(6)

 ――幽霊? アンたちがいるあいだは出ないはずだったが……。


 だが怖がって永遠に振り返らないわけにもいかないだろう。


 ダダイ氏は珍しく勇気を振り絞り、緩慢な動作でおそるおそる己の背後を見た。


 ダダイ氏とは歩幅ひとつぶん向こう――すぐ背後と言うわけではないぶん、思ったよりは遠かったが、いずれにせよ近いと言って差し支えのない距離に、彼女は立っていた。


 ごく普通の――生きている人間と遜色のない、二〇代後半ごろに見える歳若い女性だ。


 ダダイ氏が受け取った「お見合い封筒」に封入されていた写真と、華美に着飾った同じ装いの女性は、しかし化粧の仕方だけはダダイ氏も見知っていたものだったから、目の前に立つ彼女が己のかつての部下だったことを、ダダイ氏は認識することができた。


 ただ、生者と遜色がないとは言えども、瞳を覗き込めばそこに生気がないことがわかる。


 しかしダダイ氏はそんな彼女を見てもなお、目の前にいるのが幽霊だとは信じられなかった。


 ……というか、半ば信じたくはなかった。


 元部下の彼女は、ダダイ氏よりもずっと若かったのだ。若い身空で、まだダダイ氏よりもずっと長い未来が続くはずだった身のはずで、それがどこかでとうに絶えてしまっていたのだと聞かされると、やはりなんとはなしに心痛を覚える。


 しかしそうやって彼女の死を悼める気持ちをもてるのは、ひとえにダダイ氏が生前の彼女を知っているからだ。


 決して、恋愛感情のような好意を抱いていたわけではないが、ひとりの人間として悪く思ってはいなかった。


「ダダイと結婚したいの?」


 若くして亡くなった彼女に同情を覚えるのは、ダダイ氏が生前の彼女を知っているから。


 だから、アンからすれば彼女は見ず知らずのぽっと出の女、以外の何者でもなかった。


 どこか挑発的で、いらだった声を出し、赤っぽい左目を細めてアンは彼女を見据える。


「だから、親族が封筒を送ってきたのではないだろうか」


 アンルルングのほうはアンよりも冷静――というよりも無関心で、淡泊で、平坦な声で言う。


 しかし今はアンの懸念――ダダイ氏はあえてそう言いたい気持ちだ――を補強するようなことを言わないで欲しい、とダダイ氏は思った。


「……少し、彼女と話をさせて欲しい」


 アンがなにかをするまえに、ダダイ氏は先手を取って牽制する。


 幽霊である彼女に対し、アンになにができるのかダダイ氏は知らないが、自称をそのまま受け止めるならばアンは「神の子」なのである。


 ゆえにダダイ氏はアンが「なにかできる」と仮定してなだめるような言葉を口にしたわけである。


 アンは彼女に向ける視線とは一転して、不安そうな目をダダイ氏に向けた。


「話をするだけだよ。私が退職するときは結構バタバタしていたからね」


 先日の一件を除き、最後に部下であった彼女と交わした言葉がなんだったのか、残念ながらダダイ氏は思い出せない。


 そんな薄情な歳上の――とっくに「おじさん」になっていた男に対し、彼女が好意を抱いていたのかはわからない。


 というか、ダダイ氏からするとなにかの間違いだとしか思えなかったし、今でも信じられない。


 ダダイ氏の言葉に、アンはためらいがちにおずおずとながらも、なにも言うことなくうなずいた。


「……久しぶりに会ったのに、なんだか言葉が出てこないね」


 彼女はなにも言わない。


 ただ、場違いな着飾った装いで、生きているころと変わりのない存在感のまま、生気のない目をダダイ氏に向けている。


「亡くなっていたなんて初めて知ったよ。まあ私は会社を辞めてしまっているから、報せがないのも当たり前か」


 ダダイ氏は、なんとなく、自殺だったのかなと思った。


 まったく根拠はなかった。完全な勘というやつである。


 しかしその考えは、浮かんだ途端に不思議ともっともらしくダダイ氏の心で響いた。


「君には、色々と助けられた。人間関係を築くのが得意じゃないこんな私が相手でも、嫌な顔をしなかった。……本音ではどう思っていたのかは知らないけれど、それだけで結構救われていたんだ」


 彼女の瞳に、自分の姿は映っているのだろうか? ダダイ氏はそう思いながら、彼女の目から視線を外さなかった。


「だから……うん、なんていうかね。君は――あの世でもっといい男を探しなさい。……こんなおじさんじゃなくてね」


 ダダイ氏には女心なんてわかりもしない。


 ましてや、自分よりもずっと歳下の若い女性の胸中なんて、輪をかけてわからない。


 それでもダダイ氏は、語りかけることをやめなかった。


「でも、もし私のことを好ましく思っていてくれたのなら……ありがとう。――これだけは、伝えておきたくて」


 ……これでもし彼女がこの場にわざわざ出てきた理由が、間違って「お見合い封筒」を送りつけられて開封された苦情だったらどうしよう、とダダイ氏は思った。


 しかし――


「……ごめんなさい」


 彼女はそう言い置いて、冷えたリビングルームの空気に溶けるようにして消えてしまった。


 去り際に、ほんのかすかな声量で「ありがとうございました」との言葉を残して。


 なんだか、泣いているような、微笑んでいるような、不思議な表情がダダイ氏の脳裏にしばらく焼きついたようだった。


 ダダイ氏がデジタル温度計に目をやれば、リビングルームの気温はまた徐々に戻っていったのだった。



 *



 アンルルングは「神の子」なので知っている。わかっている。わかっていた。


 ダダイ氏の部下だった女性は、ダダイ氏の予想したとおりに自殺だった。原因は過労だ。


 ある日突然、ドタバタと退職してしまったダダイ氏に想いを残したまま身を投げた。


 アンルルングが先に指摘したとおりに、ダダイ氏に対する想いを知っていた親族が、「お見合い封筒」をわざわざ直接ポストに投函したのがことの真相だった。


 しかし今や、彼女――の幽霊――は完全に消えてしまった。


 あの世への道を見失うことなく、ゆくことができた。


 ダダイ氏が、恐れることなく言葉を交わそうとしたからだろう。


 彼女が生前と大差のない姿で二度もダダイ氏の前に現れたのは、好きなひとの前ではいっとう綺麗でありたいと願う女心ゆえだろう。


 現実の、彼女の最期は、首の骨が無残に折れ曲がっていたのだから。


 しかしその女心ゆえに、ダダイ氏は助かった面もある。


 さしものダダイ氏も首が折れ曲がった、血まみれの女の幽霊に出くわせば、悲鳴のひとつも上げただろうから。


「ああよかった」


 彼女が消えた場所を何度か見ていたダダイ氏が、心底安堵した声を出す。


「あの世へ行けたのなら、もう苦しいこともないだろう。……いや、実際のところはわからないが……そうであって欲しいな」


 ……ダダイ氏がこういう人間だから、きっと彼女も好きになった。


 ――そうなんだろう?


 アンルルングはこの世のどこにももう彼女がいないことを知りつつ、心の中で声をかけた。


 ――アンも、似たようなものだからな。




 ……のちほど、ダダイ氏と結婚するという手段を知ってしまったアンが、ダダイ氏と結婚すると強硬に主張して、それをなだめるのに苦労するダダイ氏なのであった。


 なお、アンルルングは知らんぷりを決め込んだことは、言うまでもない。

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微妙に不運なアラフォーおじさんのトンチキデイズ ~「お見合い封筒」篇~ やなぎ怜 @8nagi_0

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