第6話 家族の絆

 昨夜からテレビのニュースで、大月市の扇山の山麓で発生した国崎英雄殺害の事件は、各局で放送され今朝の朝刊にも掲載されていた。

 空木は、このニュースを知った菊田が、さぞ驚いてきっと電話をかけてくるだろうと思っていた。

 昼過ぎ、空木のスマホが鳴った。スマホの画面に表示されたのは森重勇作だった。

 「空木さん、裕之の意識が戻ったそうです。今しがた、由美子さんから連絡がありました。信じられません。今から大学病院へ向かいます。また連絡します」勇作は震える声で一気に話した。

その震えた声は、勇作の大きな喜びを現わしていた。

「本当ですか、良かった。私も面会時間に合わせて病院へ行きます」

 森重の意識が戻った。外傷性の脳障害による意識不明状態が、一か月以上経って戻る可能性はある、というインターネット上の情報はあり、空木も知ってはいたが、現実に自分の身近で、目の当たりに出来るとは思いもよらなかった。

 空木には、森重の死の予感はなかったが、植物状態が続くのではないか、というのが空木の偽らざる思いだったのだ。空木は、病院へ行こうとしている自分の気持ちは、森重の父や家族の喜びとは違う、好奇心なのではないかと自分自身を恥じた。しかし、やはりあの三ツ峠山の山荘で出会った森重と、もう一度言葉を交わしたいと思う気持ちは間違いないものだった。そこにもう一つ、空木の探偵としての探求心なのか、森重の意識が戻ることで、三人目の登山者がはっきりするかも知れない、転落の真の原因が判るかも知れないという思いがあった。

 空木が、森重の入院する杏雲大学病院の病室に入ったのは、午後二時を回った時刻だった。

病室には、妻の由美子と二人の子供、そして森重の両親がベッドを囲んでいた。

 空木を見た勇作が、「空木さん、この通り意識が戻りましたよ。会ってやってください」と言って、ベッドの脇に招き寄せた。

空木は、由美子に会釈しベッドサイドに立った。

 「森重さん、良かったですね。私を覚えていますか。空木です。三ツ峠山でお話しした空木です」

呼びかけた空木に、森重は目を向け「ええ」と小さく返事をした。

「裕之さん、空木さんには、あなたを山梨の病院まで付き添っていただいたのですよ」由美子が森重の耳元で囁くように話した。

「空木さん、転落の事は裕之には、何一つ聞いていません。空木さんから聞いていただいて構いませんが‥‥」勇作が空木の背中から声をかけた。

「いえ、今ここで聞くのは止めましょう。いずれ本人の口から聞けるのを待った方が良いのでは‥‥」

「空木さん、大変なご迷惑をお掛けしてしまって‥‥」空木の話が聞こえたのか、言葉をさえぎって裕之は詫びた。

「森重さん、一つだけお聞きしたいのですが、宜しいですか」

裕之は小さく頷いた。

「あの日の朝、森重さんが三ツ峠山の頂上、開運山に登った時、誰かに会いませんでしたか」

裕之は、天井を見つめ、そして空木に目を移して、首を小さく左右に振った。

「森重さん、体力が戻ったら富士山を眺めながら山の話をしましょう」

 空木は、由美子と勇作を見て「私はこれで」というように小さく頷き、ベッドサイドから離れた。

 空木を見送りに由美子と勇作は病室を出た。

 「国崎さんが亡くなられたそうですね。驚きました。主人のいた部署には何があるのでしょう。空木さんの調査報告書を、私も拝見させていただきました。主人は、あの部から出ることが出来て、良かったと私は思っています。それも主人が生きていればこそですから、空木さんがあの場所に居てくれたことに、本当に感謝しています。主人は、体も心もこれからのリハビリが大変だと思います。空木さん、また会いに来てください」由美子はそう言って、空木に深々と頭を下げた。

「空木さん、警察からはまだ何の連絡もありません。連絡が来たら空木さんにお伝えします。今日はわざわざ来ていただいてありがとうございました」勇作も頭を下げた。

空木を送った、由美子と勇作は病室へ戻った。

 病室へ入ると直ぐに、由美子は小さな声で勇作に言った。

「お義父さん、私、今から裕之さんに、人事も含めた会社の話をしようと思います。まだ体力がないから会話は出来ないかも知れませんが、私たち家族の想いも伝えようと思います」

「それなら、私ら夫婦はいない方がいいですね」

「いえ、お義父さんと空木さんが、調べてくれた会社の事も話すつもりですから、一緒にいてください」

勇作は「わかりました」と言って頷き、ベッド脇に歩み寄った由美子の斜め後ろに立った。

「裕之さん、私が今から話すことを聞いてください」

由美子は裕之の手を握った。裕之の手は冷たかった。

「裕之さんの転落事故は、不慮でも誰かの故意でもなかったと思っています。会社で随分苦しい思いをしていたことを、お義父さんと空木さんのお陰で知ることが出来ました。私は、いえ私たち家族は、仕事の力にはなれなくても、あなたの心の苦しさを分かち合いたかった。少しでも、裕之さんを支える妻の役割を果たしたかった。お義父さんが会社で何があったのか調べようとしたのも、あなたの苦しさに気付いてやれなかったことを悔いていたからなのですよ。涼香すずかも優太も、意識のないあなたの手足を擦ったり、動かしたり一生懸命だったのよ。お義母さんも仙台の母も、皆で裕之さんの意識が戻ることを信じて、私たち家族を支えてくれたのですよ。裕之さんの周りには、こんなに思ってくれる家族がいるの。裕之さんの成功は、私も嬉しい、でもそれより、死を選ぼうとすることへの悲しみの方が何百倍も辛いです。一生懸命頑張って生きて、子供たちと一生懸命、会話をしようとする裕之さんでいてほしい。お願いだから、二度と死のうなんて思わないで」

由美子の目から、ポロポロと涙が零れ落ち、裕之の目尻からも涙が流れ落ちた。涼香も優太も泣いていた。

「それから、あなたは、十月一日付で人事部付に異動だそうです。後任は、菊田さんがなるそうで、ここまでわざわざ挨拶に来てくれたんですよ」由美子は涙を拭きながら、裕之に伝えた。

「菊田が‥‥。良かった」裕之は呟くように言った。

「もう一つ、伝えておかなければならないことがあります。国崎さんが、昨日亡くなりました」淡々と伝える由美子を、補うように勇作が言葉を継いだ。

「殺されたんだ。俺と会う約束をしていたんだが、来なかった。死体を見つけたのは、空木さんと俺だった。驚いたよ」

裕之は、話が呑み込めないのか、驚いているのか、天井を見つめたままだった。

「裕之、お前は三ツ峠山に行くことを国崎さんに話をしたか」

裕之は、勇作の問いに黙って頷いた。


 杏雲大学病院から自宅兼事務所に戻った空木が、冷蔵庫から缶ビールを取り出すのと同時にスマホが鳴った。

 菊田からの電話だった。

 「大変なことになりましたね、空木さん。まさか、国崎さんが殺されるとは、思ってもみませんでした」

「私も驚きました。三ツ峠山に行っていたかも知れない国崎さんが、殺されるとは夢にも思っていませんでした。菊田さん、山小屋に行って写真を見せると言っていましたけど、どうしますか、止めますか」

 空木は、自分が国崎の遺体の第一発見者であることは、今は敢えて言わないことにした。

「‥‥どうしたものか。森重がああいう事になった原因が、あの日三ツ峠山に偽名で宿泊した人間にあるとしたら、友達として、その人間を突き止めたいと思う気持ちは、変わっていないのですが、それが私の思った通り国崎さんだと判明しても、もう意味がないのではないかと‥‥」

「菊田さん、その確認は、警察にやってもらったらどうでしょう」

「警察ですか。警察がやってくれるのですか」

「何ともわかりませんが、国崎さんは殺された訳なので、警察としてはどんな些細な事であっても調べると思います。偽名で宿泊していたのが国崎さんだとしたら、今回の事件との関連を疑うような気がするんです」

「でもどうやって警察に頼むのですか」

「私の知り合いに警察の関係者がいますから、私から話してみます。これは警察への協力ですから、心配することは何もないですよ」

「空木さんがそう言われるのならわかりました。山小屋に泊まっていた人間が、国崎さんだと判ったら教えて下さい」

「わかりました、連絡します。それから菊田さんにお聞きしたいのですが、森重さんのお父さんの携帯電話の番号はご存知ですか」

「はい、知っていますよ。一度、私の携帯に電話してきていますから、登録しました」

「その番号を国崎さんに、教えた覚えはありますか」

「いえ、ありません。他人の番号を勝手に教えるようなことはしません。教えたら、本人に誰誰に教えたと連絡しますよ」

「おかしなことを聞いてすみませんでした。あ、それと大事な事を言い忘れていました。菊田さん、この話も大いに驚くと思いますが、森重さんの意識が戻りました。今日の午前中の様です。私、杏雲大学病院で会ってきました」

「えー、本当ですか、それはビッグニュースです。嬉しいです。泣きそうです。直ぐに奥さんに電話します」

 電話の向こうで、泣き笑いしている菊田の顔が想像できた。菊田という男は、本当に友情の厚い人間なんだと、空木はつくづく感心した。

 「ということは、山で誰かに会ったのか、何があったのかわかるということですね。空木さん聞いたんですか」

「はい、誰かに会っていないか聞きましたが、返事はノーでした」

「そうですか。その話は別にして、とにかく良かったです。大森にも連絡して知らせます。今日は、空木さんに電話して本当に良かったです。森重の退院の時には、一緒に一杯やりましょう」

 菊田は、国崎が亡くなったことなど忘れたかのように、明るい声で電話を終えた。

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