占い人形

森野ふうら

占い人形

 女子大生のSさんの家に、昔、一体の人形があった。Sさんが小学生の頃だ。

 

 人形はピンクのドレスを着た可愛らしい西洋人形だった。金髪の巻毛に、水色の目。口元には仄かな微笑を浮かべていた。

 その人形は、玄関の靴箱の上に飾られていた。朝の登校時、夕方の帰宅時など、玄関を出入りする度に目に入る。

 家に連れてきた友達などは、気味が悪いと怖がることもあったが、Sさんはその人形が嫌いではなかった。毎日その前を行き来するので、生活の一部、あるのが当然、という感覚だった。ある種、家族の一員という感覚だったかもしれない。

 たまに気が向くと、「おはよう」「いってきます」「ただいま」と声をかけた。

 また、人形が握りしめている紙を取ることもあった。

 その人形は時折、手に紙を握りしめていることがあった。体の前面に、何かを抱えるような形で伸ばされた両腕。その先の右手に、たまに紙片が握られていることがあった。

 とはいっても、人形自身が意志をもって握りしめているという風ではない。誰かが人形の軽く丸めた手のなかに、無理矢理に紙片を突っ込んだという感じだった。

 それは家族の誰かがやっているのかもしれなかった。しかし家族の誰が、いつ、それをしているのかSさんは知らなかったし、知ろうとしたこともなかった。疑問に思わなかったのだ。Sさんにとっては、人形が知らないうちに紙を握っているのは、ごく自然な日常のひとコマで、なにも不思議がることはない光景だった。

 Sさんは、人形が紙を握っていると、必ず抜き取って中を確かめた。二つ折りにされた小さな白紙には、中に文字が書いてあった。

 「よし」

 時にはそう書いてあった。

 「わろし」

 そう書いてあることもあった。

 黒い筆ペンで書いたような文字。

 小学生のSさんには古語など分からなかったが、「よし」は「よい」、「わろし」は「わるい」だと感覚的に理解していた。

 「よし」の文字が出たときは、その紙をポケットに入れて一日持ち歩いた。何かいいことがある気がしたのだ。

 逆に「わろし」が出たときは、すぐにクシャクシャに丸めて、靴箱脇のゴミ箱に捨てた。玄関の外に持ち出すことはしなかった。身につけていたら何か悪いことが起こりそうな気がしたのだ。実際に身につけていたことはないので、ただの気のせいかもしれないが。

 Sさんにとっては、人形の紙はテレビやネットの占いと同じようなものだった。いい結果が出れば気分よく、悪い結果が出れば少し慎重に一日を過ごす。「よし」でも「わろし」でも、具体的に何かが起こったことはない。しかし、「よし」の日は何となく気分が上向き、積極的に物事に取り組めた。

 ただ、まれに妙な結果が出ることがあった。

 「し」。

 それだけが紙に書いてある。「よし」でも「わろし」でもない、たった一文字「し」。

 一体なんだろう? 初めて見たときSさんは首をひねった。何度見ても、裏返しても、逆さにしても、「し」しか書かれていない。特にヒントらしきものもない。意味がわからず、ただクシャクシャにしてゴミ箱に捨てた。なんとなく気分が悪かった。

 それからも度々「し」が出ることがあった。Sさんはその都度、すぐに紙を丸めてゴミ箱に捨てた。

 何故か段々と、「し」と書かれた紙が気持ち悪くなっていったのだ。別にそれが出たからといって、何か異変が起きたことはない。なのに、それが出るごとに、胸の中にざわざわとした不安と叫びだしたいような不快な気持ちが湧き、次第に強まっていった。

 

 ある日のことだった。

 朝寝坊をしてしまい、朝食もそこそこにランドセルを引っかけて玄関へ走ったSさん。

 毎日の習慣で、靴を履きながら靴箱の上を見ると、人形が紙を握っている。ひったくるように紙を抜き取り、スカートのポケットに突っ込んで外に出た。習慣からくる無意識の行動だった。

 あわてて走りながら、信号待ちのときに思い出し、ポケットの紙を広げてみた。

 「し」

 Sさんは顔をしかめた。

 しかし、とにかく急いでいる。Sさんはまた紙をポケットに突っ込んで走り続けた。

 校門近くで数人の友達と合流する。肩で息をするSさんを見て、友人たちは笑った。

「走ってきたの?」

「朝から全力じゃん」

「また寝坊でし、ょ」

「どし、たのよ?」

「昨日の夜、なにし、てたのー?」

 何故かところどころ、耳が詰まったように途切れて聞こえる。しかし、友人たちは全く気にした様子がない。きっと頭が痛くなるほど全力で走ったからだ、とSさんは思った。

 違和感が無視できなくなったのは、授業中だった。一時間目、二時間目と気のせいとすませてきた耳の詰まりが、三時間目にははっきり異変と認めざるをえなくなった。

 教卓で算数を教えるおじいちゃん先生が話している。

「いろいろな計算のまじっているし、きには、順序があり」

「だから、このし、き

の場合は」

「先にこうし、て、かっこの中を」

「じゃあ、し、たの問題をやってみまし、ょう」

 話が途切れて聞こえるだけでなく、「し」と言った瞬間だけ、先生の表情が変わってみえた。いつも穏やかなおじいちゃん先生が、「し」と言ったときだけ、歯をむき出して、ニヤッと猿のように笑った。そして、すぐいつもの、ほんわかとした笑顔に戻った。

 Sさんは背中がゾワゾワした。先生がニヤッと歯をむき出すたび、その顔に影が落ち、目が不吉に光る。見るたびに心臓がキュッと縮み、胃のあたりがムカムカした。

 その現象は、時間が経つほどにひどくなっていった。

 そして、何度も繰り返されるうち、お昼ごろには、Sさんはどうにも気分が悪くなってしまっていた。

「どうし、たの?」

「具合わるいの?」

「どうし、たの?」

「どうし、たの?」

「ねえ、どうし、たのぉ?」

 友達に囲まれ、次々に歯をむき出される。口の端がつり上がり、ニヤニヤとあざ笑うような顔が、あっちからこっちから順番に突きだされる。

 Sさんは涙目になった。限界だった。

「わたし、具合悪いから保健室にいく!」

 言い捨てて、椅子を蹴るように立って保健室に向かう。

 保健の先生もきっと変になっているんだろう。しかし、ベッドに入ってしまえば一人だ。誰とも顔を合わせないで放課後まで過ごせる。下校時刻までベッドにいて、時間になったらすぐに帰ろう。家に帰ってお母さんやお父さんに話せばなんとかなる。そんな気がした。

 保健室のドアを開ける。先生がいないといいのにという思いは、すぐに打ち砕かれた。

「あら、どうし、たの?」

 優しい女の先生は、歯をむき出してニヤッと笑った。目が半月のように細められて、ギラリと光る。

「具合が悪くて……」

「あら、どうし、ちゃったかな? 吐き気はある?」

「ない……です。でも、気分悪くて……」

「そうね、顔が真っ青。熱はあるかな? ちょっと測ってみようか」

 「し」のとき以外は、普段の優しい保健の先生のまま、体温計が差し出される。特に熱はなかった。けれど、気分が悪いのは見れば明らかなようで、とにかくベッドで休むことになった。

 Sさんは、ほっとした。これでしばらくは不気味なことに悩まされずにすむ。安心したからか、ベッドに横になると眠気がおそってきた。

 気がつくと、授業の合間の休み時間になったようだった。廊下に生徒の声が響いている。上半身を起こすと、同時にベッド周りのカーテンが引き開けられた。

「大丈夫? 気分はどうかな?」

 保健の先生が入ってきた。

「まだしんどい?」

 あれ? とSさんは思った。先生の顔を見上げる。

「うーん、さっきよりはいいけど、まだ顔色が悪いね。どうする? まだしばらく休む?」

 「し」の時に変化がない。先生は心配そうにこちらを見ている。

少しも不気味に笑う気配がない。

 もしかしたら治ったのかもしれない。単純に体調が悪かっただけなのかも。そうかもしれない。

 Sさんはほっとして笑顔を浮かべた。

「もう大丈夫……だと思います」

「あら、そう? ならよかった。あと一時間あるけどどうする? まだ不安なら今日はもう帰ってもいいけど?」

 Sさんは迷った。授業に出てもいいけれど、もしまたさっきみたいなことになったら怖い。うつむいて考えこむ。

 その様子に、保健の先生は優しく声をかけてくれた。

「じゃあ、もうちょっと休もうか? 放課後になったら呼んであげる。担任の先生には、先生から連絡」

 声が止まった。

 そのまま無言の時が続く。

 妙に思い、Sさんは顔をあげた。

 すぐ近くに先生の顔があった。歯をむき出し、ニヤニヤと笑っている。

「し」

 半月のような目がS

さんを見据えた。ギラギラ光る黒目がSさんを映して、獣のようにあざ笑っている。

「やだ!」

 Sさんは叫んで保健室を飛び出た。教室に駆け戻り、友達が声をかけるのも構わずに、ランドセルをつかんで学校を逃げ出す。

「やだ、やだ……」

 半泣きになりながら家への道を走る。道行く人の顔も怖くて見れない。みんな、あの顔でこっちを見ている気がする。みんな不気味に笑っている気がする。みんなが私を笑っている。

 家に着いて玄関を開けると、靴箱の上の人形が目に入った。

 いつものように壁に背をもたせかけて座り、薔薇色のくちびるに柔らかな微笑を浮かべている。

 それを見た瞬間、Sさんは、はっと気づいた。スカートのポケットを探る。 

 クシャクシャになった小さな紙が出てきた。中には「し」の文字。

 これのせいだ! 

 電気に打たれたように理解する。

 朝、急いでいたため「し」の紙を捨てなかった。いつもは気持ちが悪いから絶対に外には出さなかったのに、ポケットに入れたまま持ち歩いてしまった。

 これのせいで!

 急に激しい怒りが沸いてきた。靴箱の上で穏やかに微笑む人形も憎らしくてたまらない。

 Sさんは「し」の紙をビリビリに破いた。細かく細かく千切り、力を込めて丸める。そして、靴箱横のゴミ箱に叩きつけるように捨てた。

「最悪!」

 こんな紙、もう絶対に取らない。

 決意して顔を上げる。

 目が合った。

 目の前に人形の顔をがあった。靴箱の上で向かいの壁を見つめているはずの人形が、何故か向きを変え、Sさんと向き合っていた。真正面で可愛らしい顔が微笑んでいる。

 と、薔薇色の唇がニヤァと引き上げられた。見たことのない、真っ白な歯が剥き出される。水色の瞳が半月のように細められた。ニタニタと嫌らしい笑いを浮かべながら、人形は言った。

「し」

 右手に紙が握られている。

 瞬きをすると、目の前に紙が突きつけられていた。

「し」

 笑う人形。

「やだ!」

 Sさんは人形を突き飛ばした。人形は横向きに倒れ、靴箱の上から落ちる。バサッと音を立てて玄関の三和土に転がった。

 それを見終える前に、Sさんは踵を返し、自分の部屋に駆け上がった。ドアをしっかり閉め、ベッドの毛布をかぶって丸くなる。そのままお母さんが帰ってくるまで、じっとしていた。

 帰ってきたお母さんははいつも通りだった。玄関に人形が落ちていたとも、人形の顔が変わっていたとも、何も言わなかった。

 人形も、いつも通り靴箱の上で、向かいの壁を見つめながら薔薇色の唇に微笑みを浮かべていた。きっとお母さんが帰ってきた時には靴箱に戻っていたのだと、Sさんはなんとなく思った。

 それからはおかしなことは起こらなかった。

 次の日、学校に行くと、友達も先生も普段通りだった。会話中に妙な間があくこともなく、不気味な顔をすることもない。何もかも元通りの日常だった。


 以降、Sさんは人形が紙を握っていても取るのをやめた。

 後で知ったが、そもそもその紙が見えるのはSさんだけだったらしい。家族は誰もそれについて知らなかった。

 何年も経ち、Sさんが高校生になるころには、いつの間にか人形は靴箱の上から消えていた。長年飾り続けて古びたので、母が処分したということだった。

 のだが。

 Sさんが大学生になってしばらくしたころ、母が人形を持ち出してきた。確かに処分したと思ったが、物置の箱の中にあったらしい。愛着があるからと、人形は父母の寝室に飾られた。

 ごくたまにSさんが探しもので父母の寝室に入ると、人形は手に紙を握って座っている。

 だが、Sさんはそれを無視しているという。

 


 


 

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