はじまり

 緩やかな勾配を登っていくと、突然険しい登り坂を目の当たりにする。急な登り坂をゆっくりと歩くと、やがて、まるで黄泉の世界にでも続いているような長い階段がある。土の中に石を埋めただけの粗末な階段だ。でこぼこの石の階段を一歩、また一歩と吐く息に合わせながらただ無心で登っていく。如何なる考え事をしていても忽ち脳味噌は空っぽになっていく。しかし、吸い込む空気は、身体をぴんと引き締めてくれるほどに透明で尖っていた。空っぽになった頭がやけに冴えて、終わらない階段を登る疲労だけが蓄積していくのが分かる。

 子供の頃、何度も登った階段だ。登るたびにまるで味わったことのない疲労が身体に蓄積されていくのが分かった。しかし、あの頃はどうしたって子供の身体だ。階段を登り切れば、すぐにでも疲労は回復に向かった。だが、今はとんでもない疲労感だ。時が経つほどに重石を乗せられているようだ。

 寿院は、暫く登ると脚を止め空を見上げた。細い階段の左右には生い茂った木々があるために山の頂を目指していても視界は狭まったままだ。こうしてたまに空を見上げることで身体に溜まる疲労感を放出した。

 木々に狭められた視界が一気に開放された瞬間、逆流するかのように蓄積された疲労が飛び立ってゆくのを感じる。また空気も美味い。確かに…また頑張って登ろうという気持ちになる。しかし、一歩足を踏み下ろした瞬間には、そうした気持ちも消えてゆく。もう修行僧のように目の前の現実と限界を超えた足の裏の痛みに耐えるだけだった。

 身体中の汗が滝のように流れ尽くしてしまった頃、ようやく石の階段を終えた。突然広がる視界には懐かしい素朴な屋敷がある。門の入り口には、『信陵寺』と描かれた古びた板が取り付けられていた。寿院の記憶よりかなり傷んでいる。そこに寿院が訪れなかった時の間が刻まれていた。

 寿院は、感慨深く眺めた。あの頃の記憶が次々に蘇ってくる。

 「としかず」と、信蕉様の声が聞こえてくるようだ。寿院はその頃、寿院としかずと呼ばれていた。父のようで兄のような信蕉から親しみのこもったその名前で呼ばれると家族の愛情を感じる。

 『信陵寺』の門をくぐり、無造作に埋められた石畳を踏みながら、入口に向かう。閉ざされた門戸も古びていた。

 寿院は、少し重くなった門戸を通れるくらいに開くと、屋敷の中に入って声を掛けた。

 門戸を入るとすぐに板張りの廊下が一直線に屋敷の奥まで伸びている、懐かしい光景だ。まだ、陽も真上まで上がりきれていないお昼の明るさのなか、この長い廊下は薄暗く、そして静まり返っている。

 「どなたかいらっしゃいますか?」再び寿院は叫んだ。声が廊下に響いた。

 さて、この時刻何をしていただろう。寿院は遠い昔の記憶を呼び醒ます。

 そうだな。この時刻にはもう山に入って、修行中だな。もしくは駆け回っていたかな。と、寿院は思い出しながらクスッと微笑んだ。

 その時、門戸の外から音がした。暫くして、少し門戸が開いた。

 「覚えがある声ですね」と、澄んだ声が聞こえてきた。

 「おや…」寿院もまた、聞き覚えある声だった。「もしかして乳母殿ですか?」

 寿院は少し開かれた門戸から顔を覗かせ、声の主を探した。しかし、視界には先程通った風景が映るばかりだった。

 「おや、狐にでも騙されたかな?」

 「何をおとぼけか?」

 その声は後ろから聞こえてきた。

 寿院は無理な体制で狭い隙間から身体を捻り外へ出た。

 「おぉ、やっぱり乳母殿でしたか」

 「登葱でございます」

 「登葱様?」と、寿院は親しみのこもった笑みを浮かべた。

 「今日はなに故、こんな所までお越しですか?」

 「久しぶりに信蕉様にお会い致したく、参じました。信蕉様はいらっしゃいますか?」

 「あらっ?お約束でも?」

 「いいえ。約束したくとも連絡の手段が見つからず直接参りました」

 「それは残念です。信蕉様はいらっしゃいませんよ。と、言うか、ずっといませんね」

 「そうですか」寿院はふぅーっと気が抜けたようにため息をついた。

 「まぁ、せっかくお越しですので、今日は一日ゆっくりされたら、いや一日と言わず、しばらく…いやずっと、て言うか、もうここにお住みになったら?」と、登葱はとぼけた口調で言う。

 「いえ、さすがにそう言う訳には…」

 「それで本日は何用ですか?」と、微笑しながら、登葱が言う。

 「姫様はいらっしゃいますか?」

 登葱は少し考えた後に言った。

 「今は、影近と、箭重と山に散歩に出ておりますが…?」

 「そうですか。実は信蕉様に姫様のことでお聞きしたいことがありまして…」

 「まぁ、とにかく、お上がり下さい。入口からでなくとも、庭から直接廊下へ入って頂いて構いませんので。今日は寺の者も皆出払っております。遠慮なくどうぞ。わたくしはお茶でも淹れて参りましょう」

 「ありがとうございます」

 そう言うと、寿院は庭から粗末な石の階段を上り、履き物をぬいで廊下へと上がった。御簾が巻き上げられている部屋は広く、寿院は廊下側の下座に腰を落ち着けた。

 静かだ。

 ここに姫様や影近、箭重、陸の日常がある。どんな日常を過ごしているのだろうか?平和な日常を思い起こさせるような静けさだ。そして、今は登葱ひとりなのか?

 寿院は思い出していた。

 床一面に流れた赤い血の中で息絶えた譜薛のことさえ忘れ、紅を抱え姿を消した義忠への怒りで暫く時が止まってしまった後、ふと我に返り、素早く月子の元へと移動したが、その途中で登葱に出くわしたのだ。

 登葱は、短刀をぐいっと握り締め、その刃先を阿袮の首に突きつけていた。刃先は首の皮膚にめり込んでいたが、寸前の差で思い止まっているように見えた。

 真っ暗闇の中、仄かな月明かりが登葱の顔を照らしていたが、その表情まで見ることが出来ない。しかし寿院には登葱の顔が鬼に見えていた。声を掛けることができない。しかし、登葱に人を殺めてほしくはなかった。

 「乳母殿、なりません!」寿院が叫んだ。

 「お黙りなさい。この者が何をしたか知っているのか?何も知らないくせに口を挟むではない」

 「稲さんのことですか…?いえ、わたしは何も知りません。しかし、乳母殿が人を殺めるような人ではないことは知っています」

 「だから、わたくしのこと何も知らないではないか。わたくしが…人を…あやめ…」と、言いながら、短刀を持つ手を緩めた。そして、握り締めていた阿袮の襟を離した。

 「月子様が待ってます。影近が遠雷の小屋へ連れて行きました。安心なさい。人を殺めたりしません」

 寿院は、登葱に言われ、その場を去ったことを後悔していた。登葱のあの表情は稲が脚を打たれたくらいではできない憎しみがこもっていた。それに冷静に考えたら、阿袮の父の実家をあそこまで調べるのに随分と時が掛かったに違いないのだ。いくら信蕉様の顔が広いからといって。

 阿袮については、寿院が思っていたもっと以前から何かが起こっていたのかもしれない。と、寿院はふとそう思った。

 やがて、登葱がお茶を持って、部屋に入ってきた。

 「おやっ…。まぁ、寿院様。そんなところではなく、奥の方へどうぞ。」

 「いえ、ここは風が心地よい。」

 「そうですか。ではわたくしも廊下の方へ…」と、言いながら、登葱は寿院の傍に座った。

 「石段を上がって来たのでしょう。温めのお茶を用意しました。たくさん持ってきましたので、どうぞ」

 「これは有難い。喉が渇いておりました」

 「そう言えば、月子様のことで聞きたいことがおありだとか?それはわたくしでは分からないことですか?」

 「乳母殿がわたしのことを何処まで知っているかによりますね」

 「全然知りませんね」

 「そうでしょうね」と、寿院は苦笑した。

 「あらまぁ…。またあの石段を降りて、また上ったりしなくてはいけませんね」と、登葱が笑う。「でも、子供たちは石段なんか使わないみたいですよ。近道を知っている。わたくしは知りませんが。子供たちに聞くといいですよ」

 「子供たちって、影近殿や箭重殿のことですか?」

 「そうですね。陸もいますよ。寿院様は陸のことを知っていたのですね」

 「はい。偶然ですね」

 「あら、そうかしら。信蕉様はこの世に偶然はないとよく仰いますよ」

 「そうですかね。わたしは偶然と思っていましたが。しかし、この寺に何故、僧侶でもない子供たちが住むようになったのですか?」

 「ここは寺とは言えないですね。どこの宗派にも属していませんし。僧侶と言っても、皆信蕉様の弟子で武家の出ですよ。私兵のようなものです」

 そうだ。昔からそうだった。

 寿院は笑った。「寺なんて何処もそうですよ。宗派に属していないだけで大した違いなどないですよ」

 「まあ、そうですね。僧侶はもうそこらへんの武士より強者ばかりですしね」と、登葱は苦笑した。

 「影近殿や箭重殿、陸はもしかして貴族の子供たちですか?」と、寿院は尋ねた。

 「わたくしは、本当はよく存じ上げてないのですよ。ただ、あの子たちは信蕉様が連れてきた子供たちです。わたくしは信蕉様と因縁がある子供たちではないかと勝手に考えていますが、口には出しませんよ」と、登葱が答えた。「信蕉様がひとりひとり、身寄りのない子供を連れて帰ってくるものですから、いつしか、この寺は身寄りのない子供たちの面倒を見ているという噂が立ってしまったことがありまして…。それからというもの寺の前に赤子を捨てる者がいたり、親のいない子供が勝手に住み着いたりとか、そういったことが頻繁に起こるようになってしまい、十人以上の子供たちが暮らしていたこともありましたね」

 登葱は思い出し笑いを浮かべた。

 「そんな子供たちは今もいるのですか?」と、寿院は尋ねた。この静けさの中、子供たちの存在が感じられなかったからだ。

 「そうですね。一番奥の部屋に稲と麦がひっそりと暮らしているだけです。あの子たちがやって来たのは、あの子たちがまだ、歩くことさえままならぬ幼き頃でした。素行の悪そうな母親に連れられ、育てることができないから、ここで預かってほしい、と。つまり口減しですね。だが、たいそう横柄な態度だったと、当時対応した信蕉様の弟子の至誡しかい様からお聞きしました」

 その話しを始めた登葱は、悲しそうで、またすごく憎しみの籠った表情をした。

 「寿院様には、あんなところを見られてしまいました。話さないわけにはいかないですね」と、ぽつりと登葱が呟いた。

 「あぁ、譜薛が紅から斬られた日ですね。周囲に隠れていた平家が一気に攻めてきたあの日、何故か登葱殿は、まったく違う世界にいるようで…。強い憎しみを、あの侍女の女子おなごに向けておられましたね」

 「まさか貴方様に見られようとは夢にも思いませんでした」

 「あの侍女には何かあるのですか?」

 「ええ、しかしながら、月子様がずっと確証のない真実など妄想も同じと悩んでいらしたが、わたくしもそのお気持ちが痛いほど理解できます」と、登葱は言う。「先程の話しの続きですが…。稲と麦の、横柄な母親に対して至誡様は厳しく諭しました。この寺では預かれない。自分の子供を捨てるとは何事かと。それでも母親は引きませんでした。なんと稲と麦の首を絞め、だったらここでこの子らを殺してやる。お前様が殺したも同然だ。と、本気で首を絞め始めたのです。それでも至誡様は威厳のある態度で『お前がその子らを絞め殺すのは勝手だ。我が寺とは一切関係のないことだ』と、言い放ったのです。至誡様には母親が我が子を殺すなどと微塵も思っていなかったからです。しかし、母親は本気だったのです。その姿を見た至誡様は怒りを抑えきれずに母親を殴ってしまわれた。そして、稲と麦を置いて逃げてしまった母親を追いかけなかった。その日から稲と麦はこの寺にいます」

 「稲さんはあの侍女のせいで歩けなくなってしまった。しかし、登葱殿の憎しみは、どうもそれだけではなさそうだ」

 「そうですね。あの頃、稲と麦の事件があった、ほんの少し前に、寺の前に赤子が捨てられていました。まったく今時の親は…。そして、稲と麦の後には二人の兄弟が勝手に寺に住み着いてしまって、信蕉様とは縁のない子供が5人おりました」

 「勝手に住み着くとは、またたくましい子供ですね」

 「まったくです。最初は床下で寝起きしていて、誰も気づかなかったのですが、食べ物が盗まれるので、さすがに気がついて、至誡様は躍起になって追い出そうとしたのですが、何をしても出ていかないのです。しかし、影近も、箭重もそうしたことに無頓着ゆえ、子供らはいつのまにか、離れにある影近と陸の住処に居着いてしまったのです。まぁ、影近はそれなりに構っていたようですね。しかし、信蕉様と至誡様は子供らが出ていく手筈を探していましたよ。親御さんを探したり、奉公先を探したりしていました。」

 「へぇ、信蕉様なら分け隔てなく面倒見そうな気がしますが…?」

 寿院は、子供の頃、父のような兄のような存在だった信蕉のことを思い出していた。

 「いいえ、それはないですね。月子様はもちろん、影近、陸、箭重と他の子供たちの間にはしっかりとした壁がありましたよ。それだけ四人の子供たちは信蕉様にとって縁が深いのでしょう」登葱は、そう言うと口を閉ざしてしまった。登葱の表情に陰鬱な影が見えた。

 寿院は、登葱を促さなかった。登葱が話したくなければ、聞き出すこともできないと思ったからだ。それほどに登葱の表情は影に捉われているように見えた。

 「それでも、しばらく平和に暮らしていました。寺の前に捨てられた赤子はわたくしが面倒を見ていました。ほんのいっときでも共にいれば情が移ってしまう。いなくなるのでしたら、情など持ってはいけないなどと、考えておりました。わたくしも女子おなごなのですね」と、登葱は力無く笑った。「兄弟は、影近がよく遊んでやってました。兄のことを無名と呼び、弟をちびすけと呼んでおりました。何度名前を尋ねても、教えてくれなかったそうなのです。そして、箭重が稲と麦の面倒を見ていました。箭重には双子がたいそう珍しかったようで3人はいつも一緒におりましたよ。それから至誡様もあまり口うるさく言わなくなり、子供たちは皆で本堂の庭で遊ぶようになりました。まぁ、月子様はそんな子供たちを遠目で見ているだけでしたが。その頃はおそらく子供たちの行き先も決まっていたのでしょう。あの生真面目な至誡様が黙るわけありませんからね」と言うと登葱は少しの間黙り込んでしまった。

 寿院はそんな登葱をただ見守るばかりだった。だが、登葱が隆鷗に触れないことが少し気がかりだった。隆鷗はこの寺では、もう存在しない者として扱われているのだろうか?もしそうだとしたら寂しいことだ。

 「それからまもなくして、子供たちの中にひとり見たこともない女の子が紛れていました。まるでこれまでも一緒に過ごしていたかのように、本当に自然で何の違和感もなかった」と、登葱は改めて寿院を見つめた。

 「その女の子に気づいたのは月子様でした」

 「姫様ですか?」と、寿院は登葱を見た。

 登葱は虚空を見つめた。

 「ええ、これから話すことはあまりにも信じがたい話しになりますので、信じるかは寿院様にお任せいたします。しかし、月子様をすぐに受け入れた寿院様です。だからこそお話しなければならないと思いました」

 登葱は、当時のことを思い出していた。

 それは、ある日突然だった。

 本堂の奥の屋敷に月子と乳母の登葱、そして信蕉は家族として暮らしていた。本堂の裏の平屋ひらやに影近と、陸が暮らし、箭重は本堂で暮らしていた。

 月子は、信蕉の養子だった。だから他の子供たちとは隔たりがあり、孤立していた。

 いつも離れの屋敷の廊下でぼんやり、庭で遊ぶ子供たちを眺めていた。しかし、決して子供たちと交わろうとはしなかった。

 そんなある日、月子の目に見たことのない女の子が飛び込んできた。真っ赤な衣を身につけた子供だった。

 月子ほ、その子供を見て、言いようのない不安を覚えた。すぐに登葱を呼び、女の子を指差した。

 「月子様、どうしたのですか?」と、登葱が尋ねると、月子は身体をぶるぶる震わせた。

 「登葱にはあの子供が見えますか?」

 「えっ?子供?あれっ…。あの赤い衣を着た子供ですか?ええ、見えますとも。見たこともない子供ですね」

 「見えるのですか?我はてっきり物怪もののけかと思いました」

 「えっ?もののけですか?」

 「あの禍々しい気配。身体中から呪いのような文字が湧いてるのです。『邪魔者』『殺す』『誰だ』『消えろ』等、そんな文字が。隆鷗にあの子を見てもらって下さい」

 「隆鷗様にですか?」

 「はい。隆鷗だったらあの者の正体が分かる筈です」

 庭で遊んでいる子供は、影近と箭重、そして寺に居着いた兄弟と、置いていかれた双子。そこに隆鷗はいなかった。

 「分かりました」と、登葱は、すぐに隆鷗を探した。隆鷗は、影近とともに本堂の裏の平屋ひらやに暮らしていた。あまり口を聞かない子だった。しかし、登葱は、隆鷗が身分の高い家の子供だとすぐに察することができた。あくまでも勘でしかないが、月子様の家の家臣ではないだろうか。などと考えたこともあった。月子は身分の高い子でありながら、訳あってその身分を隠して暮らさなければならなかったのだ。

 隆鷗は、本堂の広間にいた。御簾の影から、楽しそうに遊んでいる子供たちを眺めていた。登葱の姿を見つけると、隆鷗は登葱に何かを訴えるような表情をした。

 「隆鷗様、如何致しました」

 「登葱様」隆鷗は恐怖に顔を歪めていた。「あの者は誰なのですか?登葱様、あの者から皆を遠ざけて下さい」

 「分かりました。月子様もすごい怯えていらっしゃって、隆鷗様だったらあの子供の正体が分かるのではないかと仰っておりました」

 「登葱様、月子様を守って下さい。あの者を近づけてはいけません」

 「分かりました」

 その時、至誡が二人の話しに割って入って来た。

 「登葱様、あの…、捨てられていた赤子が…」

 「えっ。赤子がどうしました?」

 「申し訳ありません。赤子が息をしていません」と、至誡が言う。

 「何を言っているのですか?」と、登葱は呆然とした。

 「赤子の口の中に無数の石ころが詰められていて、気がついた時には、もう息をしていませんでした」

 「だから、何を言っているのですか?」と、登葱は叫び声を上げ、赤子の元に走った。

 隆鷗の不安が姿を現しはじめる。

 「至誡様、あの子供にはすごく大きな異形の悪霊が憑いております。禍々しく力のある悪霊です。恐らくわたしにはどうすることもできない悪霊です」と、隆鷗は言った。

 「いったいいつの間にあんな者が入って来ているのだ。隆鷗様、あなたがどうこうしなくとも良いのです。わたしが追い出しますので、あなたは絶対手を出してはいけません。まして今日は信蕉様がおりません。あなたに何かあればわたしは信蕉様に顔向けできません」

 「至誡様、お気をつけて。あまりあの者を怒らせず、穏便に収めて下さい。あの者は強い怨念を持っておりますので、目を付けられないようにして下さい」

 「分かりました」

 至誡は、短気なところはあるが、基本的に思慮深い人格者だ。影近の協力を得て、穏便に子供を帰すことに成功した。

 「隆鷗様?」と、突然、寿院は呟いた。

 「ええ、寿院様にはその者について詳しく説明しなくてはまりませんね。隆鷗様は、やはり信蕉様が連れて来た子供です。信蕉様は隆鷗様をいつも気にかけていました。ですからすぐに月子様同様に信蕉様に最も縁の深い子供だと分かりました。しかし、そればかりではありませんでした。隆鷗様は月子様と同じように特別な能力がありました。隆鷗様には死んだ者の姿が見えるのです。寿院様には信じがたいことでしょうが、月子様のことを信じているあなたには愚問かもしれませんね。ただ、同じ所に二人の能力者がいることについてはいささか驚くべきことかもしれませんね」

 「なるほど、考えてみたらそうですね。その者の話しは後でいたしましょう。まずは話しの続きを聞かせて下さい」

 赤い衣の女の子は、その時は素直に寺から去っていった。

 しかし、二日もしないうちに再び姿を現したのだ。警戒しているのは、月子と、隆鷗、登葱と至誡だけだった。他の子供たちと、信蕉の弟子はまったく警戒していない。月子と隆鷗には物怪もののけのように見える不気味な子供でも他の者にはそこいら辺にいるただの子供にしか見えていなかった。まして、影近や箭重は余所者に対する頓着がなかった。

 赤い衣の子供に憑いている悪霊が日増しに大きくなっていくことに並々ならぬ不安を抱いた隆鷗は、月子に尋ねた。

 「あの者に憑いている悪霊が大きくなっているんだ。あの者に憑いている悪霊の言葉は見えますか?」

 「えーと。文字が無作為に出現してはすぐに消えてしまうので、言葉を見つけ出すのは容易ではありません」と、月子は困惑した。

 「だったら現れる文字を全て言ってみて」

 「分かりました」

 月子は無作為に浮かび上がる文字をそのまま、ただ口にした。

 「よ…だ…す…」

 月子が口に出す文字は言葉を成さない。月子には無意味な行動に思えた。

 しかし、隆鷗は目を閉じて、辛抱強く聞き入っている。やがて目蓋を開けると、月子を見た。

 「分かったよ。あの悪霊が何を言っているのか」

 「すごいね」

 「いや、すごいのは月子様だよ。だって、わたしにはあの悪霊が何なのか?まったく分からないんだ。ただの無音の大きな黒い煤だよ。でも月子様といると、形を成してゆくんだ」

 「しかし、今の文字から言葉を見つけることができなかったと思いますが…」

 「いいえ、幾つか言葉を見つけました」

 「文字はなんと…?」

 「何処だ…ここに邪魔者がいるのは分かっている。姿を現せ。お前はすでに屍人なのだ…。そう言っている」

 「そうなんですか?我にはそんな言葉を見つけることができませんでした」

 「一見して、何もないように見える文字なのですが、月子様が文字を読んでいる間、子供に憑いた悪霊が蠢き始めたのです。巨大な悪霊の怨みが細かく分かれ始め、やがて形を成しました。それは小さな子供の霊でした。子供たちが不条理な死を迎えたのでしょう。月子様の中で文字が言葉を成さなかったのは、たくさんの子供たちが一切に訴えていたからでしょう。あの悪霊は大勢の子供たちの死霊の塊なのです」

 「なんと恐ろしいことでしょう」

 「この辺りにはたくさんの子供たちが口減しに遭っているんだよね」

 「それは、この辺りだけではないと思います。たくさんの民が飢えていると聞きました」

 「そうですよね。月子様が見える文字も、もっとたくさんのことを語っているのかもしれませんね。ただその言葉を知らないだけかもしれません」

 月子は、信蕉に言われ物乞いの格好をさせられ、たったひとりで都に行かされることが苦痛で仕方なかった。しかし、隆鷗が言うように、月子も都に行くようになって暫くして信蕉の意図を理解した。多くの言葉を知ることこそ、たくさんの言葉を文字が伝えてくれるのだ。

 「しかし、何故、あの子供にあんなにもたくさんの子供の悪霊が憑いたのだろう。もともと何処かで塊となって、あの子供に憑いたのだろうか?それともあの子供がひとつひとつ引き寄せて巨大な塊にしたのだろうか?」

 隆鷗は思案に暮れた。あれほど大きくなると、もうどうすることもできない。

 「我にも分かります。隆鷗が見えている物が。文字の勢いと、いびつさを見れば」

 「月子様がいなければ、わたしはあの正体を知り得ませんでした。さて、あの塊をどうしたらいいのか?一体一体切り離せば、なんとかなるだろうか?しかし、あの塊はもうすでに一体化している。」

 「でしたら、我が文字を読み続ければ、また蠢き始めるのではないですか?」

 「はい。考えました。でも、すぐに吸い込まれるように元に戻るのです。もしかしたら、あの悪霊はひとつのもので、その物が子供たちの怨霊を引き寄せているのではないかと…」

 その時、本堂の庭で遊んでいた赤い衣の子供が、ゆっくりと、隆鷗と月子を振り返って見た。まったく表情のない子供の眼が隆鷗と月子の視線に抉るように絡みついてきた。

 傍には無名とちびすけがいた。しかし、その日は影近と箭重の姿は見えなかった。暫く子供は隆鷗と月子を見ていたが、やがて無名に耳打ちすると、去っていった。

 月子は、あの子供のまったく表情のない顔と対照的な怪しい眼光を思い出すたびに、言いようのない不安を覚えた。

 その夜、隆鷗は、影近と箭重に赤い衣の子供に関する全てのことを打ち明けた。影近も箭重も何にも気付いていなかった。そして、気づかなかったことを悔いていた。

 隆鷗は何故か、月子とは流暢に話せても月子以外の人とは目を合わせることさえできなかった。それでも影近とは過去の境遇が似ていたことから話すようになり、最初から苦手だった箭重とは、箭重に憑いていた母の霊がきっかけで話すようになった。

 そんな二人に、子供に憑いた悪霊と戦うための助けを求めた。それほど悪霊は手強いと感じていたからだ。

 しかし、遅かった。

 赤い衣の子供は、もう二度と現れなかった。そして、無名とちびすけもいなくなった。

 それから数日経ったある日、山奥から二人の子供の遺体が見つかった。無名とちびすけだ。

 捨てられた赤子、無名、ちびすけは、あの赤い衣の子供が殺したに違いない。三人共貧しさが生んだ不幸な子供たちだ。取り憑かれてしまっていたのだ。

 一番悔しくて、また悲しい思いをしたのは他でもない登葱だった。何日も赤子と暮らし自分でも気づかないうちに情が芽生えていたのだ。登葱の中に生まれた憎しみは、登葱自身気付いていなかった。

 「この寺でそんな事があったのですか?」と、寿院が言った。「しかし、赤い衣の子供はこれまで現れなかったのですよね。それが何故?」

 「ええ。何故でしょう。信蕉様の元にはとても優秀な子供が集まっておりまして。わたくしにはそれが一番不思議なことです」

 登葱の言葉に、また新たな展開があることを察した寿院は余計な口を挟まなかった。

 「これまでに陸が全然出てこなかったでしょう。あの陸ですよ。陸が黙ってこの状況を見過ごすと思いますか?寿院様がよく知っている陸ですよ」

 「陸?確かに陸は優秀です。しかし、陸とてまだ子供ではありませんか?」

 「そうですよね。隆鷗様、影近、陸はほとんど年が変わらない。影近が少し上ですかね。陸はもしかして隆鷗様より下かもしれません。しかし、陸は子供の頃から少し変わっておりまして。人が気にしていないことが気になるのです。そしてじっとしていられないのですよ。気になったら、どうしてもその因果を知ろうと動き始めるのです」

 「恐ろしい子供だ」

 「赤子が門の前に捨てられた時、皆、赤子を中心に右往左往しておりましたが、そんな時、陸は何故そんな事が起きるのか?それが不思議なのですよ。これまで起こらなかったことが、何故今日起こったのか?そう思うと、陸はじっとしていられない。その足で山をおりたのです。陸は日常の変化には異常なほど、敏感なのですよ」

 「これまで起こらなかったことが…何故…今日か?」寿院はいささか驚いた。何故そんな発想に至るのか?

 「陸は暫くの間、朝、山を降りて夜戻ってくるといった生活を続けていました。その間信蕉様は何も口を挟まなかったのです。そうこうしているうちに稲と麦、無名とちびすけが次々と居座ってしまった。だから陸は暫くの間、この寺で見かけませんでした」

 「つまり、陸は、それら全ての子供のことを調べていたわけですね」と、寿院が言った。

 「ええ、お察しの通りです。あの子はいったいどんなふうに調べるのでしょうね。不思議で仕方がありません」

 「陸は人一倍勘が働く。それに鼻も利く。恐らく我らが見えない事件の深淵が色濃く感じられる所に石を置くのではないかと。そして、そこから碁盤にひとつひとつ丁寧に石を置いていくような事をしているのではないかと、わたしは、そう思ってます」

 「わぁ、よくわかりませんが、人ができないようなことをしているとは思ってます」と、登葱は首を傾げながら不思議そうにした。

 「わたしとて、よく分かりませんよ。ただ、陸のすることに間違いないとは思ってます」

 「そうですね。それで赤い衣の子供の姿が見えなくなって数日後、やっと陸の姿を見かけるようになりました。そして、陸は山の麓の村で聞き及んだ全てのことを信蕉様に話しました。わたくしは、それを至誡様からお聞きいたしました」

 山の麓の村は、陸が思っていたより、もっと貧しくて、見窄らしかった。畦道を歩いただけでも多くの田畑は枯れていることが分かった。田畑から少し歩くと幾つもの隙間だらけの小屋がある。陸はそれを物置小屋だと思った。しかし、小屋の隙間から感じる視線に陸は気づいた。

 あゝ人だ。こんな小屋に…。

 陸はゆっくりと、小屋に歩み寄った。中を覗くと、強烈な悪臭が陸に纏わりついてきた。こんな所に人が住んでいるのか?

 そこには寝たきりの大人の男がいた。むしろの上で木枝のように細くなった身体を見ると、男は生きているのか死んでいるのか分からない。息をしているのだろうか?辺りを見回しても物が何もない。食料は愚か、何も。

 「おじさん生きているの?」と、陸は声を掛けた。返答はなかった。諦めて小屋を出た。

 陸は、山から麓に降りたすぐの所にあるたいそう大きなお屋敷を思い出していた。大きなお屋敷の周辺の田畑はよく育って緑豊かな風景が広がっていた。しかし、一歩奥に入った風景はまったく違う。

 小屋を出た時、ぼろい衣を身に付けた男がいた。男からまったく生気を感じない。ただじっと陸を見ていた。

 「お前は誰だ?ここいら辺の餓鬼ではないな」と、男は言った。

 陸もまたじっと男を見た。衣からほんの僅かに出ている胸元の肉が細々としていた。しかし、ほんの僅かな筋肉の盛り上がりを見逃さなかった。むしろで眠った男から漂ってくる何かしら空気のようなものとは違うものを纏っている。どんなに同じような衣を着ていても誤魔化せない、これまで生きてきた証がある。陸はそれらを信蕉から学んだ。

 「何処から来たのか、分からんが、ここら辺には餓鬼を食う物怪もののけがいる。すぐに帰れ」と、男が言う。

 「餓鬼を食う物怪もののけ?」と、陸が注意深く聞き返す。

 「そうだ。ここら辺の餓鬼は皆喰われた。ほら見てみろ。餓鬼は愚か、誰もいないだろう」男は周囲を指さした。

 「餓鬼を食う物怪もののけなど、口減しの為に大人がこじつけた作り話だ。子供だと思って舐めるなよ」

 「子供らしくない餓鬼だ。それにお前は、わたしの胸元と、手首や指をしきりに見ていたな。探っているのか?」

 「あれっ?おじさんなかなか鋭いな」

 「ふうーん、最近の餓鬼は生意気だな」そう言うと、男は、先程まで故意に丸めていた背中を伸ばした。「いや、本当のことだ。物怪もののけの噂はこの村では皆知っている。だからお前のような餓鬼を見ると、皆驚くぞ。これまで誰にも会わなかったのか?」

 「あぁ、なるほど…。大概うろうろしてみたけど、あそこの小屋から覗いているあのギラギラした目と、その隣の小屋で死んでいるのか生きているのか分からない大人を見たのが、初めてかな」

 「あそこから覗いているものはそっとしといてやれ。もう、ここがちょっとおかしくなっている」と、男は自分の頭を指差した。

 「そうなのか?いったいこの村で何が起こっているんだ?おじさんはこの村の人間ではないな。外から来たのだろう。こんな村にわざわざ来る理由なんてないよな。おじさんも何が起こっているのか調べている。そうだろう?」

 「おじさん“も”か。やっぱりおめぇもか。でも、おめぇ詰めが甘いぞ。どんなことがあっても知らないやつに自分の正体を明かしちゃぁなんねぇ。だいたいおめぇ口軽いだろう?」

 「分かってないな。人から話しを聞く時は相手の懐に入らなきゃ何も語ってくれないんだよ」

 「おぅ、生意気な餓鬼だ。で、おめぇは何か分かったのか?」

 「ぜんぜん…」

 「なんだ口ばっかりか?」

 「まだ始めたばかりだ。これからだ」

 「おめぇには無理だな」

 「何だと?」

 「物事を常識的に考える餓鬼には無理だ。物怪もののけを信じていない餓鬼にはな」

 「餓鬼餓鬼言うな!」

 「仕方ないだろう。餓鬼だし」

 「おじさんこそ、いい歳して、物怪もののけはないわぁ」

 「だからおめぇは駄目なんだ。物怪もののけが何なのか?その本質を何も考えていない。ここいら辺のやつは、物怪もののけが何なのか?何にも分かっちゃいないんだ。訳の分からない物は大概物怪もののけとか妖怪とか、そういう物で自分のおつむの矛盾を誤魔化しでいるんだよ。でもそれを馬鹿にしていたら駄目だ。案外的を射てるかもしれない」

 「さっきから何を言っているんだ?」

 「もう少しちゃんと調べるんだな。特にこの村の者が何故、物怪もののけとか言うのか?例えば、山の麓にあるたいそう大きな屋敷だ。あそこの奥方は村人から獣憑けものつきと言われている。まぁ、そう言うところから調べてみるんだな」

 「獣憑き?屋敷…?」

 「それから。こんな村にわざわざ来る理由はある。ここはある者たちにとってどうしても会いたい方のお住いの通り道だ。その通り道が荒れていて放っておく者などいない。おめぇももっと大きくなれば分かる時が来る。まぁ、間謀として生きていくのならな」

 「間謀?」

 陸がそう呟いた時には男の姿はなかった。

 「えっ?なんだ?どんなからくりなの?」陸はしばらく周囲を探してみた。しかし、男はいない。狐に騙されたか?と、考えた。そんな自分が滑稽だった。

 おつむの矛盾。あぁ、これか。

 「餓鬼を食う物怪もののけ?口減しなどとそんな単純な話しではないのかもしれないな。獣憑きの屋敷の奥方。子供が消えた。枯れた田畑。筵の男は飢餓で生死すら分からない。この辺り一帯の子供は物怪もののけに喰われた。物怪もののけに喰われた…。」陸は、言葉を巡らせた。「とにかく屋敷を調べる必要があるかな」

 そう呟くと陸は屋敷に向かった。

 屋敷が視界に入った時、陸は、信陵寺の、石段を降りきった、険しい坂の後の穏やかな勾配の坂を降りる隆鷗の姿を見かけた。陸は思わず姿を隠した。

 陸は、隆鷗があまり好きではなかった。最も非現実的で、理屈が破綻してしまうようなことばかり言う。先程、物怪もののけを必要以上に馬鹿にしたのは、隆鷗の言動のせいだった。死霊とか悪霊とか、現実に存在していないものたちが、信陵寺ではやけに当たり前のように存在しているのだ。隆鷗の前で信蕉や至誡が普通に死霊や悪霊の話しをし、そして月子がそんな隆鷗の言葉を真面目に聞いている。

 陸が最も不愉快なのは、それだ。隆鷗は、信蕉や至誡、月子の関心を集めていた。

 はたで聞いていたら、死霊だの悪霊だの、虚空に浮かぶ文字だの、羞恥の念が湧いてくる。

 なんでだー。と、陸は叫びたくなるのだ。

 そんな隆鷗が、何処へ行こうとしているのだろうか?陸は自分の背丈ほどある草むらに身を隠して、隙間からずっと見ていた。

 隆鷗は、明らかにたいそう大きな屋敷の方へ向かっていた。そして、立ち止まる。何を見ているのか、何もない空間をただじっと見つめている。

 悪霊でも見ているのだろうか?

 馬鹿馬鹿しい。と思いながらも陸は、隆鷗から目を離せない。隆鷗が、何もない空間をじっと見ている間、陸もじっと見ている。屋敷からゆっくりと、都の方へと視線を移していく。ゆっくりとだ。まるで何かを目で追っているようだ。何もない空間に何かが見えてくるような錯覚さえ覚える。そして、ひとつの集落に視線が定まったかのように見えた。陸は暫くその場所を注意深く見ていた。再び隆鷗に視線を戻すと、もう姿が見えなかった。

 陸は、隆鷗の視線が定まったその集落へと向かった。あそこに何かあるのだろうか?何だか不安がよぎる。

 麓の村は幾つかの集落で成り立っていた。あの大きな屋敷がこの村でどんな役割を持っているのか陸には分からないが、あの一際大きな屋敷の周囲は、この村とは別の世界から突然現れたのではないかと思えるほどの違いがある。

 集落を隔てている小高い丘は雑木林で、一歩足を踏み入れただけで、方向感覚さえあやふやになった。木々の隙間から陽光が差し込む、きらきらした場所と薄らとした闇に包まれた場所がある。暫く歩いているうちに闇に包まれた場所の方が多くなっていく。

 陸は、すぐに迷っていることに気がついた。立ち止まっては冷静さを失わないように目を閉じて、大きな屋敷の方向を思い出しながら陽光が差し込む木漏れ日の角度を考えた。何度も繰り返したが、陸の意に反して、林の奥へと進んでるようだ。闇が深まっていく。陸は自分が冷静さを失っていくのが分かった。

 遠くから見ると、それほど大きく見えなかった雑木林のなかは深い。どんどん闇が広がり霧が濃くなっていく。そして、陸の不安も大きくなる。何処を見ても、雑木林から出られる気がしなかった。

 それにやけに不気味な音が響いていた。聞いたことのない不気味な音だ。獣の鳴声のような唸り声だった。歩くたびにそれが近づいてくるような感じがして、陸はこの上ない恐怖を覚えた。なるべく音を立てないようにその音から逃げようとしたが、何処へ逃げても近づいているような錯覚が付き纏う。

 こんなところに狼はいないよな?野良犬?

 唸り声はどんどん近づいているような気がする。視界に入る周囲の林は陸にとって違いが分からない。何処の風景でも同じに見える。方向感覚はすでに破壊されていているようだった。

 音をたてずにゆっくり動いていた陸だが、あまりの恐怖に草むらにかがみ込んだ。目を閉じて耳を澄ますと、確かに唸り声が大きくなっている。あの音から逃げているつもりだったが、逆に近づいていたのだろうか?

 それとも…陸は息を呑んだ。

 ゆっくりと追い詰められていたのか?

 陸は、もう恐怖のあまり身体が硬直して少しも動けなかった。

 背丈まである草むらのなか、草を踏みつける音と、唸り声が聞こえた。しかも、すぐ傍で聞こえる。陸は目を閉じた。

 駄目だ。もう駄目だ。近くにいる気配を感じる。しかもそれは動かずじっとしている。わたしを見ているからだ。

 喰われるのか?

 静かな時が流れた。なんと怖しい静けさだ。陸は恐る恐るゆっくりと目蓋を開いた。そこには、赤い衣を身に纏った獣のような怖しい女がかがみ込んで一本の太い樹木をただ茫然と仰ぎ見ていた。

 陸は恐怖のあまり一歩も動けない。暫くすると、女は叫びながら身体を大きく揺すったかと思うと、引っ張られるように身体を起こした。首に縄が括られていた。ぴーんと張り詰めた縄を誰かが引っ張っているのだ。しかし、その姿は見えなかった。女が抵抗していた時、一瞬顔が見えた。その口の周りには血痕があり、滴り落ちている。しかし、それは女の血ではないことが分かる。まるで何かを貪り食った後だ。

 陸は、思わず叫びそうになったが、その口を誰かの手が塞いだ。

 女は激しく抵抗しながらも引っ張られる方へと消えて行った。引っ張っている者の姿は最後まで見えなかった。

 陸は、大きな手で口を塞がれ身体を拘束されていたが、女の姿が見えなくなると、ゆっくりと塞がれた手が緩んだ。

 「あれが屋敷の奥方だよ。獣憑きだ」

 振り替えると、先程の男だった。

 「それにしてもすごい勘だ。よくここにあの獣憑きがいることが分かったな」

 陸は、咄嗟に男から離れた。

 「まさか。分かるわけがない」

 「そうだろうか?この村に幾つの集落があると思うんだ?果たして偶然なのか?」

 陸は黙った。そうだ隆鷗だ。

 「偶然ではないだろう?」

 「どうだっていいだろう。そんなことよりなんだあの化け物は?何かを貪ったような血が…」

 「だから言っただろう。ここいら辺の子供は皆物怪に喰われたと。だが、それだけではないようだ。あの屋敷の者は故意に田畑を枯らし、村人を飢えさせ口減しを促した。そして、まるで神隠しのように餓鬼をさらう。あの獣憑きが子供を喰うのは、子供を差し出さない親への見せしめのためだ。好きで口減しをする親なんて本当はいないのだよ。村人たちは我が子を逃がすのに必死だったが、虚しくも攫われてしまう」

 「なんで、何のために…?」

 「それは分からない」

 「おじさんはずっと調べていたの?」

 「ああ、でも日照り続きで田畑が枯れることはよくあるだろう。暫く分からなかったよ。よくあることだと思っていた。しかし、ふと不思議に思ったんだよ。よく実った田畑のなかにぽつりぽつりと枯れた田畑があるのが。それでその田畑の小作人を調べてみると、必ず子供がいる。どの家の者もとても口減しするような境遇の家ではなかったはずなのに突然飢えなくてはならなくなった。村人も訳が分からなかっただろうね」

 「子供が目的だったの?」

 「だな」

 「攫われた子供は何処に行ったのだろう」

 「ああ、それが分からないうちは何も解決しないな。しかし、おめぇは餓鬼のくせに勘がいいな。間謀にならないのか?」

 「なんだよ。それ」

 男が笑う。そして、真面目な顔をしたかと思うと、陸を真っ直ぐ見た。

 「わたしは一旦ここを離れる。一つ頼まれてくれ」

 「えっ?もう調べないの?」

 「ちょっとな…」

 「何?わたしにもできることなの?」

 「ああ、あそこの山の頂きに寺があるのだが、そこにちょっと不思議な子供がいる。わたしはその子供に導かれたのだ。その子のお陰で早く事情が分かった」

 「何だよそれ?」

 「いいから…。あの屋敷の者にその子供を見つけさせてはいけない。絶対にだ。あの子供を村に入れてはいけない。それを寺の者に伝えてくれ」

 「ええ?山の頂きなんて…そんなの面倒だよ。なんだよ。子供って、男、女どっちだよ」

 「えっ?なんでそんなこと聞くんだ?男に決まっているだろう」

 「ふうーん」と、陸は黙った。

 隆鷗の方か。

 そう言うと、男は疾風のごとく去っていった。

 それから陸は、時間をかけ、用心しながらようやく雑木林を出ることができた。

 そこには荒れ果てた集落があった。今しがた災害にでもあった荒れようだった。民家と呼べないような小屋が並んでいた。ひとの姿は見えなかったが、小屋の中に隠れているのは想像できた。何かを恐れて身を潜めているに違いない。

 おそらく雑木林にいた、あの獣憑きがここを訪れたのだろう。あそこで会ったのはこの集落からの帰りだったに違いない。

 陸は、獣憑きの口元の血の跡を思い出していた。

 そして、荒れた民家から辛抱強く、この状況を話してくれそうな人を探した。しかし、それは容易ではなかった。皆、小屋の中で身を縮めて貝のように口を閉ざしている。よほど怖い目にあったのだろう。

 だが、陸は諦めない。赤子の形跡も併せて探していたが、結局陽が傾きかけても、何も見つけることができなかった。一軒一軒小屋を見回ったことで惨状を肌で知ることができた。

 陽が沈んでしまうと、辺りが真っ暗になってしまう。その前に帰らないと、深い漆黒の闇に覆われ身動き取れなくなってしまう。

 陸は常に脳を働かせていた。集落を歩いていた時、ずっと人の動線や、小屋の惨状、土の荒れ方を見て、人の動きを頭の中に入れて、推測した。これは影近を見て覚えた。影近は、これを本能でやってしまうのだ。考える間もなく理解する。だからこれを言葉で説明できない。影近のなかで完結するしか術がなかった。陸は影近のそんな特別な能力を真似したのだが、それは容易ではない。ただ貪欲に愚直に努力するしかなかった。その結果、陸は合理的に説明することができる。

 小屋が集結していたところの中に激しく崩壊したところがあった。きっとそこで激しい何かが起こったに違いない。あの獣憑きの口元の血痕と関係があるのかもしれない。崩壊した場所で迸った血溜まりを見つけた。しかしこれ以上は動けない。夜の闇は予想より早く訪れる。

 また、明日も来てみるか?と、そう思っている時に老人に声を掛けられた。老人は陸が気づかないうちにいつのまにかそこにいた。

 陸は、呼吸が止まるかと思うほど驚いた。

 「何処の餓鬼だ?」と、老人が言う。皺だらけだ。目も口も皺に埋もれている。まったく表情が分からない分ひどい恐怖を覚えた。

 「何処から来た?無浄むじょう家の屋敷の者か?」

 「無浄むじょう家?それは山の麓にある大きな屋敷のこと?」

 「無浄むじょう家の者ではないのか?」

 皺の奥深くから鋭い白い光が見える。陸は恐怖のあまり視線をそらした。

 「いえ、違います」

 「何故、ここにいる?」

 「あ、あの、寺に赤子が…」陸は思わず正直に答えてしまった。威圧感に負けたのだ。

 「山の頂きの寺の者か?」

 「あ、あ、いえ…」

 「お前たちは仏に仕えているのではないのか?お前たちの足下で物怪もののけが人を喰っているというのに見て見ぬふりか?離れるしか方法がなかったのだろう。物怪もののけはおそろしく全てを把握している。子供と親の顔を。知られる前にそうせざるを得なかったのだ。しかし、その親はもう生きていないな。物怪もののけは全て把握しているのだから」

 「そんな…なんなの物怪もののけって。あの獣憑きっていったい何なの?」

 「子供が消えていく。神隠しだ。いや、親の目の前で攫われるのだ。抵抗する親の子供は喰われる。何も出来ないのだ。寺の者が守ってくれるといいが。並の者ではそうもいかないだろうな。村を棄てることもできない。まさに地獄だ」

 陸は何も言えなかった。

 「お前はすぐに帰れ。もう村には来るな。お前も決して例外ではない。見つかれば攫われるか喰われるかだ。」

 「なんで?なんで子供を攫うんだ?」

 「ふんっ?知るものか」

 「大人は何故何もしないの?」

 「逆らえば飢える。子供は喰われる。いったい何が出来る?」

 「何故逃げないの?」

 「子供に何が分かる?」

 「そんなの分かるものか?皆小屋の隅で、ただぶるぶる震えているだけだ。何もしようとしない。だからずっと繰り返されるだけだ」

 「子供は黙ってろ」

 「黙っているくらいなら、こうして村には来ない」

 「もう来るな。お前のようなよそ者を見たのは三人目だ。皆この惨状を見るだけで何もしないではないか?」

 「三人目…?一人は知っている。二人目…?二人?その人は何処に行ったの?」

 「ふんっ、知るものか」

 陸は、考えた。そして、想像した。ここは通り道だと言っていた。会いたい人の。いったい誰のことだろう。

 「わたしはその人に会いました。この村のことを調べていました。ここは会いたい人がいる…その通り道だと言ってました。あなたもそうなのでしょう?」

 「何を訳の分からないことを言っている?」

 「あなたもその人と同じだ。皆、小屋でびくびくしているのに、あなたはよく喋る。考えられないのです。この状況で。しかも、たった今、恐ろしい出来事があったばかりだと容易に考えられます。なのにわたしのようなよそ者に構っているあなたのその心の強さはあり得ない。あなたも情報を集めているとしか考えられないのです」

 「ふんっ。そう思っても口に出してはいけない。ここは子供では荷が重い。悪いことは言わない。ここには近づくな」

 「ご忠告有難うございます。しかしわたしにも使命があります」

 「子供のくせに生意気だな。これからどうするつもりなのだ?」

 「一番臭い物を見過ごさないだけです」

 「これ以上関わるのなら、死を覚悟しなくてはならないぞ。確かに子供の割には洞察に長けているが、行き過ぎた行動をするのは、それはまた別の話しだ。自分の力を冷静に測れる者こそ優れている。分を知れ。そこから自分の為すべきことを導き出せ」

 「自分の力を測る?なるほど。わたしは死にません。何かよく分かりませんが、有難うございました」

 陸は、そう言うと、老人と別れた。これ以上留まるのは危険だった。夜の闇は容赦なく陸を覆い、この世の最も深い恐怖を生み出すのだ。陸はそれを経験していた。

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