因縁の男
気がつくと、辺り一面、漆黒の闇に覆われていた。逢魔時が訪れると、視界の片隅で魔物が蠢いているような曖昧さに恐怖を覚えると、あっという間に深い闇が辺りを覆ってしまう。
登葱はいつもと違う手順に少し焦りを感じていた。夕餉が終わる時刻だというのに何も準備できていなかった。こんな時、凄くてきぱき動いてくれた稲と麦が恋しく思う。
登葱は、台盤所に行く前に侍女頭を探していた。まだ当分夕餉の準備に取り掛かれない。早く夕餉を出さないと、言葉を読み続けた月子が突然眠りに落ちてしまうのではないかという不安があった。ようやく侍女頭を見つけた登葱は、少し用心して近づいた。だが、呆然と突っ立っている侍女頭に簡単に声を掛けることが出来なかった。
藤家を訪れた当初は、登葱に冷たい態度を取っていた侍女頭だったが、宮廷で女房を勤めていた登葱にとって侍女頭の鼻っぱしらをへし折ることなど造作もなかった。だが、登葱はわざわざそんなことはしない。事あるごとに言い掛かりをつけてくる侍女頭をさらっとかわし、絶妙な距離を保っていた。届くようで届かないその絶妙な距離は侍女頭の自尊心をわりと傷付けていた。侍女頭には鋭い皮肉も嫌味も何も通じない登葱の存在はゆっくりと脅威へと変わっていった。
登葱は、侍女頭の傍に歩み寄った。
呆然としている侍女頭を見て、登葱はいささか心配になったが、あえて冷静に話しかけた。
「貴方を探しておりました。実は、若様が月子様の対の屋でお倒れになられて、義忠様なる者をお呼びになられておりますが?」
侍女頭は、驚いた顔をして登葱を見た。
「若様がお倒れになった。いったいどう言う事でしょうか?いったい何が起こっているのでしょう」侍女頭は焦燥しきっていた。「あなた方が何かをしたのでしょう。何を企んでいるのですか?いったい若様に何をしたのですか?」
「言い掛かりはおやめください。何をそんなに焦っているのですか?」
「何を…?馬鹿な…!本殿には至る所に血の痕があり、御当主様を捜しても何処にもいない。紅様のお姿も見えない。なのに若様がお倒れになったと。いったいこの屋敷で何が起こっているのでしょう。あなた方の仕業でないとしたら、いったい誰がこんなことをするのです?」侍女頭が感情的に怒鳴り散らした。
「誰がとは…?貴方様はわたくしの思い違いでなければ、侍女頭でございますよね。貴方様はこれまでに起こってきたことに対して何を見てこられたのでしょうか?侍女頭たるもの屋敷で起こることは如何なることでも分かっていなければなりません。そして、知らない顔をするものです。とにかく義忠様を我らの対の屋へお連れ下さい。わたくしは娘のように焦燥した貴方の相手をしている暇はないのですから」登葱は、冷たく言い放った。
「畏まりました。登葱様は理解していらっしゃるのですか?」と、今度は打って変わってすがるように侍女頭は言う。
だから登葱は嘲笑した。
「屋敷で何が起こったのか、今更探るのでしたら、何もせずにお逃げになった方がよろしいかと…」
登葱の言葉に侍女頭は震えた。
「前から思っておりましたが、登葱様は本当に聡明なお方。義忠様をお呼び致します。しかし、義忠様は屋敷には居られません故、少々お待たせすることになるやもしれません」
「急いだ方がよろしいかと」
「そう致します。そして、登葱様は今、何が起こっているのかご存知でいらっしゃるのですね。これまでの数々のご無礼をどうぞお許し下さい。私めは登葱様の指示に従います故、何卒ご指導お願い申し上げます」そう言うと、侍女頭は去った。あの凡庸な侍女頭でさえ、今の異常事態を察したようだが、これまでの数々の異様な出来事には無頓着だった。
おそらく藤家の多くの者がいつもの日常に流されながら、多くの出来事を見過ごしていたに違いない。日常とは恐ろしいものだ。身体に染みついた怠惰が変化のない日々を望んでしまう。使用人が次々と辞め、新しい使用人と入れ替わったことや病に臥せった奥方がいっさい、その存在を消してしまっていること。当主の東山が怒鳴らなくなってしまったことや無口になってしまったこと。そういったことを藤家の者一人ひとりが日常の暮らしの中に埋もれさせてしまったのだ。そして誰も疑問を抱かないようにしていた。
登葱は、そうした変化に敏感だった。しかし信蕉は、月子や登葱には何も言わなかったし、何も望まなかった。ただそこに存在するだけで充分に役目を果たしてくれるだろう。と囁いただけだった。
登葱が敏感なのは、そうした日常の変化が恐ろしいからだ。守らなければならない者がいると、ほんの些細な変化でも何故そうなってしまったのか突き詰めてしまう習慣があった。今はそうした者たちも殆ど離ればなれになってしまったが、いったん身についた習慣はそう簡単に変わらなかった。
そして、登葱は今、周りにいる守らなければならない者たちの身の危険を感じ取っていた。それは日増しに大きくなっていく。勿論登葱が一番に守らなくてはならない者は月子だったが、幸いにも幼い頃から自身の能力に守られている。しかし、その能力は、月子をいつも危険な場所へと誘ってしまう。
登葱は、台盤所で粥の準備を藤家の使用人に頼み、取り急ぎ月子の対の屋に戻った。対の屋の前では面を付けた男が突っ立っていたので、登葱は大層驚いてしまった。咄嗟に身構え、何者だ。と男に問うた。
面を付けた男は驚かせたことを詫び「ここに若様がいらっしゃるのですか?」と、尋ねた。
登葱はじっくりと男を見た。そうだ、この男は、いつか月子が気を失った時に対の屋まで運んでくれた男だ。背格好といい、喋り方といい、その声。柔らかい物腰、あの時の男によく似ている。多分間違いない。この男が若様の従者と思っていたが、違うのかもしれない。男は、従者という身分にしては品がありすぎた。あの時は月子を想うあまり、気づかなかった。
登葱がそんな思いを巡らせたのはほんの一瞬の間だった。
「左様でございますが、貴方様は…?」
「わたくしは訳あって名を明かすことができませぬが、縁戚とだけ申しておきましょう」と、面の男が答える。
「そうですか。しかし、残念ながらお通しすることはできません。若様はあるお方をお呼びになられておりますが、その方でなければお引き取り願います」
男は暫く考えた。
「ある方とは義忠という男のことではありませんか?」
「左様でございます」
「でしたらこのわたくしがその義忠にございます」
「まぁ、なんと…。侍女頭にお聞きおよびでございましたか?しかし、いささかお早いお出ましと存じます。それに義忠様であればそのようなお面を着ける必要もないかと?」
「まったく仰る通りでございます。しかしわたくしにも事情がございまして、藤家の者以外に真の姿をお見せすることができません故、ご了承願いたい」
「はて?わたくしは貴方様のそのお顔を拝見しておりますよね。それに我らとてこの屋敷に滞在しております故、皆、存じております。このわたくしさえも、すぐに貴方が月子様を抱えて対の屋まで運んで下さった方だと気づきました。それでもそのお面は必要ですか?」
「ええ。必要です。たとえ、貴方や貴方のお家の方々に正体を知られたとしても…」
「おやおや、余計なことを申し上げました。しかしもう一つお尋ねいたします」
「どうぞ。しかしながら若様は危険な状態とお察しいたします。一刻も早くお会い致したく、お願い申し上げます」
「そうですね。しかし、お面を着けた不審者をやすやすお通しできませぬ故、ご容赦下さい。貴方様がそのお面を外さない限り、義忠様という保証がございません。わたくしは藤家の侍女頭に義忠様をお連れするようにお願いいたしましたので、侍女頭がそれを保証してくれるものと思っておりました。なに故に一人で来られたのでしょうか?」
「なんと…。それは困りました。侍女頭には会っておりませんので、そのように申されても対処のしようがありませんね」
「でしたら、なに故ここに若様がいらっしゃることを知り得たのでしょう。ここは月子様の対の屋故、そう簡単にお通しすることなどできましょうか?」
「登葱様…でしたよね。困った方だ。わたくしとてこの場を強攻して、押し入りたくないのですよ」
「甘く見ないで頂きたい。」
「わたくしは若様の行動は把握しております。若様が何処におられるのかだいたい察しております。そして、若様が今どういった状況にあるかも分かるのです」
「それは妙なお話しですね。若様の行動を全て把握するのはご無理でございます。若様の今日の行動は予定にはないものだと存じ上げております故、貴方の話しは可笑しいのですよ」
「いいえ。今日のことも把握しておりました。こんな問答無駄でございます。さて、どうすれば入れていただけますか?わたくしが登葱様や登葱様の家の者に手出ししないことはご承知ですよね。その気があればわたくしはとうにそうしています。そうですよね、登葱様」
「ええ、それは承知しています」
「でしたらお願い致します。これ以上続けるのでしたら、余計なことをしなければならなくなります」
登葱は溜息をついた。
「貴方がそのようなお面さえ着けていなければ、わたくしもこのような問答はいたしませんでした。どうぞお入り下さい。しかし、お入りになられても同じような問答が行われましょう。まったくそのお面に何の意味があるのでしょう?」
「恐縮致します。お面の意味などないと言えばないのですが…」間の抜けた調子で男が言う。
「ならばなに故にお面など…」登葱がそう言っている間に男は対の屋の中に入っていった。と、思うと、暫くして寿院が出てきて早々に登葱に歩み寄ってきた。
「なんだ…?乳母殿、あの者が義忠と申す者なのですか?」と、寿院が尋ねる。
「さあ、どうなのでしょう?お面着けてますし。あの者は何度か屋敷で見かけたことございましたが、わたくし共に義忠と名乗ったことございません故、はっきりしたことは分かりません」
「えぇぇっ?あの者はいつもお面を着けているのですか?」と、寿院が再び尋ねる。
「いいえ」と、登葱が答える。
「でしたら何故、屋敷で見かけたことがあると分かるのですか」
「それは分かります。衣に背格好。動き方。声。何をとっても分かりますとも。なに故、あのようなお面を着ける必要があるのか、さっぱり分かりません」と、呆れて登葱が言う。
「へぇー、何でだろう?どう思いますか?乳母殿」
「藤家以外の者に真の姿を見せたくないと言ってました。しかし、わたくしや、恐らく影近も箭重も分かりますね。あんなにとぼけた方とは思いませんでしたよ。何だか問答するのも馬鹿らしくなって入れてしまったのですが…追い帰してやればよかったと、ちょっと後悔しております」
「そうですか。でも入れて頂いて大丈夫です。しかし、あの男は、若様を抱えて直ぐに去るでしょう。それを阻止したいのですが、なんか方法ありますか?」
「もう、本当に面倒でございますね。箭重も影近もいないのに…ご自分で何とかなさいまし。箭重や影近が戻ってきましたらそのように申し上げておきましょう」
「いえ、乳母殿ならできますよね。わたしは一番乳母殿を信じているのですから」と、寿院が明るく言う。
「何を馬鹿な…。それからあの者、奇妙なことを申しておりました。わたくしは藤家の侍女頭に義忠様を連れて来るように申したのに、あの者は侍女頭には会っていないと。そして、一人でここに来たのです。なに故、若様がここにいるのが分かったのか尋ねたら、若様の行動は全て把握していると。貴方もご存知のはず。貴方に若様を連れてくれば月子様が会ってくれると申したのは、あの時思いたったことです。若様がここに来たことは誰も知らないはずです」
「おぉーう。なんと乳母殿は聡明なお方。分かりました。その言葉、わたしにはとても重要なことです。感謝いたします」
寿院は、わずかな時刻考えていた。自問自答をしているようだ。何かの結論に辿り付くと、なるほどと呟いて、登葱に会釈した。そして、対の屋に入った。
奥の上座に月子がぽつりと座っていた。先程若君に刺された左胸あたりに血が滲み出ていた。しかし、月子の表情は変わらない。傷の痛みはないのだろうか?と、寿院は心配した。早く終わらせなけらばと焦る寿院は、素早く夜一の隣りに座りお面の男の様子を見た。
先程男は、入ってくるなり誰にも声を掛けることもなく若君に歩み寄り跪いて、若君の額や頬に掌を当てて体温を確かめた。男は若君の状態を予め知っていたようだ。驚きもせずに冷静に淡々と対処した。しかも怪しげなお面をつけていたから寿院は慌てて登葱の元に走ったのだった。
「姫様は、あの男と何か言葉を交わしたかい?」と、寿院は夜一に尋ねた。
「いいえ、一言も。月子様は言葉を交わさないと思いますよ」と、夜一が答えた。
「ははーん、なるほど。つまりあの男から光が放たれていると?」と、寿院が尋ねた。
「はい。それは無数に」
「これは新たな展開だな。何としても姫様が読み終えるまであの男をここに留めなければならないな…。しかし、もうすでに抱き抱える体制だ。抱え上げたら去るだろうな」と、寿院は困った顔をした。
「寿院様、月子様が無意識に音読されていらっしゃいますね」
「あぁ、恐らく我らには聞こえないほど小さな声なのでしょう」
「わたしなら、傍に寄ればあの声を聞き取れますし、ほぼ同時に寿院様に伝えることができます。いつか、呪い屋の前でやったことがあります。あの時、寿院様もいらっしゃいましたよね」
「なるほど、覚えている。姫様の言葉を詩にしていましたね。あれは見事だった。わたしは時を稼ぎます。その間に準備を…」
しかし、この男は入ってくるなり、我らには眼もくれなかった。若様の様子を見ても驚きもせずに手際の良いことだ。と、寿院は思う。
「お前様が義忠様なのか?」と、寿院は初めて男に声を掛けた。
男は、若君を抱き抱えたが、体重を見誤ったのか、重心が取れず、一旦自分の手から若君を離した。それが丁度寿院が話し掛けた瞬間だった。まるで意図したかのようにも見えた。
「それは貴方様には関係ないことでは…?」と、男は素っ気なく言った。
「いいえ、大いに関係ありますな。若様がお倒れになる前、義忠に運ばせてくれと申しておりました故、お前様が義忠様でなければ我らは阻止しなくてはなりません」寿院は男の様子を観ながら、そう言った。
「面倒臭いな。如何にもわたしが義忠だ。文句はないだろう。わたしが若様の寝殿へお連れする」
「お前様が義忠様ならば、なに故にお面を着けていらっしゃるのか?」寿院が尋ねる。
「それも貴方様には関係ないことですね」と、男はいちいち言い返してくる。
「わたしにはお前様が義忠様と判断が出来ない故、そんな怪しい格好をされていたら、みすみす若様をお渡しすることができませぬな」
「ほーぅ、貴方様にとって若様は何なのでしょう。所詮赤の他人。全く関係ない者でしょう。わたしが若様のことで貴方様にとやかく言われる筋合いはございませんね。こんなやり取りも無駄です。若様を連れて参ります」
男の言うことはまんざら間違いではない。と、寿院は思う。
その時、琵琶を持った夜一が傍に近づいてきたことに気がついた月子は、僅かに音読の声を高めた。
琵琶の音ともに夜一の声が響く。
「まったく、見立て違いだった」
その声に驚いたのか、男が振り返って夜一を見た。
夜一が続ける。歌うように。
「友の首に白い布が巻き付けられていた。顔は歪み、白目を剥き、口から溢れ出る
男は、硬直してしまったように、立ち竦んだ。そして震える声で「何だ、これは?」と、呟いた。
更に夜一の声が響く。
「友の流言が囁かれる。罵詈雑言。まるでこの世の全ての罪を犯したかのような言われようだ。そこに何ひとつ真実はない。それでも戦うべきだった。死んではならなかったのだ。死んでしまったから全ての真実が埋もれてしまった。なんと口惜しい。せめて友の罪を晴らさずにいられようか」
男は、ただ呆然としていた。お面を被っていても、その表情が容易に想像できた。
月子の言葉は、男の言葉そのものに違いない。
「都を彷徨えば、怨みを晴らす者たち『呪い屋』なる者の噂でもちきりだ」夜一が更に続ける。「なんと馬鹿げた噂話だ。友は呪われた挙句、死に至らしめた者たちの評判を上げているだけの存在になってしまった。なのに真実を知ろうとする者など一人もいない。これは、単純な話しではないと言うのに、誰も世の歪みに気が付かない。なんと恐ろしい世だ。地獄とはこのことだろうか。しかしわたしはある者に一片の希望を見出した。その者なら真実を見出してくれるだろうと、わたしは一人の男に望みを託した」
男は肩を震わせ、ただ黙って聞いていた。何を思って、その話しを聞いているのか、その表情が見えなくなっていった。
そして、寿院もまた黙って聞いていた。その話しは寿院の胸を抉った。何故、その話しが刃のように突き刺さってくるのか、よく分からなかったが、一言一言聞いているうちに靄がかったぼんやりした景色が少しずつ見えてきた。
男は、ゆっくりと崩れるように座り込んだ。
夜一が続ける。
「男は、瞬く間に友の死の原因を見つけてくれた。しかし、なんと…、男さえも欺かれてしまったのだ。まったくの見立て違いだった。このまま全てが闇に葬られるのだろうか?そんな単純な話しではないのに、望みを託した男さえも気付かない。聡明な男だと思っていたが、残念だ。実に残念だ」
月子の音読が止まった。夜一も口を閉ざした。お面の男も黙ったまま身動きしない。そして寿院もまた、黙り込んだまま、ただ一点を見つめていた。
沈黙が続く。
やがて月子の音読が始まる。と、同時に夜一の声が響いた。
「ただ一つ、男には感謝しなくてはならないだろう。友を死に至らしめた者『呪い屋』なるものの正体を暴いてくれたのだから。しかし、それは氷山の一角に過ぎないことをあの男は気付いているのだろうか?」
月子は寿院を見つめた。寿院はまだ、沈黙していた。
お面の男がゆっくりと立ち上がる。
「これは何の茶番かな?琵琶法師様に尋ねる。その詩の内容を理解した上で歌っているのか?」と、お面の男が強い口調で尋ねた。
夜一が答えた。
「いいえ、まったく」
「いったい誰が創った
「さぁ、どなたでしょうか?それは恐らく貴方様がお創りになられたのではないのですか?」と、夜一が答えた。
「なるほど…なるほど。わたしは都で度々貴方を見かけたことがある。そんなふうにいつも
「はて?からくりとは…?」
その時、突然、月子が呟いた。その声が届くと、夜一はお面の男を見据えて、「こくねかい」と、声を轟かせた。「こくねかい…黒根戒…」と、続けて夜一は、自身に言い返すように呟いた。「寿院様、その名前は…」
考え込んでいた寿院が、一瞬、何事かと夜一を見た。
「何の話しでしょうか?」と、寿院が尋ねる。
「お面の男は黒根戒を知っていた」
「ああ、そう言うことですね」寿院は再び思考の中に入り込んでいく。夜一は寿院が闇雲に思考を巡らせているなどとは考えていない。時期に事の真相を明らかにするだろうという、期待があった。理由のない確信だ。だから、それ以上のことは何も言わなかった。
夜一は、月子を見た。まだ、お面の男を見据え、集中していた。
お面の男の文字は規則正しく並んで出現していた。立ち竦む男から半歩ほどの距離をぐるりと取り囲む範囲内で文字は下から上へ綺麗に一列になって現れていた。月子は、かなり集中力を高めていたのか、一列に並んで出現する文字のなかから言葉を生み出すものには色が着いて見えている。それは恐らく月子が言葉を読もうという意志を強く抱いた、ある意味人には過ぎた潜在能力の成せる力なのだろう。それで月子は文字から目を逸らせなかった。
「あゝ、なるほど…。お前様が何故お面を着けてきたのか、理解しました」と、寿院が言った。「いや、最初からそういうことなのだろう。と考えていました。しかし、今確信しましたよ。考えたら可笑しな話しです。姫様に続いてわたし、そして、夜一殿まで集まってしまった。もし隆鷗が手鞠の
「寿院様、どういうことですか?」と、夜一が不思議そうに尋ねる。
男もお面越しに寿院を見つめていた。
「何もかもお前様が謀ったのですね。我らをここに集めたのは、最初から計画していたと言う訳ですか?」寿院は立ち上がり、ゆっくりと、お面の男の傍へと歩み寄った。
「お前様が、何故そのようなお面を着けてここに来たのか?それはあまりにも浅はかな行動だ。果て、お前様はそのように浅知恵を使いここを訪れたのはなに
お面の男は少しずつ後退りながら、寿院の話しを聞いていたが、何も答えない。
「わたしは、お前様が入ってくるなり、わたしたちに目もくれずに迷わず若様の傍に歩み寄ったので、その隙に乳母殿にお前様の正体を聞きに行ったのですよ。すると、乳母殿は、お前様が誰なのか分かっていた。多分影近殿も箭重殿も気付くだろうと申しておりました。しかし、お前様はそれは構わなかった。つまりその顔を見せたくないのは、このわたしにですね。だから浅知恵と、申したのですよ」
寿院の言葉に男は何も答えなかった。
「随分と長い
「寿院様」その時、月子が声を掛けた。「今の話しはもしかして、寿院様が昔『呪い屋』を追いかけていた事件のことですか?あの時、首を吊って亡くなった方がいらっしゃった。その方が酷い言われようだった。確か九堂家の若様でしたね。若様は大層遊び人で都の娘を拉致して閉じ込めてしまい、友人たちと酷いことをしたと噂になっていた。そして、娘さんは自殺なさった。確か娘さんのことを好いていた秦家の若君が『呪い屋』なる者に九堂家の若様の呪いを依頼した。やがて九堂家の若様は首をくくり自殺なさった。その友は皆酷い亡くなられ方をしたという事件ですね。我も覚えております」
「その事件のことだと、すぐに気付きましたよ。お前様はどうやらその事件のことでわたしを恨んでおいでのようだ」と、寿院は言うと、いささか月子が気になって夜一を見た。夜一はすぐに察したように。「まだ光は見えております」と呟いた。
「お前様は九堂家の若様のことを友と申しましたね。その事件の真相を有耶無耶にしたことを恨んでいるのですか?」
その時、月子が黙っていられずに口を挟んだ。
「寿院様はそれで終わらせていないはずです。その事件は、九堂の若様の出世を妬んだ秦の若様が全て仕組んだ事件だったと、暴いているはずです。きちんと九堂家の御当主様と奥方様にはお話しされていらっしゃいますし、事件の後、もぬけの殻になっていた秦家のことも調べていらっしゃいます。それに、それで終わらせてはいません。あの事件にはいろいろ不思議な点もあり、今も尚…」
「姫様、ここはわたしに任せて下さい」と、寿院は月子の言葉を遮った。「そんなことよりしっかりとこの者の言葉を探して下さい」と、寿院は、月子から視線を夜一に移した。夜一は、まだ光が見えている。という意味を込めて頷いた。
「何か言ったらどうですか?」と、寿院はお面の男に詰め寄った。
お面の男は笑った。
「いったい何ですか…これは何かの見世物ですか?ただ、貴方様と琵琶法師様のやり取りをわたしはただ拝見していたにすぎない…だけですよね。まるで心を読まれたかと思いましたよ。どんな仕掛けか分かりませんが…。まったく浅はかとはあんたのことだ。何が秦の若様が全て仕組んだ事件だ。それで満足して一件落着ですか。貴方様がこんなにも凡人だったとは本当に計算違いでしたよ」
「凡人…?ああ、如何にもわたしは凡人ですよ。おや?凡人の何が悪いのだ?」
「いや…。むしろ貴方様の、その中途半端に頭が切れるせいで騙されたのでしょうね」と、男は言った。
中途半端に頭が切れるせいで騙された…その言葉に寿院は失望した。中途半端に切れる?そして、寿院は黙った。
月子は、寿院には絶対的な信頼を置いていた。月子もまた、このお面の男の言葉に不快感を抱いた。寿院にこのような言葉を吐き捨てるこの男はいったい何者なのだろうか?月子は男の言葉を見失っていた。
男の文字が出現する空間は、相変わらず文字で埋め尽くすされている。しかし、月子はその文字から言葉を見つけ出すことができなくなってしまった。こんなにも文字に溢れているのに、言葉が見つからないなんて。しかし、男の言葉を読まなくては、この男が何者か分からないばかりか、寿院がまるで敗者のようで月子には我慢出来なかった。
「さて、姫様、そしてわたし、それに夜一殿をここに集めたのは如何なることなのでしょうか?それによくよく考えてみると、ここに我らを集めるには、相当前から仕込む必要がありますね。逆から考えてみましょうか?お前様は早々に藤家が
「いいえ知りませんね」と、お面の男が言った。
「あぁ、そうですか?まぁ、偶然だとして…、いやそうではない。それは考えられないのだよ。お前様が若様を助けたいと思うのなら、それに見合った人材が必要でしょう。憎琤院…つまり『呪い屋』を仕留める人材…?うーむ。仕留めるまでいかなくても、憎琤院を名実共に丸裸にできる人材かな?だが、同時にわたしは若様が平家をすごく恨んでいる話しを聞いてしまった。都の外にある藤家の領地は、恐らく東山様の兄弟が管理なさっているのでしょうが、そこに平家の家臣が地頭として現れた。譜薛の家の者なのでしょう。地頭は領主を無視して好き放題搾取を始めた。そして、それは東山の屋敷にまで及んだ。それを聞いて、わたしはふと、若様が故意に憎琤院を藤家に招き入れたのではないかと思った。どうも東山様は憎琤院の言いなりになっているが、若様はそうでもない。むしろすごく戦略家で憎琤院が手玉に取れる玉ではない。逆に憎琤院の方がいいように利用されているのではないかと思っていました。しかし、若様は憎琤院に表立って敵対するわけにもいきませんから、表立って憎琤院に敵対する対抗勢力が必要だった」
お面の男は、笑った。
「だから言いましたよね。貴方様は中途半端に頭が切れるから、ある程度ご自身で考えたら納得してそれで終わるのですよ。到底全てを考えることなどできないのですから、今回も成るようになるだけなのですよ」
「うーむ、今回も?つまりあの『呪い屋』の事件も成るようになった…解決だったから、お前様はわたしを恨んでいらっしゃるのですよね。だったらなに
お面の男は、再び笑った。
「そうですね。もし貴方様が言うようなことをわたしがしていたらの話しですが、そうではないな。貴方様に知って貰いたかったのかもしれない。貴方様が自身で思っているほど、優秀ではないことを。いや、もっともっと、事件の真相、いや深い層と書いた深層に辿り着いて欲しいと願ったのかもしれない。しかし、わたしはあなた方を呼んではいない。すごい想像力だ」
「何を…?お前様は勝手にわたしを買い被っておきながら、他人を貶めるなどと、なんか神様にでもなったおつもりかな?わたしは一度たりと自分が優秀などと、思ったことはない。わたしは多くの者たちに助けられているただの凡人にすぎず。ましてやわたしは、その凡人を見下したことはない」
「凡人を見下す?そんな話しが出ること自体、貴方様は他者よりも自身が優秀だと自負している証しなのですよ」
「いえいえ、お前様のその捉え方がすでに間違っているのですよ。わたしが他者を見下していると申したのではありません。それはお前様がわたしを見下していると、申している」
「わたしが貴方様を見下す?と」
「お前様がどのようにわたしのことをお思いになるのは勝手でございます。しかし、お前様は、若様に
「なんと…馬鹿なことをお考えか?貴方様は本当に想像力だけは優秀だな。話しにならないなぁ」と、お面の男は高々に笑った。「貴方様は信じ難き思い込みの激しいお方だ。そしてその想像力と併せ誰もが考えもしないことを考える。実に面白い話だが、わたしはそれ程暇ではございません
丁度、その時だった。登葱の声が聞こえた。
「月子様、箭重と陸が戻って参りました。お通ししますよ」
陸…?寿院は我が耳を疑った。確かに陸と言った。
箭重と、陸は、実は四半刻前には戻っていた。寿院がお面の男の正体を聞きに来て、すぐ後に陸に抱き抱えられるように箭重が戻ってきたのだ。そして、陸は寿院にいい報告を持って来たと、沈み込んでいる箭重と違って明るい表情をしていた。そんな二人を登葱が足止めした。
登葱は、ずっと対の屋の中の様子を窺っていた。寿院や、夜一、月子、そしてお面の男の言葉をひとつひとつ見逃すことなく全て聞き分けていた。きっと、この二人が役に立つ絶妙な瞬間が訪れるだろう。と、二人を待機させたのだ。そして、その時がやって来たと、登葱は思った。
登葱の言葉を合図に陸が対の屋に入っていった。そして、すぐに寿院の驚いた様子を見て、陸は申し訳なさそうにした。寿院は、陸を見た後に月子を見た。しかし、月子は何故か苦痛の表情を浮かべていた。相変わらず男に視線を移したまま顰めた顔をしている。月子のそんな表情を寿院は初めて見る。その後、夜一を見た。夜一も月子の苦痛に気がついていた。
「姫様はいったいどうしてしまわれたのだ」と、寿院が呟く。
「寿院様、この後はわたくしめにお任せ下さい」と、陸が言う。
「陸は信蕉様の弟子なのか?」と、寿院が尋ねた。
「黙っていてすみません。あの時、寿院様が隆鷗と共に暮らしているのを見て、わたしはすごく羨ましかった。隆鷗とは古い知人で…いや家族だと思っています。なのに黙っていました。わたしは弟子というより信蕉様の息子だと思ってます」
そんな会話をしている間にお面の男は若君を抱き抱えていた。陸が入って来たことなど関せず、若君をしっかりと腕の中に収め対の屋を去ろうとしていた。しかし、それを陸が阻んだ。
「おや、その腕の中で気を失っているのは若様ですかね。わたしは箭重に頼まれて、竹藪の中の
「どなたか存じませんが、何を場違いなことを言っているのだ?見て分からぬか?若様は病なのだ。いつ死んでもおかしくないのだぞ!」
「しかし、ただ若様の寝殿に連れていくだけなのでしたら、ここで寝かせても同じなのではないのですか?薬師でも呼んでいるのですか?」と、寿院が言う。
「ああ、呼ぶとも。しかしここで貴方たちが足止めしているのですよ。若様に何かあったら貴方たちが責任を取ってくれるのですか?」
その時、すかさず登葱が顔を出して「薬師でしたらわたしが呼びましょう。やたら病人を動かさない方がいいのでは?すぐに寝床の準備を致しましょうか?」と、助け船を出した。
登葱の言葉に誰もが黙り込んだ。一瞬静まり返った対の屋だったが、そこに弱々しいか細い声が聞こえてきた。
「侍女殿がわたくしを斬るために戻ってこられたか?」
若君だった。
「おや。お目覚めですか?ご病気なのですから、ご無理をなさらずとも良いですよ」と、寿院が言った。
「おおぅ、若様、お初にお目にかかります。わたくしめは月子様の家の者なのですが、実は箭重に頼まれて竹藪の
若君は、残り少ない僅かな力を込めて陸を見据えた。「なんと…煩わしい者たちか。義忠、下ろしてくれ」
義忠と呼ばれたお面の男は、丁寧にゆっくりと若君を床に座らせて、両肩を支えた。
若君が迷わず義忠と名前を呼んでも平然としているお面の男が寿院には滑稽に見えた。義忠というその名前に意味があるのだろうか?恐らくこの男の顔は見知った顔に違いない。登葱の言葉を思い出した。男の声、喋り方、背格好、動作、記憶の何処かに似た者はいなかったか?
陸は、そのまま跪いたままだったので、寿院も傍に座り直した。
「若様は病のようなので、結論を申し上げます。ありましたよ。抄峯殿と、華菜殿の顔は存じております
若君は、朦朧としているのかと思ったが、両目を見開き、まるで鬼のような面持ちをしながら、硬直してしまった。やがて、勢いよく咳き込んだと思ったら絞り出すように「なんと…」と、一言呟いた。
寿院もまた、硬直してしまった。そして、先程の若君の言葉を思い出していた。これは『祓い屋』の仕業なのか?それを黙認していた藤家の者の罪の深さは計り知れない。
若君は先程、何の感情もなく、さらっと言ったのだ。役に立たない者たちは『祓い屋』が惨殺したと。そして、そんなことを無感情に言う、この者と『祓い屋』にどんな差があるのだろうか。もはや次元の違う者たちなのだ。寿院はこの上ない怒りを覚えた。
「さて、わたくしをお斬りになるか?」と、小声で呟く若君を背後で支えるお面の男の、その後ろにいつのまにか箭重が立ち竦んでいた。
箭重は、月子を見ていた。そんな箭重を見て、寿院も再び月子を見た。月子はいったい何を見ているのか、更に苦悩で歪んだ顔をしていた。
月子の視界には、これまでに見たことがない光景が広がっていた。
お面の男の身体から湧き出る文字が若君の不気味な呪文のような文字に干渉し、
月子は瞬きひとつせず、新たな次元に吸い込まれそうだった。この現実空間のなかで別の次元へと視界を開いている、その瞳を見て、箭重は奇妙な恐怖を覚えた。陸が持ってきた
箭重は、ゆっくりと用心深く月子の傍に歩み寄った。勿論月子の視界は、近付く箭重を捉えることはない。しかし箭重はそれでも慎重に近づいた。そして、月子の背後に廻り肩を抱いて、耳元で囁いた。
「おいっ、月子。お前が紅を連れて来いと簡単に言ったが、わたしはとんだ目にあったぞ。紅の罠に嵌って首を吊るされたのさ。お前のせいだ。影近が助けてくれたのだけど、来るのが遅ければわたしは死んでいた。だけど、本当はわたしは確実に死んでいたのさ。お前に言われすぐに離れに到着していたならわたしは生きていなかった。何故ならわたしは離れに向かう途中に黒い影に出くわし、余儀なく足止めをくらったからさ。その黒い影は焼けた煤のようで人の形をしている。まるで悪霊だ。と、隆鷗が言ったんだ。そうだ隆鷗さ。しかし隆鷗が教えてくれたんだよ。そいつは悪霊ではなかったと。わたしの死んだ母上がいつも守ってくれているのだと。だからわたしを助けてくれた。影近が間に合ったのさ。お前は知りたがっていただろう。いたよ。子供の頃お前を守っていた男の子が。そいつが隆鷗さ。陸の話しでは今、寿院様と一緒に暮らしているらしい。わたしも隆鷗に聞きたい。母上は今もわたしを守ってくれているのか?だからさ、この事案が終わったらさ。二人で会いに行くぞ。だからしっかりしろ。お前呪われた顔をしているぞ」
箭重の言葉に、月子の視界は現実世界を捉え始めた。若君の呪文のような文字はあの世からの言葉を綴っていたのかもしれない。しかし、それを月子は読むことができない。だから、月子の意識のなかで、蛇のような呪文を捉えなくなったせいか、再びお面の男の文字が並ぶようになった。しかも今度は少しずつ色がつき始めた。月子の集中力が優ったのだ。
その瞬間を夜一は、月子の口や目から黒い靄が吐き出されたように見えて、驚いた。それは何の現象なのか?夜一さえも初めて見る光景だった。もしかして月子は、悪霊にほんの一瞬でも憑かれていたのかもしれないと、夜一は不安を覚えた。月子の家の者が気を利かせて話しかけなければ、もしかしたら月子の魂が持って行かれたかもしれない。夜一はふと、仮説をたてた。他人の言霊を身体に取り込んでいるのだから、当然そこには陰鬱な言霊も存在するだろう。悪意の言霊を飲み続けることでやがて悪霊へと変化してしまうことも有り得るのではないのか?だとしたら、言霊を読み続けていたら、月子の身体は悪霊に蝕まれ、やがてその命も尽きてしまうのかもしれない。
寿院もまた、月子の様子を見て、不安に苛まれていた。ほぼ、夜一と同じ理由で月子の行為は本当は危険なのではないのか?と。夜一が白い光を身体に取り込んでいる。と言っていたが、月子は、それをただ、虚空に浮かぶ文字を読み解いているだけと表現していた。恐らく月子にはそれを身体に取り込んでいる意識はないのだろう。
「そうか…そうか…だから信蕉様は、もう二度と都には出さなかったのだ。それが信蕉様にもわかる何かが起こったに違いない。隆鷗とほぼ同時期に入れ替わっている。隆鷗にも関係があるのだろうか?」
寿院が心配気に見ていると、月子は、まるで意識を保っているとは思えない面持ちでふらっと立ち上がった。そして、一歩ゆっくりと、お面の男に歩み寄り、ぴたっと止まると、『宮廷御用達のお酒だと…』と、呟いた。その言葉を寿院はしっかりと聞いていた。
月子は、暫くお面の男を見据えた。やがて言葉を、声を出して読み始めた。
「『義忠、最近、
月子は、一気に捲し立てると、突然意識を失ってしまった。お面の男もまた、ばたんと腰を落としてぶるぶる震えた。
陸は、跪いたまま床を見ながら月子の言葉を、自身がこれまで出くわした様々な光景と照合し、分析していた。
夜一は何があったのか、呆然と、床に倒れた月子のぼんやりとした様子を脳で補足しながら、この現象の意味を考えた。
寿院は、咄嗟に月子に歩み寄り肩を抱き抱え、意識を取り戻そうと試みた。月子はまるで深い眠りに陥ったようにぴくりとも動かない。
「童、どうしたんだ?しっかりしろ」と、寿院は叫んだ。「夜一殿、童はどうしてしまったのだ。こんなふうに気絶するなんて一度もなかったことだ」
夜一は、ぼんやりと映る、倒れた月子を見たが、黒い靄がないことにひとまず安心した。そして、白い鈍い光も消えていた。
「大丈夫かと。黒い靄も見えないし、鈍い光も消えてしまった。起こさない方がいいかもしれません。起こすと、また、あの者の光を沢山取り込んでしまうでしょう。今は、それは避けた方がいいかもしれません」と、夜一は言った。
「分かった。箭重殿姫様を頼んでいいか。」と、寿院が言う。
「登葱様を呼んで参ります」と、箭重が心配気に言った。
「そうですね。でも今は姫様の傍にいて下さい。夜一殿を信じていいと思います」
寿院の言葉を信じないわけではなかったが、それでも箭重は落ち着かない。月子の頭を持ち上げ、自分の膝元へ置くと、涙目で月子の肩を摩った。それを見て、月子は恵まれていたのだな。と寿院は安心した。
「さて、お前様に聞きたいことがある」と、寿院はお面の男に向き直って、男を見据えた。「姫様が倒れた故、回りくどい聞き方はしないぞ。お前様は何故、九堂の若様のことを正直に話さなかったのだ」
寿院がそう尋ねると、まるで合図のようにお面の男は、腰を抜かしたみっともない姿勢を整え、立ち上がった。そして陸も立ち上がり、お面の男から寿院を守る体制を取った。
「何の話しですか?」と、お面の男は言った。
寿院は嘲笑を浮かべる。「とんだ臆病者だな。お前様は多分わたしの見知った顔だ。わたしに正体がばれるのを恐れて、そんなお面を被ってきた。しかし、それよりももっと深刻な理由があった。お前様は姫様のことを知っていたな。多分、最初は気付かなかったのだろう。しかし、
お面の男は、もうすでに観念しているように見えた。
「すごいな。確かに随分昔会ったことがあったな。そうだ。多分、あれが姫様であれば…。汚い物乞いの餓鬼だった。わたしは
「そうか?確かにわたしはお前様の噂話の筋書き通りに調べたが、残念なことにお前様は我らの途中までしか見ていなかったようだ。姫様がお前様に出会ったのは、まだわたしと出会う前だった故、姫様は、わたしが調べていた『呪い屋』との関連付けが出来なかったのだよ。それに秦家が突然もぬけの殻になってしまったことで、一度は秦家は皆殺しにされたと無理矢理納得したが、どうしても釈然としなくて、再び調べ始めたのだが、その過程で姫様は突然、お前様のことを思い出したのだよ。だからわたしは全てが辻褄が合うと、調べなおしたのさ。なるほど、畑家はもっと以前から周到に準備されて、乗っ取られていた。畑玄黄は替玉だったのだ。そして、畑家の当主も病に臥せって生死さえも有耶無耶だった。やがて、当主が亡くなっていたことをつきとめたのだが、畑玄黄の替玉に九堂の若君が気づいた時には、もう当主様は亡くなっていたと考えた方が妥当なのかもしれないなぁ。しかも、民衆をまるで馬鹿にしたように『畑家』から『秦家』へと漢字表記を変えていた。本当に笑ってしまうよ。誰も気づかないなんて…。だが、聞き込みをしているなかでひとりの老人だけは気づいていたのだよ。老人と、九堂稜晏が気づかなければ、見過ごされていたかもしれない。考えただけでも恐ろしい話しだ。畑家がすっかり見知らぬ他人に乗っ取られてしまったのだから。それに気づいた九堂稜晏は殺された。優秀すぎるのも考えものだな。まぁ、でもお前様が言う通り、こうして未だに追いかけている有様だ。しかし、この藤家は偶然わたしのとこに迷い込んだ事件だったが、今となってはそういうことではなさそうだ。そうだろう?お前様は、あの時、九堂家の若様の噂話をわたしに売りに来た
男は、ぽろりとお面を外した。やはり寿院が知った顔をしていた。すごく陽気で酒が好きな糖粽売だが、その素性は知らない。いつも陽気でがさつな振りをしていたが、そこにいる糖粽売は威圧的な空気を纏っていた。
「お前様はなに故、このようなまねをしたのだ?」と、寿院は尋ねた。
僅かな沈黙が流れるその合間に箭重が割って入ってきた。
「やはり登葱様を呼んで参ります」と、心配気に箭重が言う。
すると、突然若君が口を開いた。
「義忠は悪くないのだ。わたしが平家への憎しみを募らせ、義忠に相談したのが始まりだ。でもそれは間違いだったかもしれない。今更遅いが後悔している」
「そうですね。今更ですね」と、寿院が言う。
「わたしは、もう随分前から死ぬことが分かっていたのです。母上が亡くなっていると知らされた時にわたしも覚悟をしていました。母上が遠雷に噛みつかれて、ほどなくしてわたしも噛みつかれたのです。それからわたしも母上のように死ぬのだな。と思っていました」と、掠れた声で若君が言う。
「しかし、若様のその胸の呪符は、何なのですか?」と、寿院がいささか驚く。
「憎琤院は、遠雷をけしかけて故意に母上に噛みつかせたのです。我らを脅すために。しかし、わたしが噛みつかれたことは知らなかった。それ故にこの呪符は文字通り憎琤院への忠誠の証です。わたしは抵抗なく憎琤院に貼らせたのです。死への恐怖を植え付け、月子様を暗殺させるために、憎琤院はもうやけっぱちでしたね。わたしはただ、
「藤家華凛…。あぁ、譜薛の父か」と、寿院が言った。
「ええ。ですから譜薛を誘き出せたので、ほぼ計画は順調でした。しかし、残念だ。この家で譜薛を殺してしまえばわたしは満足だったのに…。これまでです」
「そうですか?そのために姫様まで亡き者にしようとしたのか?」と、寿院は、静かに怒りを込めて言った。
「わたしにその気はありませんでした。しかし、月子様が何者なのか分からず、成り行きに従ってしまいました。実は月子様より貴方を警戒していたのです。暫く貴方は譜薛の関係者と思っていたのですが、月子様との会話で貴方方はむしろ義忠のお客様だと思いました。でも…月子様には申し訳ないことを致しました。傷つけるつもりはなかったのです。申し訳ありません。後は義忠と話して下さい」
そう言うと、若君はぐったりした。
「なんなんだ。譜薛を誘き出すのなら間者の華菜殿を人質に取って呼びつければいい。こんなことをしなくても…。」と、寿院は悔しそうに呟いた。
「いや、それは無理です。何度も想定しました。それだと平家は軍を率いてでも藤家を潰しに来るでしょうね。平家の思う壺なのですよ。平家には苦しんで貰わなければならない。『呪い』や『祟り』のような訳の分からない武器が必要だったのですよ」と、義忠が、若君の後を引き継いで答えた。
「『呪い』や『祟り』が武器なのですか?そのために黒根戒を利用したと…?藤家のことを考えなかったのですね。復讐とはなんとおぞましい」
「そうですよ。復讐とはおぞましいものなのですよ。若君は平家。そしてわたしは『呪い屋』への復讐。しかし、若君もわたしもあと一歩のとこで失敗してしまいました。貴方という不確定要素をどうやら舐めていました。せめて、若君の復讐だけはこのわたしの手で終わらせようかと考えています。若君はわたしのせいで、どうやらもう命が尽きようとしています。若君の復讐を遂げる責任があります」
「本当にお前様は…。何もこんな手の込んだことをする必要などなかった。お前様はどんなふうに復讐をするつもりだったのですか?」
「わたしの復讐は、もっと先にありました。『呪い屋』いや、黒根は、側妻の紅を実質的な当主とし、東山と、若君を手中に収め都の外の領地を手に入れ、完全に藤家を乗っ取ってしまう。そこで黙っていないのが藤原華凛だ。藤家は藤原華凛の一族を『祟り』で葬ることで復讐が終わる。まぁ、実際はわたしと『呪い屋』で葬るのですが。若君は復讐のために藤家を差し出してくれたのですよ。わたしは乗っ取られた藤家の中に溶け込みながら、あまりにも謎の多い黒根家の全貌を解明し、根絶やしにするつもりでした。しかし、まさか、貴方を見て逃げ出してしまうとは夢夢思いませんでした。わたしの見立て違いでした。本当は、黒根家の謎を解くのに利用しようと考えて、糖粽売りとして、譜薛に貴方のことを教えたのですよ。すると面白いくらい簡単に貴方と譜薛はここにやって来た。」そう言うと、義忠は力無く笑った。「しかし貴方様は、予想以上に黒根戒を追い詰めていたのですね。以前に…。黒根戒が慌てふためいて逃げ出した様子が窺えます。しかし、追い詰めたのは貴方様ではなかった。貴方様と、そこにいる姫様。お二人でなければあんなにも追い詰められなかった。そして、今回も黒根戒に刻まれたことでしょうね。残念だ。それを見誤らなければ、もっと上手くできたというのに」
「そうでしょうか?」と、寿院は嘲笑った。
「そうですね。貴方様がわたしの掌で躍ってくれる訳ないですよね。わたしの方が踊らされそうだ」と、力無く笑った。
「わたしは人を躍らせたりはしない。しかし、黒根は危険です。豪族、貴族と、周到に家ごと乗っ取っている。こうして我らや九堂の若様のような方が気づいたところは、丸ごと資産を掠奪して、家を捨てておりますが、考えてみれば、やつらは決して失敗したわけではない。藤家は代々続いた荘園があり、領主として、利を得ております。ここを乗っ取ることで、継続的な利を得ることができるので、確かに失敗だったと言えます。しかし、畑家は失敗とは言えません。ちゃっかり資産を掠奪しています。畑家ですから結構な資産だったでしょうね。姫様の侍女の実家はまんまと乗っ取られています。そして、領地を肥やし今だに利を得ている」寿院が黙り込んだ。考えてみると、家を乗っ取られるなど恐ろしいことだ。人の暮らしの根本的な営みが破壊されているのだ。何か、まるで世界が根っこからもがれてしまったような恐怖を感じる。寿院が黙り込むと、皆も黙ってしまった。
暫くすると、影近が息を切らして勢いよく現れた。
「おっさん、あんた平家の家臣と繋がっているのか?西の寝殿の客人は平家の家臣ではないのか?おっさんを呼んで来いと命令してくるのだが?おっさんとどういう関係なのだ?」と、取り止めもなく影近が言う。
「なんだ?落ち着いて話してくれ」と、寿院が答える。
「いや落ち着いていられないぞ。平家が屋敷を取り囲んでいる。どんどん集まってきているようだ。この屋敷を襲うつもりだ。おっさんがあの西側の客人の仲間であれば今すぐここを出て行ってくれないか?」影近が寿院を睨む。
そこに陸が割って入ってきた。
「影近、落ち着け。寿院様は敵ではない。あの譜薛とは何の関係もない。ただ随行を求められただけだ」
「おぅ、陸。何故お前がここにいる。お前は連絡係だろう」
「わたしは、もう随分前から寿院様の仕事を手伝っているのだ。ちょっと前に譜薛の調査を頼まれた。だから寿院様が譜薛の正体を知ったのは昨日なのだ」
「陸、てめぇ、今何と言った。おっさんの仕事を手伝っているだと…、なことが許されると思っているのか?」
「あぁ、すまない。内緒で動いていた」
「待って待って。影近殿、先程、何と仰った。平家が何と?」と、寿院が慌てて言った。
「あぁ、そうだ。平家がぐるりと屋敷の周りを取り囲んでいる。西側の客人が華菜殿が殺されたと言っていた。あいつが呼んだかどうかは分からないが…。取り囲んでいる者たちは恐らく平家だ。餓鬼も混じっていた。あれは平家の密偵だ。間違いない。おっさん、あんたを信じても大丈夫か?裏切らないか?」
「影近、それはわたしが保証するよ」と、陸が言う。
「うるせぇ。俺はおっさんに聞いているんだ」
「わたしは姫様の仲間は決して裏切らないよ」と、寿院が答えた。
「月子様は関係ない。俺が聞いているのだ」と、影近の眼光が寿院を捉える。
「裏切らないさ」
「分かった。おっさんも知ってる遠雷の小さな屋敷の下に広い地下がある。結構造りのいい地下になっているから取り敢えずそこに隠れて平家をやり過ごそう。あの地下は恐らく憎琤院たちの隠れ家だ。中は広くて、部屋が幾つもある。そして、洞穴に入ると屋敷の外に出られる。俺はそこから外に出て、屋敷の外周をくるりと回ったのさ。そして、ただならぬ平家の一群を確認した。皆武器を持ち、何やら待機している感じだった。間違いない、あれは屋敷に押し入ろうとしている」
「なんと…。影近殿、これから先、何があってもわたしは影近殿を裏切ることはない。影近殿もわたしを裏切らないと分かるよ」と、寿院が言う。
「なことはどうでもいい」と、影近が吐き捨てる。
「なんと…」理不尽な…言葉を寿院は飲み込んだ。
「おっさん、まず、東山は紅に殺された。そして、紅は西の寝殿の平家に囚われている。状況が一変したんだ。屋敷の外の平家は面倒くさいくらい大人数だった。俺と箭重と陸は出来る限り藤家の者を逃がすから、おっさんは月子様と登葱様と若様を連れて遠雷の屋敷の地下へ向かってくれ。それから憎琤院は見つけることができなかった。多分、もうここにはいないと思う」と、影近が言った。
「待ってくれ。譜薛はわたしがやる」と、突然義忠が割って入って来たので、影近が困惑した。
「誰だ、お前…。あっ、まぁいいか」と、影近がやり過ごす。
それと、ほぼ同時に登葱が対の屋に入って来た。
「月子様、あぁ、やっぱり寝ている。思った通りだ。月子様はここで寝ますので、あなた方はそろそろお戻り下さい」
「何を言っている」と、影近が言う。「ここにいたら危険です。おっさんが隠れ家に運ぶから、登葱様もそこへ移動して下さい」
「お黙り。月子様はじきに目を覚まします。影近、あなたが命懸けで月子様をお守りなさい。それと箭重、あなたはわたしと共に皆を誘導するのです。あなただったら皆も言うことを聞くでしょうから。わたしは侍女頭に皆を逃がすように指示しますので、それが終わったら、箭重も月子様を守りなさい。そして、寿院様、あなたは…勝手にどうぞ」と、登葱がてきぱき指示する。
「駄目です、登葱様。月子様を安全なとこに運んだ方がいいですって」と、影近は釈然としない。
「だからお黙り。月子様はここで眠る必要があるのです。おそらく、いや確実に阿袮が来る。阿袮とはここできちんと決着をつけておかないと、後々面倒です。阿袮は月子様を妬んでいます。憎んでいるのですよ。それに若様でさえあの女から月子様の暗殺を命じられていたのですから、阿袮が動かないわけがない。阿袮だけは絶対許す訳にはいかないのですよ。私も、月子様も…」と、登葱は、影近が口答えできないほど冷静で、そして冷酷だった。
登葱の言葉に寿院は心を抉られる思いだった。そうだ。阿袮が気掛かりだった理由を登葱が言い当てたのだ。と、寿院は思った。
「なんと…。信蕉様は酷なことをなさるのか?信蕉様なら、こうなることを予測できたはずなのです。だから影近殿、お願いです。必ず月子様を守って下さい。わたしは侍女頭に事情を説明したら、すぐに戻り、必ずわたしの手で決着をつけます」と、登葱が言う。登葱が影近に頼み事をするのは珍しい。だから影近も案外悪い気はしなかった。
「分かったよ、登葱様。必ず守るよ。おっさんはこれからどうするんだ?隠れ家に行くのか?それとも西の寝殿に戻るのか?」
「うーむ。譜薛の元に戻る。譜薛とはもう話せないかもしれない。できたら真実を譜薛の口から聞き出してやるさ。糖綜売が殺す前に」
義忠は、影近と話している間に若君を抱き抱え、対の屋を去っていた。それに寿院は気づいていたが、今回は引き留めなかった。今の状況で若君を寝殿に連れて行かないだろうから、やはり遠雷の寝殿に連れて行くに違いない。と思ったからだ。遠雷の寝殿には隠された秘密の地下がある。恐らくそこが若君の言う儀式場なのだろう。義忠は元々知っていた可能性が高い。
そうこうしているうちに登葱は、あっという間に月子の寝床を作っていた。行動が早い。そして、遠雷の寝殿のことを知っていた陸に夜一を任せて、寿院は急いで譜薛の西の寝殿に向かった。寿院にしては珍しく圧倒的な速度だ。すぐに到着した。寿院の顔を見るなり、譜薛は怒鳴り散らした。
「貴様、いったい何をしていたというのだ?貴様がいない間、わたしはとんだ目にあったのだ。この役立たずめ。この能無しめ」と、殴りかかってくる勢いだ。しかし、寿院は呆気なくそれを交わし、譜薛を見据えた。
「ほぉ、どんな目に遭ったのです?」
譜薛の後ろには紅がぐったりとしていた。顔は腫れ、膨らんで見える。身体のあちこちに染みついた血痕が譜薛の行動を裏付けていた。
「後ろでぐったりしているのは藤家の者ですか?まさか、拷問でもしましたか?」と、寿院が尋ねた。
「ああ、この者は誰だと思う?」
「さぁ、わたしには覚えがない顔だな」
「なんと、こいつが『祓い屋』一派の、ここの当主と入れ替わるはずだった
「さすが譜薛様。しかし、表立って行動しても大丈夫なのですか?」と、寿院が尋ねる。
「何を言う?当主はこいつに殺されたのだぞ。それにこいつに聞きたいことがあった。こいつが華菜は死んだと吐いた。だから詳しく聞いたのさ。いったい誰に殺されたのか?なかなか吐かないから仕方なくね。そしたら遂に吐きやがった。何も隠す必要もないと思ったのだが…」
「なるほど。誰が殺したのですか?」
「『祓い屋』一派と思いきや、なんと殺したのは東山の息子だったよ」
「つまり若様が殺したのですか」
「そうだ。話しを聞いてみると、最初からそのつもりだったようだ。華菜がこの屋敷に足を踏み入れた瞬間からね。我ら一族への報復だ」
「おやっ?報復とは?藤家が領地の税を誤魔化していたから、華菜殿を間者として送り込んだのでは?あぁ、逆恨みですか?たちが悪いなぁ」
「そうだ逆恨みなんだよ。たちが悪いんだよ」と、譜薛はさらっと言い放った。
「あれっ、違ったかな?地頭が呪われ、小作人が呪われ田畑が荒れ放題だから年貢を納められないと訴えていたとか?華菜殿はそれを調べるために間者となった。えーとそんな感じだったかな?」
「どっちでもいいだろう。貴様には関係ないことだ」と、譜薛が怒鳴り散らす。
「そうですね。わたしもどっちでもいい。とにかくあらかた片がつきましたね。ここは『祓い屋』から乗っ取られていた。地頭や小作人、いやもしかしてあの土地全体が呪詛されていたのでしょう。さて、東山様は死んだ。それに
「もちろん、この屋敷は我らがしっかり管理するさ。今、平家の者たちがこの屋敷を取り囲んでいる。わたしの合図で一斉にこの屋敷の者たちを片付けさせるつもりだ」
「合図とは?」
「庭園に下男が控えている。それを走らせる」
「そこまでしなくとも、後は使用人だけではありませんか?使用人を追い出せばいい話しだ。いや、譜薛様が管理なさるのなら、そのまま使用人を使えばよろしいのでは」
「何を言う。使用人だけではない。貴様はいったい何を調べていたのだ。この
あぁ、影近殿か?と、寿院は思った。
「何もかも承知だったのですね。わたしに見せた華菜殿の
「何を…人聞きが悪いことをぬかすな。略奪とはなんだ。耳が聞こえぬか?管理だ。『祟り』などと謀りおって、お上や清盛公を欺いたのだ、普通、斬首だぞ」
「そうですね。だからといってこれを貴方の一族が管理して手中に収めるのはちょっと違うなぁ。きちんと上奏して処分を待つのが道理。勝手に人を処刑してはいけない」
「何を…生ぬるいことを…。これだから虫けらなどと呼ばれるのだ。こんなことをいちいち清盛公の耳に入れるわけないだろう。虫けらだから知らぬのだろうが、清盛公はこんなくそみたいな小事に関わらぬのだよ」
「はて?それはどうかな。これは貴方がた一族が決めることではないな。それに清盛公がこんなくそみたいな小事に関わらぬと言ったが、それは違うのではないか。こんなくそみたいな小事と勝手に決めつけていい案件ではございませんよ。お家ごと乗っ取られているのです。しかも多くの人死が出てる。きちんとお上に上奏するべきです」
「愚かだな。この案件を、我ら一族以外誰が知っている?『祓い屋』と、この側妻、そして予知者一派。ここの使用人など何も知らんのだよ。幾らでも誤魔化せる程度しか分かっていないのだ。見てみろよ。こんな状況でも、誰も騒いでいないではないか。つまり『祓い屋』と予知者一派を片付ければいいということだ。貴様も少しは利口になれよ。甘い汁が吸えるのだよ」
「それはそれは…。甘い汁は譜薛様の脳味噌だな。何も分かっていない」と、寿院はため息をついた。譜薛という男、道理を説いても理解しないだろう。これまで生きていた思考の蓄積が譜薛と譜薛の一族を形成して、まったく違う別の価値を創り上げてしまっている。このままだと、おそらく命を奪われる危険があると寿院は警戒した。
そんな時、ようやく義忠が現れた。義忠は何の考えもないのか、はなっから刀を構えて、一戦交える気満々だ。そして、刀を持ったその手は震えている。
「なんと…」寿院は呆れてため息をついた。
「何者だ?」と、譜薛が怒鳴る。「側妻に続いて何なのだこの家は?側妻にはいささか用があったから少し待ってもらったが、もう行っていいぞ」庭園に向かって譜薛が叫ぶ。
「待たれよ」と、寿院が阻止したまさにその時、義忠が刀を振り上げて、譜薛に向かって突進した。だが驚くことに義忠は何かに躓いて、派手につんのめって床に伏したと思ったらそのまま譜薛の方へ真っ直ぐと勢いよくずるずると滑っていった。
「おや…この男見かけ通りうつけだったのか?」と、寿院は何も出来ず派手に滑る義忠をただ見るばかりだった。
「なんだこいつ…。何しに来たのだ?」と、譜薛が刀を振り上げる。滑る義忠の背中に突き刺す構えだ。寿院はまずいと思った。義忠という男は知らないが、糖粽売の男ならよく知っている。九堂の若様の情報だけでなく、吹き出してしまいそうなお化けの情報や怪しげな妖怪の情報を酒に変えに来たものだ。憎めない男だった。そして、この男が自分に近づいた理由は分からない。偶然なのか?何か目的があったのか?そうだ。死なす訳にはいかない。まだこの男について何も分かっていないのだ。
寿院は、素早く譜薛の刀を阻止しようと、動いた。その瞬間だった。譜薛の腹から尖った刃が飛び出て来た。寿院は譜薛が振り放った刀の刃を左拳で掴んでいた。
勢いよく吐き出された譜薛の血が寿院の頬と着物に飛び散る。そして、寿院の視界にはこま送りのようにゆっくりと、義忠が離した刀が、倒れた紅の掌の中に正確に滑り込んでいくのをとらえていた。紅はまるで本能でそれを掴み、無駄な動きひとつせずに譜薛の背中に刺したのだ。
まるで全てがゆっくりと動いていた。それから幾人かの男が庭から寝殿に入って来た。寿院は、譜薛の刀を奪い、男たちを次々と斬っていった。男たちの動きは、寿院には全てこま送りのようにゆっくりと映っていた。
「とんだお人だ。寿院様、あなた鬼のような顔をしていますぞ」と、義忠が信じられぬものでも見たような顔をした。
「お前様、自分の手を汚したくなかったのか?随分卑怯なやつだな」
寿院が話している時には、すでに義忠は紅を抱え、逃げる体制だった。
「寿院様、悪いことは言わない。もう黒根戒から手を引いた方がよろしいかと。後はこの糖粽売に任せて下さい」
そう言うと、義忠は素早く去って行った。
寿院は、出し抜かれたことにどうしようもないほどの激しい怒りを覚えていた。
「お前様はいったい何者なのだ?」と、呟くと、握り締めた刀を離した。血塗られた刀の音が寝殿に響いた。
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