第2話 悔恨
森重裕之は、危険な状態から脱したものの、入院から一週間経過しても、まだ意識は戻らないまま、ICUから個室へ移されていた。付き添いは、妻の由美子と、父の勇作が交代で看ていた。杉並の家の子供たちの世話は、仙台から由美子の母が来て、みてくれていた。今日、木曜日は、由美子が杉並の家に戻るため、勇作が病院に来ていた。
勇作は、この一週間、頭からずっと離れないでいることがあった。それは、息子の裕之が、自分に出していた心の悩みのサインに気づいてやれなかったことだ。気づくどころか、心の悩みには禁句とされている「頑張れ」を息子に言ってしまった。自分は、会社人間として、定年まで勤めあげたが、仕事第一で子供のことは、全て妻任せ、父として子らに何かしたという記憶はない。自分に記憶がないということは、子供たちにも、父が何かをしてくれたという記憶はないだろう。その子供が、勇気を出して、親父に飲もうと言ってきたのに、その意味を探ろうともしなかった自分が、恥ずかしく、そして情けなかった。
「由美子さん、私は、裕之は会社で何か悩み事があったのではないかと、思い始めました」
「それは、お
「それは分かりませんが‥‥。ただ、私なりに、裕之に何が起こっていたのか調べてみようと思います。調べるといってもその
勇作もベッドに横たわっている息子を見つめた。
「お義父さん、私も裕之さんには、何かが起こっていたのではないかと考えていました。裕之さんのお友達の、菊田さんと大森さんにもお電話で、転落したことをお知らせした時に、主人が仕事で悩んでいたような事はなかったか、お聞きしてみました。でも、お義父さん、調べることなんか出来るのでしょうか」
由美子は、不安そうな目を勇作に向けた。
「そうですね。興信所とかに、調査を依頼するやり方もあるかも知れませんが、素人の私が、調べるとなると、簡単なことではないでしょうね。どうするか考えなくてはいけませんが、まずは、裕之のその二人の友達から、話を聞かせてもらうことから始めるしかなさそうですね」勇作は眉間にしわを寄せて言った。
勇作の話を聞いていた由美子が、「あっ」と小さく声を出した。
「お義父さん、良い人がいます」
「良い人?」
「空木さんの探偵事務所に頼んでみたらどうでしょう。一人でやっている小さな事務所だそうですけど、知らない人に頼むより良いんじゃないでしょうか」
「空木さんというのは、裕之の付き添いをしてくれて、病院まで来てくれた人ですか。その方は、探偵なのですか」勇作は、きょとんした面持ちで言った。
「はい、お義父さんには、空木さんの名前しか、お話ししていなかったのですが、名刺をいただいています。裕之さんの意識が戻ったら、連絡しようと思って、持っています」
由美子はそう言うと、カバンのサイドポケットから一枚の名刺を取り出して、勇作に渡した。
「スカイツリー
勇作は、名刺に書かれている名前を、声を出して読んだ。
その日の夜、空木の携帯が鳴った。登録されていない番号が表示されていた。スマホの画面を、指で二度三度とスライドさせた。空木は、スマホの電話の出方が下手だ。
「空木です」あわてて言った。
「突然のお電話で申し訳ありません。森重と申します」
森重と聞いて、空木は「あっ」と声を出した。
「三ツ峠山で空木さんにお世話になった、森重裕之の父の森重勇作と申します。その節は、空木さんには、大変お世話になりながら、お礼をお伝え出来ずに申し訳ありませんでした」
空木には、その声が低く、そして声を押えて話しているように思えた。近くに誰かがいるのだろうかと推測した。
「ご丁寧にありがとうございます。それで、息子さんの容態はいかがですか」
勇作は、森重はICUから出て、個室に移ったが、意識が戻っていないことを説明し、森重を東京の病院へ移す、相談をしていることも話した。勇作は話をさらに続けた。
「実は、空木さんに直接お会いして、お願いしたいことがあります」
「私にですか、なんでしょう」
「探偵の空木さんに、仕事の依頼をしたいのですが、お会いしていただけますか」
「‥‥仕事ですか。わかりました」
空木は、少し戸惑いながらも了解し、明後日に、国分寺光町の空木の事務所で会うことになった。
二日後の午後、空木の部屋のインターホンが鳴ったのは、約束の午後三時ちょうどだった。事務所といっても、空木の自宅だ。独身の男の部屋は、ただただ汚い、臭い。空木は、事務所にしている部屋だけは、人が入って座れるように掃除し、片付け、気休めの消臭スプレーを振りまいた。
空木は、森重の父、勇作をその事務所に案内した。勇作は、小柄で頭髪は短髪にしているが薄く、顔は日に焼けていて、六十半ばと思えた。
「狭い上に、汚い事務所ですみません。ここがすぐに分かりましたか」
空木は、用意していた、インスタントのコーヒーを、紙コップで出した。砂糖もミルクも出さずに。
「私も、国分寺の本多に住んでいますから、この辺りも何度かは来ています。迷いはしませんでした」
空木は、森重勇作が、同じ国分寺に住んでいることに、少し驚いた。つまり、息子の裕之の実家が、国分寺だと改めて知らされたのであり、三ツ峠山で出会った森重裕之との因縁を感じた。
勇作は、ベランダのある窓から、外を眺め「良い部屋ですね」と空木を見て言った。
「実は、私も山が好きで、時々、近場の山に登っています」
「そうなのですか、息子さんの山の趣味も、お父さんの影響ですか」
「そういう父親なら良かったのでしょうが、私は全く‥‥」
微妙な空気だ。
「‥‥私への仕事と言うの‥‥」空木は話を進めた。
「空木さんにお願いしたいことは、息子に何が起こっていたのか、私と一緒に調べてほしいのです」勇作はそう言って、小柄な体を折った。
「お父さんは、何故、調べようと思ったのですか。息子さんの転落は、事故ではないかも知れないと思われたのですか」
空木は、森重の転落に対し、自分が想像していたことと、勇作の思いに接点があるのか知りたかった。
勇作は、裕之の妻の由美子が、半年前辺りから感じていた、裕之の変化。そして、勇作が、裕之と酒を飲んだ時の会話の話をした。
「空木さん、父である私にとって、今回の事は一生後悔する、いえ
空木には、勇作が涙ぐんでいるように見えた。
「‥‥わかりました。どこまでやれるか分かりませんが、精一杯やってみましょう」と、空木は、引き受けた。
二人はまず、森重裕之の会社の友人である、同期の大森と菊田の話を聞くことから始めることにした。すでに二人には、由美子から転落事故の一報を入れた際に、森重の悩みについての心当たりを聞いているだけに、期待する情報が聞ける可能性は薄いかも知れなかったが、この二人を端緒にするしか他は無いと、空木も勇作も考えていた。
勇作が、由美子から聞いていた二人の携帯に、電話を入れ、新横浜に勤務先がある菊田章は、明後日の午後五時半に、新横浜プリンスホテルで会うことになった。一方、大森安志は、来週は二名の重要な顧客との面会アポイントが入る予定のため、現時点では約束が出来ないが、明日、森重の見舞いに山梨へ行くつもりなので、そこで話が出来ないかとのことだった。病院には、面会時間内の午後三時に行くことを、妻の由美子には伝えてあるとのことだった。勇作も、そして空木も承知した。
二人は、明日と明後日の移動と待ち合わせ時間を打ち合わせた。明日の山梨の病院へは、勇作は一足先に入り、空木は、三時過ぎに病室の扉をたたくこととした。
打ち合わせを済ませた空木は、勇作の前に置かれた紙コップのコーヒーを入れ直した。そして、勇作に、三ツ峠山の山荘での森重の突然の涙の話をし、そのことから空木が想像したこと、つまり、裕之は「
「森重さん、もし私が思っていること、これはあなたも思っていることだと思いますが、息子さんが「鬱」になった原因が、会社の職場にあったとしたら、森重さんはどうされるおつもりですか」
空木は勇作に目をやりながら、紙コップのコーヒーに口をつけた。
「どうするのか‥‥今は何も考えていません。ただ、裕之に何があったのか知りたいだけです」
「この調査に、どれ程の時間がかかるか分かりません。息子さんの意識が戻るのを待って、何があったのか、直接聞く方が早いかも知れませんよ」
「いえ、裕之は、話さないでしょう。一人で背負い込む性格です。それがあれの良いところでもあり、こういうことになってしまう原因かも知れません‥‥」
「わかりました。いろんな障害があるかも知れませんが、頑張りましょう」
空木の言葉に、勇作は、再び小柄な体を折った。
「ついては、森重さんにお願いですが、明日、明後日の二人の面会の後は、私に任せていただきたいのです。森重さんには、必ず報告を入れます。もし、森重さんが、独自に動かれる場合は、私に必ず知らせていただきたいのです」
空木は、森重の父が調査に動いていることが会社に知れない方が、調査し易いと考えていた。
「分かりました。空木さんに全てお任せします。宜しくお願いします」勇作は、机に頭がつくほどに体を折った。
勇作が、スカイツリー
空木は、冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ベランダへ出た。ビールを二口、三口と喉を鳴らして飲んで、煙草に火をつけた。
丹沢の山々、奥多摩の山々、そして富士山が、オレンジ色に染まる西の空をバックに、スカイラインを見せている。その夕焼けの空は、美しいオレンジ色のグラデーションを見せて中空に溶けていく。空木は、この時間の、ここからの眺めが気に入っていた。
「さて、どうしたものか」独り言を言った。
山梨県立総合病院に入った空木は、腕時計に目をやりながら、六階の脳神経外科病棟の個室をノックした。扉を開けて、女性が顔を覗かせた。妻の由美子だった。
「空木さん、お久しぶりです。どうぞお入りください」と病室の中へ招き入れた。
病室に入った空木に、ベッドに横たわる森重が目に入った。森重は、まだ意識は戻っておらず、点滴と鼻腔からの経腸栄養の管が繋がれていたが、呼吸は自発していて、いつ意識が戻っても不思議はないと思われた。
すでに来ていた森重の父の勇作が「空木さん、こちらが大森さんです」と言って、ベッドサイドに座っている、眼鏡をかけた男を紹介した。
大森は立ち上がって頭を下げた。
勇作は続けて「大森さん、この方が、お話ししていた空木さんです」と空木を紹介した。紹介された二人は、改めて名刺交換をして挨拶した。
空木は、由美子に見舞いの言葉を述べ、意識のない森重には「早く元気になって、山の話でもしましょう」と声をかけた。
三人は、由美子を病室に残して、病院近くの喫茶店に向かった。喫茶店は、空いていた。店の一番奥のボックスに座った三人は、アイスコーヒーを注文した。
勇作が、空木を見て「空木さんからお話ししていただけますか」と促した。
空木は「はい」と小さく返事をして、勇作とともに、空木がここにいる
大森は、二人の顔を交互に見て話し始めた。
「‥‥正直に言って、森重がどういう状況になっていたのかわかりません。私が、お話し出来るとしたら、合併以後、私が所長という立場で経験したことから、推測してお話しすることぐらいです」
「その推測で結構です。お話を聞かせてください」
空木は、大森に話を続けてくれるように促した。
アイスコーヒーがテーブルに置かれる間、わずかな沈黙が流れた後、大森が話し始めた。
「私たちの出身会社の太陽薬品は、今回の合併では被合併会社です。対等合併と言われていますが、会社の名前が消える被吸収会社の立場ですから、太陽薬品出身者の人間は、それぞれいろんな思いを抱えています。肩身の狭い思いを持つ人間もいるはずです。その逆に、旧ホープ製薬は吸収会社という立場ですから、人によっては、自分たちの方が立場は上だと、考えている人もいる筈です。そういう状況下で、合併したホープ製薬の管理職としてのポストは、工場と研究所を除いて、当然ながら半分しか必要ではなくなります。ただ、営業は、両社の製品をそれぞれに扱うMRが当初は必要なため、二つのライン、つまり旧太陽薬品MRと旧ホープ製薬MRの二つのラインで一年間やってきました。でも、これもこの九月末で終了して、十月からは統合されますから、所長のポストは半分近くまで減ることになっています。森重が課長をしている、営業本部も課の数を減らすのではないかと見られています。森重も販売企画二課の課長ですから、どうなるかわからない状況です」
大森は、ゆっくりとアイスコーヒーに手を伸ばし、口に運んだ。
「大森さん、それはあなた方、所長と課長だけの話ですか」空木が訊いた。
「いえ、支店長、副支店長の一本化も言われていますし、部長、副部長の統一も予定されていますから、上のポストも減ることになると思います。十月からの人事ですから、本来はもう内示が出ていておかしくないのですが、遅れているようです。今週あたりに出るのではないかと、噂されています。私も首を洗って待っているところです」大森はそう言って、薄笑いを浮かべた。
その表情は、自信ありげにも、また諦めに似た表情にも、空木には見えた。
「そういう状況の中で、ご苦労をされ、嫌な思いもされているということですか」
空木の問いに、大森は「そういうことです」と頷きながら小声で言った。
「裕之も、そういう状況の中にいた、いや、今もいるわけですか」勇作は大森を見つめて言った。
「森重は、もっときつかったのではないかと思います」
「もっときつかった‥‥」
「はい、これはあくまでも私の憶測ですが、本部のポスト争いは、旧太陽薬品の人間にとっては、かなりきついのではないかと思います。営業本部長は旧ホープ製薬の本部長ですし、森重の上司の部長も、旧ホープ製薬の人間です。そんな中で、旧ホープ製薬の販売企画第一課長と、競う訳ですから気持ちの上ではしんどかったと思います。ただ、森重は一言も、辛いとは言わなかったですね」
「大森さんは、森重さんと度々お会いになっていたのですか」
「度々ということはありません。森重が、東京へ異動してきてから、三ツ峠山の山行を含めても、二回会っただけです。ご存知の通り、コロナで緊急事態宣言が出されてからは、全く会う機会はありませんでした。連絡を取り合うこともありませんでした」
連絡を取り合っていない、という大森の話を聞いて、森重はやはり最初から一人で三ツ峠山に登るつもりでいたのだ、と空木は確信を持った。
「三ツ峠山に一緒に行かれたことがあるのですか」
「はい、森重が、名古屋支店から本社に来てすぐに、横浜支店にいる菊田という同期から誘われて、三人で登りました」
「大森さんも、所長として嫌な思いをしておられるのでしょうか。差し障りがなかったら聞かせていただけませんか」
空木は、大森の顔色を窺った。
「‥‥‥‥」大森は、しばらく腕組みをして考え込んだ。
大森の脳裏に、去年の十二月のことが思い出された。大森は、東京支店の副支店長の横澤から、突然の誘いを受けた。指定された料理屋の部屋には、横澤副支店長がすでに来ていた。その隣には、見慣れない、というより大森が初めて見る男が座って居た。その男は、横澤の紹介によれば、販売企画部長の
「大森所長と、下松部長の部下である森重課長は、所課長の中では、二人とも三十八歳と社内の管理職では最も若い。それで、下松部長が、是非、君と飲みたいと言われてね。ただそれだけだから気楽にするといいよ」
気楽にと言われて、気楽にできるほど無神経ではない、と思いながら、勧められるままアルコールを口にしたが、大森はとても酔えなかった。
話は、仕事の話から、大森の趣味の山の話、東京支店長のゴルフの腕前の話になった時には、下松も自信があるらしく、自慢話が続いた。何故かボーイスカウトの話も出ていた。多岐にわたる話ではあったが、大森にとっては、何の実りもない時間が過ぎ、ようやくお開きとなった。
下松と、横澤の乗るタクシーが到着し、乗る間際に、横澤が大森の耳元で囁いた。
「今日のことは、大森所長の胸に収めて、誰にも言うなよ。君もやりにくくなると嫌だろう」
大森の胸に小さな後悔が湧いた。
大森の胸にその時の思いが、苦々しく蘇った。
「私自身は、嫌な思いをしているとは思っていませんが、東京の支店長は、私たちと同じ旧太陽薬品の方なのですが、副支店長は、旧ホープ製薬ですので副支店長には気を使います。それと、私にとっては、初めての経験なので、何とも言えませんが、部下の評価の際に、ほかの所長、特に旧ホープ製薬の所長とのやり取りや、話し方で感じたのが、旧太陽薬品のMRを、見下したような言い方をするのを聞くのは嫌だったですね」大森は、そう言って腕時計に目をやった。
「長い時間、お話を聞かせていただいてすみません。あと、私から、一つ、二つお願いがあります」
空木は座り直した。
「大森さんの知り合いで、営業本部に勤務されている方がいましたら、紹介していただきたい、ということが一つ。あと一つは、森重さんのお父様が、息子の裕之さんの、職場環境を知ろうとして、調べているということを、誰にも言わないでほしいのです」
空木の言葉に、大森は頷いた。
「お父様の事は、誰にも話しませんが、本部の知り合いは‥‥‥」と言って宙を見た。
「本社に知り合いがいないことは無いのですが、信頼できるかというと自信は持てません。営業本部となると全くいません。役に立てなくてすみません」
「いえ、とんでもありません。今日は長い時間ありがとうございました」
空木と勇作は揃って頭を下げた。
翌日、空木は小雨が降る中を、午後三時過ぎに事務所兼自宅のマンションを出て、新横浜のホテルに向かった。
空木が、勇作との約束の時間の五分前にホテルに入った時には、勇作はすでにロビーで待っていた。ホテルのロビーは外国人の姿はほとんどなく、インバウンド全盛期の頃の景色には、程遠かった。
二人は、ロビーのソファで菊田章を待つことにした。
「空木さん、裕之が水曜日に、東京の病院に転院することになりました」
「そうですか、東京から山梨に付き添いに通うのは、大変だったでしょうから、良かったですね。それでどちらの病院に移るのですか」
「三鷹の杏雲大学病院に転院することになりました。これで、私の家内も、国分寺から付き添いに行けますし、由美子さんの負担も、少しは楽になると思います」
空木は、勇作の言葉と表情に、長期戦の覚悟のようなものを感じていた。
「森重さん、今日の菊田さんの話も、大森さんの話と同様に、具体的な話は出てこない可能性が高いと思います」
「はい、私もその可能性が高いだろうと、覚悟しています。それは仕方がないことですが、これからどうしますか」
「とにかく、販売企画部の職場の状況を聞ける人間に、行きつくまで、人脈を探し続けるしかありません。私も、製薬会社にいましたから、
「空木さん、あの方ではないですか‥‥」勇作は、ホテルの入口の方に目をやった。
時刻は、五時二十分をさしていた。空木は、ソファから立ち上がり、スーツの上着を腕に抱えた、マスク姿の男に近づいた。
「菊田さんでしょうか」空木は小声で声をかけた。
「はい、菊田です」
「私は、空木と申しますが、あちらに、森重さんのお父様がいらっしゃいます」
空木は、勇作の方に手を挙げた。勇作もソファから立ち上がって頭を下げた。
三人は、名刺交換を含めて、挨拶を済ませ、コーヒーラウンジに移った。
「空木さんは、探偵事務所の所長さんですか」菊田は、空木の名刺を見て言った。
空木は、世間では、探偵の名刺は珍しいのだな、とよく思う。
「空木さんは、裕之の事故が起こった山に、偶然居合わせて、病院まで付き添ってくれた方なのです。今日、菊田さんにお会いしに来たのは、空木さんも、私も、裕之の事故に疑問を感じています」
勇作はさらに続けて、その疑問の根拠になっている出来事と、それに関して、空木と勇作が考えていることを、菊田に伝えた。
「森重が、どれ程厳しい精神状態になっていたか、一MRの立場の私には、理解するのは難しいのですが、森重と大森は、同期の中での出世頭で、合併会社の中でも、最も若い管理職と言われています。それだけに、周りの目も、プレッシャーもきついものがあったと思います。具体的に、森重にどんなことがあったのかは、分かりませんが、森重の部下に、たまたま私の知り合いの後輩がいまして、森重が可哀そうだと、言っていたことがありました」
菊田は、運ばれてきたコーヒーにミルクを入れた。
空木と勇作は思わず顔を見合わせた。
「菊田さん、営業本部の販売企画部に知り合いがいらっしゃるのですか」空木は身を乗り出すようにして言うと、バッグから手帳を取り出した。
「ええ、森重の部下ですから、販売企画課にいます」森重は空木の勢いに少し戸惑いながら言った。
「その方の、お名前は」
「吹山と言います。吹山健一、私の二年後輩で、東京支店にいた時に、同じチームにいた男です」
空木は、メモを取った。
「その吹山さんという方に、お会いして、内密に話を聞かせて頂きたいのですが、紹介していただけませんか」
「紹介するのは構いませんが、お二人で会われるのでしょうか」
空木は、再び勇作を見て、勇作が頷くのを確認した。
「いいえ、私一人でお会いしたいと思います」
「わかりました。今日中に、吹山に連絡して、空木さんに会うように言っておきますから、明日以降電話して、会える日程を相談してください」菊田はそう言うと、スマホを取り出し、空木に吹山の携帯の電話番号を伝えた。
空木はメモを取り、手帳をバッグにしまった後、菊田に聞いた。
「菊田さん、今回森重さんが、三ツ峠山に行く前に、誘いの電話とかの連絡はありませんでしたか」空木は、森重が、最初から単独で登るつもりだったことを確認するために聞いた。
「いえ、何の連絡もありませんでした。森重は、誰かに登ることを連絡していたのですか?」
「いや、それはわかりませんが、森重さんは奥様に、同期の菊田さんたちと三人で登ると言っていたようなので、確認させていただいた訳です」
「‥‥‥何故、森重は三人で登るなんて嘘を言ったんでしょう。大森にも連絡はしていないですよね。僕ら以外の誰かと登るつもりだったということでしょうか」
菊田は、首を捻って、またコーヒーを飲んだ。
空木は、菊田の話を聞きながら、ふと考えた。自分はあの日、森重と自分しか三ツ峠山にはいないと思い込んでいたが、もし菊田の言うように、他の誰かに連絡していたら、若しくは、森重が三ツ峠山に登って、宿泊することを知っていた誰かがいたとして、その人間があの日、三ツ峠山にいたとしたら、どうなるのだろうか。森重が連絡した人間が、登るのであれば、一緒に登り宿泊する筈だが、あの日、山荘に宿泊した登山者は、自分と森重の二人だけだった。森重に内緒で登るとしたら、その目的は何だ。サプライズのためとは考えにくい。もしかしたら、殺すためなのか。事故でも自殺でもなく、故意に突き落とされた可能性もあるということか。
もう一軒の宿泊施設である、四季楽園に宿泊客がいたとしたらどうだろう。いや、早朝に御坂峠方面の登山口である、三ツ峠登山口の駐車場に車を置いて登ってくることも出来る。だが、これは三ツ峠山荘で飼っている、甲斐犬三頭が吠える可能性が高いが、あの日の朝それはなかった。四季楽園の、あの日の宿泊客を、念のため調べてみる必要がありそうだ。
「空木さん、どうしました」勇作が、じっと考え込んでいた空木に声をかけた。
「あ、ちょっと考え事をしていました。菊田さん、いろいろお話を聞かせていただいて、ありがとうございました」空木は、礼を言って頭を下げた。
「お二人にお願いですが、もしも森重が、何らかの理由で自殺しようとしたのなら、その原因と考えられる事を、私にも教えていただけませんか」
「菊田さん、それを聞いてどうされるつもりですか」
空木は、鋭い目つきになっている菊田をじっと見て、その表情を窺った。
「何かを考えているわけではありませんが、同期の親友を、死ぬほど追い詰めたものは何だったのか、知りたいだけです」
「お気持ちはわかりますが、難しいかも知れません。お父様と奥さんの、了解が大前提ですし、裕之さんの名誉に関わることでもあります」空木は、勇作の方に目をやりながら答えた。
空木と勇作は、菊田章に礼を言って、雨の上がった薄暮の歩道を、新横浜駅に向かって歩き始めた。
「森重さん、以後は私一人で調べていきますが、報告はしっかりしますから安心してください」
空木は、四季楽園の宿泊客の調査については、勇作に話すのは止めた。単なる空木の憶測で、勇作に余計な心配をかける必要はないと考えた。
「森重さん、私はそこの牛丼屋で晩飯でも食べて行こうと思いますけど、どうされますか」空木は、牛丼屋のオレンジ色の看板を指差しながら言った。
独身の空木は、ココイチのカレーが大好物だが、牛丼も好物の一つで、週に一回は食べていた。
「牛丼ですか、たまにはいいですね。お付き合いします」
勇作はそう言って笑顔を見せた。
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