親愛なる友との別れ

 寿院じゅいんは、黙って登葱ときの話しを聞いていた。

 子供の頃の陸は知らないけれど、登葱ときの話しはまるでその時々の風景や陸の仕草すら浮かんできて、随分引き込まれた。

 一通り喋って登葱ときがふっと溜息をついた時、ようやく寿院が口を開いた。

 「陸は子供たちの身元を全て調べたのですね」

 「ええ、もう全て。そればかりかそれぞれの事情までも。あのタチの悪い稲と麦の母親でさえ、稲と麦を逃そうと必死だった。だからあのようなことをしたのですね」と、登葱が言う。

 「そうですね。母親の必死の想いは代え難いです。命懸けだったのですね」と、寿院は想いを馳せる。

 「ええ、そして、無名と、ちびすけは屋敷の者に捕まった後、必死に逃げてきて、ここに辿り着いたのです。あのように少しでも追い出そうという気持ちがあったことを後悔いたします」と、登葱が言う。

 「その二人は恐らく口封じですかね。それにしても子供たちを攫って何をしていたのでしょうか?売買…?登葱殿が面倒を見ていた赤子を殺す意味があったのでしょうか?」

 「まだ赤子だったというのに…。何故かは分かりませんが、私は絶対に許すことができません」

 「赤子までも手に掛けるなど本当に許し難い。それで、その赤い衣の子供が屋敷の娘なのですね」と、寿院は尋ねた。

 「その通りです」

 「陸が雑木林で見たという獣憑きの赤い衣を身に纏った女のむすめなのですね。つまりその子供が阿袮あねですか?」

 「はい」

 「ああ、まだ分からないですが、うっすらと見えてきたような気がするなぁ。信蕉しんしょう様は今回の藤家の事件より遥か昔に、もうすでにこの事件を追いかけていた。そうなんだ。まだ過程に過ぎない…?」と、ぶつぶつ呟く。その時寿院は、はっと思い出したように登葱を見た。

 「身元がはっきりしない男が二人いましたね。一人の男は、陸に、隆鷗を屋敷の者に見付けさせてはいけない。と、そう言った。それはどう言う意味だと思います?」と、寿院は、不安気に言った。

 登葱は、少し黙り込んだ。まるで言葉を探しているようにぼんやりと風景に視線を投じた。

 「隆鷗様の能力に関係していると思いますが…」と、やがて登葱が言った。

 「隆鷗ですか?実は登葱殿にまだ話していないことがあります」と寿院は話を切り出した。

 「そうでしょう。最初からあなたは異質でした。月子様があなたを見たとたん、一瞬で表情が明るくなったことを私は見逃さなかった。私は月子様のあのような表情を初めて見ました。月子様が赤子の頃からずっと一緒だったのですよ。本当に驚きました」

 「ええ、もうすでに誰かにお聞きになったかも知れませんが、月子様が物乞いの格好をして都におられた時、わたしはずっと月子様に纏わりついていました」と、寿院は照れ臭そうに笑った。「でも、登葱殿、誤解しないで下さい。わたしは当時月子様を男の子と思っていました。藤家で夜一よいち殿に聞いて、初めて女子おなごと知ったくらいです」

 「まぁ、なんと…」と、登葱はほんの一瞬くすっと笑った。

 「しばらく月子様と、夜一殿の娘のかたきを探しながら、幾つかの事件を解決したりして、本当に楽しかったなぁ」

 「あぁ、その話しは夜一様にお聞きして、私も驚きました」

 「しかし、ご存知のように月子様は信蕉しんしょう様に連れ戻されました。まぁ、寂しくはありましたけど、わたしもそれには賛成でした。月子様があのまま都に居続けるのは危険だと思いましたから」

 「そうですね。私もホッとしました」

 「しかし、ここからなのですが、まるで入れ替わるように、わたしの寺に…まぁ、寺と言っても廃寺みたいな汚い所なんですが、そこに隆鷗たかおうが師匠の文を持って尋ねて来たのです。その日からわたしはずっと隆鷗と共に生きているんです」

 「まぁ…」登葱は本当に驚いていた。恐らく登葱は滅多なことで驚いたりしない、肝の据わった女であろうと寿院は思っていた。こうして、驚くことなど、滅多にないに違いない。

 「隆鷗たかおう様の行方を聞いてはいけないと私たちの間では暗黙のうちに了解していました。だから隆鷗様が消えて以来、誰も隆鷗様の居場所を聞く者はいませんでした。そうなんですか。良かった。本当に良かった」

 「しかし、わたしはずっと釈然としなかったのです。師匠の文には、唯一わたしだけが頼りになるから、この子供を預かってくれ。隆鷗は変わった子供だけど、大切にしてくれ。とだけ書かれてありました。隆鷗が如何にしてわたしの所に来たのか、その経緯が何も書かれていなかったし、隆鷗も何も言わない。しかし、わたしは深い理由があると思っています。ましてや月子様と入れ違いにやって来た…。月子様と何某なにがしら関わりがあるのではないかと…。それに師匠が何処にいるのか、わたしは知らないのです」

 ちょうどその頃太陽が真上に登りきっていた。これまで長い影を作っていた木々の影が庭からほとんど消えていた。

 「なるほど、その理由をお聞きなりたいわけですか?」と、登葱が言う。

 「ええ、わたしは、その理由は月子様にあるのではないかと思ったのです。もしも、隆鷗ひとりの問題でしたら、わたしはこうして尋ねたりはしなかったと思います」

 「しかし…。その問題は非常に複雑なので、伝え切れるかどうか自信がありません。それに月子様も隆鷗様も望んでいないのではないかと思います」

 「しかし、隆鷗も月子様も、一見成長したように見えても、まだまだ未熟。我らが守らなければならないところもあります」

 「そうですね」と、登葱は影が消えた庭をぼんやり見つめた。

 「でしたら、わたしが心配していることが一つあります。考え過ぎだと分かればわたしも安心して帰れます」と、寿院は力無く笑った。

 「そうですか。どうぞ聞かせて下さい」と、登葱が言う。

 「これは夜一殿から聞いた話しです。夜一殿はご存知の通り視力を失っております。それと引き換えに不思議なものが視えるようになったらしいのですが、最初に月子様を見た時、無数の白い光の玉が月子様に集まっているのが見えたそうです。最初は精霊だと思っていたそうですが、月子様から文字の話しを聞いて、言霊ではないかと思ったそうです。それは都中のあらゆるところから現れ、月子様の身体に消えていく。と、夜一殿が言うのです。身体に消えていくということは取り込んでしまうのではないかと思います。月子様はただ文字を集めて言葉にして読み解いている。と思っているようですが、実は身体に取り込んでいるのです。わたしは不安でなりません。藤家の対の屋で義忠と対峙した時、倒れてしまいましたよね。その時、口や眼孔、鼻孔から真っ黒い靄のようなものがもわっと噴き出たと夜一殿が言っていました。それは悪霊と関わりのあるものではないかと勘ぐってしまいます」

 寿院は、ゆっくりと話した。月子の顔から黒い靄が噴き出た様を想像すると、胸の辺りが苦しくなった。

 あれから、夢を見る。ひどく怖しい夢だ。

 最初は月子の口や鼻孔から僅かな黒い靄がもわっと出る。眼孔からも出ると、取り留めもなく溢れ出て、月子の顔が黒い靄で見えなくなる。やがて月子の存在が黒い靄でかき消され、虚空となった。そこに寿院はひとり立ちすくんでいるのだ。ただ、茫然と。

 目が覚めると、身体中から汗が噴き出て、呼吸が乱れていた。

 「月子様は、たまに倒れます。突然強烈な眠気に襲われるようです。だから、言葉を読んだ日は、いつもより早く休みます」と、登葱が言った。

 「よくあるんですか?」

 「はい。そうですね。実は、あの頃月子様は、子供たちとあまり喋ろうとはしませんでしたが、ただ隆鷗様とだけはよく喋っていました。ところが、ある日を境に隆鷗様を恐れるようになったのです。そればかりかこれまでの記憶もすっかり忘れて、ただ一日中ぼんやりしていたことがあったのです。ちょうどあの赤い衣を着た子供が現れて暫くしてからでした。信蕉様に尋ねても何も分かりませんでした。何か重い病気にかかったのだと思っていました。それからですね。倒れるようになったのは」

 「えっ、記憶が?しかし、それは一時的なことですよね。あの頃…月子様はわたしの寺をよく訪ねてましたよ。そんな月子様を見たことはないし、信蕉様が連れ戻したけど、妙なことはなかった気がしますが…?」

 「そうですね。確かに一時的と言えばそうなのですが、だけど、変でした。とにかく隆鷗様を怯えていましたし、それに隆鷗様のことを忘れてしまったようにしか見えなかった。名前すら呼ばなくなりましたから…って言うか、名前忘れてしまったようにしか見えなかったな。ああ、でも確かに、ぼんやりしていても、物乞いの格好をして都に行ってましたね。都までは信蕉様のお弟子さんが交代で連れて行ってましたが、その頃信蕉様もよく出かけていましたので、暫くいつも通りの日々が続いていましたね」

 「えっ、登葱殿はそれを黙って見ていた…?」

 「えっ、いえ、勿論、こそっと後からついて行ってました」

 「えっ?ついて行ってたのに、わたしのことは知らないのですか?」

 「ああ、見つからないように遠くから見守るだけでしたから」

 「ええ、あなたのことだからわたしのことを調べてそうなのですが…?」

 「わたしのことを何だと思っているんですか?わたしは月子様の身の回りの世話をしている女房…いや侍女みたいな者なのですよ。それに、そんな昔のことは忘れてます。わたしが覚えているのは夜一様と手鞠さんくらいです」

 「わっ!なんか嫉妬みたいなものが湧いてきます。なんで夜一殿を覚えていて、わたしのことは無視なのですか?」

 「さあぁ、そう言われましても…?月子様とあなたを町で見かけることってあまりなかったような気がしますが…?」

 「まぁ、そうですかね。確かに夜一殿の方がよく一緒にいたかも…。まぁ、そんなことはどうでもいいのですが…。隆鷗と月子様の間に何かあったのは間違いないですね」

 「もうっ、そちらから仰ったのでしょう。まったく…」

 「それを隆鷗に尋ねても問題ないと思います?」

 「いえ、あまり触れないでいただいた方がいいかと。実は隆鷗様の方が深い傷を負ってると思いますよ」

 「それが隆鷗がここを出た理由なのですか?」

 「理由が知りたいのであれば、そうですね。それに麓の事件のこともありましたので、信蕉様が警戒なさったのは言うまでもないと思います」

 登葱は、ぼんやりとした視線を再び庭の方に投じ、思い出していた。


 そうだ、あれは…。

 赤子が殺された日のこと。

 登葱は、赤子の口に詰められた無数の小石を夢中になって取り出していた。もう息をしていないのは分かっていた。しかし、少しの望みを抱いたが、無駄に終わった。何故、こんな生まれて間もない赤子を手にかける必要があるのか。犯人は分かっている。

 何刻もの間、登葱は諦めきれずにずっと赤子の身体を摩ったり、抱き抱えたりした。顔や衣が涙で濡れていた。こんなにも深い情を抱いていたとは、驚きだ。登葱は身体の不調でその場に倒れ込んでしまった。目が覚めたら、布団が掛けられていた。起こさずにいてくれたのかと登葱は、至誡しかいの優しさに感謝した。だが赤子の姿は何処にもなかった。

 登葱はふらりと廊下に出た。そこから庭の奥にある屋敷の廊下に月子がぐったりと倒れているのが見えたので、慌てて向かった。

 「月子様如何なさいました」

 月子はぐったりとして、気を失っている。まるで息をしていないように見えた。登葱は慌てて呼吸を確かめた。息があり、思わずほっとしたほどだ。

 登葱は、すぐに寝床の用意をして、信蕉の弟子に手伝ってもらって月子を寝かせた。薬師くすしを呼んだが月子の容態は一向に回復しないどころか、原因さえ分からなかった。

 そんな時、何処に行っていたのか隆鷗が戻ってきたかと思うと、すぐに月子の元を訪れた。

 「月子様は大丈夫ですか?」と、隆鷗は慌てた様子で登葱に尋ねた。

 「いえ、いったい月子様はどうなってしまわれたの?」と、登葱は聞き返した。

 「あっ、そうでした。登葱様こそ大丈夫ですか?二日程寝込んでいらっしゃって。月子様も随分心配なさっていましたよ」

 「え?私は二日も気を失っていたのですか?」と、登葱は更に驚いた。

 隆鷗は、月子の顔を覗き込んだ。

 「いったい月子様に何が起こったのですか?」再び登葱は尋ねた。

 「登葱様が気を失っている間、またあの子供が来たのです。その時には子供が纏う悪霊もすっかり大きくなっておりまして…」

 「悪霊…」

 「はい。月子様はわたしと共に悪霊退治をしておりました。しかし、突然月子様の表情が変わったと思ったら、身動きしなくなったのです。そしたら月子様の身体から黒い煤のようなものが溢れ出てきて、月子様は倒れてしまわれた。月子様の中に悪霊が生まれてしまったのかも知れません。月子様の虚空の文字の能力はまだ明確なことが分かっていません。都に出て沢山の文字を読み解いてくるようにと、信蕉様が仰っていました。それにより、月子様がより多くの言葉を読めるようになると。一方で沢山の言葉の中には呪詛のような悪意も含まれた言葉にも触れさせてしまうのではないかとも心配なさっていました」

 「月子様の身体の中から溢れ出た煤とは悪霊なのですか?」

 「はい。あの子供の悪霊に触れ、月子様の中で新たな悪霊が生まれたのではないかと想像してしまいます」

 「それで、月子様の中の悪霊は今はどうなっているの?」

 「今は大人しくしていますが、月子様は目が覚めません」

 「隆鷗様、助けて頂けますか?」

 「勿論です。登葱様、わたしはただ廊下に倒れた月子様を放っていたわけではありません。あの子供の悪霊を退治していたのです。刀で両断したのですが、子供の悪霊はあまりにも手強くて、全てを滅することが出来ませんでした。影近殿と箭重殿にも手伝ってもらうように頼んでみます。あの子供の悪霊を退治しないことには、月子様の悪霊を滅しても安心できません」

 「何としても月子様を助けて下さい」と、登葱は懇願した。

 しかし、その後、赤い衣の子供は姿を見せなかった。

 月子は、夜には目が覚めたが、ぼんやりしていた。

 「月子様大丈夫ですか?何ともありませんか?」

 「大丈夫です」と、答えたが、登葱にはそうは思えない。

 その日は早く休ませて、登葱は隆鷗に月子のことを報告した。

 その数日後無名とちびすけの遺体が発見された。しかし、月子に伝えても、無感情に空返事をしただけだった。まるで人が変わってしまったようだった。

 月子は、赤い衣の子供が来なくなってからというもの、周りのことにもあまり関心を示さなくなって、幾日もこれまでと同じような生活をただ繰り返していた。普通に物乞いの格好をして、信蕉の弟子と都に出かけていたし、きちんと帰ってきていた。しかし、やはり感情は戻らなかった。それに時折、前ぶれもなく突然失神した。

 登葱は心配でならない。普通に生活しているには、さほど問題があるように見えなかったが、都に出ることだけは必死で止めていたが、何故か、そんな時の月子は意思が強くて、登葱をねじ伏せていた。登葱には、その力こそ、月子ではなく、何か別な力が働いているようで、その恐怖が日に日に増していった。

 その頃、信蕉は忙しくしていて、留守がちだった。戻ってきたかと思うと、すぐに出て行った。

 月子のことは心配していたのだが、信蕉にとって、それより重大な事件が起こっているらしかった。登葱は信蕉から月子をしっかり監視するように言われ、都にはもう行かせるな。とも強く言われていた。

 そんなある日、まだ、朝も明けていない、真っ暗な早朝に、やはりいつものように都に出かけるといって月子が支度を始めた。登葱は急いで至誡しかいと、隆鷗に伝えた。

 「月子様、駄目です。もう都には行かないで下さい」と、隆鷗が必死に止めた。しかし、登葱が思うように月子の力は、別の何かのように強かった。隆鷗でさえ、押された。それでも隆鷗は必死に止めた。

 「邪魔しないで下さい。行かなくてはならないのです」と、月子が隆鷗を払い退ける。思わず勢いよく倒れた隆鷗は、素早く立ち上がり、月子をひっぱたいてしまった。

 月子は勢いよく倒れた。しばらく伏していたが、突然むくっと起き上がり、隆鷗を見据えた。

 「何をする?」鋭い声で月子は叫んだ。

 思わず、その声に隆鷗は後退りしてしまった。そして、静かに、なるべく声を荒げないように、庭の隅で見守る至誡しかいに告げた。

 「至誡様、わたしの部屋にある、戦さ場から持ってきた刀をここにお持ち下さい」

 至誡はすぐに理解した。戦さ場から持って来た刀とは、隆鷗が信蕉に出会った頃、戦さ場で屍の中から這い上がり、悪霊と化していた武者から奪った刀だった。隆鷗はその刀でそこかしこに現れた悪霊を一刀両断していった。その時、自分でも信じられない力が出た。その力こそ、刀の為す力だと隆鷗は信じて疑わなかった。

 隆鷗がそれを持って来いと言うのは、悪霊を斬ることを意味していてのだ。

 至誡は心の中でひーっと悲鳴を上げた。

 「なんと言うことだ。おぅ、どうぞどうぞ…、月子様をお助け下さい」と、至誡は祈らずにいられなかった。

 「其方は誰だ?」と、月子が言う。「なにゆえ、我を止めるのだ?我は行かなくてはならない。寿院が待っている」

 「じゅいん?」じゅいんとは誰だ?月子様。隆鷗は、それを口に出せない。

 「邪魔をするのなら、喰ってやる」と、不気味な声で月子が叫ぶ。

 隆鷗には、不気味な月子が見えていた。最初に、月子が言葉を吐くたびに併せて黒煙が噴き出ていた。そしてすぐに眼孔や鼻孔からふわりふわりと出てきたかと思うと、勢いよく噴き出し、あっという間に月子の身体全身が黒煙に覆われてしまった。月子が悪霊と化してしまった。何故、そんなことになってしまったのか、隆鷗には分からない。ただ、じゅいんという言葉が耳に残った。

 やがて、至誡が隆鷗に刀を投じた。隆鷗は、それを受け取ると、事実上月子に構えた。隆鷗には迷いが生じていた。

 月子の顔はまるで別人だった。眼光を放ち、鬼のように怖しい。それでも隆鷗は一刀が放てない。月子の悪霊はゆっくりと大きくなっていった。

 「隆鷗様、迷ってはなりません。迷いは更に月子様を苦しめることになります」と、至誡が叫ぶ。

 そんなことは分かっている。刀を持つ隆鷗の手が震える。隆鷗は高く跳躍した。そして、高く伸びた黒い煙の先端から振り下ろして、真っ二つに切り裂いた。同時に月子が叫んだ。一体化している。それから隆鷗は夢中で可能な限り細かく切り刻んだ。気がついた時には、黒煙はちりぢりに散って、空へと消滅していった。月子が地面にぶつかるように倒れた。隆鷗は、思わず月子を抱き抱えて叫んだ。

 月子は、ぐったりと意識を失っている。

 登葱は庭の片隅で呆然と立ち竦んでいたが、はっとして月子に駆け寄った。

 「隆鷗様、いったい何が?」と、登葱は尋ねた。

 「分かりません」と、隆鷗が答える。「月子様が悪霊と化していました。何故、そんなことになってしまったのか、それは分かりません」

 「これからどうしたらいいのでしょう?月子様は元に戻られるのですか?」

 「悪霊は可能な限り切り刻みました。月子様の中に一片も残らぬように。もう大丈夫と思います」

 「これまで、こんなことは一度もなかったのに…?」

 「わたしが思うに、先日の赤い子供の悪霊が取り憑いたのではないかと思います。暫く人とお会いにならない方が良いかと」

 「分かりました。屋敷の奥の間に寝かせます。そして、今後一切都にも行かせません」

 「月子様は心に留めた方が都にいるようです。またその方に会いに行かれるのではないかと」

 「大丈夫。私がしっかり見張っておきます」

 月子は丸一日眠っていた。次の朝ようやく目覚めたが、これまでの月子と何ら変わりはなかったのを見ると、登葱はいささかほっとした。しかし、昨日のことはすっかり忘れていた。だから登葱も決して口にはしなかった。ただ、厄介なのは忘れているからこそ、また都に出かけようとした。その度に登葱は月子を制止しなければならなかった。登葱には辛いことだ。やがて、諦めたのか、月子は都の話しさえしなくなった。

 ただ、ひとつ厄介なことが起こっていた。月子は、隆鷗のことをすっかり忘れてしまっていたのだ。隆鷗の記憶の全てが、ポツリと消えた。しかし、隆鷗の顔を見ると、まるで鬼にでも出会ったように、悲鳴をあげて逃げしまう。そればかりか、物を投げたり殴ろうとしたり…絶対隆鷗を近づけさせない。

 隆鷗は深く傷ついた。

 そんな二人を影近も、箭重も不思議に思っていたが、決して触れようとはしなかった。

 隆鷗には辛い、そんな日々が暫く続いた。

 隆鷗は、月子のそんな態度に傷ついたとしても、絶対顔には出さなかったが、日々の中で少しずつ、僅かばかりの憤りが蓄積していった。それは隆鷗自身も気がつかなかった。

 更に、暫く経った頃だろうか、月子もまた、都への思いを少しずつ、僅かばかり蓄積していった。ずっと隠し通していたのだが、ある日、どうしても我慢ができなくなってしまったのだ。

 夜も明けきれない早い朝、月子はごそごそと物乞いの衣を探した。しかし見当たらない。登葱が処分したのだろう。仕方なく月子は寝巻きのまま屋敷を出た。

 月子は、寿院と、夜一のことが気になっていた。寿院とともに早く手鞠を手に掛けた者を探さないと、このままでは夜一が壊れてしまうのではないかと不安だった。

 あれから幾日も時が流れていた。その間、寿院の元に別の事件が舞い込んできて、なかなか手鞠のことには集中できていなかった。今、寿院の元に行けなくなったらと思うと、月子は不安になった。

 月子は、誰にも悟られないように静かに寺を出ようとした。しかし、やはり登葱には見つかってしまった。

 月子は登葱に懇願した。

 「我は行かねばならないのです。夜一に約束したのです。必ず手鞠のかたきを撃つと」

 「それは月子様の責任ではございませんし、月子様のなすべきことではございません。今は身体を休めるのが先です」

 「いや、ほらっ見てみろ。こんなに元気だ」

 「何を…隆鷗様のことをすっかり忘れているくせに」と、登葱は呟いた。「元気だなんてとんでもございません。自分のことを何も分かっていない!」

 「うるさいぞ。登葱!とにかく我は行く!」

 登葱は、困惑した。思わず隆鷗を呼ぶ為に声を荒げた。

 隆鷗はすぐに飛んで来た。

 月子と登葱が対峙しているのを見て、すぐに理解した。また、じゅいんか?と心の中で呟いた。

 「月子様、何処へ行くのですか?まだ身体も治っていないというのに…?」

 月子が振り返って隆鷗を見た。何の感情もない冷たい表情だ。

 「誰だ?」と月子は言った。

 「わたしのことなど、どうでもいい。早く屋敷に戻って…」と、隆鷗は声を荒げた。

 「うるさい!何なんだ!其方は誰だ?なにゆえそんなに偉そうに申すのだ?」

 月子のきつい言葉で、隆鷗は何も言えなくなってしまった。これまで蓄積された憤りが爆発する寸前だったのだ。暫く黙り込んだ隆鷗の目には涙が溜まっていた。

 登葱は、そんな隆鷗を見て、これまで随分我慢していたのだなと、何だか哀れに思う。

 「月子様、なんてことを…」と、登葱が呟く。

 隆鷗は、もう何も言わなかった。そして、離れの平屋に戻り、悪霊を斬る刀を手にして、寺を後にした。

 隆鷗が刀を手にした時、目が覚めた影近が眠そうに隆鷗を見たが、何も言わずに再び眠ってしまった。

 登葱はひどい胸騒ぎを覚え、至誡に事の成り行きを伝えた。その日も信蕉は留守にしていたのだ。

 そして、月子は、隆鷗が去った後、都には行かないふりをして、登葱が至誡の元に向かったのを確かめると、素早く寺を出て都へ向かった。

 隆鷗は、石の階段を使わずに、山を降りるいつもの道順を急いだ。山を降りたところで、石の階段から続く急な坂道を降りた緩やかな勾配に出た。暫く後に石段を降りていた月子も、その緩やかな勾配に降り立った。

 隆鷗と月子は、降り立った時刻の差と同じように別々の道を歩くことになってしまったのだ。

 その頃、遠くの都に夜の闇が明けようとした。

 隆鷗は、麓に降りると、真っ黒い闇に覆われた屋敷を見た。都を朝陽が包み込もうとしているのに、あの屋敷の闇は晴れない。悪霊の棲家と一眼で分かるのは自分だけなのだ。と隆鷗はひどい孤独を感じた。

 だが、隆鷗とて、あの屋敷の内部は分からない。強い悪霊を持つ赤い衣を着た子供一人で、あのように屋敷そのものが黒煙のような闇に覆われるだろうか?

 隆鷗は、ゆっくりと用心深く屋敷に近づいていく。あの家の者を絶たなければ、多くの者が苦しむのだ、そしてその中には月子の存在も大きい。しかし、月子にはもう会いたいとは思わなかった。あのように変貌してしまった月子を見るのは、何よりも苦痛だった。あの屋敷に巣食う悪霊を全て滅したら、寺を出ていく。

 隆鷗は、悪霊を絶つ刀を胸に全ての悪霊を滅する覚悟を持った。

 その時、山側の草むらが激しく揺れた。隆鷗は咄嗟に刀を構えた。草むらから出てきたのは陸だった。

 隆鷗は構えを解いた。

 隆鷗は陸が自分を嫌っていることを知っていた。いつも、睨む瞳には侮蔑が込められていた。ずっと、姿を見掛けなかったが、こんなところでいったい何をしているのだろうか。しかし、悪霊を滅しに行くのに陸を連れては行けない。隆鷗は陸を無視して、先を急いだ。だが、陸はついてくる。

 「何処へ行く気だ」と、陸が聞いた。

 隆鷗は答えなかった。

 「まさかあの屋敷に向かっているのか?もしそうだとしたらやめておけ。悪霊だの死霊だの子供みたいなことを言っているお前が敵うわけないから」

 隆鷗は一瞬陸を振り返って見たが、やはり無視した。

 「お前が出しゃばってもろくなことにならないから。お前は寺でおとなしくしていろよ」

 「黙れ!」

 「悪霊を見ているお前を屋敷の者は恐れるとでも思っているのか?そればかりか大歓迎さ」

 「どう言う意味だ?」

 「お前は囚われて、一生飼い殺しだ」

 「何を訳の分からないことを言う?」

 「わたしはここのところずっとあの屋敷を探っていた。あの屋敷はお前が思っているようなところではないぞ」

 「分かっている、あの屋敷は…」

 「悪霊が渦巻いている…とでも言いたいか?」陸が遮る。「お前が何を見ているのか?勿論分からない。お前の言うこと全て下らなすぎてまともに聞く気にもならないからな」

 「だったらついてくるな!君はいつもわたしとは関わりたくない…と信蕉様や影近殿に言っているだろう。わたしが知らないとでも思っているのか?」

 「いや知っているだろうね。わざと聞こえるように言っていたから」

 「なら、関わる必要もないだろう」

 「勿論、あまり関わりたくはない。だけど言っておくよ。お前があの屋敷に捕らえられたら、より大勢の者が苦しむことになるからね」

 「捕らえられるものか」

 「捕らえられる確率は高いな。お前、屋敷に行くと言っても何も知らないのだろう。あの屋敷にはとんでもない悪鬼が潜んでいる」

 「なんだ?」

 「あそこには、親玉の悪鬼がいる。奥方は獣憑きにされて、首を繋がれ檻に入れられている。あれはわたしから言わせてもらえば、獣憑きではない。そんな者がいてたまるか。あれは洗脳だ。そして、当主はただの頭の悪いうつけだ。いつも妄言ばかり言っている。そして十人以上の使用人。しかし、本来の屋敷の使用人は一人か二人だな。後は悪鬼が何処からか連れて来た者たちだ。悪鬼の言うことしか聞かない」

 「やけに詳しい…」

 「お前は何も知らないくせに、今から殴り込みなんだろう。めでたいな」と、陸が笑う。

 「知ってても意味ない」

 「悪霊が見えるから?本当めでたいよな」

 「うるさい!」

 「ふんっ!しかし、あの悪鬼は、わたしは普通の人間ではないと思う。分からないが。あの女の目を見ると皆動かなくなる。それにどんな理不尽なことでも従う。何か特別な能力があるように見える」

 「君、そういうこと、いつも下らないと馬鹿にしていた…けど…よく堂々と」

 「そして、獣憑きの女のむすめだ。あれはもう作られた者だ。悪鬼の思うままにしか動かない。中身空っぽだ。命じなければ口さえ開かないのさ。だからこそあの悪鬼の器として全てを詰め込まれている」

 隆鷗はいつのまにか陸の話しを黙って聞いていた。

 「お前が屋敷に入ると、まず、悪鬼の私兵がお前を取り囲んで押さえつける。そこに悪鬼の登場だ。悪鬼はお前の髪の毛か何か掴んで、瞳を見せて、呪文を唱える。するとお前はもう悪鬼の思う壺。お前は監禁されて悪鬼の下僕だろうな。ある人が忠告してくれた。お前を絶対屋敷の者に見つけさせるなと。お前の存在はあの悪鬼にとって稀少なんだ。必ず手に入れたい存在なのだよ。あの人は多分そう言いたかったんだ」

 「わたしを…」

 「ここから肝心だ。悪鬼には外に仲間がいる。何人いるか分からない。攫われた子供が連れていかれたところだが…ひ弱そうな子供は途中で米に替えられていた。頑丈そうな子供や勝気な子供は何処かに連れて行かれた。残念ながら見失ってしまったが…わたしが思うに子供は鍛えて私兵にするつもりなのではと思う。しかし残念ながらわたしの想像でしかないが。なんか大きな郎党があるのではないかと思っている」

 隆鷗はただ感心するばかりで、何も言い返せなかった。

 「さて、お前の存在だが、おそらくわたしが思うに…村の連中はあまり喋らない。それでも一言二言くらいは喋る。だから一つ一つ組み立ててみたのだが、最初、奥方の奇行から始まった。村の連中はその奇行を見て、獣憑きと噂した。それからその悪鬼がやって来た。悪鬼は獣憑きを祓いにやって来たのだ。悪鬼はお前のような奇怪な者と同類だ。おそらくお前のような者が大好きだ。仲間に引き入れようとする。お前があの屋敷に入るのは、飛んで火に入る夏の虫なのだよ。隆鷗」

 隆鷗は、足を止めて真剣に陸の話しを聞いた。話しを聞いていなかったら、陸の言う通り、屋敷に入ったら、すぐに使用人に押さえつけられただろう。想像するだけで怒りが込み上げてくる。

 隆鷗は考えた。何をすべきか。表から突入しても陸の言う通りになる。それでは馬鹿だ。

 「あの屋敷は、門戸から入ると、最初に幾人かの使用人…つまり私兵が大きな居間で雑魚寝している。次に悪鬼だ。女が大部屋をひとりで陣取っている。屋敷の奥には頭が空っぽの当主と、娘がいる。こいつらは悪鬼が何か言わない限り大人しい。そして、更に奥の間に縄にくくられた奥方が、人が一人入るような檻に閉じ込められている。そこに元々いたに違いない使用人が奥方を見張っている。と、言うより見守っていると言った方が正しいのかもしれない。つまり、お前は最初に使用人…私兵を相手にすることになるな」

 「君、すごいな。そこまで調べているのか」と、隆鷗は純粋に感心した。その反面、怒りの感情のまま寺を飛び出してきた自分の愚かさを考えずにはいられない。

 陸という男は、現実的で的確だ。そして隙がない。嫌われているからといってそれだけで遠ざけるのは勿体ない。だからといって、今、すぐにこれまでの関係を変えることもできない。

 「それでだ。あいつらまだ寝ている。あいつらは、たいそう怠け者だ。朝だからといって、すぐには起きない。だらだらとのらりくらりしている。そこで二つ方法がある。まず、眠っている間に使用人を片っ端から痛めつけて、動かなくした後にあの悪鬼をやっつけるか?それとも鼻っから使用人は無視して、静かにあの悪鬼だけをやっつけるかのどちらかだよな。わたしは後者の方が単純でいいと思う」

 すごい。ここまで考えているとは。

 「わたしは、信蕉様に許しを得て一日中あの屋敷を探っているのだが…。一日中だ。ただ、ぼーうっと見ているだけではないのだ。どうやったらあの連中を殲滅できるかといろいろ考えていた。考えている間、簡単に人を拘束できる縄も作ってやったぞ。表から突入するのは馬鹿がすることだ。悪鬼のところに行くには、使用人の部屋を通らなければならないから。あいつら怠け者のわりには敏感だ。僅かな物音でも起きる。だから門戸を避けて、塀から忍び込むのだ。悪鬼がいるあたりはだいたい分かる。わたしが教える。静かに忍び込んだら、眠っているあの女の口に小石を詰め込め。声を上げられたら使用人が押し寄せて来る。そして、わたしが作った縄を使え。輪っかが二つあるからそこに手首を入れ、すぐに引っ張って何処かの梁に縄を引っ張って結びつけろ。それで間違いなく動けなくなる。お前は、その刀で悪霊を両断するのだろう。それで終わればいいが、悪霊より恐ろしいのは人間だからな。それを忘れるな」

 隆鷗は、陸の言葉を一文一句聞き逃さなかった。しかし…。縄の輪っかに手を入れて、梁に引っ掛けておいて、口に小石を詰めた方がいいかな。など考えていた。小石と言えば、登葱が面倒見ていた赤子の口に詰められていたことを思い出した。あゝこれは復讐に違いない。たくさん詰めてやろう。

 陸が言ったことを頭の中で想像しながら、隆鷗は実行に移した。必ず、何処かで予期せぬことが起こるに違いない。それも頭に入れ慎重に事を進めた。だが、想像以上に上手くいった。もしかして陸は、何度も繰り返し繰り返し、実践に備えていたのではないのか。と思ったほどだ。いつか影近が言っていた。

 「あいつは目立たず、存在感のないやつだ。でも驚くほど勤勉家だし、驚くほど努力家だ。おまけに面倒臭いほどに慎重だ。それは異常だな。頼りになるやつではあるけど…」

 なるほどと思った。しかし、残念だ。すっかり嫌われてしまって…。だからといって何故嫌われているのか、隆鷗には分からなかった。

 隆鷗は、すでに女を拘束して、口のなかに溢れるほどの石を詰め込んでいた。女の口から声が漏れていた。声が激しくなる程に、石に真っ赤な血が滲んでいった。

 女の動きがピタリと止まったと思ったら、恐ろしい目で睨みつけてきた。その瞬間、女の眼孔から真っ黒な濃い煙のようなものが放出され、隆鷗にまとわりついた。

 ああ、これか。女の目を見ると、皆動かなくなる。と陸が言っていたものの正体か。

 女の眼孔が真っ黒になっていく。女の中で眠っていた悪霊が目覚めたのか?この世で見たこともない黒い何かがゆっくりと隆鷗の身体を縛りつけていく。

 隆鷗は、刀を抜き鋭い刃で黒い何かを斬った。眼孔に残る黒いものを掴み、力の限り引っ張ると、女は苦しみながら、身を捩った。口の中に詰め込んだ小石が真っ赤になり、血が滴る。眼孔から黒い何かを引っ張り出してしまうと、床に落ちた黒いものが生き物のようにびくびくと震えて、外へと逃げ出してしまった。

 これまでに見たこともない悪霊だった。

 隆鷗が、逃げた悪霊に気を取られている、たった一瞬の間で女の口の中から全ての小石が無くなっていた。口から眼孔と同じような黒い濃い煙がふわりふわりと吹き出ている。

 「まだいるのか?」と、隆鷗が苛立たしく言うと、女が勢いよく黒煙を吐き出した。

 「誰だ?」と、女が言った。しかし、声は汚い濁声だった。悪霊に違いない。「我を蔑む者はお前か?なにゆえ我を貶める?なにびとも我の力の前では無力な下僕となり、我が命じるままに命を差し出すというのに、なにゆえ我の力が及ばぬのだ」

 「お前こそ誰だ!」

 「お前は我の目の力を奪った。しかし、残念だな、我の力は目だけではない」

 「目だけでないと申すなら、その全てを滅するのみ」

 「滅する…?滅するだと?これは実に面白い冗談だ。人間ごときが我を滅するだと。人間がいかに脆弱とも知らず、人間のお前が我を滅すると言う。いかにも脆弱な人間の申すことだ。強靭な者の姿を知らない無知だからこそ、己が愚かな脆弱者だと理解せねばならない。お前がその最たる者だと」

 「へぇー、悪霊には様々な物が存在するのだな。愚弄な者が人間の言葉を流暢に話すとは、これは驚きだ」

 「悪霊だと。悪霊と申すか?我は悪霊ごときではない」

 「悪霊ではないと申すか?悪霊でなければ何と申す?」

 「我は百年以上ここに留まり叡智を得た者、賢者と申せ」

 「何が賢者だ?悪霊であれ、物怪であれ悪き物に何の変わりもない」

 「分からぬ餓鬼だ。我の力は絶大だ。悪霊だと思って侮る者に我が倒せるとでも思っておるのか?お前の為に申しておる」

 「うるさい」と、言うと隆鷗は女の口から黒煙を掴んだ。黒煙はまるで物質のように掴めた。なるほど、百年もこの世を彷徨うものはまるで肉体でも取り戻そうとしているのか?しかし、人の身体の中に巣食うこともできる面妖な存在だ。

 「なんと…お前は我を触れるのか?我は煙のごとく意のままに存在している。なのに我を捕えると申すか?お前の霊力は見えておったが、まだ餓鬼のくせになに故、そのような力を手にしたか?」

 「知るか。わたしはただ、お前のような世を乱そうとする物が憎いだけだ。お前のような悪き物全て滅し尽くしてやる」

 隆鷗は、そう言うと、自分でも抑えられない怒りのまま、口の中から力の限り黒煙を引き抜いた。黒煙は太くて長い蛇のようにくねくねと動いた。壁にぶち当たったかと思うと、床に激しく衝突した勢いで隆鷗を狙う。隆鷗は、落ち着いて、刀を抜き、黒煙の蛇を斬った。真っ二つに斬られた黒煙は外へ逃げようとする。

 逃がすものか。と、隆鷗が外への道を塞ぐと、二つに分かれた蛇はくねくねとしながら床の中へと姿を消した。

 そこに残された女は、白眼を剥き気を失っている。終わったのだろうか?だが、もう黒煙は見えない。

 その時、強い視線を感じた隆鷗は、思わず振り返った。そこには寺の子供を葬った赤い衣を着た女の子供がいた。

 赤い衣の子供は、黒い煤のような細かな物質を放ち、隆鷗を無表情に見ていた。以前はただ靄のように見えていたものが今ではより鮮明に見えていた。しかし、そうした変化に隆鷗は無頓着だった。

 隆鷗は、ゆっくりと刀を構えた。そして、女の子が身動き一つできない瞬間に悪霊と思われる黒い煤を斬った。だが、こまかな黒い物質は自由に動き回る。これは斬れない。斬っても斬っても動き回る物質を捕らえられない。このままではただ疲弊して自分が倒れるだけだ。と、理解した隆鷗は動きを止め、子供をひたすら観察した。子供は、意思を持たないのか、黒い物質との同調がない。ただ器になっているだけなのか?だとしたらなんと哀れだろうか?

 黒い物質は、隆鷗の動きに反応していた。そこには、もう無数の幼い子供たちの霊の姿はなく、別の怪物と化していた。隆鷗の動きに反応しているのなら、いっそのこと、この子供の意識は必要ない。隆鷗は、子供を気絶させてみた。黒い物質の動きが弱った。同調はなくとも、子供の生の何かを貪りながら動いているのか?動きが鈍った細かい物質は、これまで物質同士で同調していたが、ばらばらに動くようになった。その為か部屋中に広がってしまった。余計対処が困難になったように思われた。だが、隆鷗の動きに対しても鈍い。

 隆鷗は、考えなしにとにかく夢中になって斬った。斬って斬って斬りまくった。息も切れ、疲弊し、思わず跪いてしまったが、辺りを見ると、細かな物質の数が減っている。考えなしにやったことだが、案外効果があったようだ。

 しかし、残りを全て斬ることは困難だ。もう身体が動けないくらい疲弊していた。

 その時、隅で眠っていた当主が目覚めたのか、隆鷗を何故か羨望の眼で見つめながら呟いた。

 「おぉぅ…、貴方様は山神様か?」

 隆鷗は首を傾げた。

 「救いに来て下さったのか?」

 周辺を見ても、黒い物質は動こうとしない。おそらく当主には見えていないだろう。

 「山神様、どうぞ…どうぞお救い下さい。娘はこの通り、突然、ここにやって来た『祓い屋』なるものの手によって、まるで物怪のようになってしまいました。『祓い屋』とは名ばかり。あれは悪鬼だ。呪いの化け物だ。娘はもはや口も聞けず、悪鬼の命令にしか反応しないのです。お願いです。どうか娘をお助け下さい」と、当主はただただ懇願した。当主はうつけのように陸が言っていたが、そこには一途に娘を思う父親の姿があった。

 「悪鬼は退治したから、もう大丈夫」と、隆鷗が言った。

 「山神様、有難う御座います」と、当主は涙を流しながら、何度も頭を下げた。

 「もういいですから」と、隆鷗が娘を振り返ると、何故か理由は分からないが、空中に漂う細かな物質が、ふわりと消えて無くなっていった。

 悪霊が消えたのか?何度周囲を見回しても、黒い物質は何処にもなかった。もう大丈夫なのだろうか?

 「ご当主、娘さんは、もう大丈夫。悪霊は消えた」と、隆鷗が言う。

 「おお、なんと感謝を申し上げたらよろしいのか…。山神様、奥の部屋に私の女房が獣の物怪に取り憑かれております。どうぞどうぞ、女房もお救い下さい」

 「どうやら貴方の父親として強い願いが利いたのかも…」

 そう言うと、隆鷗は奥の部屋へ移動した。後ろから当主も付いてきた。

 隣の部屋には、陸が言う通り、人が一人入れる檻があった。その中で女が沢山泣いたのか、目のまわりを紫色に腫らし、皮膚が剥れ、もう人の感情のない乾いた顔で、ただしきりに窓の外を見つめている。その姿はもう人のものではなかった。しかし、驚くことに女には悪霊の影がなかったのだ。女の周囲は何も見えない。

 「ご当主、あなたの奥方様は、獣になど取り憑かれておりません」と、隆鷗は言った。

 「なんと…?そんな馬鹿な話しあり得ません。この者は暴言を吐き暴れまわり、多勢の者に恐怖を与えました。それがわたくしの女房の仕業とはとてもとても思いませぬ」

 「いいえ。何と申されても、この者には悪霊も獣も憑いておりません故、わたしには何もできません」

 「そんな馬鹿な?」

 「しかし、奥方様ではなく、先程の女にはたいそう強い悪霊が取り憑いておりました故、滅しております。そして、あなたの娘さんには、不幸に亡くなっていった多勢の子供の霊が悪霊と化したものが憑いておりました。それもあなたの力をお借りして滅しております。ですからここにはもう悪霊はおりません。奥方は悪霊ではございませんので、わたしには何もできません」と、隆鷗は言った。

 当主は、頭がおかしくなったのではと心配になるほど号泣した。


 一方陸は、ずっと不安な面持ちで、屋敷の傍から離れずただ見守っていた。

 隆鷗が屋敷に入って暫くして、二人の間謀が現れた。陸が麓に降りて出会った間謀だ。あれから二人とは時折情報交換を行なっていたので、状況を把握するのが捗って、信蕉により正確に報告することができた。

 「おい餓鬼、今子供が屋敷の塀を超えただろう。あの子供は、もしかしておめぇに忠告した子供ではないのか?」と、麓に降りて最初に出会った間謀が尋ねてきた。

 「そうです」と、陸が答える。

 「何故、忠告を無視した?」

 「それは、あなたがあの男のことを知らないからです。あいつがわたしの言うことを聞くものですか」

 「そうか?たとえ聞かなくても、何とかするのがおめぇの役目だったんだがなぁ」

 「役目?」

 「そうだ。おめぇの役目だ。あの子供を失えないんだわ。あの能力は貴重だからなぁ」

 「ん?あの子供までも間謀とか言う…その仲間にするつもりなんですか?」

 「いや、もう仲間だ」

 陸は暫く考えた。ここはある者たちにとって会いたいお方がいる通り道と、この人は言っていた。陸は、振り返って山の頂きを仰ぎ見た。

 「なるほど、通り道だ」と、陸は呟いた。

 「そうだ」と、男が言う。

 「信蕉様?」

 「そうだ。おめぇはもっと早く気付くと思っていたよ。都合良く俺たちが現れた…と、気付くんじゃないかって…」

 「あなた達のことをですか?まさか。気付くはずないですよね。わたしはいっぱいいっぱいだった。わたしには守る者がいるんですよ」

 「そうだ。おめぇは子供でいながら多くの者たちを背負っているんだ。子供ながらにもうすでに理解しているのがすごいよな。さすが信蕉様が草の根分けても探し出した子供だ」

 「えっ?どう言う意味ですか?わたしはただの孤児みなしごですよ。親の顔すら知らない。信蕉様が拾って下さったんです」

 「そうではないよ。おめぇの父上のことは、信蕉様はちゃんと存じていらっしゃる。信蕉様はおめぇのことを必死で探したんだ。そして見つけて下さったんだ。いつか信蕉様も打ち明けて下さるだろう。それまでおめぇはおめぇのできることをしっかりやるんだ」

 「わたしの出来ること…?何を?わたしはまだ餓鬼なのですよ」

 「そうだな。まだ餓鬼だ。恐ろしい餓鬼だ」

 「もしかして、わたしだけではなく、寺に住んでいる子供たち皆、信蕉様がひとりひとり探し出した…?」

 「まぁ、そうだな…」

 「信蕉様はいったい何をなさるつもりなのですか?」

 「いずれおめぇにも分かるだろう。いや、もう分かっているんだろう。ちゃんと見るんだ。今の世を…」

 「隆鷗も、信蕉様が探し出したのですよね。そして、月子様…。あの二人はあまりにも特殊だ。何もかも特別だ。あの二人を見ていると、わたしは恐ろしくなります。そして、あの二人には及ばないにしても影近の、あの強さも異常だ。いったいどんな経緯であの者たちを探し出したと言うんですか?」

 「気づいていないのか?その中におめぇも含まれている。腹を決めろ。おめぇが腹を決めるのなら、話してやるよ」

 「いや、それがわたしの宿命なのでしょう。逃れられないのでしょう。それくらい分かります」

 「まぁ、そうだな。それは、何もお前だけではない。俺も、そして、そこにいる爺も皆同じだ。我ら一族の話しだ」と、男は腰を据えた。「それは、月子様の母君から始まった。月子様の母君は、月子様と同じような不思議な力を持っていた。人の心をお読みになる力だった。心をお読みになるばかりではなく、その人に接した人の心も読める。その力に目をつけたある貴族が強引に母君を養女にした。貴族はどうしても力が必要だった。その頃の宮廷は複雑な権力争いが起こり、謀略の上に成り立ったような帝が即位された。母君は巻き込まれてしまった。我ら一族はどうすることもできず、ただ黙って見ているしかできなかったのだ。母君は入内させられ、帝の女御となられた。最初のうちは母君の力のお陰で帝の安定を保つこともできていたが、やがて、それを面白く思わない者たちが母君の力に気づき、母君へ呪詛を行った。しかし、呪詛は上手くいかなかった。しかし、その呪詛により、都の空が真っ黒に澱み人々の気力を失わせてしまった。その力は強大だったと言う。母君は、その力を跳ね除けたのだが、事もあろうか、母君は、呪詛そのものの汚名をきせられてしまったのだ。それにより官職がよってたかって母君を追い詰めた。なんと、養女に迎えた貴族までも一緒になって。その頃にはすでに内親王様をお産みになられていて、内親王様は、乳母だった女房様が必死にお守りになられて今も生きていらっしゃる」

 「もしかして、それが月子様と、登葱様なのですか?」

 「我らから強引に月子様の母君を養子にした貴族は、立場が危うくなったことで我ら一族を売ったのだ。我らは呪われた一族として秘密裏に死罪を言い渡され、一族諸共襲撃を受けることとなった。そして、我ら一族は表舞台から家名諸共すっかり消し去られてしまったのです。月子様の母君のお父上のご兄妹のご子息が隆鷗様。影近様もあなたも、そして箭重様もご子息、ご息女なのです」

 「なんと…?一族の復讐を始めるのですか?母君を養子にした貴族にですか?呪詛の汚名をきせた者ですか。宮廷の官職ですか?それともその者全てですか?」

 「いいえ、信蕉様は、その者達はいずれ謀略の果て権力に謀殺されると仰っている。それに月子様の母君を養女にした貴族はすでに殺されている。貴族は、実行したにすぎず、黒幕がいる。その黒幕もやがて謀殺される。宮廷の官職はただ転がされているにすぎない」

 「だったらいったい誰と戦っているのですか?」

 「分かるだろう?」

 「いえ、まったく分かりません」

 「信蕉様が言っていた。覚悟があるなら、おめぇにだけは本当のことを話しても構わない。と。おめぇは、本当のことを聞かされても、必ず自分で調べると。信蕉様はおめぇのことをよく知っていらっしゃるよな。朝廷にも都にも信蕉様の間者や密偵がたくさんいるんだよ。おめぇはその者達の棟梁になる宿命なんだ。惑わされることなく、ちゃんと考えろ」

 陸は、間謀の言ってることを深く理解はしなかった。しかし惑わされない、真実への追求なら分かる。陸には見えていた。たとえぼんやりした光景でもやがてそれが鮮明に写し出されるだろう。

 「呪詛を企てた者ではなく、実際に呪詛を行った者のことだろうか?月子様の母君の能力だったら、もしかして、謀られる前には気づいていたと思うのだけど、実際陥れられている。それは力のある呪詛者だからこそ。そして呪詛が行われた日には多くの者が犠牲になるほどの力を持っていると?そんな呪詛者が存在するのだろうか?」

 間謀は、ひとり呟く陸を満足気に見ていた。しかし、明確な返事はしなかった。

 「隆鷗様が終わったようだ。どうやら隆鷗様が勝ったようだな。我らはまだ隆鷗様には顔を見られたくないから…」

 そう言うと、あっという間に間謀の姿は消えた。

 屋敷を背中に、隆鷗が陸の方へ歩いてくる。その顔に、何も迷いが無かった。

 あぁ、何かを決めたのだな。と陸は思った。

 「陸殿、わたしは、たとえ嫌われていると分かっていても、陸殿を尊敬する」

 「なんだ藪から棒に。別に嫌ってはいない。ただ…」陸は、最後まで言わなかった。その能力。月子様と、隆鷗は、自分とは違う、何か特別な存在だとずっと陸は感じていた。自分とは違う特別な使命を持って生まれてきたのだ。

 「陸殿がいなかったらわたしは今頃生きていなかった」

 「大袈裟だ。お前は自分の力のことをなんも分かっていないのだな。しかし、何故、今だったのか?何故、突然あの屋敷を襲撃したのだ?」

 「陸殿は何も知らないのですか?至誡しかい様に聞かなかったのか?月子様のことを?」

 「月子様…?」

 「あの屋敷のものは、村の子供の命だけではなく、月子様に悪霊を移した。月子様の悪霊は滅したが、月子様は病んでしまった。もうわたしのことも忘れてしまったのだ。わたしは寺を出ようと思う」

 「何を言ってるんだ。寺を出て、何処へ行くつもりだ。子供一人で生きていけるほど甘くはないぞ。お前は見たのだろう。どれだけの子供が不幸に死んでいったと思うんだ?」

 「都だ」

 「都で子供が生きていけると思うのか?」

 「いや、じゅいんという男を探す」

 「じゅ…?」

 「月子様は、その男を助けようと必死になっていた。月子様が行けなくなったから、わたしが事情を尋ねてみようと思う」

 「そうか…。しかしこのまま出て行くな。きちんと信蕉様に事情を話して出て行け。分かっているだろう。信蕉様に黙って出て行くのならば、わたしが、お前を絶対許さない」

 「分かった」

 そう言うと、隆鷗は踵を返し、寺の方へ歩いて行く。その足取りがやけに悲しそうだった。

 何処か、特別な存在だった隆鷗も、一族と言うのなら、隆鷗と自分は家族なのだろうかと陸は考えていた。

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