第3話 調査
新横浜から、事務所兼自宅のある、国分寺光町のマンションに、
月曜日は、平寿司は休みだ。空木は、焼酎を入れたロックグラスを持って、夜のベランダに出ると、煙草に火をつけて考え始めた。吹山という販売企画課員との面会は、近いうちに実現するが、あと何人か話が聞ける人間がいてほしい。人脈を探っていくしかないが、自分には、ホープ製薬に人脈はない。
空木は、退職した
では、四季楽園の宿泊客の調査はどうするか。三ツ峠山に三ツ峠山荘とともに建つ山小屋を思い浮かべた時、ふっと三ツ峠山荘の主人の顔が浮かんだ。
空木は、村西の携帯に「明日連絡してほしい」とメールを送った。
村西良太は、空木が退職した万永製薬の入社同期の男だが、帝都薬科大学に一浪して入学したため、空木より一つ年上だ。空木が、万永製薬を辞める際に、最も強く引き止めたのはこの村西だった。二人は、馬が合うのか、空木が退職して、札幌から東京へ戻ってきてからも、村西が杉並に住んでいることもあり、三、四か月に一度は会って飲んでいた。
空木が、ロックグラスに新しい氷を入れ足して、焼酎を注いだ時、空木のスマホが鳴った。村西良太の名前が表示されていた。
「もしもし空木です。明日で良かったのに、すまないな」
「おー、今飲んで帰ってきたとこや。明日になって忘れたらいかんやろうと思って電話したんや。何の用や」
村西は奈良出身で、関西弁は抜けない、というよりも抜こうとしていない。
「酔った村西に話しても、無駄かも知れないが、合併したホープ製薬に、知り合いはいないか聞きたかったんだ」
「太陽薬品と合併したホープ製薬か。すぐには浮かんでこないが、それがどないしたんや」
空木は、村西の酒臭い息が、スマホの中から漂ってくるのではないかと、スマホを耳から離した。
「実は仕事で、ホープ製薬の営業本部に勤務している人間を探しているんだ。顔の広い村西なら、旧ホープ製薬か、旧太陽薬品の人間で、そういう知り合いがいるかも知れない、と思って連絡したんだ」
「ほー、貧乏探偵に仕事が入ったんか、それは良かったやないか。そやけど残念ながら思い浮かぶ奴はおらんな。思い出したら連絡するわ」
空木は、「遅くにすまなかった」と言って電話を切った。
翌日空木は、ホープ製薬販売企画部の吹山健一に連絡を入れた。
ツーコールほどで電話に出た吹山は「こちらからかけ直します」と言って、名前を名乗る前に携帯を切った。
数分後、空木の携帯が鳴った。下手な手つきでスライドさせた。
「はい、空木です」
「空木さんですか、吹山です。先ほどはすみませんでした。今日は在宅ではなく、会社にいるので、場所を変えさせていただきました。空木さんのことは、菊田さんから聞いています。私の話を聞きたいということですが、平日は難しいと思います」
吹山は、声を殺して話しているように、空木には思えた。
「土曜、日曜ならお会いしていただけますか」
「はい、土、日なら大丈夫です」
「どちらに伺えば宜しいでしょうか。吹山さんのお住まいの近くで構いませんが」
「三鷹でお会いしませんか。菊田さんから、森重課長が、杏雲大学病院に転院したと教えてもらいましたので、今度の土曜日に見舞いに行こうと思っているところです。見舞いが済んだ、四時に三鷹駅でいかがですか。目印にホープ製薬の名前の入った紙袋を下げて行きます」
「それは、私も好都合です。宜しくお願いします」
空木は、菊田も見舞いに来るのだろう、と思いながら電話を終えた。
時刻は午前十一時前だった。吹山との約束を取り付けた空木は、四季楽園の宿泊客の調査をどうするか考えた。
自分のような、どこの誰か分からない人間が、いきなり施設に宿泊客を教えてほしいと言って、教えるような施設は絶対にない。警察官でも、警察証を見せれば教えるだろうが、電話ではやはり教えないのではないか。しかも、事件でもないのに警察に動いてもらえる筈もない。宿泊した人間が、居たのか、居なかったのか、それだけでも教えてもらえないだろうか。聞くだけ聞いてみよう、宿泊客がいなければ、それで調査終了だ。
今の時間帯なら、山小屋は比較的忙しくはない、と空木は思い、四季楽園の電話番号をインターネットで調べて、ダイヤルキーを押した。
電話に出た声は、年配の男性の声で、山小屋の主人ではないかと思われた。空木は、姓名を名乗った後、三ツ峠山で転落事故を起こしたハイカーの友人だが、当日の朝、その友人に出合った人がいないか捜している、ついては、あの日に四季楽園に宿泊した人がいなかったか教えていただけないか、と
「うーん、宿泊した人が、居たか居ないかだけなら、まあいいずら。ちょっと待っていてくださいよ」
電話の相手は、受話器を置いて調べているようだった。空木は、その男性の言い方を聞いて、やはり名前は教えてもらえそうもないな、と感じていた。
「お待たせしました。あの事故は、確か先週の金曜日だったから、木曜の宿泊という事だね。あー、一人いたね」
「いますか。名前を教えていただく訳にはいきませんか」
空木は、頼む、教えてくれ、と祈ったが、「それは出来ないよ。お宅が、どこのどなたか、名前を名乗られただけで、どういう人かわかりもしないのに、お客さんの名前を、おいそれと教える訳にはいかないよ」と空木が予想した答えが返ってきた。
「そうですか、では、男性なのか、女性なのか、だけでも教えていただけないでしょうか」
「うーん、男だ」
空木は、山小屋の主人と思われる相手に、丁重に礼を言って電話を切った。
四季楽園に、あの事故のあった朝、一人の男が宿泊していた。どこの誰なのか、転落事故とは無関係の男だったとしても、調べておくべきだろう、と空木は思う。
ついさっき悩んだことにまた突き当たった。警察証を見せれば‥‥。そうだ、刑事である巌ちゃんに頼んで、四季楽園まで行ってもらえないか、と考えた時、さっきの山小屋の主人と思われる男の言った言葉を思い出した。「お宅が、どんな人かわからないに‥‥」と言ったことだ。もし、素性がわかる人間なら、教えてくれるかも知れない。巌ちゃんこと、石山田刑事に頼むのは、最後の手段だ。まずは、三ツ峠山荘の主人に頼んでみる方法があるのではないか。それでだめだったら巌ちゃんだ。
三ツ峠山荘の電話には、主人の息子が出た。父親は、今日は麓の河口湖町に下りているとのことだった。息子も、父親同様に、空木の素性と、事故のことについては、十分承知している。空木は、息子に父親と連絡が取れるように依頼し、連絡を待つことにした。
空木がインスタントラーメンを作り、鍋のままラーメンを食べ終わった頃にスマホが鳴った。登録されていない番号が表示され、空木は慌てて画面をスライドさせたが相変わらず手間取った。
「はい、空木です」
「ああ、三ツ峠山荘の主人です。息子から連絡があって電話しましたよ。どうしました」
山荘の主人は、空木が思ったより早く連絡してくれた。
空木は「忙しいところすみません」と詫びた後、転落した森重の状態を話し、四季楽園に念のため事故を見た人がいないかを確認しようとして、電話で宿泊客を確認してもらった。宿泊客がいなければ良かったのだが、一人いた。しかし、名前は教えてもらえなかったことを話した。
「それで、親父さんに名前を聞いてもらえないか思って、連絡したんですが、聞いてみてもらえませんか」
「そうか、助かったか。空木さん、あんたが病院まで付いて行ってくれた甲斐があったという訳だ。良かった、良かった。まあ、四季楽園の方は、親戚みたいなもんだが、教えてくれるかどうだかわからん。空木さんの頼みだから、聞いてみるだけは聞くよ。あてにせんで待ってなよ」
山荘の主人の言葉に、礼を言ってスマホを切った。
翌日、空木がトレーニングジムから戻ってしばらくして、スマホが鳴った。退職した万永製薬の同期、村西良太からだった。
「誰か思い出したか」空木は電話に出るや否や聞いた。
「おい空木、「もしもし」くらいは言ったらどやねん」村西は言い返した。
「親しいとは言えんけど、公取協(医療用医薬品製造販売業公正取引協議会の略で、消費者庁長官及び公正取引委員会の共同認定を受けた製薬業界の自主規制のための団体)で、委員会が一緒で、何回も酒を飲んだ仲間に、太陽薬品のメンバーがおった。東京支店で総務課長しとったんやけどな、これが今、合併してホープ製薬の本社の総務課長になっとるらしい。調べるのはしんどかったで」
「総務課か」空木の声のトーンは低かった。
「苦労して調べたのに「総務課か」は、ないやろ」
「あ、すまん、すまん」空木は、詫びはしたが、トーンは低いままだ。
「営業本部でないのは残念だが、一応名前は聞いておこうか」
「一応か。礼の一つも無いのやったら教えん方がええな」
「いや、申し訳ない。ありがとう村西、感謝するよ。どこかで役に立つかも知れないから、教えてくれ。頼む」
「初めからそう言え。名前は荒浜、荒浜聡だ。礼は、今度会った時の飲み代ということにしようや」
空木は、荒浜聡の名前を、手帳にメモしたものの、村西に面会のための取次ぎは依頼しなかった。
事務所の置時計のデジタルの表示が、水曜日午後二時を表示していた。空木は、水曜日の表示に、森重が東京に転院してくる日が、今日だったことを思い出した。
夕方の五時過ぎ、空木のスマホがまた鳴った。飲みの誘いかと思った空木は、スマホの表示を見て、「おっ」と小さな声を出した。三ツ峠山荘の主人だった。少しだけ期待する気持ちが、空木の心に湧いたが、期待を消し去ってスマホを取った。
「空木さん、教えてもらったよ」
山荘の主人の言葉に、空木は小さくガッツポーズをしていた。
「よく教えてもらえましたね。やっぱり親父さんの人望なのですね」
「いやいやそんなことはないが、二軒しかない山小屋で、持ちつ持たれつだからね。そんなことより、今から言うからメモを取りなよ」主人はそう言って、四季楽園の宿泊客の名前、住所、電話番号を空木に伝えた。
嶋村保博、四十歳、住所は東京都小金井市中町三丁目九番五号カーサ武蔵311号、電話番号は090から始まる携帯電話の番号だった。
「親父さん、ご苦労をお掛けしました。ありがとうございます」
「空木さん、あんたこの人を探して会うつもりみたいだけど、無駄じゃないのか」
「無駄なら無駄でいいんです。電話番号を教えてもらったので、電話で済むかもしれません。転落した彼に、見ても会ってもいないことが判ればそれで済みますから、それ程手間も掛からないと思います。とにかく助かりました。また山荘に泊まらせてもらいに行きますから、親父さんも元気でいてください」
空木は、そう言って、スマホを耳に当てたまま腰を折って頭を下げた。
これで森重の転落に対して、空木が当初から推測していたことへの調査、職場への調査に集中出来ると空木は思った。
空木は、嶋村という男に、どう切り出すか考えながら、スマホのダイヤルを押した。
何回かのコールの後、「もしもし‥‥‥」と言ったきり相手は名乗らなかった。嶋村と思われる男性の携帯に、今、表示されている番号は、登録したことのない、初めてコールされる番号なのだろう。疑いを持っての「もしもし」だったが、その声は空木には女性の声に思えた。
「突然お電話してすみません。嶋村保博さんの、携帯電話でしょうか」空木は、恐る恐る聞いた。
「いえ、違います」明らかに女性の声だった。
空木は、混乱しながらも、「失礼ですが、お住まいが東京都小金井市の嶋村保博という方をご存知ではありませんか」と続けて訊いた。
「いいえ、東京に知り合いの男性はいません」
女性の声は明らかに不機嫌で、怒っている。電話をすぐにでも切りたそうだった。
「切らないでください。貴女には本当に迷惑な事だと思いますが、貴女の携帯電話の番号が、他人に勝手に使われてしまったようです。私は、空木健介と申しますが、この番号が嶋村保博さんだろうと思って、確認のために電話したのですが、全くの別人の貴女に繋がってしまったようです。念のため、本当にすみませんが、貴女のお名前を教えていただけないでしょうか。決してご迷惑はお掛けしません」
電話の向こうの女性は、考えているようだったが、電話は切らなかった。
「山形市に在住の、大山美里です」
「申し訳ありません。大変失礼した上に、ありがとうございました」空木は、非礼を詫びた。
「片がつくどころか、面倒なことになってきた」空木は呟きながら、平寿司に行こうと、国分寺崖線の急坂を下った。
偽名か?いや、偽名と決まった訳ではないが、電話番号は虚偽だった。本名で、電話番号だけ虚偽を記載することがあるだろうか。ない訳ではないだろうが、連絡して欲しくないのだったら書かなければ済む話だ。やはり名前も偽名かも知れない。一体、どういうことなのだ。偽名だとしたら、偽名で泊まる意味は、目的は何なのだ。取り敢えずは、この住所に、該当者がいるかどうかを、確認しておかなければならないだろう、と空木が考えるうちに平寿司に着いた。
暖簾をくぐると、カウンターの一番奥に、客が一人座って居た。
「梅川さん、久し振りです」空木はそう言って、カウンター席の一番手前に座った。
梅川は、この店では年配の常連だ。興陽証券という証券会社を定年退職して五年が経つ。
「いらっしゃいませ」の女将の声がする。
しばらくして、店員の坂井良子が「お疲れ様でした」と言って、お通しとともに、ビールを運んできた。
「良子ちゃん、巌ちゃんは、最近いつ頃店に来た?」
「石山田さんですか。最近は来ていませんよ。空木さんと一緒になった時が、最後じゃないですか」
空木は、鉄火巻きと烏賊刺しを注文して、店の外に出た。煙草に火をつけて、友人で、刑事である石山田巌、通称「巌ちゃん」に電話をして平寿司に誘った。
石山田が、平寿司の暖簾をくぐって店に入ってきたのは、空木が電話をして、一時間経った頃だった。
「巌ちゃん、遅かったね」
「奥多摩署から急いで来たけど、この時間が精一杯だよ。健ちゃんは水割り何杯目だい」
「まだ二杯目だよ。巌ちゃんが来るのを待っていたから、酔っていないよ。鉄火巻きはもう食べちゃったけどね」
空木は、隣に座った石山田にビールを注いだ。石山田は、そのビールをうまそうに飲み干し「何か、相談事なのか」と空木の方を見た。
「そうなんだ。実は、依頼された仕事の関係で、調べたいことがあってね。ある人間の名前と住所が実在するのか確かめたいんだ。そのマンションが、実在するのかどうかは俺でも出来るんだが、そこの住人の確認が出来るかどうかなんだ」
「仕事が入ったのか、それは良かった。マンションが判っているのなら、そこに行って、メールポストを見るか、管理人から聞くという方法が、考えられるけど、今のマンションは、個人情報の管理にはうるさいからな。探偵さんじゃあ、限界はあるかも知れないね」そう言った後、石山田は、ビールをグイっと飲み干し、ちらし寿司を注文した。ちらし寿司のネタを酒のつまみにして飲むつもりのようだ。
「そうだよな。しかもその名前は、偽名かも知れないしな」
「偽名?一体その仕事って、何の仕事なんだ。浮気の調査か何かじゃないのか」
石山田は、今度は、空木の焼酎のボトルで水割りを作り始めた。
空木は、依頼された仕事が、三ツ峠山の事故に関する仕事であることを掻い
「電話番号が嘘だとしたら、偽名の可能性が高いと思うよ」石山田はそう言って、メモを手に取った。
「小金井市か‥‥、国分寺署の管内だな。俺の十月からの勤務署だ、国分寺署の知り合いに頼んでみるよ。所轄の交番なら、本当に住んでいるのかどうか直ぐにわかるよ」
「さすがに十月から係長に昇進する巌ちゃんだ、ありがたい、助かるよ」
「健ちゃん、礼は、平寿司の鰻重ということでいいから」
空木は、聞かなかったかのように、煙草を吸いに店の外に出て行った。
石山田から、空木に連絡が入ったのは、翌日の午後だった。
「健ちゃん、わかったけど、ちょっと厄介なことになってきたよ」
「厄介なこと?」
「嶋村保博はそのマンションにはいなかった。いなかったが、実在するみたいだ」
「え、それどういうこと」空木は、石山田の知らせに戸惑った。
「二年前までは、部屋番号は違うんだけど、住んでいたらしい」
「住んでいた。何が何だかわからなくなってきたよ。それで、今はどこに住んでいるのかは、わからないよね」
何で、実在する人間が、現住所を書かずに、以前住んでいた住所を記載するのか、そして偽りの電話番号を書く必要があるのか、理解できない。
「管理会社の退去届出書類にでも転居先が書いてあれば、わかるだろうが、記載がないと難しいぞ。管理会社に当たってもらうように依頼するけど、わかったら会いに行くつもりなのか」
「うーん。どうしたものかと思うけど。住所がわかったら会いに行くべきだろうな、と思う」
空木は、電話を終えて、ベランダに出た。空木は、考え事をする時は、必ずと言っていいほど、ベランダで煙草を吸うのが、ルーティンになっている。
今日の天気は、眺望は望めなかった。
実在する嶋村という人間が、偽りの住所と電話番号を書いたとしたら、目的は何だろう。嶋村という人間の存在を否定する必要はないが、現住所と電話番号は知られたくない。若しくは、知られたらまずい。そんな人間が、何故、三ツ峠山に登るのか。森重と繋がりのある人間だとしたら、空木が推測する限り、その目的は決して
石山田からの再度の連絡は、その日の夜だった。
「転居先が判ったよ。電話番号はわからないが、住所は今から言うぞ」石山田は言って、三鷹市下連雀六丁目のマンション名を空木に告げた。
空木は、メモを取り復唱し、石山田に礼を言った。
「健ちゃん、それからもう一つ、その嶋村という人物の届出書類での情報だけど、医者だよ。二年前と勤務先が変わっていなかったら、杏雲大学医学部附属病院みたいだ」
「ドクターなのか」
医者が、ウィークデイに二日休んで山に行くのか、空木にまた疑念が湧いた。
会わなければならない。三鷹のマンションに尋ねるか、大学病院に会いに行く方が良いのか、大学に行くにしても、嶋村という医師の診療科はどこだろう。
空木は、インターネットで杏雲大学病院を検索した。四百人以上いる医師の中で、外来を担当する医師しか、ネットではわからない。
空木は、三十以上ある診療科を丁寧に調べた。内科系にも外科系にも出てこない。諦めかけた時、なんと最後の診療科の外来担当に、名前を見つけた。救急科の外来担当表に、週に三コマを担当する医長として、嶋村保博の名前が出ていた。
ここまでわかれば、勤務先の病院への電話で、確認できそうだ。しかし、最近の大学病院は、外部者からの電話は、容易には繋いではくれない。そのことは、製薬会社のMRだった空木は承知していた。
空木は、スマホのダイヤルキーを押した。病院の代表交換は、救急科に繋いでくれたが、救急科の受付には、予想通り用件を聞かれ、身分を詳しく聞かれた。
用件については、確認したいことがある、としか言えなかった。受付は、嶋村医師に用件を伝えに行ったようだ。しばらくして受付は、「先生は、救急の患者さんで忙しく、電話には出られない」と空木に伝えた。
嶋村医師は、探偵という職業を聞いて、怪しげな電話だと思ったのかも知れないし、要件についても、細かく受付に話せる筈もないのだから、これは仕方がないと空木は諦めた。
改めて、インターネットで、杏雲大学の救急科の外来担当表を確認した空木は、明日の午前の外来終了に合わせて病院を訪問してみることにした。
朝から天気は良いものの、九月になってからも暑く残暑が厳しい。空木は三鷹駅からタクシーで杏雲大学病院に向かった。
救急科外来は、二階にあった。空木はマスクを着けて、外来の端の椅子に座って、外来の忙しさの様子を窺った。空木は、頃合いを見て、受付に名刺を出し、嶋村医師への面会を依頼した。
空木は、万永製薬時代のMRだった時の、医師との面会場面を思い出していた。あの当時は、「三分で面会は終わります」と言って、話し始めていたことを思い出す。
会ってくれるだろうか、と空木が考えていた時「空木さん」と呼ぶ声がした。がっちりした体躯で、白衣を着て、首から聴診器を下げている男性だった。
「嶋村ですが、要件は何でしょう」
名刺を手にした嶋村は、一歩、二歩と空木の方に歩を進めた。空木は、慌てて椅子から立ち上がりお辞儀をした。
「空木健介と申します。お忙しいところ申し訳ありません。五分で用件を済ませますので、お話をお聞かせください」
「‥‥。あなたは昨日、電話して来られた方ですね」
「はい」
「それで要件とは何でしょう」
「実は、先生が、今月の第一週の木曜、金曜の二日間に三ツ峠山の四季楽園という山小屋に宿泊されていないか、確認させていただきにお邪魔しました。いかがですか」
「え、何ですかそれは。山の名前も初めて聞きますし、その何とか園とかいう名前も初めて聞きました。その二日間も当然、病院にいましたし、外来もあるのに泊まれる筈がありません。第一、私は、山は全くやりませんし、救急医が、学会でもないのに、二日間も休むのは簡単ではないですよ」
嶋村の表情は憮然としていた。
「わかりました。やはり、そうですか。私の思った通りでした。これで用件は済みました。お忙しいところ、ありがとうございました」そう言って、空木は礼を言って頭を下げた。
そして腕時計を見て、五分と経っていないことを確認した。
「空木さん、ちょっと待ってください。これはどういうことなのか、話していただかないと、私の気が済まないですし、失礼ではないですか」そう言う嶋村の表情は、困惑から混乱の表情に変わっていた。
そして、自ら待合の椅子に座り、空木にも座るように促した。
空木は、どこまで話して良いか考えながら、三ツ峠山で発生した転落事故の目撃者がいないか、ある人から依頼を受けて、山頂にある山小屋の宿泊客を調べていたところ、一人だけ宿泊客がいて、その名前が先生だったこと、さらに住所は、先生が以前住まわれていた、小金井の住所だったことを説明した。
「何故‥‥‥、山に登ったことのない私の名前があったのでしょうか」
「誰かが、先生のお名前を偽名に使ったと思われます。何故、先生の名前にしたのかわかりませんが、先生の存在を認識している人間が、書いた可能性が高いのではないでしょうか」
「以前住んでいた、小金井の住所を記載しているのでしたら、きっとそうなのでしょうね。気分も悪いが、気味も悪い」
嶋村は、眉間に
「先生、つかぬ事をお聞きしますが、先生のお知り合いの方で、山登りをされる方はいらっしゃいませんか」
「‥‥いないと思います。というより、私は山に興味がありませんので、知りません、というのが正しいですね」
空木は、五分で話が終わらなかったことを詫び、改めて今日の面会の礼を言ってその場を辞した。
病院の玄関を出た空木は、立ち止まって振り返り、「森重さん頑張れよ」と呟いた。
帰りは、バスで三鷹駅に向かった空木は、車中で考えた。偽名で宿泊した人間の調査は、これ以上自分には不可能だ。この件の調査は、ここで止めて、森重の職場についての調査に集中しよう。
昨日に続いて、空木が三鷹駅に着いたのは、吹山健一と約束した午後四時五分前だった。
ホープ製薬の名前の入った、手提げの紙袋を持った男は、すでに待っていた。空木は、近づいて「吹山さんですか、空木です」と声をかけた。
吹山も、「空木さんですか。初めまして、吹山です」と頭を下げた。
二人は、駅近くのコーヒーショップに入った。
この辺りは、オフィス街のためか、土曜日の人通りは、さほど多くはなく、店も空いていた。
アイスコーヒーを乗せたプレートを持って、二人は奥の席に座り、改めて名刺の交換をした。空木の予想した通り、「探偵さんですか」の反応が、吹山から返ってきた。
「森重さんの様子は、いかがでしたか」
「課長は、やっぱり意識はまだ戻っていませんでした。でも、痩せてはいましたけど、顔色は悪くは見えませんでした。菊田さんも、森重の意識は、いつ戻っても不思議じゃないほど、良い顔色だ、と言っていました」
「菊田さんも、見舞いに来ていたのですか」
「ええ、さっき三鷹駅で別れました。菊田さんは、杏雲大学病院は東京支店勤務の時に、担当していたらしくて懐かしい、と言っていました。ああ、空木さんに宜しく、とも言っていました」
二人は、ともにアイスコーヒーに口をつけた。そして、空木は、手帳を取り出した。
「吹山さんは、森重さんが可哀そうだ、と菊田さんに話されたと聞きました。そのことについて、森重さんにどんなことがあったのか、吹山さんのご存知のことがあれば、聞かせてほしいのです」
吹山は「はい」と小さく答えて、座り直した。
「私たちの販売企画二課は、旧太陽薬品の製品の販売戦略の立案企画が業務なのですが、旧太陽薬品の製品は、注射薬が多くて、当然ながら病院の市場が売上の主力です。合併して、間もなくでしたが、森重課長が我々に、ある主力製品の販路拡大の企画を考えるように指示されて、何度か部長に案として提出していました。課長はその都度、修正を指示されて、これで最終だという時に、なんと部長から、この製品にそもそも企画が必要なのか、必要ないと言われ、没にされたんです。課長は、私たちに謝っていましたけど、部長は最初から、その企画を取り上げるつもりは無かったんじゃないかと思いました。課長は辛かったと思いますよ」
吹山は一気に話すと、腕を組んで溜息をついた。
「酷い話ですね。課全体を無駄に働かせる。新任の課長だった森重さんは、どんな思いだったんでしょうね。その部長というのは?」
「
空木は、手帳に販売企画部長、下松と書いた。
「その他にはありませんでしたか」
「私の知っているところでは、森重課長のいない時の飲み会の企画ですね。緊急事態宣言が解除された頃だったと思いますが、森重課長が、熱は無いが、体調が良くないので、休むと言って連絡してきました。ちょうど私が、その電話を取り次ぎましたから、良く覚えているのですが、部長は電話で、二週間出社するな、もし出社するのであれば、コロナ陰性の証明書を持ってくるようにと言っていました。酷いこと言うな、と思いました。そうしたら、次の日ですよ、部の飲み会をセットしろと、一課の課長に指示しているんです」
吹山は、自分の話に興奮してきたのか、顔が真っ赤になっていた。
「それで部の飲み会をやったのですか」
「やったんですよ。でも、さすがにこの時期ですから、参加者は部の人数の三分の一ぐらいで、部としての飲み会にはならなかったようですけどね」
「吹山さんは、参加されたのですか」
「いえいえ、私はありもしない理由をつけて欠席しましたよ」顔の前で手を振りながら、吹山は言った。
「吹山さんは、こうした森重課長への下松部長の行為は、何のために、何を目的にして行われた、と思いますか」
「森重課長が、旧太陽薬品出身の課長だからという
吹山はまた腕を組んで、首を
「吹山さん、もう少しお話を聞かせて欲しいのですが、森重さんのここ一、二か月の様子におかしな様子、例えば、黙り込むとか、塞ぎ込むとか、はなかったでしょうか」
「コロナ対策で、在宅勤務の日数が増えることになって、課長も含めて、課の全員が顔を会わすのは週一回ぐらいなのです。ですから、課長の様子と言われても何とも言えません。空木さんは、課長の事故は「鬱状態」から起こったと、考えていますよね。だから調べているんですよね。私も、課長は部長からハラスメントを受けていたと思っています」
吹山の話を聞き、吹山たち課員から見て、課長に変化があったかどうかわからないとすれば、課長からも、部下の心の変化は、わからないということだろう。在宅勤務、テレワークが普及していく中で、果たして管理職の職務が全う出来るのだろうか、と空木は感じていた。
「販売企画一課は、旧ホープ製薬の方たちばかりのようですが、吹山さんのように話を聞ける方はいませんか」
空木は、氷が溶けて薄くなったアイスコーヒーを、二口、三口と飲んだ。
「わかりません。イエスマンばかりではありませんし、いい人達だとも思います。私たちとも普通に話しています。とは言え、課長、部長に話が筒抜けにならないとは言えないでしょう。それでは空木さんもまずいでしょう」
「はい、その通りです。最後に、販売企画一課の課長のお名前を教えていただけませんか」空木は、腕時計に目を移しながら聞いた。
「販売企画一課の課長は、国崎英雄と言います」
時刻は、五時半を回っていた。二人はコーヒーショップを出て、三鷹駅に歩いた。
「吹山さん、今日は参考になる話が聞けました。ありがとうございました」
空木は礼を言って頭を下げた。
「私たちは、森重課長が早く元気になってくれることを、祈ることしか出来ませんが、私で役に立つことが出てきたら、また連絡して下さい」吹山は、そう言って頭を下げ、中央線の上りホームへの階段を下りて行った。
事務所兼自宅に戻った空木は、やはり、ホープ製薬の販売企画一課の課員の誰かから、話を聞きたい、聞くことは出来ないか考えていた。ダメ元でいいと、空木はスマホのダイヤルキーを押した。
空木が、ダイヤルキーを押した相手は、
空木が、名古屋支店に在職中の後輩として、
土手は、山以外にもマラソン、トライアスロン、ヨットとハードなアウトドアスポーツを趣味としているため、同業者との付き合いが非常に広かった。今は、北海道支店に転勤して、単身赴任で所長として勤務している。空木は、この土手登志男の付き合いの広さに期待していた。
五、六回のコールの後、「もしもし土手です。お久し振りです」の声が返ってきた。
空木は、「久し振りだな、突然の電話で申し訳ないが、他社のMRとの付き合いが広い土手を見込んで、頼みがある」と前置きして、空木が依頼された仕事のあらましを話し、ホープ製薬の営業本部に伝手は無いか、知り合いはいないかを聞きたいと伝えた。
「ホープ製薬ですか。太陽薬品と合併したホープ製薬ですよね」
「そうなんだけど、出来たら、旧ホープ製薬の人の話を聞きたいのだが、さすがの土手も、そんな都合の良い知り合いはいないだろうな」
「旧ホープ製薬で、今の職場が営業本部ということですか。それはちょっと無理です。そういう知り合いはいませんけど、名古屋支店の時、マラソンを何回か一緒に走った旧ホープ製薬のMRで、親しかった男がいますから、空木さんに紹介できるかどうかは別にして、聞くだけ聞いてみます」
土手との電話を終えた空木は、土手の人脈への期待が薄い中、これ以上の森重の職場環境に関する聞き取りをするとしたら、今日、話を聞かせてくれた吹山に、販売企画部の適当な人を紹介してもらうしかないと思った。しかし、それで空木が期待する話を、聞かせてもらえるのか不安だった。結果として、森重の父の勇作への報告は、吹山の話だけになってしまう可能性が高くなると思った。
夜の九時を回った頃、土手から連絡が入った。
「空木さん、微妙なんです。ホープ製薬の営業本部に勤務する人に、偶然にも繋がったのですが、私が紹介出来る人ではないので、どうしたものかと‥‥」
偶然にも繋がったが、土手の直接の知り合いではない。その人と会って、話を聞く価値があるのか、いや、そもそも探偵の自分に会ってくれるかどうかもわからない。
「営業本部の、どこの部署に所属している人かわかるか」空木は、どうしたものかと迷いながら、念のため部署だけは聞いておこうと聞いた。
「販売企画部、とか言っていましたよ」
「え、販売企画部なのか」
空木は、予想しなかった部署の名前を聞いて、動揺した、というより色めき立った。そして即座に、会わずに後悔するより、会って後悔する方を選ぶことを決めた。
「その人に会うことは出来そうなのか」
「その人というのは、私の知り合いだと言った、旧ホープ製薬のMRの奥さんなんです。奥さんも優秀なMRだったのですが、二人は名古屋で職場結婚して、旦那の転勤で一緒に東京に来て、旦那はMR、奥さんは営業本部の販売企画部に、ということだったようです。そういう事なので、その旦那から奥さんに聞いてもらうことになるので、会ってもらえるかどうかは、全くわかりません。頼んでみますか」
「頼んで欲しいが、会ってもらう理由をどうするかなんだ‥‥」
「脱MR探偵が話を聞きたい、では会う気持ちにはなりませんね」土手はそう言って笑った。
「嘘をついて、後々、迷惑を掛けるのはまずい。ある程度、正直に言わなければならないと思う。‥‥販売企画二課の森重課長の知り合いが、貴女の上司の話を聞きたい、と言っている、と伝えてくれないか。それで会わないということなら、諦める」
「わかりました。すぐに連絡してみます。今日は、土曜日ですから、二人とも家にいるでしょう」
一旦電話を切った土手から、再び電話が入ったのは、二十分程してからだった。
「空木さん、会ってくれるそうですよ」
「そうか、会ってくれるのか、ありがたい」
「今から、その知り合いの奥さんの携帯電話の番号を言いますから、メモしてください」土手はそう言って、山路貴子という女性の連絡先を空木に伝えた。
「空木さんの名前は伝えてありますから、連絡を取ってください」
土手の言葉に、空木は礼を言ってスマホを切ると、すぐに山路貴子の携帯に「空木と申します。明朝九時にお電話させていただいて宜しいですか」というメールを送信した。
即座に「了解しました」の返信が届いた。山路貴子の反応は早かった。
翌日、朝九時ちょうどに、空木はダイヤルキーを押した。コール音が鳴るや否や、「はい、山路です」という女性の声が返ってきた。
「私、ご主人の友人の土手さんから紹介を受けた、
「それで早速ですが、いつお会いしていただけるでしょうか」
「空木さんがお聞きになりたい話ですと、会社の近くではない方が、お互いに良いと思いますし、仕事が終わってからでは、かなり遅くなりそうです。幸いに今は、週に二日は在宅勤務ですから、今度の水曜日の午後に、私のマンションの近くの喫茶店でお会いするのはいかがでしょう」
「お気遣いありがとうございます。私は、それで全く構いません。その喫茶店はどこの何というお店でしょう」
空木はメモを用意した。
「空木さんは、どちらにお住まいか存じませんが、京王線の国領駅はご存知ですか」
「住まいは国分寺ですが、国領駅は昔何度か近くを通ったことがある程度ですが、わかります」
「良かったです。それでは、水曜日の午後三時に国領駅南口で待ち合わせましょう。良いですか」
「わかりました。了解です。山路さんにはお忙しい中、感謝します」空木は丁重に礼を言った。
電話を終えた空木は、灰皿を持ってベランダへ出て、西の山並みを眺めた。
今日の富士山は、薄いレースを通して見ているような、ぼんやりとした姿で見えていた。もうすぐ、初雪が報じられるのだろうと思いながら、山路貴子という女性について考えていた。
彼女は、どういう理由で自分と会う気になったのだろうか。森重の知り合いと言っている男が、自分の上司の話を聞きたいと、突然言ってきて、それに応じてくれる。この意味は、どう理解すべきなのか。会って、空木が探偵であることを知ったら、どう対応してくるのか。話す内容を選ぶだろう。さらに、空木の存在と、何かを調べようとしていることを上司に伝えるのではないだろうか。
空木は、今いろいろ考えても仕方がない、山路貴子という女性と話してから考えれば良いと腹を決めた。
空木は、調査の依頼主である森重の父、勇作への取り敢えずの報告をしておこうと、スマホのダイヤルキーを押した。
「空木です。昨日、菊田さんから紹介していただいた吹山さんと言う方のお話を聞いてきました。最終報告は、文書でお渡ししますが、今日は取り敢えず電話で報告しておきます」
空木は、吹山から聞いた話を勇作に話した。
森重が課員とともに企画した販路拡大策が、上司である下松という部長に没とされた件。そして、森重が出社できない間に、部長から出された飲み会企画の指示の件を伝えた。
「裕之は、その部長に随分陰険な事をされたのですね。しかし、その部長は、何のためにそんなことをしたのですかね。ただ単に、裕之が、旧太陽薬品の若い課長で憎いからですか。私から言うのも何ですが、この程度の仕打ちで死を選ぶ息子とは思えませんが」
勇作は、空木の報告を聞いても冷静だった。
「はい、私も同感です。下松という部長の森重さんへの行為は、モラルハラスメントとパワハラを併せたハラスメントで、許されるものではありませんが、仮に会社に訴えても、社内懲罰は重くはないと思います。部長の狙いをもう少し調べてみたいと思っています。それで、近いうちにもう一人に話を聞くことになっていますから、またご報告させていただきます」
「ご苦労お掛けしますが、宜しくお願いします。それから、今日、裕之の嫁の由美子さんから連絡があって、ホープ製薬の国崎という方が、裕之の見舞いに来ると言っていました。私も、病院で挨拶だけでもしようと思っていますので、空木さんにお報せしておきます」
空木は、国崎と聞いて、メモ用の手帳を開いて確認した。
「森重さん、その国崎という方は、恐らく裕之さんと同じ部の課長だと思います。私も会ったことは勿論ないので、森重さんの目で、どんな人物なのか見ておいてください。ただ、私たちが、息子さんの転落事故に疑問を持っているということは、悟られないようにお願いします」
「はい、それは十分承知していますから安心してください。その方の印象は、必ず連絡します」
空木のスマホに、勇作から連絡が入ったのは、その日の午後三時半頃だった。
「森重です。さっき国崎さんが帰られたところです。空木さんの言われた通り、販売企画第一課の課長さんでした」
「やはりそうですか。それで森重さんから見た、国崎という人の印象はどうでしたか」
「そうですね。真面目だと思いますが、上からの指示には絶対従う人だという印象を持ちました」
「それはどのあたりでそう感じたのですか」
「今日見舞いに来たのは、部長から、自分は忙しくて行けないから、代わりに見舞いに行ってくれと言われて来た、と言うんです。普通はそんな言い方はしないのではないか、と思いました。部長の指示がなければ来るつもりはなかったということでしょう。それと口が軽いというか、余分な話をする印象もありました」
「‥‥そうなんですか」
「裕之の山での転落事故の話から始まって、自分も山登りが趣味で、百名山のうちいくつ登ったとか、あそこの山にはまた登りたいとか、私も山登りは好きなので話を聞くのは良いのですが、一人で長い時間話していました。あの方は、自慢話がお好きなようですね」
「国崎さんという方も、山登りが趣味なのですか。三ツ峠山の話はされたのですか」
「いえ、国崎さんは三ツ峠山には登ったことはないと言っていました。住まいが、私たちと同じ、国分寺だそうで、奥多摩の山にはよく登っていると言っていましたよ」
「国分寺に住んでいるとは、また奇遇ですね。ところで、息子さんの容態に変わりはありませんか」
「幸か不幸かわかりませんが、まだ意識は戻らずですが、変わりはないです」
空木は、勇作に連絡をしてくれた礼を言って電話を終えた。
前日からの雨は、午前中に上がった。
空木が、京王線国領駅の南口改札を出たのは、約束の午後三時の五分前だった。人通りは北口の方が多いようだった。
改札口には、山路貴子と思われる、ベージュ色の七分丈のパンツをはき、淡いピンク色のシャツを着た長身の女性が立っていた。
その長身の女性以外には、人待ち風の女性はいなかった。
空木は、軽く会釈しながら、その女性に近づいた。
「山路さんでしょうか」
「はい、山路です。空木さんですか」
「空木健介と申します。今日は、お仕事中に時間を割いていただきありがとうございます」
簡単に挨拶を交わした二人は、山路貴子の案内で喫茶店へ向かって歩いた。歩きながら、空木は、何時になく緊張していることを意識した。
「山路さんは、万永製薬の土手を名古屋にいる時にご存知だったんですか」空木は、緊張をほんの少し和らげようと話しかけた。
「土手さんは、主人と親しかったんです。私も、
「実は、私も万永製薬でMRだったんですよ。その万永製薬の名古屋支店に十五年前に赴任した時からの付き合いで、山友達です」
「へー、空木さん、万永製薬でMRされていたんですか。それじゃあ、私たちの先輩ということですね。それで今は何をされているのですか」
山路夫妻には、自分が探偵であることは、伝わっていない。土手は、意識してか、自分の職業を知らせなかったのだ、と空木は思った。
「あ、着きました。ここです、この喫茶店です。小さいお店ですけど、静かで雰囲気の良いお店ですよ」貴子はそう言って店に入り、予約していたのか、予約席と書かれた札が置かれた、奥のテーブルに進んで行った。
テーブルに着いた二人は、改めて名刺の交換をした。「スカイツリー
貴子は、名刺を見て「うわ、探偵事務所の所長さんですか。MRを辞めて探偵をされているんですか」
「所長と言っても、私一人しかいない事務所です」
貴子は、空木の探偵の名刺を見ても、その表情には目に見える変化はなかった。貴子は、まだ空木の名刺を手に取ったまま見つめていた。
「‥‥探偵さんが、森重課長の知り合いで、上司の事を聞きたいというのは、どういうことでしょうか。上司というのは課長、部長のどちらなのでしょうか」
空木には、貴子の表情が、僅かに
空木は、どこまで貴子に話すべきか迷った。貴子の上司である国崎と、部長の下松には、今日の話が伝わることは覚悟しなければならないし、既に話を聞かせてもらった吹山に、間違っても迷惑は掛けられない。空木は、しばらく考えたが、話すことに覚悟を決めた。
空木は、森重と三ツ峠山で知り合い、そこで転落した森重に付き添って、山梨の病院まで行ったこと、そして森重の家族から、転落は本当に不慮の事故だったのか、調べて欲しいという依頼を受けたことを話した。
「ご家族が、事故だったかどうかの依頼を、空木さんにしたということは、誰かに突き落とされた、とかですか」
「いえそうではなくて、「鬱病」が原因で、自ら転落、つまり自殺しようとしたのではないか、と疑っているのです。そのために、職場がどういう環境だったのか、話を聞ける方を探していました。そして、今日、山路貴子さん、貴女とこうして面会させていただいている訳です。しかし、山路さんも会社での立場もおありでしょうから、話したくないこと、話しにくいことはお話しいただかなくても結構ですし、上司の方お二人に今日のことをお話ししていただいても構いません。ただ、ご家族の思いを少しでも感じ取っていただけたら、貴女の知っている、森重さんと上司のお二人に関することをお話しください」空木は、そう言って貴子を見つめた。
貴子は、眉間に皺を寄せて窓外に目をやった。
「‥‥ご家族は、森重課長の転落が、職場が原因だとしたら、どうされるおつもりなのでしょう」
「どうされるつもりなのかは、現時点ではわかりません。ただご家族は、森重さんの心の変調に気づけなかったことを、悔やんでいます。自分たちで責任を背負うために調べてほしい、と思っているように私には見えます」
空木はコーヒーを、貴子はミルクティーを口に運んだ。しばらくして、山路貴子はゆっくり話し始めた。
「森重課長は、空木さんもご承知の通り、旧太陽薬品の出身で、若手の課長としてエリートと見られています。それが部長には面白くないのか、若さが
「山路さんがそう言われるのには、その行為なり、場面なり、話なりを見たり聞いたりした、ということなのですか」
空木は、山路貴子が話す決心をしてくれたことに感謝するとともに、この女性の持つ人間性、正義感に触れたように思えた。
「子供のようないじめは、何回か見ました。私たちの上司は、国崎という課長なのですが、部長は国崎課長を使って、森重課長に会議室や時間を間違った時間、部屋を教えるんですよ。森重課長は、その度に「国崎課長しっかりして下さいよ」と言って、気にしていない素振りをしていました。内心どうだったのかわかりませんが、常識的には、いい気分の筈がありませんよね」
「森重課長は辛抱強い人なのですね」
「その辛抱強い森重課長が、すごく抵抗した会議もありました」
「会議ですか」
「はい、販売企画部の来期のための製品戦略会議でしたが、二課は全員ではなく、森重課長とその日が出社日になっている人たちだけでした。それも考えたらおかしいですよね。一課の私たちには、全員出席と言っていたのに、二課にはそうは言っていなかったみたいですから、森重課長はそれもあって抵抗したんだと思います」
「森重さんは、何にそんなに抵抗されたのですか」
「重点戦略製品の品目数を、今までの十品目から七品目に減らす会議だったんです。十品目というのは、旧太陽薬品の製品、旧ホープ製薬の製品、それぞれ売上上位の五品目ずつを取り上げて、重点品として扱っています。それを来期から七品目に絞り込む会議でした。普通なら、旧太陽薬品の製品の方が、売り上げが多いので、四品目は選ばれる筈なのですが、逆に旧ホープ製薬の製品が五品目も選ばれることになったんです。森重課長の抵抗は当然ですが、凄かったですよ。「全国のMRが納得しない」「営業推進部の理解が得られない」と言って、顔を真っ赤にして頑張っていましたから、一課の私たちは見ていて辛かったです。だって重点品が二品目しかない二課は存在価値が問われますよね、それは私たち一課も望まないことですよ」
「森重さんが頑張った結果はどうだったのですか」
「ダメでした。部長の案の通り、旧ホープ製薬の製品が五品目、旧太陽薬品の製品が二品目になりました」
この出来事は、吹山からは聞かされなかった。吹山は恐らく、在宅勤務の日で、この会議には出ていなかったのだろうと空木は思った。
山路貴子が話してくれた、この会議の結果は、森重の心に大きなダメージを与えたかも知れないと思い、空木は手帳に詳細にメモをした。
空木が、冷めたコーヒーを口に運んだ時、貴子がまた口を開いた。
「それから、これは私が、たまたま聞いてしまったのですが、部長と森重課長との評価面談での会話なんです」
「評価面談?」
「はい、半年毎の成績評価のための面談と、その途中で一回面談するのですが、私が聞いてしまったのは、七月の期中面談の会話です。森重課長は、部長から「MRに戻るのなら、いつでも戻すよ。君はMRとしては優秀だったようだからね」って言われていました。私は、聞いてはいけない話を聞いてしまったと思って、忍び足で隣の面談室から出て行きました」
部下を育てようとしない、上司のこういう言葉は、空木は大嫌いであり、体に
「その面談の話はそれだけですか」空木はそう言って、手帳にメモを取った。
「私もたまたま、隣の面談室の片付けに入っただけで、そこでじっと聞き耳を立てて聞くなんて、出来ません。聞いたのはそれだけですが、酷いなと思いましたから覚えているんです」
貴子は、部長に決して好感はもっていない。それどころか、ここまでの話をしてくれたこと、その言葉に含まれる気持ちを思えば、嫌悪とまでは言わないが、嫌いな人間なのではないかと思った。
「もうこれ以上、私がお話し出来ることはありません」貴子は、そう言って店の壁に掛かっている時計に目をやった。
「山路さん、すみませんが、もう少しお話を聞かせて下さい。部長のポスト争いのような話は聞いていませんか」
「私は、そういうことに興味がありませんのでわかりませんが、営業推進部の部長とは仲が悪い、というような話は聞いたことがあります。実際はどうなのかは知りません」
「営業推進部長ですか。その部長のお名前を教えていただけませんか」空木は手帳を手に取った。
「
貴子に指摘された空木は、慌てた。すでに部長と課長の名前は吹山から聞いていたため、貴子から聞くべきこととして頭から抜けていた。今ここで「知っています」とは言えない。
「あ、そうです。部長のお名前と、それと山路さんの上司の課長のお名前も教えてください」
顔を赤らめている空木を見て、貴子は「空木さん、課長の名前はさっき言いましたよ、大丈夫ですか」と笑って言って、それぞれの名前は、下松部長と国崎課長だと教えた。
「国崎課長と森重課長の関係はどうなのでしょう。ポスト争いとかで、良くないのでしょうか」
「どうでしょう。良いとは思えませんが、国崎課長は、太陽薬品の株で、昔、儲けさせてもらった、と言っていて、太陽薬品には悪い印象は持っていないように思えましたけど、ポスト争いというのはどうなのでしょう。二つの課を一つにするとしたら、この十月ではないと思います。それに、いずれ一つの課になる時は、部そのものがなくなるんじゃないですか」
「え、部がなくなるんですか」
「私にはよくわかりませんが、課の人たちが言っているんです。課が一つだけでは部としては成立しないって。販売企画部か営業推進部のどちらかに統合されるだろうって言っています。でも、本当にそうなるのかは、私たちのような下々の人間にはわかりませんけど」
「そういうことですか。そうなる可能性もあるということですね。そうしたら、山路さんは、課長二人の関係からしても、お二人がプライベートで話をしているところを見たり、聞いたりしたことはありませんね」
貴子は、しばらく首を傾げて考えていたが、「あ、そう言えば」と言って何かを思い出したようだった。
「一度だけ、二人が山登りの話をしているのを、見たことがあります。盛り上がって楽しそうでした」
空木は、森重の父、勇作から聞いていた、国崎の山登りの趣味の話からも納得した。
貴子は、再び壁の時計を見た。時刻は四時を回っていた。
「空木さんすみません。私、四時半から課長と業務報告ミーティングの予定で、その準備もあって、家に戻らなければいけませんので、そろそろ失礼させていただきます」
空木は、腕時計に目をやった。
「あ、それは失礼しました。長い時間お話を聞かせていただいてありがとうございました。ご自宅は、このお近く何ですか」
「この建物の上なんです。このマンションの五階なんです」
喫茶店を出たところで空木は、山路貴子に感謝の思いを込めて深々と頭をさげた。
山路貴子と別れた空木は、国領駅に向かって歩きながら、先日の吹山から聞いた話と、今日の山路貴子の話から、森重の心理状態を、
合併を機に、抜擢で若き管理職になった森重と大森だが、森重は本社の営業本部の課長として、MRの延長線上での営業所長の立場の大森とは、違う重圧があったのかも知れない。森重が勝手に背負った重圧だが、森重は販売企画二課の課員のため、被吸収会社である旧太陽薬品のMRのため、そしてほんの少しは、自分を抜擢してくれた人たちへの期待に応えるため。それらの重圧と戦っていたのではないだろうか。
空木は、四年前の万(まん)永(えい)製薬北海道支店での、支店長とのやり取りを思い出した。
「空木君を、所長に抜擢したいが、条件として、上司の方針、指示にむやみに疑問を言うのは止めなさい。MRの代表でいるつもりなら所長には出来ない」
支店長のその言葉を、空木は黙って聞いていた。自分の信念も言わず、黙って聞いていた自分が情けなくなった。それが、万永製薬を、会社組織を辞めるきっかけとなった。家族を背負う責任も無かったこともあっただろう。結果、組織から逃げ出した。
退職届を提出した後、同期の村西良太から「そんな上司のいる会社を変えていくのが、俺らの年代の役目と違うんか。このまま辞めたらお前はただの逃亡者や」と言われた。その言葉を、空木は今も忘れることはなかった。
森重が、最も苦しんだのは戦略会議の決定だったかも知れない。
そう考えた空木の前に、京王線の電車が入ってきた。
国立駅に下りた空木は、平寿司の暖簾をくぐった。先客には、小谷原がカウンター席に座っていた。
主人の「いらっしゃい」の声に迎えられて、カウンター席に座った空木は、小谷原に「久し振りです」と声をかけた。
「いらっしゃいませ」と言いながら、女将がビールとお通しを運んできた。
「今日は、良子ちゃんはお休みなんですか」
「あら、若い良子ちゃんじゃなくてごめんなさいね。良子ちゃんは、今日はお友達と会うのでお休みです。残念でした。あ、でも女の友達らしいから安心してちょうだい。空木さん」
「いやいや、ただ、いないのかなと思って聞いただけですから‥‥」
空木は慌てて弁解したが、自分でも何か滑稽に思えて笑えた。
「小谷原さんは、多摩営業所の所長ですよね」空木は、ビールをグラスに注いで、小谷原に話しかけた。
「ええ、そうですよ。今年の四月からですから、まだ新米の所長ですけどね」
小谷原は、何を突然聞くのかという顔だった。
「所長になって、辛いことってありましたか」
「たった半年ですけど、ありますよ」
「それはどんなことでした」
「上司と部下の板挟みですよ。支店長の方針通りにやろうとすれば、部下のヤル気、つまり士気が下がる。部下の思い通りにさせてやろうとしたら、支店のルールを逸脱してしまう、というところです。部下は勿論だけど、支店長との意思疎通も良くしておかないといけない。これは下手をすると、部下を含めた周囲からゴマすり、茶坊主と思われてしまう。どちらかと言えば、部下思いが過ぎる所長だと言われた方がまだ良いですよ」
空木は、小谷原の話がスッと腑に落ちた。
翌日空木は、事務所でパソコンの前に座り、森重勇作の調査依頼に対する調査報告書を作成していた。
まず一通は、「吹山健一氏との面会報告」と題して、すでに勇作には電話で話したことを、改めて文書にした。
次に、「山路貴子女史との面会報告」と題して、彼女の現所属から始まり、昨日の面会場所、面会時間、そして子供じみた森重へのイジメから、戦略会議の出来事、下松部長との期中の評価面談の会話の一部までを詳細に記載した。
そして、最後に「参考」として、空木の所感を書いた。それは、戦略会議での出来事、つまり、品目の選定結果についての責任感と無力感が、森重裕之の心理に大きなダメージを与えたと考える、というものだった。
プリントアウトされた文書を読み返した空木は、この所感が必要なのか改めて考えた。第三者の調査として、客観的な事柄を報告すれば、それで探偵の役割は終わるのだと思ったが、第三者だからこその所感も、客観的な意見として必要だと思うようにした。
空木は森重勇作に連絡を入れた。勇作は国分寺の自宅に居た。
「空木さん、ありがとうございます。調査報告書は事務所に取りに伺います。空木さんのご都合さえ良かったら、今日の夕方にいただきに伺いますが、宜しいでしょうか」
空木は、勇作がまたこの事務所兼自宅に来るのか、また掃除と片付けをするのは面倒だなと思いながら、断れずに承知した。
空木の部屋のインターホンが鳴ったのは、午後四時少し前だった。空木は勇作を、二週間ぶりに片付けた事務所に通し、二週間前と同様に、紙コップに入れたインスタントコーヒーを出して迎えた。
「息子さんの容態はいかがですか」
時候の挨拶のように言ってしまった自分の言葉に、空木は少し後ろめたさを感じた。
「意識はまだ戻らないのですが、最近、手足がピクっと動く瞬間があったようで、家族みんなで、体や手足を揉んだり
空木は、勇作の話に、改めて、時候の挨拶のように容態を聞いてしまった自分が恥ずかしく思えた。
「早く、意識が戻ると良いですね。私も近いうちにお見舞いに行きます」
空木は、そう言って勇作の前に、調査報告書の入った封筒を置いた。
勇作は、封筒を手に取って「ありがとうございます。ご苦労様でした。早速拝見させていただきます」と言って報告書を取り出し、読み始めた。
空木は、勇作が報告書を読んでいる間、ベランダに出て、煙草を吸いながらある事を考えていた。
あの転落事故が起こった日に、三ツ峠山のもう一軒の山小屋に、偽名で宿泊していた人間がいたことを話すべきかを考えていた。
森重のホープ製薬での出来事が、ある程度見えてきた段階で、空木はやはり、もう一人の登山者の存在が気になっていた。森重が登る山に、医師の名前を使って、同じ日に、同じ山にいた。これは、森重に関係のある人物が、森重に対して、何らかの目的を持っていたことを意味しているのではないだろうか。そうだとしたら、このままにしておいていいのだろうか。
西の空を見つめていた空木の耳に、「空木さん」と呼ぶ声が聞こえた。勇作が報告書を読み終えたようだった。
ベランダから事務所に戻った空木の前に、勇作が報告書を見つめて唇を噛みしめていた。
「裕之は、苦しかったでしょうね。悔しかったでしょうね。こんな事が起こっていたとは‥‥‥。この部長は酷い人間だと思いますが、苦しいサインを出していた息子に、気付けなかった父親として情けない思いです。空木さん、この部長はどうしているのでしょう。何とも思っていないのでしょうか」
「‥‥わかりません」
「この部長に直接会ってはいけませんか」
勇作の目は充血し、その言葉にも怒りが滲み出ているのを空木は感じた。
「会ってどうされますか」
「‥‥‥‥」
「ハラスメントで訴える方法もありますが、この部長は巧妙な手口で、自分は前には出ていませんし、戦略会議での決定事項も、ハラスメントとは言えませんし、会社の懲罰に係るとは思えません」
「殺したいです‥‥」
「森重さん、馬鹿なことは考えないでください。そんなことは、息子さんは絶対に望んでいませんよ。これだけ辛抱してきた息子さんが、そんな事をして喜ぶとでも思っているのですか。父親を犯罪者にして喜ぶ子供なんていませんよ」
「しかし‥‥せめて裕之の前で、土下座をさせて謝らせたい」そう言う勇作の体は、小刻みに震えていた。
「森重さんの気持ちは、痛いほどわかります。時期を見て、私と二人でこの下松という部長に会いましょう。部下である息子さんの見舞いに、直接来ないということは、この部長も何らかの思いを持っているかも知れません」
「時期を見てですか。直ぐに会うわけにはいきませんか、空木さん」
勇作の
空木は、しばらく考えて、「実は、森重さんにはお話ししていなかった事があります。息子さんの転落事故に関係しているかどうかは、わからないのですが、調べたいことがあります」と切り出して、森重が転落事故を起こした前日から当日にかけて、三ツ峠山のもう一軒の山小屋の四季楽園に、偽名で宿泊していた人間がいたことを話した。
「偽名で宿泊‥‥。その人間が、裕之の転落に関係しているかも知れない、ということですか」
勇作は驚いたようだった。
「いえ、それは全くわかりません。それを調べたいということです。この事は、森重さんの胸にしまっておいてください」
勇作は、黙って頷いて、報告書を封筒に戻し、バッグにしまった。
「空木さん、この後の予定が、空いているようでしたら、どうですか一杯やりませんか。調査料は調査料としてお支払いしますが、調査していただいたお礼と、ここまでの区切りとして私がご馳走したいんです」勇作は椅子から立ち上がって言った。
「本当に良いんですか、では、お言葉に甘えさせていただきます」空木はニコッと笑って返した。
二人は、夕日に染まり始めた国分寺崖線の道を、空木の馴染みの平寿司へ歩いた。
カウンターに並んで座った空木と勇作は、ビールでグラスを合わせ、ビールから焼酎の水割り、そして冷酒へと進めた。勇作の奢りだからなのだろう。空木は、鮪の赤身と中トロの刺身を注文した。
女将が、「今日はどうしたの。いつもの烏賊刺しじゃないのね」というと、店員の坂井良子も「あ、本当だ、珍しいですね」と合わせた。
「貧乏探偵さんが、贅沢しちゃダメよ」と女将がさらに突っ込む。
「‥‥‥」
「あ、もしかしたら、今日は、こちらのお客さんのご
女将の一人舞台に、空木は言葉が出なかった。
「楽しいお店ですね」勇作は笑いながら言った。
「ええ、それもあって、この店にはよく来るんです」
「ところで空木さん、二週間で私の依頼した調査だけではなくて、もう一人の登山者がいたことまで調べたんですね。驚きました。どうやって調べたんですか」
「それは、言えませんが、人と人の繋がりとでも言ったらいいか、と思います。私一人では、やれることはたかが知れています。周りの協力で調べることが出来たのですが、これから調べようとしていることは、今までのようにはいかないと思います」
「空木さんなら大丈夫ですよ」
「偽名で宿泊することは、尋常ではないだけに、偽名を使った人間は、知られたくない筈です。そう考えただけでも、容易には判明しない筈です」
「そうかも知れませんね。
「ありがとうございます。あの部長に会う時が来たらご連絡します」
「連絡をお待ちしています。ところで空木さん、もう一つお聞きしたいのですが。何故、独身なのですか」
勇作は酔いが回ってきたらしかった。
「あ、いや、それは単に縁が無かっただけですから‥‥特に理由があるわけではありません」
空木は酔いが醒めた。店の主人も女将も店員も、笑いを我慢しているようだった。
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