同じことになるからな。彼らを決してワロテはいかんぞ。
私のいた研究室の卒業生には、事業を興した者もいる。彼は、事業を起こす前に簿記を勉強しろと言われて、何とか日商簿記の3級を取得した。たったその程度かと君には思えるかもしれんが、その程度の素養ができれば、あとは実務でしっかりやっていけばいいと、彼は言っていた。
他にも、理工学部ながらなぜか途中で司法試験を目指した子もいた。
彼は運良く合格できた。
そんな彼だが、司法修習生になって簿記を教える専門学校とやらに通って、これまた日商の3級を取得した。なぜそんなものをわざわざ勉強したのかと聞いたら、法律家として事務所経営をしていく上で簿記は避けて通れないし、依頼者の話を聞く上でもわかっているといないで大違いだと気づいたからですと言っておられた。
私は帝大時代から物理学を専攻していて、戦時中は軍事技術の開発を大学の研究室で日々やっていた。おかげで徴兵されずに済んだのはありがたかったけど、それはまあそれとして、物理学の在り方とやらを、少しだけ話しておきたい。
君が言う「モノの動きを解析する」だけならどうということはないが、その動きを解析した成果を人を殺すために使うのはいかがなものか。無論、その武器がどういう物理的な動きを原理として持っているかを分析することは必要や。それもしてはいけないなどと言うのはそれもそれで筋が違うけどな。
物理学者であるからと言って、専門外のことにまったく疎いでは駄目だと、終戦後あらためて気付かされた。だからね、私は専門外の人たちとの交流を多く持つよう心掛けてきたし、学生諸君にもそれをできる限り持つよう指導してきたンや。
何や、法律学を学んで司法試験でも受験しようという諸君の中には、ヤギ君が学んできた簿記などの会計系の世界は権利義務の発想がなじまないということをわざわざ注意せねばならないような人が多いと聞いた。
せやけど、君らが商業高校で学んできた「仕分」な、あの一枚の伝票には、彼らがかねて学んでいる商法や民法の要素がしっかり詰まっているのではないか。
実はこのあと岡山で、私のいた帝大の研究室の先輩になる堀田先生というO大学の教授さんの知合いで、高松で弁護士をされている真鍋先生という方にもお会いすることになっとる。折角であるから君もその方からお話を伺うとよかろう。
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列車は既に加古川を通過し、宝殿、曽根、そして御着の3駅を通過。
エンジン音を快調に響かせ、海側に新幹線の高架を拝みながら市川の鉄橋を超えていく。高架の上には、時々白地に濃い青のツートンカラーの超特急電車が轟音を響かせながら東へ、時に西へと走り去っていく。
時間はまだ朝の9時台。通勤・通学の時間はほぼ終わっているが、この特急列車はそういうものとは無縁の世界を走っている。
程なく列車は、姫路に到着した。ここもまた、3分停車。
京都から乗ってきたビジネス客が、ここで降りていく。その代わり、十名前後のビジネス客と数人の短距離客と思われる年配の客が乗車してきた。開閉されるデッキのドアから、程よく駅そば独特の香りが車内にも入ってくる。列車内には少しばかり活気が出てきたようである。姫路を出ると、約1時間少々で岡山である。
姫路駅前には、神戸方面に向かう山陽電鉄と近くの手柄山遊園地に行くモノレールの駅がそれぞれある。それらはどちらも、姫路駅より山側にある。それぞれ山陽本線の上を交差して、海側へと進んでいく。山側には、集合住宅のあるビルディングの中に「大将軍」と称される途中駅がある。そこから山陽本線の上を超えて、モノレールは程なく南側にある手柄山の遊園地のある丘の中腹に向う。この列車は密閉された特急列車であるからさほどの影響はないが、かのモノレールの走行音はかなり大きいと定評があるそうである。海側の小高い山の方に向って、白と金色の間に青の帯をまとった電車が1本のレールをまたいで走っている。その走行音が、この気動車特急の車内にもかすかに聞こえてきた。
モノレールと別れた頃には、この列車内にまたもオルゴールが流れる。そして姫路から先の案内が簡単になされる。詳細は、岡山発車後に。
この列車は確かに九州まで行く。前の6両は筑豊本線に入って佐世保へ、彼らの乗った後ろ7両は博多経由で長崎まで行く。そんな先まで乗りとおす客は、現段階ではほとんどいない。いるにしても、岡山より先に乗車してくる。
前6両は確かに博多を経由しないが、そのような案内はせめて岡山を出て以降にすればいいこと。それにしてもこの列車、鹿児島本線と長崎本線の一部では「1日に2回来る列車」ということで一部では有名でもある。
列車は手柄山の遊園地を横目にかすめて英賀保、網干、そして竜野と本線内の小駅をエンジン音も軽やかに通過していく。まだまだ平地は続く。
気動車は電車に負けじと自慢のエンジン音を響かせ、すっかり日の高くなった山陽路を西へと下っていく。
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