殺意と絆の三ツ峠

聖岳郎

第1話 三ツ峠山

 三ツ峠山から見る富士山。その姿の雄大さ、美しさは言葉で表すのは難しい。雪をまとった富士は秀麗と言う言葉が相応ふさわしいのだろうか、雪のない季節の四か月の間は、壮大という言葉が相応しいのか、とにかく、ここ三ツ峠山から見る富士は絶景だ。

 富士急行線三ツ峠駅から登ることおよそ四時間、三十代後半の年齢と思われるその男は、三ツ峠山から望む富士山を無言で眺めていた。

 三ツ峠山は山梨県南東部、都留つる市、西桂町、富士河口湖町の境界にあって、峠とは言っても峠ではなく、開運山、御巣鷹山、木無山の三つの山の総称で、開運山の標高1785メートルを最高峰とする山として、日本二百名山にも選定されている。

 富士急行鉄道大月線三ツ峠駅からのルートは標高差1200メートル余りと大きいが、達磨石だるまいし、八十八大師等の修験道の歴史を感じさせ、ロッククライミングで有名な屏風岩の直下を通過するコースである。その男はそのコースを登ってきた。

 好天に恵まれた、九月に入ったウィークデイは、ここまでハイカーに会うことはなかった。男は絶景を眺めながら「見事だな。羨ましい」と呟いた。

 その時「こんにちは」という声が、男の背中にかけられた。

 「惚れ惚れする景色ですね。私は、この山は二度目なのですが、この景色を見たらまた来たくなりますね」年齢が四十代と思われる男は、親しげに話しかけた。

「私も二度目です」男は振り返りながら答えた。

 ザックを背負っていないその男は、開運山のピストン、つまり山頂の往復の帰りのようだった。

 「泊りですか」男は、腕時計に目をやりながら聞いた。時刻は午後四時を回っていた。

「ええ、三ツ峠山荘に泊まる予定です」

「私も三ツ峠山荘です。一緒ですね、ということは今日の山荘泊りは私とあなたの二人だけのようです」

「ああ、そうなんですか」

「私、空木うつぎと申します。中央アルプスの空木岳うつぎだけのうつぎです。宜しくお願いします」空木はそう言って小さく頭を下げた。

森重もりしげと言います。こちらこそ宜しくお願いします」森重も小さく頭を下げた。

 二人はしばらく絶景を眺めた後、森重はザックを背負い空身からみの空木とともに山荘へ歩いた。

 三ツ峠には、三ツ峠山荘と四季楽園という二つの宿泊施設がある。以前は、もう一軒富士見山荘という宿があったが、数年前に廃業した。

 二人が泊まる三ツ峠山荘は、親子二人で営業していた。父親の方は六十代半ばだが、見た目は何歳か若い。山荘の脇には、麓と山荘を行き来するのに使うと思われる大型の四輪駆動車があり、その周囲には甲斐犬の親子三頭が飼われていた。山荘の主人曰く「うちの甲斐犬は人慣れしているから、飼い主以外が近付いても大丈夫だ」というように、宿泊者には吠えたてることもなく、撫でることもできた。宿泊者とそうでない登山者と区別がつくようだ。

 主人は、すでに宿泊手続きを済ませていた空木と、今しがた記帳を済ませた森重に「夕飯は七時から、風呂は六時から入れるが、二人一緒に入ってくれると助かるのだが。燃料の節約に協力してくれるとありがたいが‥‥」と言って二人を見た。

 空木は「私は構わないですよ」と言って上がりがまちに座っている森重を見た。

森重は小さく頷きながら「私も構いません」と言った。

 風呂は客室のある母屋の横の、別の小屋にあった。雨水を利用した循環風呂システムでその浴槽の大きさは二メートル四方の大きさがあり、大人二人がゆったり浸かることが出来た。

 息子に案内された二人は、言われた通り、浴槽に浸かる前に体を洗って、湯船にどっぷりと浸かった。

「森重さんでしたね」

「はい」

「会社をお休みして来られたんですか」

「はい、今日と明日の二日間の休みを取って来ました。空木さんも休みを取られたのですか」

「いやー、私は毎日が休みと言うか、自由になる時間が多い仕事なので、いつでも来ようと思ったら来ることが出来る身なんですよ」

「そうなんですか。羨ましいです。失礼ですが、空木さんはどんなお仕事なのですか」

「どんな仕事?ですか‥‥」

「いえ、無理にお話しいただかなくても結構です」

「いえいえ、そんな事はありませんよ。仕事は調査請負業、つまり探偵業です。私立探偵をやっています」

「え、探偵ですか。もうかなり長くされているのですか、その仕事」

「長くはありません。まだ三年弱です。こう見えても以前はMR(メディカル レプレゼンタティブ:医薬情報担当者)だったんです。MRと言ってもわかりませんよね」


 空木健介うつぎけんすけ、四十四歳。三年前にMRとして勤務していた製薬会社を辞め、探偵業を始めた。空木という漢字からネーミングした「スカイツリーよろず相談探偵事務所」を自宅マンションに開設し、所長と言う肩書を持つ身だ。所長とは言っても実際は、事務員兼調査員兼所長で、一人ですべてをこなさなければならない零細事務所だ。今までの仕事と言えば、行方不明になったペットの猫探しやら、浮気の調査やら、高齢者の病院通いの付き添いなどが主だった仕事だが、どういう訳か殺人事件に絡む調査も、過去に請け負ったこともある。好きな山登りと下山後の一杯を楽しみに、のんびり自由気ままにしているが、実態は年金生活に入っている親のスネをかじる、プー太郎のような存在だ。


 「空木さんはMRだったんですか」森重は驚いたように空木を見た。そして続けて言った。

「私もある製薬会社で、一年前までMRでした」

「へえー、そうなんですか。MRでした、ということは、今は辞められたんですか。私と同様に‥‥」

空木も驚いたように森重を見た。

「会社は辞めていません。今はMRではなくて、本社の営業本部で仕事をしているんです。辞められれば辞めたい‥‥‥」そう言うと森重は、湯船の湯をすくい顔に被った。

「私は、経験したことはないのでわかりませんが、本社勤務、本部勤務は辛いと言いますが、会社人生の中では、良い経験になるということも聞きますから、森重さんも頑張ってください」

「‥‥‥空木さんは、どうして会社を辞めたのですか。差支えがなかったら話していただけませんか」

「‥‥‥それはまあ、組織人間になり切れなかった。頑張り切れなかった。逃げ出したということです」空木は、少し困惑しながらも森重の問いに答えた。

「残るのも、逃げるのも同じように勇気がいりますね」

 二人は、同時に湯船の湯をすくい顔に被った。

 風呂小屋から出ると、富士山が西日に染まっていた。まるで空木より先に一杯飲んでいるかのような富士山だった。

 食事部屋のテーブルに、斜め向かい合わせに座った空木と森重は、缶ビールを飲みながら夕食に手を付けていた。

「森重さんは、この山は二回目だと言っていましたけど、その時も単独で来たんですか」空木は、缶ビールを手に持ちながら聞いた。

「去年の十月でしたから、ほぼ一年前になります。三人で日帰りの登山でした。河口湖からバスで、三ツ峠登山口のバス停で降りて、登ってきました。一時間半ぐらいでここまで登ってきましたから、今日のコースの登りと比べたら随分楽でした」

森重は、そう言って缶ビールを口に運びながら、一年前の山行を思い出していた。


 三ツ峠登山口のバス停で降りた森重は、同行者の二人の男とともに、三ツ峠山に向けて歩き始めた。先頭を歩くのは、三ツ峠山の登山は二度目の菊田章、そして森重を真ん中にして、後は大森安志、三人とも年齢は三十八歳、太陽薬品のMRとして同期で入社した仲間だった。

 太陽薬品は、年間売り上げ約八百億円、MR数六百名弱の中堅製薬会社として、堅実に成長してきたが、新製品の開発に遅れを取ったことから、株価が低迷し、大手製薬会社からTOBの噂も出ていた。そんな中、中堅製薬会社の中でも比較的大手の部類に入る、ホープ製薬との合併が合意に達し、一年間の準備期間を経て、令和元年十月一日付けで太陽薬品は被吸収会社として、ホープ製薬に吸収合併されることになった。その合併と同時に、名古屋支店から、合併したホープ製薬の東京日本橋の本社の営業本部に、販売企画第二課長として転勤してきたのが、森重だった。その森重を、同期の菊田が、歓迎山行と称して大森とともに三ツ峠山に誘ったのだった。

 三人は、ほんの少し黄色に色づき始めた登山道を登り、午前十時過ぎには三ツ峠山荘のある、肩の広場に到着。開運山に登り、ラーメンで昼食を摂った。その時の、上部だけが白く冠雪した富士山は、森重を清々しい気持ちにさせた。愛着ある太陽薬品が消滅する寂しさよりも、合併した新生ホープ製薬での、新たな気持ちの方が勝っていた。下りは、屏風岩の直下を抜けて三ツ峠駅へ下った。

 菊田が横浜線に乗り換える八王子駅で途中下車した三人は、駅に近い居酒屋で歓迎会と称して飲んだ。

 「新しい会社で三人それぞれ頑張ろう」

菊田がビールジョッキを片手に挙げて、乾杯の声を上げた。大森も森重も声を上げた。

「俺はMRだから、合併してもどうということは無いが、大森は所長、森重は本部の課長だ、旧ホープ製薬の連中とのやり取りは、大変なこともありそうだな。二人とも体には気を付けろよ」


 菊田の「体に気を付けろよ」の言葉が蘇ったのか、食事をしている森重の目に涙がこぼれた。

 空木は、森重の突然の涙に驚きながらも、気が付いていないかのように「明日はどういう予定ですか」と話を変えた。

「のんびり河口湖方面に下りようと思っています」

「私もゆっくり下りて、日本一腰の強いうどんと言われる吉田うどんでも食べて帰ろうかと思っています。良かったらゆっくりのんびり、一緒に下りますか」

 森重は空木の言葉に、ニコっとしながら「ええ」と言って頷いた。

 食事を済ませた空木は、八畳程ある部屋を一人で使わせてもらう、二階の一号室に戻り、夜のとばりを下ろした窓外に出た。標高1700メートルの夜は、長袖一枚では寒い。夜空には無数の星がきらめいていた。

「明日も良い天気になりそうだ」空木は呟いた。

  二号室の森重も星空を見上げていた。山で星空を眺めるのはいつ以来だろう。名古屋支店に勤務していたころ、支店の仲間と白馬岳しろうまだけに登って、白馬山荘に泊まって眺めて以来だから五年ぶりに見る星空だと思った。

 「五年振りか…。きれいだ」そう呟いた森重の目に、また涙が溢れた。


 翌朝、空木は六時に起床した。カーテンを開けた窓外は、ガスが流れ富士山は見えなかったが、上空の空は、流れるガスの上に明るさを増していた。七時の朝食の時間に合わせて一階に下りた。森重はまだ下りて来ていないようだった。

 山荘主人の息子が味噌汁を運んできた。

 「森重さんと言われる方は、まだ二階から下りてきませんね」空木は、お茶を湯のみに注ぎながら、息子に尋ねた。

「あの方でしたら、三十分ぐらい前に下りてきて、少し歩いてくると言って出て行かれましたよ。開運山にでも行かれたのかも知れませんね」

 山荘から、開運山頂上までは十五分ぐらいだろう。頂上にしばらくいるとしても、もうしばらくしたら戻ってくるだろうと空木は推測し、朝食を食べ始めた。山小屋で食べる朝食は美味かった。独身の空木は、いつもは食パンとコーヒーの朝食だが、今日は米飯をお替りした。ゆっくり食べたつもりだったが、十五分ほどで食べ終わってしまい、コーヒーを注文した。空木が食べるのが早すぎたせいか、森重はまだ戻ってこなかった。

 空木は、コーヒーを手に、煙草を吸いに外に出た。やはり、甲斐犬は山荘の客には吠えることはなかった。

 ガスが切れ始め、富士山が少しずつ顔を出し始めた。開運山の山頂も、ガスの切れ間に見え隠れしている。

 空木は山荘の部屋に戻り、ザックのパッキングを済ませ、玄関間口に下りたが、森重はまだ戻っていなかった。時間は八時を回っていた。

 「ゆっくりしてますね」朝食の片付けが出来ないためか、主人が時計を見上げながら、独り言のように言った。

 森重のことを言っているのだろうと空木は思った。

「開運山に私も行ってきます。朝の富士山を、山頂から見ておくのも良いでしょう」空木はそう言って、ザックを玄関口に置き、山靴の紐を締め直した。

 ガスはすっかり取れ、三ツ峠山の肩の広場から望む富士山は、昨日と同様に荘厳な山容を見せていた。開運山の山頂もはっきり見えたが、人影はなかった。四季楽園の横を抜け、開運山の山頂に続く、整備された木段を登る。十五分足らずで頂上に着いた。頂上には三ツ峠と彫られた大きな石碑と、山梨百名山と書かれた木柱があり、頂上の周囲は、腰の高さあたりに鎖が張られていた。

 空木は、しばらく富士山と、西側に見える御坂みさか山地の山並みを眺め、煙草を一服した。森重の姿は頂上にはなかった。

 「森重さんはどうしたんだろう」と空木は独り言を言いながら、周囲を囲んだ鎖の内側から、大きく口を開けた崖を覗き込んだ。空木の目に、覗き込んだ崖のはるか下に、青っぽい服を着た人間のようにも見える物が目に入った。

 「なんだろう。まさか‥‥」と呟いたが、それが何なのか確認するすべは、空木にはなかった。

 空木は、持っていたスマホのカメラを、目一杯のズームにしてその青い物を写真に撮り、急いで山荘に下った。

 空木は、森重が山荘を出た時の服装は見ていなかったが、息子が青いウィンドヤッケで出かける森重を見ていた。

 空木と主人は、大型の双眼鏡を手に開運山山頂に向かった。

 「動いてはいないが、人に間違いなさそうだ。落ちたのか‥‥」双眼鏡を覗きながら、主人が小声で言った。

「泊まっていた彼ですか」空木は、二十メートルはあろうかと思われる崖下に、横たわっている人らしき物体を見つめて言った。

「どうか分からないが、青いウィンドヤッケを着ているのは一緒だ。取り敢えず県警の救助隊を呼ぼう。まだ生きているかもわからん、あと五メートル転がっていたら屏風岩を落ちて一巻の終わりだ。あそこで止まったのは奇跡だ」

 市川三郷いちかわみさと町にある、山梨県警のヘリ基地から、救助ヘリが到着したのは、主人が救助要請してから三十分とかからなかった。ホバリングしているヘリから救助隊員が降下し、さらに隊員はザイルで確保しながら、崖下に横たわる青いウィンドヤッケの人間に近づいて行った。マスクを装着した隊員の一人が、両手で大きく丸印を作った。生存している印だった。

 救助ボードに固定され、引き上げられたその人間は、意識は無く、頭部から出血しているようだった。主人と空木は、救助ボードに近づいて顔を覗き込んだ。その顔は、空木とともに山荘に宿泊していた森重に間違いなかった。

 「やはり彼でしたね‥‥。誤って落ちてしまったのですかね」空木は主人の方を見ながら言った。

「恐らくそうだろうが、ここは、昔は熱海の錦ヶ浦と並んで、自殺の名所と言われていた時代もあったぐらいだから、なんともわからんが‥‥」

「自殺ですか‥‥」

 空木は、救助ボードを支えて下る隊員たちの後ろを歩きながら、昨日の夕食の場面を、森重が突然涙した場面を思い出していた。もしかしたら、あの涙には、深い思いが込められていたのかも知れない。

 肩の広場まで救助ボードを下ろした救助隊が、ヘリの到着を待つ間に、主人は、山荘の二号室に置かれたままになっていた、森重のザックと玄関口に置かれた空木のザックを持ってきた。

「あ、私のザックまで持ってきてもらってすみません」

「空木さん、あんたどうするね」主人は、ザックを空木の前に置きながら言った。

「どうする?」

「都合がつくようなら、この人に付き添ってやってくれまいか」主人は、救助ボードに横たわっている森重を見ながら言った。

「‥‥‥付き添いですか‥‥」

「そう、病院にこの人の家族が到着するまで、付いてやってほしいのだが‥‥。都合が悪かったら、このまま下山してくれていいが‥‥」と言いながら、一枚の紙を空木に渡した。それは森重の宿泊申込書のコピーだった。主人は、昨日の夕食時の空木と森重の会話、「一緒に下りますか」の会話を聞いていたのかも知れないと、空木は思った。

 救助ヘリが到着し、救助ボードの森重は引き上げられた。空木も隊員たちとともにヘリに乗り込んだ。ヘリの乗務員は山荘の主人に大学病院ではなく、県立総合病院に搬送することを告げた。森重の家族に連絡をした際に、家族がどこへ行ったらいいのか知らせなければならない。

 ヘリが山梨県立総合病院のヘリポートに着いたのは午前十一時を過ぎていた。

 

 森重の住所は、山荘の主人から渡された宿泊申込書のコピーによれば東京都杉並区荻窪、年齢は三十八歳だった。

 搬送を終えた救助隊員は、救難出動報告書を作成するため、空木から話を聞いた。三ツ峠山の管轄である河口湖警察署への報告は、事故として報告されるようだ。

 山梨県立総合病院の救命救急センターに運ばれた森重は、CTをはじめ、緊急検査をした後に、ICUに運ばれた。意識は戻っていなかった。担当医師は、付き添いで待機していた空木に、頭部骨折に伴う脳挫傷と脊髄損傷、加えて右の腎臓が損傷している可能性があることを告げ、ここ数日間は危険な状態が続くと言った。さらに、仮に危険な状態を脱し、意識が回復しても、下半身の不随が残る可能性があることを説明した。

 時計が午後三時を回った頃、一人の女性がICU面会控室に入ってきた。山服姿の空木を見てゆっくり近づいた。

 「空木さんでしょうか」その女性は尋ねた。

「はい、空木です」そう言って空木は椅子から立ち上がった。

「森重の妻の森重由美子と申します。この度は、大変ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。それに、ここまで主人に付き添っていただきありがとうございました」と丁寧に挨拶した。

「空木健介と申します。ご主人が思わぬことになってしまって驚かれたと思います」空木は挨拶して改めて頭を下げた。

 空木は、控室からインターホンで、森重の妻の到着を、ICUのナースに告げ、担当医が来るのを待った。担当医を待つ間、妻の由美子に、空木がここに付き添うことになった経緯いきさつを話し、さらに担当医から空木が聞かされた森重の病態を、自分の役目ではないと認識しつつも、由美子のショックを少しでも和らげるつもりで説明した。

 しばらくして、控室に来た担当医から直接、森重の病態の説明を聞いた由美子は、担当医がいなくなった後も、じっと壁を見つめていた。

 空木は、腕時計に目をやった。時刻は、午後四時になろうとしていた。

 空木には、森重を三ツ峠山から搬送する間、ずっと気になっていることがあった。それは、森重の転落が本当に事故だったのだろうか、という事だった。警察は事故の扱いにするのだろうが、あの開運山の頂上の鎖を越えて落ちるということは、誰かに突き落とされるとか、自ら落ちるということも大いに考えられるのではないか、と考えていた。

 空木は、一瞬躊躇ちゅうちょしたが、「奥さん、こんな時にお尋ねするのはいかがなものかと思うのですが‥‥」躊躇ためらいながら口を開いた。

「なんでしょう」

「私は、昨日の夕食の時の、ご主人が突然流された涙が、気になっていました。ご主人が、何か悩まれていたようなことはありませんでしたか」空木は、自身のザックとともに持ってきていた森重のザックに、手を置きながら聞いた。

「主人が涙を流した‥‥、それはどういうことでしょうか。もしかしたら主人は事故ではなく、自殺したのではないかということでしょうか」由美子は戸惑っているようだった。

「‥‥‥」空木は答えられなかった。聞くべきではなかったかと悔やんだが、思ったら口に出してしまわないと気が済まない、自分の性格に諦めた。

「主人も、悩みはあったと思いますが、自殺するほどの悩みがあったとは思えません。私が、気が付かなかっただけかも知れませんが‥‥。子供たちとも変わらずに接していたように見えました」

「お子さんはどちらに」空木は控室の扉の方に目をやった。

「今日は、主人の実家に預かってもらいました」由美子はそう言うと、ハンカチを口にあてて、また俯いた。

しばらくして由美子が「空木さん、一つ気になることがあります」と話しかけた。

「何ですか」

「主人はホープ製薬という製薬会社に勤めておりますが、今回の登山は一人ではなくて、会社の三人で行くと言っていました。ですから、山荘の方からの連絡で、空木さんと言う方が付き添っていると聞かされた時は、初めてお聞きするお名前でしたから、どなただろうかと思いました。主人が何故一人で行くことにしたのか、気になります」

 空木は、退職したとはいえ、製薬会社に勤めていた身であり、現在のホープ製薬が太陽薬品とホープ製薬の合併会社であることは知っていた。

 「合併したホープ製薬ですね。三人ですか?‥‥その方たちは、奥さんがご存知の方たちですか」

「はい、主人の会社の同期の方たちで、お会いしたことはありませんが、主人から名前は聞いていました」

「そうでしたか。しかし、ご主人は間違いなくお一人でした。同行する予定のお二人は、都合が悪くなったのかも知れませんね」

 空木はそう言ったものの、森重との会話の中では、それらしいことは、何一つ聞かれなかったことを思えば、森重は最初から単独で登るつもりだったのではないか、と空木は想像した。だが、今度はそれを口にはしなかった。

 空木は、また腕時計に目をやり、立ち上がった。

 「申し訳ありません。私は、そろそろ失礼させていただきますが、このご主人のザックは、奥さんにお渡しするしかないので、ここに置いていきます」そう言って控室の隅に、ザックを置き、自分のザックを持った。

「主人の父が、夜には来てくれるので、大丈夫です。そこに置いて行ってください。本当に今日はお世話になり、ありがとうございました」そう言うと由美子は深々と頭を下げた。

「あ、空木さん。すみません、差し支えなかったら、ご住所か電話番号か、連絡先を教えていただけないでしょうか」

由美子はうっかりしていたという風に、控室から出て行こうとしていた空木を呼び止めた。

立ち止まった空木は、ザックの雨蓋の中から「スカイツリーよろず相談探偵事務所 所長」の名刺を取り出して、由美子に渡した。

「探偵事務所の所長さんですか」由美子は、小さな声で名刺を読んだ。

「事務所と言っても、私一人で全てをやらなければならない零細事務所ですよ。何か、依頼していただける仕事がありそうな時は、声をかけて下さい。あー、ここで仕事の宣伝はないですよね。すみません」

 空木は頭を掻き、ザックを担いだ。

 由美子は、微笑みながら「そんなことはありません。お仕事をお願いすることもあるかも知れません」名刺を手に言った。

「では、私はこれで失礼させていただきます。ご主人の早い快復をお祈りしています」空木は、別れを告げた。

 空木は、病院から甲府駅へ向かうタクシーの中で、森重のことを考えない訳にはいかなかった。仮に命は助かったとしても、担当医師の言う通り下半身に障害が残ったとしたら、仕事は続けられるかもしれないが、家族の負担は大きなものになるだろう。担当医師から、森重の病態を聞かされた直後の由美子は、その事が頭によぎっていたのではないだろうか。とは言え、子供のことを考えたら、森重には、たとえ障害が残ったにしても、元気になって欲しいと空木は祈った。

 甲府駅を五時過ぎの特急に乗った空木が、国立の駅に着いたのは六時半に近かった。


 空木の探偵事務所兼自宅は、JR中央線国立駅の北口から、歩いて十分程のところの、国分寺崖線の上に立つ、六階建てのマンションの四階にある。大家の許しを得て、レターボックスに「スカイツリーよろず相談探偵事務所」と書かれた小さな看板を出している。

 国立駅から事務所までには、カレー屋、とんかつ屋、ラーメン屋、居酒屋が並んでいる。空木は、その街の端に近いところにある「ひら寿司」という、平島という夫婦と男女の従業員一人ずつの計四人でやっている店にちょくちょく行く。ザックを担いでいる今日も「平寿司」の暖簾のれんをくぐるつもりだ。

 空木は、この店に来始めて二年近くになるが、常連の中ではまだ日は浅く、いわば新参者だ。「平寿司」はカウンター席、テーブル席、小上がりの席があるが、新型コロナ対策のために席数は半分ほどになっていた。

 空木が平寿司の暖簾をくぐると「いらっしゃいませ」の女将の声が元気に響き空木を迎えた。カウンターには、すでに一人座っていた。

 「よお、がんちゃん来ていたんだ」空木はその客に声をかけた。

 空木が、「巌ちゃん」と呼ぶその男は、石山田巌いしやまだいわお、四十四歳。空木とは国分寺東高校の同級生で、お互いを「巌ちゃん」「健ちゃん」と呼ぶ間柄である。職業は、警視庁奥多摩署に勤務する刑事だ。

 「山帰りに、寄るだろうと思ってお待ちしておりました」石山田はそう言って、ビールの入ったグラスを手に挙げた。

「何がお待ちしておりました、だよ。何かあったのか」

 空木はザックを入口の脇に置いて、カウンター席に座った。

店員の一人、山形出身の坂井良子がおしぼりとビールを運んできて「お疲れ様でした」と声をかけた。

 石山田は立ち上がり「私、十月一日付で奥多摩署から国分寺署に異動を命じられました」と敬礼をしながら言った。

「へー、そうなんだ。家に近くなって良かったじゃないか。家族も喜んでいるでしょ」

「うーん、そうでもないけどな。少し給料がアップするのは喜んでいるよ」

「おー、栄転かよ。それはおめでたいやら、嬉しいやらだな。これで俺のボトルも飲まれずに済みそうだね」空木はそう言いながら、運ばれてきたビールをグラスに注いだ。

「まあまあ健ちゃん、そう言わないで、安月給なんだから」

そう言う石山田の前には、既に空木がキープしている芋焼酎のボトルが置かれていた。

「ところで山はどうだった。天気も良かったようだし、良い山行だったんじゃないのか」

「‥‥天気は良かった。富士山も見事だった。だけど、思いもよらない事故があったんだ」

「事故?」

「転落事故なんだ」空木はそう言って、グラスのビールを一気に飲んで「美味い」と唸った。

「富嶽絶景の山で、転落か。それでどうなった、助かったのか」

「山梨の県立総合病院に運ばれたけど、どうなるかわからない。たとえ命は助かったとしても、後遺症が残るかも知れないらしい」

「健ちゃん、その落ちた人と一緒だったのか」

「一緒というか、成り行きから病院まで付き添うことになって、家族が来るのを待って四時ごろまで病院にいたんだ」

「そうだったのか、それはご苦労様だったね」

 石山田は、焼酎の水割りを二つ作り、一つを空木の前に置いた。

 空木は、鉄火巻きと烏賊刺しを注文して、煙草を吸いに店外に出た。

 席に戻った空木は石山田に「巌ちゃん、俺にはあの転落は、事故のようには思えないんだ」言いながら水割りを口にした。

「事故じゃないってことは、誰かに落とされたとか」

「いや、そうじゃなくて、もしかしたら自分から落ちたんじゃないか、と思うんだ」

「遺書らしきものでもあれば、そうかも知れないけど、何か気になることでもあったのか」

「ただ何となくだけど。しかし、遺書のない自殺というのは、無いんだろうか」

「お二人さん、縁起でもないお話をされているようですけど、口をはさんで何ですが、遺書のない自殺もあるんじゃないですか。医者じゃないからわかりませんけど、うつ病の方で、自殺してしまう人全てが、遺書を書いているとは思えませんけどね」

二人の話が耳に入ったのか、平寿司の主人が話の間に入った。

「空木さんも製薬会社におられましたけど、お友達の小谷原こやはらさんに聞いてみたらいかがです」主人は空木の注文した、鉄火巻きと烏賊刺しを出しながら、言った。

 小谷原幸男こやはらゆきお、空木より三歳年上の友人で、空木が北海道で勤務していた時からの付き合いだ。京浜薬品という製薬会社に勤務し、現在、多摩地区の所長として国立に住んでいる。

 「小谷原さんですか。近いうちに会えるといいけどね」

「健ちゃんが、連絡して会おうと言えばすぐにでも会えるだろ」

 石山田はそう言って、空木の前のゲタに置かれた鉄火巻きを、二個つまんで口に放り込んだ。時刻は八時を回ろうとしていた。


 山梨県立総合病院のICU面会控室には、森重裕之の妻の由美子と、裕之の父の勇作、そして中学一年生の娘と小学校三年生の息子が、意識の戻らない森重との面会を終え、椅子に座って居た。

 「裕之に付き添ってくれた、空木という人が、裕之は自殺したのではないか、と言ったのですか」勇作は、子供たちには聞こえないように、小声で由美子に訊いた。

「はい、はっきり自殺とは言いませんでしたが、裕之さんは何かに悩んでいたのではないか、と聞かれました」由美子も小声で答えた。

「由美子さんには、思い当たることはなかったのですね」

「‥‥‥」

 由美子は、空木には思い当たることはない、と答えたが、義父には「少し気になることがありました」と言った。

 そして由美子は、子供たちの方を気にしながら続けた。

 「裕之さんは、以前から日曜日の夜とか、明日から仕事という前夜は、口数が少なくなって、自分では「サザエさん症候群」だとか言っていましたが、会社の新型コロナ対策で在宅テレワークが始まって、数か月経ったころから、ジッと考え込んでいる時間が多くなったように感じました。思うように仕事がはかどらないのだろうと思っていましたけど、もしかしたらその頃、何かで悩んでいたのかも知れません。私がもう少し気配りできていれば‥‥」そう言って、唇を噛んで俯いた。

「そうですか、もしかしたらその時期に、何かあったのかも知れませんね」勇作もそう言って、正面の壁を見つめ、考え込んだ。

 

 裕之が名古屋から東京に転勤で戻ってきても、息子と二人きりで飲むことはなかった。というより、それまで息子と二人で食事をしたことすらもなかった。それが、二か月ほど前に、突然、裕之から勇作に「飲みたい」という電話が入ったのだった。寿司屋で飲んだが、妙な緊張感からか、話は弾まなかったが、二人は酔った。勇作は息子と二人で飲むのも、いいものだ、と思ったりした。ただ、弾まない話の中で、勇作の記憶に残っている会話があった。裕之の「MRの方が良かった」という言葉に、勇作は「うまく行くことばかりじゃない、辛抱して頑張れ」と励ました。そういう会話だった。

 

 翌日の土曜日も、森重の意識は戻らず、危険な状態が続いていた。夜通し付き添った由美子は、付き添いを義父の勇作に任せ、一旦、二人の子供と一緒に東京の家に戻った。


 午前中、トレーニングジムで汗を流した空木は、気になっていることを相談したいと思い、友人の小谷原に連絡を入れ、今夜「平寿司」で会うことにした。

 空木が平寿司の暖簾をくぐった時には、小谷原はカウンターに座っていた。

「お先に飲ませていただいていましたよ」

小谷原は、ビールの入ったグラスを挙げた。

「お待たせしてしまいましたか、すみません」

「いえ、来てから五分も経っていませんよ。それより、私に聞きたいことがあると言っていましたが、どんなことですか」小谷原は、お通しの肴をつまみながら聞いた。

 空木は、ビールを一気に飲み干した後、三ツ峠山で遭遇した転落事故のあらましを、小谷原に説明した。

 「空木さんは、事故ではなく、自殺の可能性があるのではないか、と思っている訳ですか」

「私の思い過ごしかも知れないのですが、前日の山荘での夕食の時の、彼の突然の涙が気になって仕方がないんです。彼はもしかしたら、うつ病を患っていたのではないかと‥‥」

 空木は、鉄火巻きを口に運び、ビールを飲み干し、焼酎の水割りセットを頼んだ。

 「それで、小谷原さんの会社は、抗うつ剤を扱っている関係上、その辺りの話を聞けるかな、と思って連絡したんです」

 空木は、運ばれてきた焼酎で水割りを作り、口をつけた。

 「私は、心療内科の医者ではないので、「うつ」の病態を詳しく知っているわけではないですから、空木さんの期待には、応えられないと思いますけど、抗うつ剤を扱うMRとして一般論で話せば、遺書のない自殺はかなりたくさんあると思いますよ。遺書を残す、覚悟の自殺もありますが、突然の飛び込みなどは遺書のない自殺でしょう。「うつ」の人は、躁鬱そううつの躁状態の後が危ないとも言います。私も、空木さん同様に山登りが趣味ですが、山頂にやっとの思いで登った後に、素晴らしい眺望に出合ったりしたら気持ちが高揚しますよね。あれは、躁状態の一種かも知れません」

 小谷原は冷酒を注文し、穴子とキュウリを海苔で包む、穴キュウを口に入れた。

 「なるほど、確かに登り切った時は、誰とはなく話しかけたりしますね。三ツ峠山でも、彼は、事故の前日は私とよく話していましたね」空木はそう言うと水割りを飲んだ。

「それと、「うつ」の症状では、突然の感情の高ぶりもあるようですし、理由はわかりませんけど、突然の涙というのも、「うつ」の症状の一つと言えるかも知れません」

 小谷原の話を聞いた空木は、腕を組んで中空に目をやった。空木は、自分の想像が現実だとしたら、入院している森重が、身体の快復はしたとしても、心の問題は残るのだろうと思った。山で話した時の森重を思い出すと、何故か切ない思いが込み上げてきた。

 空木と小谷原は、その後、北海道時代の仕事、山の話、withコロナの時代のMRの仕事はどうなっていくのか、結論の出ない話でアルコールのメーターは上がっていった。空木は、従業員の一人、フレンチを修業してきたという、主人の甥っ子である平沼勝利の作るパスタを、締めに注文した。

 空木は食べながら「週末の夜の、かっちゃんのパスタは特別美味い」と訳の分からない独り言を言った。

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