感情と、涙腺
――『ほとんどの人は、ゴキブリが嫌い』。
遠い昔から分かっていたことだ。それは、私たちが『超越的知能』を獲得したときから。前の私たちに、『嫌い』を認識する能はなかった。ただ本能的に、『脅威』から逃げるのみ――。『憎悪』も『悲しみ』も、それが分かったのはごく最近のことだった。
最初は、みんな、『感情』というものを『美しい』と思っていた。でも――
――仲間が死ぬのは悲しい。――だから人間は憎い。
そういう『
――『でも、人間って、可愛いよ?』
私は人間が好きじゃなかった。別に嫌いでもなかった。ただ『可愛い』という感情を抱いて、憧れることはあったんだ。だから、『私もあんな風になれたらな』って思うようになった。
――でも、そんな私の考えを、みんなは認めてくれなかった。それどころか私は『裏切り者』として、群れで無視するようになった。
なんで私が追い出されなきゃいけないの?
なんで、みんな、私のことを分かってくれないの?
そのとき、初めて『憎悪』というものを感じた。――だから、同族は『嫌い』になった。みんな。でも、それと同時に、『好き』がなんなのか、分かったんだ。
『好き』は『嫌い』の反対。
だから、あいつらと違う人間は、好き――。
あぁ、でも、さっきので分かった。私は、その人間に嫌われていたんだ。今までは、どういう意味なのか、よく分かっていなかった。――でも、初めて『嫌悪感』を向けられて、ようやく理解した。
――『いいんだよ、別に。嫌いなら』
表面上ではそう言ったけど、かなりショックだった。
だから私は、初めて誰かに対して『怒った』。『負』を誰かにぶつけた。
まるで本物の人間みたいに。
そう考えると、私って、もう――
* * *
時刻は午後7時。私は家にあったカップラーメンにお湯を注ぎ、温まるのを待っていた。食卓の椅子に座ってスマホを見ながら、時々Gの様子を
「…………夕飯、食べる……?」
静寂に包まれた空気の中、私はリビングの奥で寝ている少女に問う。――だが、いくら待っても返事は返ってこない。『生理的に』という言葉がよほど刺さったのだろうか。
そんな心配をしていると、スマホのアラームによって3分経ったことが知らされる。――とりあえず私は、先に夕食をいただくことにした。
フタを剥がすと同時に、温かい気がぶわっと溢れ出す。割り箸を割り、Gのことは一旦忘れ、私は目の前の食事に入った――。
――静かな食事が続いた。まぁ、無言だったのはお父さんがいたときもそうだったけどさ。『家族の賑やかな食事』は、お姉ちゃんと共にいなくなってしまった。
私がちょうど、最後のひとすすりを箸に挟んだとき。
――ドンドンドンと、扉がノックされる音がした。
インターホンは壊れているため、うちの扉には『インターホン故障中 ノックしてください』という張り紙が貼ってある。
だから、ノックされたこと自体は、なんら不思議でもない。――ただ、そのノックからは、どこか『
――ドンドンドン
ノックが繰り返され、私はどこか不信感を抱きながらも、仕方なく席を立つ。
――ドンドンドン
「……はいはい、いま行きますよ、っと……」
時間的には少々遅いが、居留守するのも失礼だと思った私は、玄関に向かって歩き出した。――そうして、玄関への一本廊下に足を踏み出した時。
――突如、何者かに腕を掴まれた。
「ひゃぁ!」と驚きながらも、私は後ろを振り返った。
そこには、真剣な表情で私の腕を掴む少女の姿があった。
「ダメです、アリカちゃん」
「……なに?」
「行ってはいけません!」
なぜか必死なG。すると、G私を引き戻そうと、腕を強く引っ張ってきた。
「ちょ、やめてよ!」
「行っちゃダメです!」
「……離してよ!」
「行かないでください!」
ただでさえ弱っている精神に、強引に私を引っ張るGへの不満。それが、私を少々苛立たせていた。
「やめてってば!」
「やめません!」
なんでこんなに必死なの?
まさか、私を陥れる気なの?
不安定な精神は思考を飛躍させ、目の前の少女に対する『恐怖』に変わっていた。
「本気で叩き潰されたいの!?」
――つい、そんなことを叫んでしまった。その瞬間、腕にかかった力が消えるのが分かった。
「言い過ぎた……」と心で後悔しても、その気持ちは相手に届かない。
そんなことは散々あった。だけど、今回はなんだか、本当に『罪悪感』を感じた。
少女は口を開けたまま、私をじっと見つめていた。
――やがて口元が震え始め、目から何かが溢れ出るのが分かった。さっきの黒い液体ではない。無色透明で、目尻から出ては頬を伝って床に垂れた。
”誰かのことを本当に傷つけてしまった”。その事実が胸を強く締め付けていく。そうして、このどうしようもない事象に対して、自暴自棄になっていく。
「……ごめん」
そうして、『謝る』という態度で許しを
何十回言ったか。ついに、決壊したダムのように私の涙腺から溢れ出した――。
* * *
「心が不安定だった」と言えば、言い訳になると思ってる。
私は、私に深い反省を刻み込み、再び目の前の少女を見る。
今となっては、二人とも泣き
――だが、先に喋ったのは少女の方だった。
「なんで、そんなことするんですか……?」
そう言われるのは、なんとなく分かっていた。
今までも、みんな、そんなことを言ってきたから。
私は、最低だ。最低の最低の、クズだ。ゴミだ。
『なにも解決しない』。分かっていても、やってしまう。
もう、嫌だ。嫌いだ、自分なんて。
「……アリカちゃん、私、知ってますよ、そういうの」
少女は愛想が尽きたように、吐き捨てるように、言う。
「……そうやって自分を傷つけて、それで許された気になろうとする……」
……この子は本当に、私のことをずっと見てきたらしい。
私はなにも言えなくなって、床にうつむく。
「……
本当に、図星だ。
「……いつも持ち歩いて、嫌なことがあったら……」
……。
「そうやって……」
……。
「……もう、お前なんて、知らない…………」
……あぁ、あぁ……。
「……嫌いだ」
……また、こんなことに……。
「――……なーんて、言うと思いました?」
「……え?」
「私は、あなたのこと、嫌ったりなんてしませんよ」
「……でも!」
「これで、 ”お互い様”ですよね。あなたも私も、互いを傷つけた。『負』をぶつけ合ったんですから……。だから、どっちも悪くない!」
「…………そんなのって」
「本当にこれでいいの?」という気持ちと同時に、なぜだか『嬉しい』と思ってしまう自分がいた。ここまでして、自分と対等に立ってくれる。そんな人は、今までに一人もいなかった。……お姉ちゃん以外。
「……だから、この話はおしまいです……!」
良いのかな? こんな風に、片付けても……。
迷いがありつつも、私は少女に笑顔を向ける。
「……ありがとう」
私がかすれた声で言うと、少女はニコっとして、私の手をとる。
「さっ、いつまでもつっ立ってないで、休みましょうよ! 私、いい場所知ってるんです!」
「……そこの、ソファでしょ?」
少し笑いながら返した返事。
それが、この平穏な時間での、最後の会話だった――
* 第一話「クロビカリズム」・完*
リブ・ゴキ(Live-Goki)~黒光り少女と棲む家 イズラ @izura
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