微睡みの旅路

存思院

ねむる

 いざ窓を開けてみると、さっと、涼しい風が顔を撫でた。こんなことならもっと早くに開けてしまえばよかったと、今日一番の後悔をする。この心地よい風はもしかしたら当分味わえないかもしれないと思うと、少し寂しくて、ベッドに潜ってしまうのは勿体ないなんて呟いた。

 でも、やはり眠いものは眠い。

 私は電気を消して薄い掛け布団に包まれる。

――カナカナカナ……と、日暮の声が聞こえた。

 不思議なことに先ほどまでまるで耳に入っていなかった鳴き声は、一度聞いてしまうと部屋中に満ちてしまった。

 彼らは一体何を思って鳴いているのだろうなんて、その悲し気な声に微睡むと、不意に体がすーっと落ちていく気がした。

「……ああ。今日は久しぶりにエレベーターに乗ったからかな」

 子供の頃、遊園地に連れて行ってもらった日の夜はずっと空中ブランコの感覚が残ってたっけ。

――すーっと落ちていく。

 どこまでも下に。

 優しい落下はどこを目指しているのだろう?


 日暮の鳴き声が遠のいて、ふと気づくと私は見覚えのない場所に立っていた。

 懐かしい、木と畳の香り。ひんやりと冷たい、古い縁側。真っ暗な庭に面して、波打つ硝子戸、私から見て右側には、障子が全て閉められて、並んでいる。

 歩くとギシギシと音が立った。

 ことり、と、遠くで人の気配がした。

「――あれは、徳利だ」

 なんで、私は知っているのだろう。

 くれ縁を歩いて手前から三番目。そこの障子を開けてみる。

――やっぱり、いた。

「お帰りなさい」

 美しい女性が、お猪口でお酒を飲んでいた。艶やかな黒髪と、朱色を入れた目元が懐かしい。真っ白な着物の煌びやかな金の装飾が蝋燭の薄暗さに中和されて、上品に浮かび上がっている。

 懐かしい。でも、誰だろう?

「貴女は?」

 私が訪ねると、彼女は不思議そうに目を丸くした。

「まあ! 珍しいわね。その意識のままで此方に来るなんて、いつ以来かしら?」

 私は状況の奇妙さと、原因不明の懐かしさに、ただ黙っていることしかできなかった。

 彼女がもう一口飲んだ。切子硝子の徳利がゆらゆらと光るのが、似合っているのかいないのか、違和感を覚えた。

「――私は、ただのお友達よ。気にすることではないわ。それよりも、座って頂戴。お酒を飲みましょう?」

 言われるがままにぼんやりと、障子を閉めて座布団に座った。きらきら光るお猪口を持たされて、嬉しそうに注ぐ彼女に、私は全く警戒心を抱けなかった。

「貴女は――」

「私のことなんていいから、飲んで」

 私は素直に口を付けた。

 爽やかな日向燗だった。

 促されるままに何杯か飲み干すと、ふわふわとした景色はその境界をさらに曖昧にしてしまった。

 酔ったのだ。

「……貴女が鬼だったら、私はそろそろ食べられてしまう」

「大丈夫よ。私はただのお友達。捕って食べたりしないわ。だから、安心しておやすみなさい」

 私はいつの間にか彼女の細腕に抱きすくめられて、膝の上に寝かされていた。

 視線の先にある蝋燭の炎が揺れて、瞼が重くなる。ゆっくりと私の頭を撫でる彼女は、きっと微笑んでいるのだろう。


――すーっと落ちていく。

 優しい落下は、さらに深さを増してゆく。

 

 重い瞼はなかなか開かなかったが、ここがどんな場所かは容易に想像できた。重厚な古書の香り。実家の書斎が思い出された。きっと私は四方を本に囲まれて、アンティークな椅子に座っている。

 はらりと、ページを捲る音が聞こえた。

「そこに、誰かいるの?」

 私はまだ、目が見えていなかった。

「おや? 僕のことをお忘れかい?」

 ぱたん、と、どこかの本が閉じられた。

「貴方は、私を知っているの?」

 暫く、静寂だった。

「――へえ。不思議なこともあるものだね。では、あらためて。僕は君の兄上様だよ」

「…………兄?」

 私の言葉が宙に放られて、漂いながら消えていった。少し遠くから聞こえていた声は、「兄上様」を名乗ったきり何もなかった。今はただ、紙と万年筆が擦れ合う音だけが、カカカッ、カカカッっと控えめに響いている。

 私はあれきり、質問には答えてくれない気がして、ふかふかな椅子に全体重を預けていた。

万年筆の堅い音に混じって、どこからか波音を聞いた。海が、近いのだろうか。

「すぐそこに砂浜があるんだ。窓から見えるんだけど、今の君には見えないね」

 あまりの間の良さに、私はびっくりしてしまった。表情に出ていたのだろう、彼が息を漏らすように笑った。

「――ここは海辺の小さな家の二階。窓を覆う庭の木の、その葉っぱの隙間から、波に照り返された光が木漏れ日になってやってくる。周りを本に囲まれて、一日中読み耽る僕に、君はいつも紅茶を淹れてくれるんだ」

 私はいつ、彼に紅茶を淹れたのだろう。でも、そうだ。確か、入り口と反対側の一番奥には食器があった。日が昇ろうが落ちようがお構いなしに読書をする彼に、私は紅茶を差し出して、こう言う。

「――少し、休憩したら?」

「ありがとう。でも、今休憩が必要なのは君の方さ。忙しい日も、何もできなかった日も、何かを成し遂げた日も、苦しくてたまらない時も、いつも、君は頑張っている。だから、今日はもうお休み。僕はいつでもここで君を待っているから」

 波の音だけが、静かに聞こえていた。


――すーっと落ちていく。

 優しい落下はもっともっと、深くなった。


 良い香りがする。カチャカチャと食器の触れ合う音が響いている。人の笑い声と陽気な音楽が聞こえた。

 今度は目が見えた。瞼が開いたのだ。

 私の両手にはフィッシュナイフとフォークが握られていた。目の前には豪華絢爛なフレンチ、向かいの席には紺色と純白のドレスを纏った、顔のない、と言うよりは、顔がぼかされた女性が魚を口に運んでいる。

「ふふ。キミがそのままでここに来てしまうなんて、本当に珍しいことだ」

 艶やかな唇が動くのが見えるが、それより上は曇って色しか見えない。

「……なんだい? 説明してほしいのかい?」

「ここは……?」

「嫌だねそんな面倒なこと。わざわざキミに一から教えるなんて」

 説明してくれそうな雰囲気を出しておいてこれだ。彼女はいつも意地悪な話し方をする。

「ああ、私は貴女を知っているのか」

「何をつまらないことを言っているのだキミは。それよりどうなんだい? ……地上のことさ。仕事は順調かい?」

 そう言う彼女は、魚をとうに平らげて持ってこさせたソルベに頬を緩ませていた。いや、見えないが、最高の笑顔で食べているに違いない。

 それにしても仕事とは何の話だろうか? 地上の仕事とは、私の職業のことだろうか。

「ああ、そうか。今のキミにはわからないのだったな。失礼した。気にしないでくれ給え」

 彼女のソルベは、既に三口も残っていなかった。

「それよりもだ。さっさと魚を片付け給えよ。私はキミのためになど待ちたくないぞ」

 ああ、きっと尽きたソルベに頬を膨らませているのだろうな、などと思いつつ、白身魚を切り分けて、口に運ぶ。極上の一品だった。よくよく味わうと、蕩けたように眠くなってしまった。境界が曖昧になって、どうやらここを去るのだと理解する。

「全く。食事中に眠くなってしまうとは子供かいキミは。でもいいさ。早く仕事を終わらせて戻ってき給え。その時は、赤子のように甘やかそうじゃないか」


――すーっと落ちていく。

 優しい落下は、行き着く先など、見えはしない。


 ゴーン、ゴーンと、どこかで鐘の音が響いた。

 空気の震えが収まると、辺りは神聖な静寂に包まれる。薄暗くて天井が高い。質素な木の長椅子が数えきれないほどに並ぶ遥か先には、一か所だけ淡く照らされた場所があった。その真下に跪いて祈りを捧げる者がいる。

 どうしても立ってしまう靴音が聖堂に木霊した。私は静かに彼の背後に立っていた。それまでピクリとも動かなかった彼は、黒衣を揺らしてゆらりと此方を向いた。胸元で銀色がチラチラと光っている。

 三秒間だけ、彼は私を見つめた。

 視線を動かすことなく真っすぐ目を合わせ続けた後ゆらりと背中を向けて、祈りの世界に戻った彼に私は深く一礼した。

 靴音を響かせて来た道を戻り、彼から一番遠くの長椅子に座る。置いてある古びた書を開き、はらはらと捲ると、細かい文字が川の如く流れ続けた。ふと、妙な加減に手が止まると、中ほどで開かれたそのページの文字が全て金色に輝いている。その内金文字は独りでにページを離れ、浮かび、終いには私の手の平で踊り出してしまった。

 空虚にそれを見つめていた私は、すっかり金文字がページに帰ってしまった後も古びた書を片手に座っているだけだったが、弾かれたように立ち上がった。

――そうだ。思い出した。私は、私の仕事を為さなければ。

 聖堂を出る時一度振り返って彼を見た。相変わらずピクリとも動かぬ背中は、私の為に祈っているのだと知った。

 扉を開く。

 不意に力が抜ける。

 

――すーっと落ちていく。

 まだまだ先のある、優しい落下は静かに止まり、浮上した。

――すーっと上ってゆく。


 気が付くと私はレストランにいた。そこには談笑も、食器の触れ合う音も、陽気な音楽もなかった。

 ソルベを頬張っていた彼女のテーブルには、今はただ真っ白なテーブルクロス。そっと、彼女の席に腰かける。

 静寂。

 だが、蕩けるような甘みが口の中にひろがってゆく。

 既に満腹であった。


――すーっと上ってゆく。

 古書の香りが蘇った。


 今度は、目が見えた。白枠の窓から夕焼けの海が見える。木漏れ日は、部屋の所々をオレンジ色に照らしていた。

 うず高く積まれた本、本棚に満ちる本、テーブルの上に溢れかえる本。どこを見ても本ばかりで、そこには誰も居なかった。

 私は入り口から一番奥の戸棚を開けた。

 そこには用意されていたように、お湯と茶葉、そしてポットとティーカップ。

 ぽこぽこと沸き立つお湯を注いで、真っ白なポットとカップを温めた。

 ふと中を覗くと、入れたはずのお湯はどこかに消え去ったようで、私は温かいポットに茶葉を入れ、勢いよくお湯を注ぐ。

 暫くしてカップに淹れた紅茶の色は、とても鮮やかだった。

 そろりと歩いて、紅茶のカップをテーブルの、散乱した本の隙間に置く。

 私の手元には既にポットも茶葉もお湯も無かった。そういえば、紅茶を淹れたとき、濾さずとも茶葉がカップに紛れ込むことはなかった。

――そういうものなのだろう。

 熱々の紅茶が残るだけで、私は大変満足だ。


――すーっと上ってゆく。

 木と畳の香りがした。


 残された二つの座布団の内の一つに座った。

 襖と障子に囲まれた空間には虫の気配すらない。

 その中で、随分と背の縮んだ蝋燭の炎に照らされて、星明りのように瞬くものがあった。無造作に転がっているのは、切子硝子の徳利とお猪口。手に取ると、既に空だと見えて大変軽かったが、何を意図するでもなくお猪口の上でひっくり返すと、数滴が集まって飲めないでもない。

 嘗めるように飲むと、部屋中に華やかな香りが走り抜けた。

 ふう、ともう一つの座布団を枕にして横になると、暖かに私を包むものがあった。何だろうかと思っていると、か細い音で蝋燭の灯りが消えた。真っ暗になるが、それでも私を包むものがある。

 不意に境界がぼやけた気がした。


――すーっと上ってゆく。


――カナカナカナ……と、日暮の声が聞こえた。


 薄暗い部屋で、私は布団に包まれている。

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