第4話 もう一人の登山者

 秋雨前線の影響で、夜半からの雨が午前中も降り続いた。

 空木うつぎは、朝からずっと、これまでに面会して聞き取った手帳のメモを、改めてノートに書きだしていた。

 四季楽園に偽名で宿泊した登山者に該当する条件は、森重の山行計画を事前に知っていて、登山経験があること。そして、二年前以前の嶋村医師を、住所とともに認識している人物であることを確認した。

 この三つの条件に合致する人物が、偽名で山小屋に泊まった人間である可能性が最も高い。それを何から、どのようにして調べていくのか。ここまでの聞き取りの話の中で、手掛かりになる情報がある訳ではない。調べ易いのは、嶋村医師との繋がりがある人間を、調べることだろう。嶋村医師と繋がりがあり、そして森重とも繋がっている可能性が高いのは、製薬会社の人間の筈だ。中でも、旧太陽薬品を含めた、ホープ製薬を中心に調べて、手掛かりを探るべきだ。

 空木は、まず協力を申し出てくれている、ホープ製薬販売企画二課の吹山に、情報を集めてもらえないか、連絡を取ってみることにした。吹山との面会で聞いた、杏雲大学病院を担当した経験があるという菊田章には、その後、情報の詳細な確認に協力してもらおうと考えた。

 空木は、吹山の名刺を取り出した。今日が、吹山の出社日なのか、在宅勤務の日なのか、わからない中で、吹山に極力迷惑を掛けないように配慮したつもりで、パソコンのメールアドレスには、依頼したい内容を書き込み、携帯のメールへは、パソコンのメールアドレスにメールを送った旨だけを送ることにした。

 吹山に依頼した内容は、合併した二社の五年前までの、杏雲大学病院を担当したMRを調べてもらえないか、という内容だった。

 正午過ぎに、空木のスマホが鳴った。吹山からの電話だった。昼休みに入るのを待って電話してくれたようだった。

 「今日は出社日なので連絡が遅れました。すみませんでした。メールは拝見しました。依頼された件は、手配中です。分かり次第パソコンのメールで返信しますが、菊田さんには、連絡されたのですか」

「いえ、まだです。吹山さんから、担当されていたMRさんの情報をいただけたら、連絡してみようと思っています」

「そうですか。実は、今日社内ではオープンになったのですが、十月一日付の人事異動で、菊田さんが、森重課長の後任の課長になります」

「ほー、そうですか。それで森重課長の処遇はどうなるのですか。差し支えなかったら、教えていただけませんか」

「人事部長付になるようです」

「そのことは、ご家族はもうご存知なのでしょうか」

 空木は、森重の妻の由美子と父の勇作が、それを聞いてどんな思いでいるのだろうかと、気掛かりになって訊いた。

「いえ、まだだと思いますが、詳しいことは私にはわかりません」

「そうですか。吹山さん、連絡ありがとうございました。メールをお待ちしていますので、宜しくお願いします」

礼を言って電話を終えた空木は、「森重の同期の菊田が後任か」と呟いた。

 誰かが、何かの意図があっての人事だろうが、誰が菊田を推したのか、空木は興味が湧いた。

 空木の事務所のパソコンに、吹山からのメールが届いたのは、夕方の五時を過ぎた頃だった。吹山のメールには、杏雲大学病院の五年前からの歴代担当MRが、旧会社別に、現在の連絡先を含めて記載されていた。

 それによれば、旧太陽薬品では、2016年までが菊田、2017年から2019年の合併までが江田となっていた。一方の旧ホープ製薬は、2016年から2018年の三年間が杉村、2019年から今に至る担当が北、となっていた。吹山のメールの最後には、「何を調べられているのかわかりませんが、また何かあったら連絡してください」と書かれていた。

 空木は、吹山が空木から何の説明もないまま、依頼されたことに対して、対応してくれたことに感謝した。

 メールに書かれていた四人のMRのうち、嶋村医師の小金井市の住所、つまり二年前の住所を知っている人間がいるのだろうか。嶋村医師が三鷹に引っ越した後に、担当MRとなった北を除いた三人には確認したい。

 

 翌日空木は、菊田章の携帯電話のダイヤルキーを押した。数回のコールの後、菊田の声がした。空木の携帯電話の番号は、菊田の携帯には登録されていないのだろう。

 「もしもし、菊田です‥‥」の声が小さかった。

「突然お電話してすみません。以前、新横浜のホテルで、森重さんのお父さんと一緒にお会いさせていただいた空木です」空木は、菊田の記憶を呼び覚ますように話した。

「あー、はい空木さんですね。ご無沙汰しています。突然どうされましたか」

課長昇進おめでとう、と言いたかったが、吹山に迷惑が掛かってはいけないと空木は思い、言葉を飲み込んだ。

「実は、菊田さんは、森重さんの事故の状況を承知しているので、ご相談したいことがあって電話させてもらいました」

 そう切り出した空木は、三ツ峠山に、あの日自分と森重以外にもう一人いたようだ。その人物を探しているが、その人物は偽名で宿泊していた。その偽名で使われたのが、杏雲大学病院救急科の嶋村医師で、書かれた住所は、現住所ではなく、以前住んでいた小金井市の住所だったことを説明した。

「え、嶋村先生の名前が偽名で使われたのですか」

菊田の声は、驚いて裏返ったような声になった。

「菊田さんは、嶋村先生をよくご存知なのですか」

「はい、救急科は太陽薬品の薬剤をよく使ってもらっていましたから‥‥」

「特別親しかったとか」

「いえ、そんなことはないのですが、大事な先生でしたから、定期的にお会いしていただけです」

「そうですか、それで嶋村先生が二年前まで住んでいた、小金井市の住所を知っていたMRがいなかったか、調べようとしているところなのですが、菊田さんを含めて、ホープ製薬の過去五年間の杏雲大学病院担当者の方の中で、知っている可能性のある方はいないか確認したいんです」

「空木さん、杏雲大学病院の過去の担当者を調べたのですか」

「調べたのは、旧太陽薬品を含めたホープ製薬だけです。他社のMRについては、菊田さんを頼りにしようかと思っての連絡でもあるのです。菊田さん、杏雲大学病院の担当は長かったんじゃないですか」

「五年余り担当させてもらいました。五年が長いかどうかわかりません。十年以上担当しているMRもいますからね。ところで、空木さん、今この電話で思い出して考えるには、時間的にも無理があります。どこかでまたお会いしませんか」

「私は全く構いません。というか、ありがたいぐらいです。それでいつお会いしますか」

「空木さん、少し時間をいただけませんか、改めて私から連絡する、ということでいかがでしょう」

「わかりました。そうしましょう。連絡をお待ちしています」

電話を切ろうとした空木に、「空木さん、森重の職場の調査は進んだのでしょうか。私は、知る立場にはないのですが、やっぱり気になります」

「森重さんのご家族のこともありますから、詳しいお話はできませんが、ご家族にはすでに報告させていただきました。いずれ、菊田さんのお耳にも入るかも知れません」

「わかりました。‥‥それから、これは空木さんに伝えることではないと思いますが、十月一日付で、森重の後任として、販売企画二課の課長に異動することになりました。複雑な気持ちです。それで、森重の処遇も、私から森重の家族に伝えるようにと部長から言われています」

 空木は、何をどう言っていいのか、言葉が出なかった。菊田も、森重が味わった思いと、同じ思いをすることになるのだろうか。

 「‥‥菊田さん、私からは、今は頑張ってくださいとしか、あなたに言える言葉がありません」

「ありがとうございます。またご連絡します」菊田はそう言って電話を切った。

 菊田から直接に、昇進の話を聞くことになるとは思わなかった空木は、吹山から菊田の昇進の話を聞いた時以上に、誰が菊田を推したのか興味を持った。旧ホープ製薬出身の下松が、森重の後任課長に、旧太陽薬品出身で面識のない菊田を推すとは考えられない。旧太陽薬品の誰かが推したのだろう。

 

 その日の夜、空木はまた平寿司のカウンターに座っていた。隣には、空木に呼び出された小谷原が座っていた。

 「小谷原さん、土曜日の夜に声をかけてしまってすみません。奥さん怒ってないですか」

「大丈夫です。空木さんから声がかかったと言えば、うちのカミさんは、全く問題無しです」

 二人はビールで乾杯して飲み始めた。

 「小谷原さんが担当している営業所の管轄の病院には、杏雲大学病院も含まれているんですか」

「ええ、多摩地区全てが営業所の管轄ですから、当然含まれていますよ。杏雲大学病院がどうかしたんですか。それが今日の用件らしいですね」

「詳しい話は出来ないのですが、今、杏雲大学病院の救急科の、あるドクターと親しいMRはいないか、探したいと思っているんですが、何の手蔓てづるもないので、小谷原さんに助けてもらおうと思ったんですよ」

 空木は、鉄火巻きと烏賊刺しを、小谷原はオードブル三種盛り合わせをそれぞれ注文し、空木は芋焼酎の水割りを、小谷原は冷酒を飲み始めた。

 「そんなに都合よく助けてあげられませんよ。と言いたいところですが、うちの杏雲大学病院の担当者は、会澤と言うのですが、十年以上、杏雲大学病院を担当しているので、救急科のことも分かるかも知れませんよ」

 空木も、製薬会社のMRという職業を、二十年近く続けてきただけに、十年以上同じ医療施設を担当することは、珍しいことであることは承知している。菊田が言っていた、杏雲大学病院を十年以上担当しているMRとは、今、小谷原が言っている人物が、そのMRである可能性が高い。会ってみる価値はあると空木は思った。

 「小谷原さん、出来るだけ早く、その方に会わせていただけませんか」

「出来るだけ早くですか。だったら月曜日ですね。営業所のミーティングの後に、会澤に仕事の約束が入っていなかったら、会えるでしょうから、月曜の朝、本人に確認したら連絡しますよ。OKだったら立川にある営業所に、昼までに来てください」

 

 月曜日の朝、八時半過ぎに、空木のスマホが鳴り、小谷原から「会えると言っていますから来てください」と連絡が入った。

 小谷原が所長をしている、京浜薬品の多摩営業所は、JR立川駅の北口から歩いて七、八分のオフィスビルの中の一室だった。

 十二時を少し回った頃、空木が待っている応接室のドアが開き、小谷原と会澤が姿を見せた。

 「空木さん、お待たせしました。彼が会澤です」と小谷原が紹介した。

会澤は名刺を空木に渡し、挨拶した。

 空木も、「スカイツリーよろず相談探偵事務所所長」の名刺を会澤に渡し、今日の面会の礼を言った。

「空木さん、この近くの喫茶店で、ランチでも食べながら話しませんか。私たちも、食事をしなければいけませんから、行きましょう」

「わかりました。そうしましょう」

 三人は、営業所を出て、近くにある喫茶店に入った。

 店は昼時で、近隣のサラリーマンで混みあっていたが、三人は四人掛けのテーブルに座ることが出来た。三人は、それぞれランチセットを注文した。

 「空木さん、杏雲大学病院のことで、会澤に聞きたいことをどうぞお聞きになってください」

「ありがとうございます。では早速ですが、救急科の嶋村先生と親しい、若しくは親しかったMRの方をご存知なら、教えて欲しいのですが、いかがでしょう」

「嶋村先生ですか。嶋村先生は私の知る限り、製薬会社とは一線を画す性格の先生ですから、食事をしたりするような、特別に親しいMRはいませんでしたし、今もいないと思います。空木さんが、知りたいMRというのは、具体的にはどの程度の親しさをイメージしているのですか」

「具体的に言えば、嶋村先生の住所を知っているレベルなんです」

「住所なら、親しくなくても知っているMRはいるんじゃないですか。私も知っていますよ」

「え、会澤さんは住所をご存知なんですか」

「ええ、確か三鷹ですよね」

「はいそうです。それは今、お住まいの住所です。会澤さんは嶋村先生の三鷹の住所をどうして知ったのですか。先生に直接聞かれたのですか」

「嶋村先生に直接聞いて、教えてくれるということはあり得ませんよ。我々は講演料、講師料の領収書、源泉徴収票に書かれる住所で知るんですよ」

 会澤の話を聞いた空木は、「あ、そうか」と呟いた。確かにそれでわかる。製薬会社に在職していた自分なのに、何故それに気が付かなかったのか。しかし、そうなるとますます調べようがない。

 「そうですか。そういうことで言えば、住所を知っているから親しい、ということにはならないですね」

 三人は、テーブルに運ばれて来たランチを食べ終わり、コーヒーを注文した。

 「嶋村先生は、三鷹に引っ越す前は小金井に住んでいたんですが、そこの住所も会澤さんはご存知だったのですか」

「いえ、当時先生が、小金井に住んでいることは知っていましたが、住所は知りませんでした」

「小金井に住んでいることは、ご存知だったのですね」

「ええ、先生と同じマンションに住んでいたMRがいたので、知ったんです」

「え、同じマンションですか。その方を教えていただけませんか」

空木は、無意識にペンを握る手に力が入った。

「えーと、彼は確か、合併してしまいましたけど、太陽薬品の菊田君だったと思います」

 空木は、菊田の名前を聞いて、頭が真っ白になり、持っていたペンを落としてしまった。

 「太陽薬品の菊田さんですか‥‥‥」

「空木さん、知っている方なのですか」

「あ、いや‥‥」空木は、あやふやに返したが、明らかに動揺している自分がわかる。一呼吸を置いて、腕時計を見た。

「会澤さん、もう一つ伺いたいのですが、宜しいでしょうか」

「どうぞ」

「長い間担当されている中で、会澤さんの記憶として、救急科に関連した事で記憶に残っていることなどはありませんか」

「うーん‥‥」と呟いて、会澤は持ちかけていたコーヒーを置いて、腕組みをした。

「五、六年前にあった出入り禁止事件ですね」

「出入り禁止事件ですか。それはどんなことだったのですか」

「救急科に対して、ある製薬会社が依頼した臨床研究で、当時の医局長だった嶋村先生を怒らせてしまって、それが教授にも知れて、その会社が出入り禁止になったんです。それを事件と称しているのですが、それがうちのライバル製品だっただけに、私にはラッキーでしたからよく覚えています。ホープ製薬も直ぐに担当者を替えたんですが、一年間は出入り禁止になっていましたね。今は普通に出入りしています」

「ホープ製薬ですか‥‥。その担当MRの名前は憶えていますか」

「頻繁に救急科に来ていたMRではなかったので、覚えていません。よく来ていたら嶋村先生にあんなこと言いませんよ」

 時刻は午後一時前になり、三人は店を出た。

 「空木さん、会澤の話は、少しは役に立ちましたか」

「大いに役立ちました。小谷原さん忙しい中、時間を割いていただいてありがとうございました」

 空木は、二人に礼を言って頭を下げ、店の前で別れた。

 立川駅に向かって、モノレール線の下の広い歩道を歩く空木の胸に、菊田への疑問が渦巻いていた。

天気の良さも加わって空木の足は、右へ折れて国営昭和記念公園へ向かって歩き始めていた。月曜日で公園へ向かう人通りは少なかった。空木は、閑散とした公園までのアプローチを歩き、富士山の見える記念館の屋上の庭に立った。富士山は霞んで見えなかった。

 菊田は、何故、嶋村先生と同じ小金井のマンションに住んでいたことを、言わなかったのか。考えられることは、言えば自分が疑われると思ったからか、若しくは、偽名を使って宿泊した本人だからなのか。本人だとしたら、何のために三ツ峠山にいたのか。また「会いましょう」と言っていたが、果たして菊田から連絡が来るのだろうか。

 空木は、菊田の携帯電話に「電話をいただきたい」のメールを送信して、菊田からの連絡を待つことにした。

 菊田から電話が入ったのは、空木が立川駅のコンコースに入った時だった。

 「空木さんですか、菊田です、何か‥‥」

「忙しいところすみません。偽名の宿泊者の件なのですが、今日、ある方から聞いたのですが、菊田さん、あなたは以前、嶋村先生のマンションと同じマンションに住んでいたようですね。何故、言ってくれなかったのですか。まさか、四季楽園の宿泊者は菊田さん、あなたではないでしょうね」空木は、一気に話した。

「空木さん、どこで調べられたのかわかりませんが、確かに先生と同じマンションに住んでいました。言わなかったことはお詫びします。でも宿泊したのは絶対に私ではありません。信じて下さい」

「何故、言ってくれなかったのですか」

「その理由わけは、お会いした時にお話ししますから、もうしばらく連絡を待っていて下さい。必ず連絡します」

「わかりました。じゃあ、連絡を待っています」

空木は、電話を切って、改札口へ向かって歩いた。菊田の言う「理由わけ」とは何だろう。直ぐに会えない理由とは何だ。


 次に、菊田から空木に連絡が入ったのは、それから二日経った水曜日の午前中だった。

 「空木さん、一昨日は失礼しました。急な話で申し訳ないのですが、今日の三時に三鷹駅でお会いできませんか。ついでというと空木さんに失礼なのですが、森重のご家族に、森重の人事の件を伝えに行きますので、その用件が済んだ後に、お話ししたいのですが、いかがですか」

「森重さんの奥様に、病院で会われるのですね。わかりました。三鷹駅で三時に会いましょう。お待ちしています」

 空木が、三鷹駅の改札口を出た時には、菊田はスーツ姿で、左手に書類カバンを持った姿で待っていた。電話で話はしているものの、菊田と会うのは、新横浜のホテルで会って以来だ。

 空木は以前、吹山健一との面会で入ったコーヒーショップに菊田とともに入り、アイスコーヒーをプレートに乗せ、奥の席に座った。

 「菊田さん、例の理由わけを聞かせていただく前に、森重さんの奥様はお元気でしたか」

「変わりはないように見受けました。森重の人事を伝えてから、私が森重の後任になることを伝えましたが、落ち着いて聞いてくれて、「頑張って下さい」と励ましてくれました。それと、最後に「主人の職場には、魑魅魍魎ちみもうりょうがいるようです。気を付けてください」と言われました。奥さんから、そんな言葉を聞くとは思っていなかったので、びっくりして、返す言葉がありませんでした」

「そうですか」

 空木は、父の勇作が森重の奥さんに、自分が調べた調査報告書を見せたのだろうと想像した。

 「空木さん、空木さんに嶋村先生の小金井のマンションの件では、黙っていたことはすみませんでした」菊田は頭を下げた。

「自分が疑われるのが嫌だったのですか」

「それもありましたけど‥‥あの時、心当たりが浮かんだのです。それは、確かなものではなかったので、空木さんに話すべきではないと思い、自分で調べてみて、それから話そうと思ったのですが、空木さんが、まさかこんなに早く、私が住んでいたことを知るとは思っていなかったので、びっくりしました。どこで調べたのですか」

「どことは言えません。十年以上担当していた方から、と言っておきます」

「‥‥それは会澤さんですか。会澤さんをどうやって探したのですか」

「それも言えません。それより心当たりというのは、どういうことなのですか。話していただけるんですよね」

菊田は、「はい」と言って頷いた。空木は手帳を手に取った。

「浮かんだのは、国崎さんでした」

「え、国崎さん‥‥。課長の国崎さんですか。何故、国崎さんが浮かんだのですか」

「嶋村先生の名前を、わざわざ偽名に選んだことと、小金井のマンションの住所を使っていたことで浮かんできました。ただ、どうして嶋村先生の小金井の住所を知ったのか、森重が三ツ峠山へ行った二日間の休暇をどう知ったか、そして、この二日間どうしていたか、山行の計画をどのように知ったかを調べたかったのです」

 菊田は、アイスコーヒーを飲んで、さらに話を続けた。菊田の推測はこうだった。

 杏雲大学病院救急科の嶋村保博医師の名前を偽名に選び、小金井の住所をマンション名まで記載したのは、先生と自分への、国崎の恨みではないかと考えた。六年前、ホープ製薬が救急科を出入り禁止になった時の担当MRは、国崎だったことを菊田は記憶していた。嶋村先生を怒らせた理由を、菊田も詳しく知っている訳ではないが、救急科に依頼していた臨床研究が終了した後、多額の寄付金で、他社の処方を自社に変えてもらおうとして、嶋村先生の逆鱗に触れたらしい。その時、菊田が嶋村先生と同じマンションに、住んでいることをどこで知ったのか、国崎は菊田と嶋村先生が親しいと勝手に思い込んで、とりなしてほしいと頼んできた。菊田は、それは出来ないとあっさり断った。この件で、国崎は、杉村というMRに担当を交替することになった。MRにとっては、屈辱の交替であった。

 次に、国崎がどのようにして嶋村医師の当時の住所、つまり小金井市南町の住所を知ることが出来たのか、だった。

 嶋村先生が、国崎が大学病院を担当している当時、自宅の住所を国崎に教えることは考えられない。考えられる事は、講師料、原稿料の支払いに伴う領収書、若しくは、源泉徴収の支払い調書に記載されている住所で知ることだ。

 国崎の担当している期間には、知る機会がなかったとしたら、後任にその機会がなかったか、確認するのではないか。若しくは、経理の源泉徴収支払調書の担当者に嶋村保博への支払いがあったか、どうかを直接確認する方法をとるか、どちらかではないかと考えた。そこで、まず経理の女性担当者に、嶋村の名前で調べて欲しい、という依頼がなかったか確認したが、該当するような依頼はなかったとの答えだった。

 次に、もう一つの方法の、後任者に確認していないかだ。国崎は、嶋村先生が二年前に、三鷹へ引っ越ししていることは、知らなかった筈だが、結果的には、二年前までの住所を知ることになった。ということは、二年前から担当となっている、現在の担当者ではなく、二年前までの担当者から、そして聞き易い旧ホープ製薬の担当者から知ったと仮定すべきだろう。

 国崎の後任の杉村とは、菊田も一年間病院の担当が重なったこともあり、面識があった。菊田は、その杉村に連絡を取って、確認をしたところ、やはり国崎から確認の電話があり、以前、嶋村先生を社内講師で招聘した際に、記録していた住所を教えたという答えだった。これで国崎は、嶋村先生の小金井の住所をマンション名まで知ることが出来たことが確認できた。

 次に、森重が三ツ峠山へ行った、九月第一週の木曜、金曜の二日間の所在の確認だった。

 三ツ峠山の山小屋に泊まったのが、国崎であることを証明することは難しいだけに、その二日間は会社には出社していなかったこと、つまりアリバイがないことを確かめることしか出来なかった。

 新型コロナ対策の一環として、七月以降のホープ製薬本社の社員は、一般職が週三日、管理職が週四日の出社が原則となっていたことから、菊田は、販売企画二課の課員に、九月の第一週の木曜、金曜の国崎の出社の確認をしたが、明確な答えは得られなかった。

 ただし、一人から、時期は忘れたが、他部の人間が国崎課長を訪ねてきた時、一課の誰かが、今日と明日の二日間お休みです、と言っていた記憶があると聞けた。

 後は、森重の休暇予定日をどのようにして知ったのか、山行目的地が三ツ峠山であることを、国崎が知る機会があったかどうかであった。

 この確認も難しいことだった。森重が直接、国崎と山行予定の話をしているか、第三者を通じて国崎に伝わったのかだろうと思うが、休暇予定日を事前に承知していたのは、森重の上司である下松部長と、部下である二課の課員たちだったが、それが国崎に伝わったのかどうか、確認は取れなかった。

 山行予定については、二課の課員たちは誰も聞いていなかった。結局、国崎が森重の休暇予定日と、三ツ峠山への山行を知り得たという確認は取れなかったが、菊田は、嶋村医師の名前を使って宿泊した人間は、国崎だと確信した。

 静かに菊田の話を聞いていた空木は、メモを取っていた手帳を置いて、アイスコーヒーを一口、二口飲んだ。

 「菊田さん、凄いですね。見事な推理と調査です。探偵顔負けです。国崎さんは、私の調査期間より前に、杏雲大学病院を担当したことがあったのですか‥‥。山登りも趣味ですし、私も国崎さんが、偽名を使った宿泊者に極めて近い人物だと思います」

「国崎さんは、山登りが趣味なのですか。知らなかったです。空木さんは、それをどこで調べたのですか」

「国崎さんが、森重さんの見舞いに行った時に、お父さんの勇作さんに、山が趣味だと言っていたと聞きました。その時には、三ツ峠山には登ったことはないと言っていたそうですから、決定的な確認を取らない限り、本人は認めないかも知れませんね」

「そうですか‥‥。しかし、何故、森重に黙って、しかも偽名で三ツ峠山へ登ったんでしょう。何のためだったんでしょう」

「わかりません。偽名で泊まった本人の口から聞くしかないでしょうね」

「まさか、森重を突き落とすために登った‥‥」

 菊田の言葉を聞いた空木は、森重を突き落とすため、つまり殺すために登ったとしたら、殺人を犯す動機がなければならない、と思った。

 「菊田さんに、森重さんが突き落とされる心当たりのようなものがありますか」

「いえ、心当たりなんかは全くありません。ただ、別の事で少し気になることがあります」

「気になること?」

「ええ、一昨日、推進部長の古河こが部長に声を掛けられて、昼食を一緒にした時に、部長が、森重にはある事を調べて貰っている途中だった、という話をされまして、それが何なのかわかりませんが、他部署の部長から頼まれる調べものとは何だろう、と思いまして気になっているんです」

「どんな事を調べているのか、言ってくれなかったのですか」

「私も、そこまで言うのなら、言ってくれるのかな、と思いましたが、結局何も話してくれませんでした。森重が、ああいう状態ですから、部長は気遣いされているのかも知れません」

「その古河部長という方は、こういう言い方は失礼かも知れませんが、森重さんやあなたの力量というか、能力をかなり評価されていて、俗っぽく言えば、あなた方を引き上げてくれた方なのではないですか」

「‥‥‥どの程度の評価をしていただいているかはわかりませんが、古河部長が私や、森重には、意識して声を掛けていただいていると感じます。今回の私の課長昇進も、古河部長の推薦があったと思います」

 空木は、森重の後任に菊田を推した人間は、古河という部長だと理解した。旧ホープ製薬出身の下松販売企画部長と、旧太陽薬品出身の古河営業推進部長の軋轢あつれきが、下松部長の森重へのあの一連の行為に、繋がったのではないかと空木は推測した。そして、森重の後任に、菊田を持ってきたということは、森重が調べていた何かを、古河は菊田に続けさせようとしているのではないだろうか。

 「空木さん、僕は国崎さんの写真を、車内でスマホで撮っているんです。近いうちに三ツ峠山に登って、確認してくるつもりです。山小屋の主人が、偽名で泊まった客の顔を覚えていれば、決定的な証拠として、国崎さんを問い詰めます。何故、三ツ峠山に登ったのか‥‥」

菊田の目は、厳しく、真剣だった。

「その時は、私も同席させていただきたいものです」

「ご連絡します」

 二人のアイスコーヒーの氷は、完全に溶けて、ぬるく薄いコーヒーになっていた。空木は、国崎がもう一人の登山者だとしたら、何のために登ったのか、増々大きな疑惑として、頭の中を駆け巡った。

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