達筆

紫鳥コウ

達筆

 その日のひる過ぎ、葉田洋はたようは――大学院に入り二年目となる洋は、留学生のちょう先輩と学食でカレーライスを食べていた。

 大柄で食欲旺盛な趙先輩は、大盛りにヒレカツをトッピングしていた。味噌汁やサラダも欠かさなかった。


「もっと食べないといけませんよ。よく食べて、よく寝て。そうしないと倒れてしまいますから」

 これは趙先輩の口癖だった。もちろん、小食で徹夜しがちな洋を思ってのことだ。


「昨日も徹夜しましたか?」

「もうすぐ研究発表会ですから、つい……」

「いけません。よく寝ないといけませんよ」


 その後、ふたりの会話は、来週の研究発表会に向けての、院生だけで行なう模擬練習のスケジュールのことへと移った。最年長の趙先輩は、具体的な日にちをいくつか提案してくれたが、全員がそろうことのできる日はひとつもなかった。


「葉田さんは二日とも来ることができますか?」

 全員が一度は練習ができるよう、二日に分けて行なうことになったのだ。

「もちろん、大丈夫ですよ。それより、ありがとうございます。今回は、日程の調整を取り仕切ってくださって」

「いいですよ。人数がそれほど多くないですから」


 趙先輩はヒレカツを呑むように食べたかと思うと、ごくごくと水を飲んだ。

「かみ切れないので、一口でいこうと思ったのですがね」

 照れて顔が赤くなった趙先輩は、空になったコップを強く握って、お水をみにいってしまった。


     *     *     *


 趙先輩は相変わらずたくさん食べた。三十を過ぎると食欲が低下するとか、揚げ物を受け付けなくなるとか聞いていたが、洋の目の前にいる先輩は、そんな衰えのようなものを感じさせなかった。


「あれから、いろいろありましたよ」

 大学院を卒業後、ふたりは都内のビルディングで再会した。

 書道好きの親戚のおばさんの入賞作が飾られているから見にいってくれと、義理堅い父親に言われておもむいた洋だったが、その会場でこの愛すべき先輩とばったり会ったのだった。


「日本語を教えるのは、たいへんですね。でも一番たいへんなのは、奥さんのことです。しょっちゅう喧嘩をしてしまいます。口論になりますね」

「むかし写真で見せてくださった、あの方とご結婚されたんですか?」

「ええ……」

 先輩は紺色のハンカチで額の汗をぬぐうと、裏面を表にするように畳み直した。水を一口飲んで、大きな咳をひとつした。


「失礼しました。そうです。彼女と結婚しました。しかしそれからというもの……」

「どうしました?」

 洋の顔ではなく、その後ろの方へと先輩の目線は注がれていた。だれか知り人がいたのかと思いたずねると、先輩は目を伏せてから、首を横に振ってみせた。


「いえ。なんでもないのです。同じ文字を書いているのに、ひとつとして同じしょがないように……」

 またもや口籠もった先輩に不審を感じながらも、これ以上、なにかを詮索するべきではないと思った洋は、話題を変えようと試みた。しかしそれより先に、前の言葉は継がれていった。


「彼女の様子もいろいろです。長く付き合っていても、分からないところはたくさんあります」

「結婚してから、新しい一面が見えてくるという……」

「いえ、違うのです。たとえば、朝になると起きるじゃないですか。そのとき、挨拶をしますね。その挨拶が、日によって響いてくる感じが違うのです。雨が降っていたり、時間が早いか遅いかだったり、それこそ彼女の機嫌が関係あるにはあるでしょう。でもそれだけではない気がします。なんというか……」


 付き合っているひともいなければ、結婚もしていない洋には分からない感覚ではあったが、またもや黙ってしまった先輩の次に来る言葉をゆっくり待っていた。


「こちらの反応がつねに試されている、と言いましょうかね。なんだか、実験をされている気分です。それが、落ちつかないのですね。だから、いざこざが起きます。でもそれは、こちらの方が悪いのですがね……」

 このまま、先輩の気分が下がっていくのを見るのは忍びなかったので、洋はついに話頭を転じた。


「聞き忘れていましたが、趙先輩も、書を見に来られていたのですか?」

「いえ」

「では、ほかの用で?」

「ええ。通訳をしに来たのです。なんの仕事かは言えないのですが、日本語の通訳を頼まれたので……でも、頼んだ側は遅刻していますね。ですので、あの展示のところにいました」

「なにか、お気に入りの作品でもありましたか?」


 もし親戚のおばさんの書を選んでくれたとしたら、よい土産話ができると洋は思っていた。しかし先輩は、予想を大きく裏切る答えを発した。

「どれもこれも、たいへん興味深いですが……奥さんの方が、達筆ですね」

 そして先輩は、スマホを差しだして一枚の写真を洋に見せた。


 それは日本語でない分、意味は理解できなかったが、たしかに美麗な文字だった。なにかの書き置きらしかった。

 しかし気になったのは、撮影された場所が、妙にうす暗くて、文字のところどころに、針をひそませた氷のようなものが感じられることだった。


「達筆でしょう?」

 このときの洋は、そう問いかける先輩の顔を見ることができなかった。



 〈了〉

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達筆 紫鳥コウ @Smilitary

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