第14話

 あの人と別れてから、何年経っただろう。

 わたしは両想いだった少年と結ばれて、健やかに暮らしている。彼の両親はどこの馬の骨とも知れないわたしを温かく迎え入れてくれた。

 手紙の一つくらい寄越せばいいのに、とわたしは思ったが、あの人はもしかしたらの場合を考えたのだろう。

 普通、親の顔もわからないわたしのようなみなしごは結婚相手に受け入れてもらえない。それを危惧して、あの人は彼の住居を訪ねなかったのかもしれない。変なところにばかり、気を回す人だ。

 あの人は、まだ旅を続けているだろうか。あの人が敬愛する「キミカさま」を探して。……あの人は真面目だから、体が朽ちて、土に変わるその日まで、本当に探していそうだ。わたしのことを保護してくれていたけれど、あの人の目はいつも「キミカさま」に据えられていた。わたしはそんなしょうがない人を追いかけていただけだ。

 本当にしょうがない人。わたしに贈り物を預けて行ってしまうんだもの。まあ、提案したのはわたしなのだけれど。あの人なら、服と一緒に燃やすか、意地でも自分で渡そうとすると思ったのだけれど……やっぱり、年月は人を変えるものなのかしら?

 わたしはあの人が自分の旅を後悔しなければいい、とだけ思っていた。とても一途な人だから、人生の最後の最後、見つけられなかったときに後悔してしまうような気がしたから。あの人が歩いた時間を無駄だと思わせたくなかった。

 ほんのちょっとだけ、わたしを見ていてほしかったけれど、それでも、わたしはあの人の愛情を間近で受け続けてきたから、これ以上の贅沢は言わない。

 一人の人と結ばれたいために離れようとしたわたしに「ついて来なくてもいいよ」と言ってくれたあの人は、世界で一番優しい人だと思う。本当なら、その旅が報われることを祈りたいのだけれど……やっぱり、どう考えたって、死んでるのよね、キミカさま。

 キミカさまはあの人より年上だと聞いた。あの人はわたしが大人になるまで旅の随伴にしてくれた。その結果、目に見えて老いた。年齢から考えて、当たり前のことだ。それなら、あの人より年上のキミカさまはより老いているだろうし、体が弱かったのなら、老衰になる前に死んでいてもおかしくない。

 キミカさまはきっと見つかる、きっといつか会える、なんて、楽観した希望的観測は言えなかった。わたしだから、言えなかった。

 あの人も薄々気づいていたみたいだから、ああ言ったけれど。もっと盲目的な感じで、怒り狂って否定してくると思ったけれど。あの人は静かに微笑んだだけだった。

 諦めていないのに、変な人、と思った。大人になると、案外飲み下せるものなのかもしれない。

 あの人は出会ったときから、わたしの知るどんな大人よりも大人だった。現実を見据えているというか。偶像に担ぎ上げた人を探しているにしては、地に足がついている感じ。だから、財布を盗もうとしたわたしを抱き留めたりできたのだろう。

 けれど、そういうのは、誰に対しても同じなんだと思う。あの人のただ一人は「キミカさま」だけ。……たぶん、そのキミカさまがとっても優しい人だったからなんだろうな、とわたしは思う。

 あの人の特別になりたいと思ったことはない。わたしはわたしでいたかった。あの人のように誰か一人を想い続けて生きることは、命を削り、心を削り、傷つくばかりだから。あの人はいつだって傷だらけだった。そう見えないようにしていただけ。

 だからわたしも、別れ際に「キミカさまを探すのをやめるな」って言った。そうしないと、あの人の口から語られるキミカさまより、あの人の方が儚くなってしまうからだ。生きていてほしかった。

 ……恩人だからだ。あの人がわたしを抱き留めたりしなければ、すぐに手を放していれば、わたしはろくでなしのまま、ろくでもない大人になっただろう。今の幸せだって、なかったはずだ。

 得た幸せの分を返すことは難しいけれど、あの人には最後まで幸せでいてほしかった。笑って、見つからなくても、探し続けてよかったって笑ってほしかった。

 もちろん、ストールの話は忘れていないけれど……もし、キミカさまが実在するのなら、わたしじゃなくて、あの人に会いに行ってやりなさいよ、と尻を蹴っ飛ばすくらいはしてもいいかもしれない。

 そんな他愛もないことを考えられるくらい、わたしの日常は平和だった。

 ある日、扉を叩く音がして、わたしが出て行くまでは。


「きみに、お客さんだって」

 そう彼に紹介された人の姿を見て、わたしはひゅっと息を飲んだ。

 ふわっとした癖がついた灰色の髪、ひまわりのように穏やかな色合いの金色の目。散々語られてきたからわかる。

「あなたが……キミカ、さま?」

 神と呼ぶにはどうにも威厳が足りないような顔で、その人は困ったように笑った。もしかしなくても、そっくりさんの別人だろうに。

「はい、キミカと申します」

 肯定の言葉が飛んできたことに、わたしは目を見張る。せいぜい同名くらいだろうと思っていたのに、「キミカさま」と呼ばれることを拒絶しなかった。

 同時に、この意味を考えた。わざわざ本人が一度も会ったことのないわたしを、尋ねる理由。

「……あの人に、会ったんですか?」

 その人は苦々しい面持ちで頷いた。わたしは不自然なことに思い至る。

 ならば何故あの人が一緒じゃないのか。

 あの人が無事キミカさまを見つけられたのなら、もしわたしのことを覚えてキミカさまに会わせようとするなら、あの人が紹介に来るはずだ。あの人は耳にたこができるような説明はしないだろうが、わたしが望んだ通り、ずっと幸せそうに傍らに立っているはずだろう。

 何故いない? いない理由なんて……

「……まさか」

 否定したかった。けれど、それしか可能性はなかった。キミカさまは何も言わない。ただじっと、わたしを見つめている。その不思議な金色の目は、わたしの感情を眺めているようだった。

「立ち話もなんですから、お茶を淹れますよ。居間にご案内します」

 気を利かせてくれた彼の言葉が頭の中を素通りしていく。

 居間に行って、座って、わたしはしばらく、何の感情も抱けなかった。喪失からくる虚無。わたしを支配していたのはそれだろう。

 彼がお茶を淹れ終わる前に、話を済ませようと考えたのか、キミカさまが口を開く。

「あなたは聡い人ですね。けれど、だから説明を省いていい理由はないでしょう。……私にあなたを紹介した方は、亡くなりました」

 言葉にされたことで、頭の中から思考が消えてしまう。より強大な虚無が、わたしの指先からじわじわと体温を奪っていくようだった。

 泣けないわたしに、キミカさまは風のような自然さで語りかけた。

「泣いていいんですよ。あなたにとっては、身内も同然の方だったのでしょう?」

 泣く。

 それは幼い頃に封じられた禁忌だった。喜怒哀楽をあの人との旅で覚えたけれど、泣いたことなんてあっただろうか、と思う。

 泣いていいよ、なんて、初めて言われた。

「あの方は、最期まで自分を貫いたのです。非行に走らざるを得なかった女の子を庇い、それでも私に最期に会えたことを、幸せだと言って、笑って逝きました」

 わたしは目を見開いていた。非行に走る女の子を庇って、あの人は。……あの人は、何年経っても変わらなかった。

 結局、わたしの知っているあの人のままで、わたしの知らないところで、わたしの望んだ通りの人生を歩んだのだ。

 ぽろぽろと、目から何かが零れ落ちる。生まれてこの方、見たことがなかった雫。気づけば、キミカさまも宝石のようにぽろぽろと人間が涙と呼ぶものをこぼしていた。

「そうですか……そうですか」

 わたしはそれしか言えず、頬を伝うものを止める術を知らないまま、キミカさまを見ていた。

 最後の約束を、果たさなければならない。

 キミカさまも聞いていたようで、わたしに問いかけた。

「あの方が、私への贈り物を預けている人がいる、と仰っていました」

「ええ、わたしが預かっています」

 別れてから、一切身に着けることのなかった、ひまわり色のストール。

 きっとこの人に似合うだろう、とわたしも思った。

 立ち上がると、キミカさまに止められた。

「泣き止んでから、行きましょう」

 その優しい声は、わたしの人生の大半を優しさで埋めてくれた人のものとよく似ていた。


「ストール……?」

 わたしがそれを渡すと、キミカさまは疑問符を浮かべた。わたしもついぞ、何故ストールなのかはわからなかったが。

 その色は、ひまわりがこの人の隣に佇むようにしっくりきた。

「あなたの目に似ているんだと思います。……あの人はずっと、あなたをひまわりのような人だと語っていました」

「ひまわり……」

 あの人の方がひまわりが似合う気がするけれど。

「ありがとうございます」

 そう笑う姿が日だまりのようなのは、キミカさまも同じだった。

 この後、キミカさまの案内で、あの人のためのお墓に行く予定だ。家族にも伝えた。

 お世話になった人をしっかり弔ってきなさい、と快く送り出された。キミカさまに対する信頼もまずまずだった。……新しい家族も、優しい人でよかった。

 何故キミカさまが若い姿なのか、とか、本当にこのキミカさまはあの人が言っていたキミカさまなのか、とか、気になることはたくさんあったけれど。

「さあ、行きましょう」

 あの人がそう信じたなら、この人がキミカさまなのだろう。

 わたしは喪服を纏って、歩き出した。

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キミカさま 九JACK @9JACKwords

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