檻の中の獣

 月子は、胸が躍る思いだった。

 あの日、信蕉から連れ戻された月子は、もう山を降りることは出来ないだろうと、思った。物乞いの格好をさせられ、一人都に放り出された時は、毎日泣いて、あてもなく彷徨うばかりだった。物乞いの格好をして、泣いている子供に都は容赦なかった。怒鳴り散らされ、追い払われ、殴られたり、蹴られるばかりだった。

 彷徨っている間にも、人々から、或いは家屋から文字が現れた。最初のうちは無作為な文字の出現におおよそ言葉を見つけ出すことなど出来なかった。いつしか月子は、むしろを持ち出し、ひとところにじっとすることを覚えた。無作為に現れる文字の中から一生懸命言葉を探し出した。やがて言葉を見つけ出す作業に慣れると、次第に言葉の方から月子に合図してくれるようになった。言葉を紡ぐ文字に同じ色が着いたり、文字の太さが同じだったりして、次第に言葉を組み立てることが容易になってくると、次は読み解くことが楽しくなってきた。その頃には、あんなに嫌だった、物乞いの格好をさせられ都に出掛けることが苦痛ではなくなった。むしろ楽しみでさえあった。もっぱら塀を構える民家を選び、塀を背にして、のんびり町を行く人々や家屋から現れる文字を眺め、言葉を紡いで遊んだ。しかし、やがて都に溢れる文字の殆どが人の不幸や、解決することが困難な苦悩や苦痛などの言葉を紡いでいることに気が付いた。そんな頃だった、手鞠に出会ったのは。

 手鞠は臆することもなく、月子の正面に立ちはだかり、小首を傾げながら暫く様子を窺っていた。そして不思議そうな顔をして、月子に問うた。

 「ぬしは何をしておるのだ?」

 そんな手鞠を月子は少し鬱陶しく思った。

 「何を見ているのだ。この陽気にあてられて、ちょっと頭がおかしくなったのかねぇ?」

 月子は、手鞠の問いには何も答えなかった。答えのない、たくさんの問い掛けに退屈した手鞠は、やがて月子の前から去っていった。しかし、次の日も手鞠はやって来た。そして再び話しかけてくる。でも問い掛けではなかった。

 「わたしは手鞠。琵琶法師の父上と旅をしていたんだ。母上はいない。偉い人に殺されてしまった。父上はもう旅はしないおつもりなの。何でだと思う?」

 「…?」

 実は、月子は手鞠から溢れる文字を見ていた。文字が言葉を紡ぐ。

 言葉は物語のように語っていた。

 政の陰謀から起こった大火で、罪のない者が大勢死んでいった。罪なき者たちの叫び声が都に響く。そこにひとりの男が逃げ惑っていた。男は大火を浴びて視力を失いながらも、妻や娘、誰一人助けることができなかった悔恨を胸に抱きしめて、都を彷徨った。気力を失い、ただぼんやりした日々を幾年も過ごしたある日、一人の孤児に出会った。男は次第に生きる気力を取り戻していった。そして謀略のために火付を行った者たちの復讐を誓う。

 孤児とは、この子のことか?父と呼んでいるのか。と、月子は読み解いた。

 「其方そなたの父は目が見えないのか?」

 月子が言葉を読み解いている間、ずっと喋り続けていた手鞠がぴたりと喋るのをやめた。

 「ならば、其方そなたの父は昔抱いた無念をはらそうと決めたのだろう」

 手鞠は、驚いた顔をして、ゆっくりと後退りながら、去っていった。

 この世の民はあまりにも不幸だ。顔も知らないたった一部の上級貴族が贅を尽くすために政があり、民が苦悩して貴族の贅を支えているのだ。

贅を貪る上級貴族の覇権争いを見ることさえできないというのに、民は自分の幸せのために生きることができない。しかし、そんななかでも、ささやかな幸福を見つけて生きる民の姿がそこにはあった。

 言葉の中に後白河、平、源という文字をよく見かける。月子には、それが何を意味しているのか、まだ分からなかった。ただこの世は陰り、目に見えない闇に包まれていた。

 それから暫くの後、一人の琵琶法師がやって来た。手鞠と名乗る娘の父親だとすぐに分かった。

 「わたくしは手鞠の父、夜一よいちと申します」

 「夜一?それは仮の名前なのか?」

 「おおぅ、なんと不思議なお方。如何にもわたくしは夜一と名を改め、新たな人生を生きておりますゆえ、昔の名は捨てました。今は娘と共に我が人生を歩もうとしております」

 「果て、己の人生など歩める世であろうか?」

 「そうですね。わたくしは暫くじっとあなたを観察しておりました?」

 「おお、視力を失っているのにか?」

 「ええ、手鞠の話しを聞いて、あなたが密偵ではなかろうかと疑っておりましたが、それよりも尚、あなたの存在があまりにも不思議だったゆえ、危険も省みず話し掛けてみました」

 「何処から見ていたのだ?観察などできるのか?」

 「ああ、疑問に思われるのも無理はない。この視力は、じつは昔、ある者の謀略により起こされた大火によって失ってしまいました。信じて頂けないかもしれませんが、大火の日、わたくしは夢を見ました。その折、閻魔様にお会いしたのです。閻魔様はこう仰ったのです。お前はまだこちらに来ることは出来ぬ。だが人の生き死には理りがあるのだ。命の代わりにわたしの目になって貰おう。お前は視力を失うだろう。と、そんな夢だったのです。夢から醒めたら、辺り一面火の海でした。わたくしは本当に視力を失い、代わりに不思議なものを見るようになったのです。言葉で説明できませぬが、この世でないものが見えるとでも言うか?かと言って霊なるものではないのだが、これまでにはっきりと分かったのは、死んでいく者がわかる印が見えたことです。死んでいく者は、黒い靄を羽織っているのが分かりました。しかしそればかりではない。何と言うか、世が動く理りの印とでも言いましょうか?すまぬ。言葉にはできぬ。…、それでお主をずっと観察していたら、人々から、或いは民家から、そして何処からともなく、鈍い光の玉なるものが、お主の元に集まってくる。そしてお主の身体の中に消えていく。それが何なのか、わたくしには分からない」

 「よもや信じることの出来ぬ話しだな。しかし、その鈍い光の玉なるもの、我にも皆目分からない。ただ、我には何故だか幼い頃から文字が見えるのだ。文字は虚空に浮かんでいる。言葉を紡ぐ文字もあれば文字だけ浮かんでいるものもある。だから我は言葉を紡ぎ、それをただ読み解いているだけの時を過ごしている。それ以上のことは何もしていない。何の為にそうしているのかはわからぬ。そんなことより、其方そなた、娘と共に琵琶法師として、新たに生きるのならば、その喋り方どうにかした方がいい」

 「おぅ、それは言霊というものだろうか?なんと不思議な。おそらくその言霊にはこの世にとって重大なものが隠されているのだろう。だからわたくしの眼に映るのでしょう。本当に不思議なことだ。あなたはおそらく身分を偽り、そのような格好をされているのでしょう。物乞いの格好をしたあなたこそ、その喋り方をどうにかした方がいいな」と、夜一は笑った。

 その日から夜一と、手鞠は友となった。時折、共に町の片隅に座り、夜一は琵琶を弾き、月子はうたを奏でた。月子のうたは、町を漂う文字の言葉をうたに見立てていた。そんなうたに人々は驚いたり、共感したり、ささやかな楽しみを見出していた。町民に楽しみを提供した、そんな日々が楽しかった。やがてそこに寿院が加わった。月子にはかけがえのない幸福な日々だったのだ。


 夜一は、対の屋の周りに浮遊する鈍い光の玉を見た。先に対の屋に入った寿院になかなか呼ばれない。しかし夜一には、そこに月子がいるのは分かっていた。寿院に呼ばれはしなかったが、ゆっくりと対の屋に歩み寄った。その途中、声が聞こえた。

 「夜一殿、久しぶりです」

 「おおぅ、登葱様でございますか?」

 「はい。月子様との久方ぶりの再会ではございますが、浮かれている場合ではございません」

 「はい、承知しております。寿院様がいらっしゃいますので、只事ではないと心しております」

 「寿院様?お前様はあの男を知っているのか?」

 「ええぇーぇ、登葱様は忘れておしまいになったのか?寿院様ですぞ。まぁ、仕方ないか。登葱様はあの頃はいつも影におられて、月子様を守っておられただけだから、直接寿院様には会っていないかぁ。あの二人が無事でいられるのも登葱様の影の力があってこそですからねぇ」

 「ああ、あの頃ですか。わたくしはただ、見張っていただけですよ。何もしてはいませんよ」

 「あぁ、手鞠が言ってましたよ。影の部隊の女将軍と」と、夜一が笑った。

 「揶揄からかわないで下さい。あぁ、あの男はあの時月子様といつも一緒にいた男だったのですか。だから心を開いたのか。早く分かっていたら、こんなにもびくびくしなくて済んだのに」

 登葱は簡潔に一言で状況を説明した。夜一でなかったら、理解できなかったに違いないが、夜一は理解した。いや、理解したというか、夜一の野生的な勘がひどく危険な状況であることをすでに理解していたのだ。後はその刹那で把握できるだろうと判断した。

 登葱との会話を終えた夜一は、対の屋に入っていった。そこでさっそく異様な光景に出会でくわした。鈍い光の玉が集まるところ。それに、真っ黒い靄のようなものが密集したところが真っ二つに別れ、太陰太極図のようになっていた。

 「うーむ…」夜一は、幾人か見える、ぼんやりした人の中から、寿院を探した。

 「夜一様…」夜一は、声の方に視線を向けた。鈍い光の玉の方だ。月子様に違いないのだが、昔に比べて、その光の玉がひどく少なくなっていることに驚いた。月子様に何か起こったのだろうか?

 「夜一殿、今簡単に夜一殿のこれまでの経緯を話していたところです。表で誰かと話していたみたいだったから声を掛けそびれてしまったよ。姫様の乳母の方ですか?もしかしてお知り合いだったのですか?」と、寿院が言った。

 「いえ、特に…」寿院と登葱が見知っていないのであれば、敢えて言う必要もないだろうと、夜一は思った。「親切な方が簡単に今の状況を教えてくれました」

 「しかし、簡単には今の状況は把握できないでしょう」と、寿院が言う。

 「まぁ、そうですね。しかしここに月子様がいらっしゃることは分かりました」そう言って、夜一は月子の方を見た。「月子様、お元気でしたか?随分とお久しぶりですね。わたしはいっとき都を離れておりましたゆえ、月子様とはお会いできずにおりましたが、心配しておりました。しかし、寿院様もおられましたので、そこは安心していました」

 「夜一様……」

 月子の声はしたが、そこからなかなか続かない。夜一には、その理由がわかっていた。自分の身体から、まるで月子が吸収するかのように光の玉が次々と出ていく。月子はそれを見ているのだろう。夜一には、月子の顔をはっきり見ることができないが、想像することができる。

 「今でも、昔のように姫様に集まる光は見えるのかい?」と、寿院が尋ねた。

 「ええ、しかし、以前に比べると随分少なくなりましたなぁ、月子様に何か起こったのですか?」

 寿院は、夜一の問いとは別なことで笑った。「夜一殿も人が悪いなぁ。童の名をちゃんと知っていたのですね。わたしは知らなかったから、ずっと童と呼んでいた。しかも今日の今日まで男の子だと思っていましたよ」

 「あぁ、月子様のことを男だと思っていたのですか?そのことをまだ話していなかったら、それは秘密にしておきましょう」と、夜一も笑った。

 「今、姫様は空中に浮かぶ言葉を読んでいるのですか?」と、寿院は、虚空を見つめる月子を見つめ夜一に問うた。

 「空中に浮かんでいるというより、どうやらわたしの中から出ている光の玉が見えるので、わたしの何かを読んでいるのでしょう。暫く月子様は集中されるでしょうから話しかけるのは、やめましょう。それより月子様の向かい側がすごく気になります。わたしには、黒い靄が見えるのですが、そこにはどなたかいらっしゃるのですか?」

 「ほぅ、黒い靄ですか?まるで隆鷗みたいなことを言うなぁ」

 「寿院様のお連れの方ですか?しかしわたしの場合は少し違うでしょう。わたしには死んだ者は見えない。これは言葉にすることが難しいです。世を動かすほどの…いえ、これはわたしが勝手に思っているのですが、強い気でしょうか?色濃く浮かび上がります。口には出したくないのですが、娘が殺された時、その周辺一帯に黒い靄がかかっていました。そして、娘を取り巻くところが、より一層濃い靄に包まれ、わたしには何も見えなかったのです」

 「あぁ、童に光るものが集まってくるという話しは手鞠から聞いていたが、夜一殿の口から聞いたのは初めてだな。夜一殿にはそのように、この世が見えていたのですか?いつからですか?」

 「視力を失ってからです」

 「視力を失う代わりに獲得したのですね」

 「わたしには分かりませんが、そうとしか…」

 「なるほど…。多分、夜一殿が仰るところには若様がいます。話せば長いのですが、この屋敷は、誰かの手によって支配されているようなのです。その者はどうやらこの屋敷を乗っ取るつもりなのでしょう。今、まさにそれを暴いているところなのです。そんな時に夜一殿がやって来た。わたしには、それが偶然には思えぬ。まぁ、座って下さい。姫様を待ちましょう。その間に重要なところを話します」

 そう言うと、寿院は掻い摘んで、これまでの経緯を話した。夜一は、多くを話さなくとも、すぐに全容を把握することができる。

 「そう言えば、月子様が都で修行を積まれていた時、呪い屋なるものがおりましたな」

 「呪い屋?なるほど。夜一殿…。あぁ、なるほど。呪い屋かぁ。似ている。いや、成長している。確かに、あの頃、わたしはこれとよく似た事件を知っていた。貴族が狙われて、皆殺しにされた事件だ。支配したり、乗っ取るまでは至らなかった。おそらく資産を掠め取り、家族や使用人を皆殺しにするという、実に残酷な事件でした。あの頃から積み重ねられたものなのか?」

 「思い出します。月子様が呪い屋なるものに興味を持たれたきっかけが、寿院様がお調べになられていたからでした。あの頃、何故か月子様は楽しそうにしておられたなぁ」

 「夜一殿には大変申し訳なく思っております。それに巻き込まれて、手鞠があのようなことになってしまった」

 「なんと…、そのようなことを仰らないで下さい。決してわたしはそのように考えたことなどありません。ただ、手鞠を手に掛けたあの女子おなごだけは絶対許しませんよ。先程申しました白い女子おなごから聞いたのです。あの時の状況を。女子おなごは平家のものから斬られ掛けた時、自分の弟を盾にしたようです。それを手鞠は咄嗟に止めようとした。自分が出たところで何もできやしないのに。女子おなごは、平家のものから斬られた弟を投げつけ、その隙に手鞠を斬ったということです。こんな卑劣なやつは必ず、わたしの手で八つ裂きにしてやります」

 「実に残酷なやつだ。おおよそ人の感情など、持ち合わせていない女子おなごなのだろうな。隆鷗が必ず何らかの形で連絡を寄越してくるでしょうから、必ず復讐を遂げましょう。夜一殿には重ね重ね申し訳ない。こんな事件になど構わず、その女子おなごの後を追いかけたかったでしょうに、隆鷗が変なことを頼んだばかりに」

 「いいえ、決して。わたしは、連れの方がその者を追いかけてくれている間に寿院様と月子様に会えて本当に嬉しく思っており…」と、夜一は途中で話しをやめた。夜一の身体から出る光が終わっていたことに気づいたからだ。いつのまにか月子が立ち上がっていた。夜一が話しをやめた時、寿院も気がついて、月子を見た。

 月子は、若君の前にたちはだかり、見下ろした。「この者は死ぬのですか?」と、ぽつりと呟いた。

 「姫様何を…?」月子の冷たい言葉に寿院は驚いた。

 「わたしの言葉を憶えていて下さったのですね。確かに、その者は死にます。この靄の加減からだと、もう何日ももたないかもしれません。もう、その者も気付いているはずです。おそらく苦痛に耐えておられると思います」と、夜一が言う。

 「其方そなたは知っていたのですか?」と、月子は若君に尋ねた。

 「わたしが死ぬと?まぁ、そうでしょうね。月子様の暗殺に失敗しましたからね。罰せられるでしょうね」と、若君は項垂れた。

 「我の暗殺に失敗したから罰を受けると?其方そなたは、いつも冷静にしておられたのに、実は馬鹿なのか。祟りなど信じておるのか?騙されよって。我を殺していても其方そなたは死んでいた。何をしようと其方そなたは死んだのだ。暗殺しなければ死の制裁が下るとでも思っているのか?憎琤院ぞうじょういんとやらに言われたか?馬鹿なやつだ。寿院殿、この者の拘束を解いてやってくれ。この者はもう何も出来ないでしょう」

 寿院は、月子の、冷静な言葉に戸惑った。先程まで何処か、自信のないおどおどした様子で、全く童らしくなかったが、あの頃の童に戻ったようだった。

 夜一から湧き出た文字は、いったいどんな言葉を紡いだのだろうか?

 寿院が若君の拘束を外そうとした時、夜一が指を差して、「寿院殿、こんなことは初めてなのですが、そこから禍々しいほどの真っ黒い何かが放出されているのです。先程から気になっておりまして」夜一が指差したところは若君の胸部だったので、「ごめん」と、寿院は衣を剥いだ。

 そこには呪符が貼られていた。

 「呪符か?これのせいか?こんなものただの紙切れだ。呑まれるな。若様が死ぬのは、こんな紙の祟りではない。おそらく病だ」と、寿院が呪符を触ると、ひどい違和感がある。

 「寿院殿、どうやらそれはただの呪符ではなさそうです。これまで見たことのない真っ黒いものが勢いよく出てきております」と、夜一が腕で顔を覆いながら言った。

 「ええ、我にも見えます。見たこともない、この世のものとは思えない夥しいほどの文字なのか?奇妙な文字が狂ったように出ております」と、月子も顔を背けた。

 「あぁ、わたしには何も見えませんが、これは紙とは違う。そしてこの異様な臭気。これはもしかして皮では、ちよっとごめんよ」と、言って、呪符を少し剥がしてみたが、若君が狂ったように痛がったので、剥がすのをやめた。「なんと…、若様の胸部が斬られて、その上から貼られています。そのためにかなり膿んでおりますね。よく我慢された。いったい、何なのですか?もしかして、これは人の皮膚では?」寿院は、そう言うと、少し考えこんだ。「若様、これはわたしの全くの虚言ですが、母君は病に臥せっていると仰っていたが、とっくに亡くなっておられるのではないのか?先程話されていた遠雷の話しはまったくの嘘ではございませんよね。遠雷が病気の元なのでしょう?母君は遠雷から噛まれた?それから発症された?それを祟りなどと言われて、お前さんたちはすっかり信じ込んでしまった。そのように洗脳されてしまったのだ。遠雷が、影近殿が言うように、化け物のようになってしまったのなら、それは邪神か何かかと信じても仕方ないでしょう。それでも、それは邪神でも何でもない。病の症状なのだよ。信じ難いが、これは母君の皮膚…ではないのか?」

 「ああ…、母上と共に生き、守ってくれると…」と、力無く若君が言う。

 「馬鹿な…。何と…。本当に憎琤院ぞうじょういんとは悪魔だな。傷口を開けて、病に冒された母親の皮膚を貼ったら、病はお前さんの身体へと移るのは自然のことだろう。病のことなど、誰も知らないからな。そんな者たちを嘲笑い、騙し、洗脳して、居場所を奪い財産も地位も奪って、何もなかったような顔をして、そこに住んでいるのか?本当に気持ち悪い連中だ。これは本当に放っておくことはできないなぁ」

 若君は、苦痛を浮かべながらも寿院を睨んだ。 「でしたら、平家はどうなのでしょう。代々続いた寝殿造りの屋敷に庶民が住んでいる、たったそれだけの理由で理不尽な言い掛かりを付けてきて、我らから財産を奪ったのですぞ。どうせ最初から我らの、地方の領地を奪うのが目的だったのでしょう。我らの領地に平家の地頭がやって来てからと言うもの、あらゆる言い掛かりをつけてきて、税だけではなく全てを搾取する。我が物顔をしてやりたい放題だ。我らは逆らうことができずに過去も現在も未来もずっと、奪われ続けているのです。わたしには到底受け入れ難いのです」

 それが若君の本心なのだろう。簡単には解決できない問題だ。

 「地方の領地は朝廷の支配から逃れる為にそれぞれ国を確立して豪族が支配したと聞くが…。平家にとって、代々受け継がれた荘園こそ邪魔でしかないでしょう。貴族にとっての絶対的力の源が荘園なのですから。しかし、平家こそ、莫大な荘園を持っていながら、それでもまだ足りないのか…?地頭を置き、武家の力を更に見せつけている。武家が守らなければ、貴族供は簡単に土地を奪われてしまうと、武家の力を皆に認めさせた。そして一方では日宋貿易を行い宋銭を使って更に巨万の富を得ている。若様、何が言いたいかと言うと…清盛公は、今は宋銭の流通の方が巨万の富を得ることを知っている。だから以前と違い、地頭と組んで荘園を掠め取っているような連中は平家の家臣なのかも知れません。清盛公の預かり知らぬところで横領しているのではないのですか?」

 「そんなこと分かっていますよ。清盛はただただ元貴族ごときが代々続く寝殿造の屋敷に住んでいることが面白くないのですよ。そして家臣はそんな下らない理由で、我らに手を出しても清盛から何も言われないと分かっている。だからやりたい放題なのです。それに宋銭など馬鹿げている。地方にある領地には宋銭の価値などない。米や穀物の流通が主ですよ。その領地を搾取する一方で、宋銭の価値を平家が一方的に操作している。平家は、何から何まで全て奪い獲るつもりなのですよ。だから朝廷が阻止しようと躍起になっている。宋銭を宋から買い付けたところで民には行き届いていない幻のような価値でしかないのに、その幻を我ら庶民に押し付けて、平家だけが栄華を貪っている。たったひとつの一族が。許されるはずもなかろう。だが時代は変わってしまった。貴族はもう平家には逆らえない」

 「あぁ、基本に定められていた絹の相場さえ宋銭のせいで危うくなっているから、いよいよ朝廷も動き出したという話しか?この国の銅は質が悪いから、宋銭を買い付けせざるを得ないからな。しかし、単純に銭は便利でもある。まぁ平家の宋銭はそのうち太刀行かなくなるだろうけど、銭の流通は当たり前になるでしょうね。しかし、そんなものに惑わされて、今度は別の者から掠奪されているという話しだろう。その者たちは若様から領地だけではなく、家族も屋敷も使用人も全て奪い、惨殺し、苦悩と苦痛だけを与える、人とも思えない悪魔のような連中ではないか?」

 「平家と何も変わりない。結局、弱い我らはこうして搾取され続けている。搾取する者同士で殺し合えばいいのだ。我らはもう何も出来ない。平家の者が都合よく語っても、何も入ってこないよ」と、若君は力無く呟いた。

 「だから若様、わたしは平家とはなんの関係もない、一介の呪術師です。今日はたまたま平家の家臣に雇われただけだ。しかも今日の今日まで、あの男が平家の家臣だと知らなかったのだ。それは信じてくれ」

 「そんなことどうでもいい。だから何だって言う話しです」

 あぁ、まったく若様の言う通りだ。と、寿院は思う。これが今の世の、どうしようもない仕組みと言うやつか。

 ただ、虫けらなどと…人の生死の問題はそんなに軽い話しではない。何故、こうも簡単に人が死んでいくのだろうか?と、寿院はいたたまれない。

 「まぁ、そう言う話しになってしまうのは分かるが、しかし、貴方は人の生死をどう考えているのですか?使用人が惨殺されたなど、平気な顔をして話していましたよね。これまで貴方方に尽くした使用人ですよ。貴方はまず、他者の生命いのちのことを正しく考えるべきだ。貴方が優先すべきは貴方の使用人の命を守ることです」と、寿院は強く言う。しかし、寿院の言葉に若君は嘲笑し、何も言わずに項垂れてしまった。

 都には多くの物乞いがいる。そして、餓死した骸も見かける。そうした者たちを虫けらのごとく扱う者がいる。それは、世の風潮として、人を人とも扱えない者たちを誰も不思議に感じることはない。世の中の仕組みがそこかしこに見えているというのに、不条理を語る者はいない。

 「まず、憎琤院ぞうじょういんとやらを探し出し、色々聞き出す必要がある。おおよそ人とは言えない獣だ。そんなのがいったい何人いるのか、全貌を知る必要があるな」と、寿院が言う。

 しかし、そんな寿院を、月子が引き止めた。

 月子の、今まで話していたときとは違う冷静で、何処か冷たい表情に寿院は、昔の童と重ねた。

 「おぅ、童、夜一から何を読み解いたのだ」

 「寿院様。おそらくその憎琤院ぞうじょういんとやらは、もうここにはいないと思います」と、月子が言う。

 「何故だ?」と、寿院が尋ねた。

 「確かに夜一様が連れて来たたくさんの言葉を読みました。どうやら夜一様が町で琵琶を弾いておられた時の見物人のお喋りだと思うのですが、最初は、こんな時にそのような他愛のないものを呑気に読んでいていいものかと思いました」

 月子は、文字が紡ぐ言葉を思い出していた。突然、無作為に文字は現れ、すぐに言葉となった。『あらあら、何を弾いていらっしゃるのかしら』『あらっ、琵琶法師様だわ。久しぶりだわ』『時々平家のうたを謳っていらっしゃるけど、大丈夫かしら。酷い目に遭わなければいいのですが』

 そんな、光景すら浮かんでくるような会話が続いた。その中からすごく気になる二人の会話を拾った。

 月子は話しを続けた。

 「しかし、その中でもふたりの会話がすごく気になり、追いかけてみました。これは我の憶測でしかないのですが、そのふたりとは、手鞠を手に掛けた女子おなごと、その女子おなごと深い関わりを持つ女子おなごではないかと。ふたりは夜一様の琵琶を聞きながら喋っておりました」

 月子は、情景を思い浮かべた。

 その日は、おそらく多くの見物人がいたのではないかと思った。たくさんの言葉が行き交っていたからだ。その中で二人の会話には淡く色が付いた。それは月子の集中力が高まると、文字の方から、まるで合図でもするかのように色が着いたり、同じ太文字になったり、読み解くことに神経を注ぐことができた。

 ふたりは、別々に見物に訪れたようだった。

 『今日は良い天気だな』突然誰かに話しかけたような言葉が綴られた。

 『お前は誰だ?』もうひとつの言葉は突然のことで驚いた様子だ。

 『わたしのことを忘れたとは言わせない。相変わらず、見張っているのか?』ひとりの言葉が形成されると、すかさず幾つかの文字が浮かび同時に次々と言葉を成していった。

 『なんだ、お前はわたしをつけているのか』

 『そんなわけないでしょう。しかし、あの琵琶法師様が奏でる時、お前はいつもいる』

 『大袈裟な。そんなわけないだろう』

 『お前が自分で気づいていないだけだ。恐れているのだろう』

 『このわたしが恐れているだと』

 『恐れているのだ。だからいつも確かめにくるのだよ』

 『何を確かめにくると言うのだ?』

 『お前には見えるだろう?琵琶法師様の隣に誰がいる?』

 『何を言っている?誰もいないさ』

 『いるだろう。かつて琵琶法師様に寄り添って、目の見えない法師様を支えていた可愛い童が』

 『何の話しをしている?』

 『わたしは、あの日、偶然、町でお前の姿を見かけた。最近何をしているのか妙に気になったから、お前の後をつけたのだよ』

 『いつの話しをしている?』

 『するとお前は見ず知らずの屋敷に入って行った。わたしが知る限り、お前とその屋敷は何の関係もない。すごく大きな、大勢の使用人を抱えているような屋敷だ。わたしは不思議に思い、暫く様子を見ていた。すると屋敷から下女が出てきたかと思えば、お前のことを姫様と言う。「姫様お帰りなさいまし」とな。何かの間違いだと思ったよ』

 『いったい何の話しをしているのだ?』

 『わたしは、暫く様子を見るために何日か屋敷に通ったのだよ。そんなある日、ちょうど向かいの屋敷の塀の前で琵琶法師様と、あの娘がいたなぁ。あの日琵琶法師様はとても激しいうたを奏でていらっしゃったことをよく覚えているよ。わたしは琵琶法師様のうたを聞きながら、屋敷の様子を見ていた。すると、大勢の平家の家来がやって来て、屋敷を取り囲んだ。そして、下男と思しき者が門を開け、平家の者たちを中に招き入れた。するとどうだ。途端に乱闘騒ぎになり、多くの者が屋敷から逃げ延びて来たのだ。その中にお前もいた。屋敷の前で平家の者から斬られる者たちがいた。お前の仲間なのだろう。そして平家の手がお前にも及ぶと、こともあろうに、お前は、お前を頼りにしていた弟の襟首を掴み、刀を構えた平家の前に差し出したのさ。構えた手は止められなかった。弟は無惨に斬られてしまったんだよな。そこに何故か琵琶法師の娘さんがお前の阿漕を止めようとしていたのだろう、お前の前に飛び込んできた。咄嗟のことだったんだろうけど。わたしは自分の目を疑った。その娘さんをお前は斬ったのだ。お前は、もう悪魔になってしまったんだな。と、わたしは思ったよ。琵琶法師様は何が起こったのか、分からない様子だったが、何かを察したのか、お前がいる方へ歩き出した。けれどわたしは危険だと思い法師様を止めてしまった。法師様は咄嗟にわたしの手を振り払って「申し訳ない」と一言呟いた。しかしわたしの手を振り解いたものの、法師様は方向を失い、ふらふらしながら、屈んでしまわれた。我が子の名前をずっと呼んでおられたよ』

 『お前、本当に気持ち悪いやつだな。いつもわたしに付き纏って何がしたいのだ』

 『お前にも見えるだろう。琵琶法師様の隣の娘さんが?いったい何を謳っているのだろうね』

 『何を言っている』

 そこで文字はゆっくりと消えていった。

 「寿院様、わたしはこのふたりの会話の記憶があるのです。何故記憶があるのか分からなかったのですが、ようやく思い出したのですよ」

 「それはどういうことだろうか?その場に姫様がいたと?」

 「いいえ、聞いたのです。かなり省略されていましたが、最後の言葉を読んだ時、ひとりの声と共に甦ってきたのです。確かにその者から聞いたのです。その話しを聞いた時、それは夜一様のことだとすぐに分かりました。ですから我は調子に乗って、全てを話してしまいました。手鞠のこと。そして手鞠が手に掛けられたこと。勿論その者は手鞠が手に掛けられた時の状況を我に話しはしなかった。我はその者を信じておりました。抄峯殿や華菜殿がすでに亡くなっていることを話しました。そしてあろうことか若君が悪鬼であることも。そしてここを逃げるように促したのです。我は大きな思い違いをしておりました。その者が悪鬼そのものだというのに…なんと愚かなことをしてしまったのでしょう」

 月子は事の重大さに心臓が高鳴り呼吸が苦しくなっていった。

 「夜一殿が連れてきた言葉と同じ状況の話しを聞いたのですか?その者は何を思って姫様にそのような話しをしたのですか?」と、寿院が尋ねた。

 「ええ、楽しそうに、琵琶法師様に出会えたと、我を喜ばそうと話しかけてきたのです。そして、その日を最後にその者は我の前から消えてしまいました。もうひとつの言葉が語っていました。すごく詳しく、手鞠が斬られた状況を。まるでその光景が手にとるほどに。無惨に、不条理に。その者を悪魔と罵っておりました。とても信じがたい。その者は我にすごく良くしてくれました。我を好いてくれているんだとも思っておりました。登葱がどんなに嫌な小言を申しても、嫌な顔ひとつせずに我に尽くしてくれた。なのに…」

 月子の言葉に若君が苦笑した。思わず月子は若君を見た。

 「だから言ったでしょう。人は裏切る。人はどんなに優しそうな笑顔を浮かべていても、その下で殺意を抱くのですよ」と、若君がいう。

 「いいえ、そうではない。あの者はすでに人ではありません。若君こそ何なのですか?憎琤院ぞうじょういんなどとわざとその名前を口にした。始めから侍女の紫乃と言えば良かったのではありませんか?」

 若君が笑う。

 「違いますね。憎琤院ぞうじょういんが一時的に紫乃になったのですよ。貴方に近づく為に。だけどやっぱり貴方はすごい。わたしが貴方のその能力を疑わなければ…」

 「疑わなければ何なのですか?先程も似たような事を仰っていたが、貴方は誰も信じることが出来ない人なのですよ。貴方は、その憎琤院ぞうじょういんまでも利用しようとなさったのではないか?まさに策士策に溺れる。ですなぁ」と、寿院が口を挟んだ。

 「言い訳できる立場ではないな。わたしも死ぬらしいから…それにかなり具合も悪くなってきましたし、最後に憎琤院ぞうじょういんのことを教えてあげますよ」

 「今更ですなぁ。もう、殆ど姫様が暴かれているでしょう」

 「ええ、その通りです。恐らくもう憎琤院ぞうじょういんはここを捨てたのでしょう。計画途中で逃げ出したということです。笑ってしまいますよね。多分、寿院殿、貴方がここにやって来たからですよ。貴方が最後の一手だった」

 「わたしが最後の一手?」

 「ええ。憎琤院ぞうじょういんは傲慢で横柄で、しかも冷酷だ。人を人とも思ってはいない。人を見下し人を操り思いのままだ。しかしその一方で哀れで臆病者。影近殿と箭重殿を警戒していたのも、実はその育ての親、信蕉というお方を恐れていたからなのです。もう、随分前からそのお方を警戒していて常に密偵を置き、その動向を探っていたと、紅と話していたのを聞いた。その方が我が家に二人送り込んで来た。刺客とでも思ったのか、憎琤院ぞうじょういんも紅も可笑しいくらい大人しくしていたよ。次に送り込まれたのが、月子様と、乳母の登葱殿そして阿袮。本当言うと、憎琤院ぞうじょういんが一番驚いたのは、阿袮の存在だったのですよ。何故なら、実は阿袮は憎琤院ぞうじょういんの知人が育てた娘なのですから。憎琤院ぞうじょういんにとって、こっち側というわけです。そうです憎琤院ぞうじょういんは混乱した。信蕉は何か企んでいる。罠を張っているのだ、と、それは見ていられないくらい動揺してましたね。しかし、阿袮はすぐに憎琤院ぞうじょういんの存在に気付いたようでしたが、何かを察したのか、お互い知らない顔をした。でも、月子様、あなたの能力には驚きましたよ。阿袮はあの通り浅はかな女子おなごです。どんなに装っていても、その本性は隠しきれない。抄峯を殺害したのは月子様が仰る通り阿袮です」若君は一気に話すと、少しため息をついて呼吸を整えた。

 「そうですよね。そうなんですよね。姫様が見ている文字は、いつも姫様が知りたいと思っている言葉を見せているような気がするんだよなぁ。夜一殿が言うように色々なところから言霊が来たとしても。でも姫様は気づいていないんだよなぁ」と、寿院は月子に言った。

 「いえ、そのようなことはありませんよ。確信が持てないから妄想などと逃げ道を作っているのです。我は、実際、寿院様がいなければ、いつも不安なのですよ」と、月子が呟く。

 「いえ、月子様、あなたは実際すごいです。」と、若君が言うと、再び話しを続けた。「あの時、憎琤院ぞうじょういんは抄峯が邪魔だったのです。抄峯は気性が荒く憎琤院ぞうじょういんに逆らってばかりだった。ただ母上を守ることだけを考えていた抄峯ですから。邪神だの祟りなどを信じるような女子おなごではなかったのです。憎琤院ぞうじょういんのする事全て理不尽に感じられたのでしょう。寿院殿が仰った、あれが病だとしたら、母上は日増しに酷くなっていった。だから憎琤院ぞうじょういんは儀式を行なったのです。若い娘の生き血を飲めば邪神の怒りも鎮ると。かなり不気味な姿に変貌してしまった遠雷に生き血を与えた。遠雷は狂ったように暴れました。その時抄峯は憎琤院ぞうじょういんをまやかしだと罵ったのです。その結果、抄峯は背中から身体を貫通する程の勢いで刺されたのです。一瞬誰が刺したのか分からなかったのですが、いつの間にか儀式場に入ってきた阿袮の仕業でした」また、若君は呼吸を整えた。

 「儀式場?若い娘の生き血?」と、寿院が小声で呟く。そして月子は驚いた表情で、「刀ですか?阿袮が刀など…そんなもの持っていたのですか?」

 「刀は儀式場に数本か置いてありました。阿袮は刀は持っていなかったと思います」と、若君が答えた。「月子様が仰った通り抄峯を殺したのは阿袮です」

 「儀式場とは?」と、寿院が聞いた。

 しかし、若君は長く喋ったことで疲れたのか、その問いには答えなかった。

 「あぁ、疲れてしまわれたのか?」と、寿院ががっかりして呟いた。

 「すみません。ほんの少しだけ時間を下さい」と若君が言った。

 外を見ると、夜の帳が降りようとしていた。寿院は焦燥感を覚えた。紫乃と言う女子おなご憎琤院ぞうじょういんならば、今、隆鷗が追っている手鞠の仇だから、ここにはいない。そして、恐らく憎琤院ぞうじょういんの仲間に違いない側妻そばめのところには箭重が向かった。箭重が戻って来れば側妻そばめのことははっきりするが、阿袮と言う女子おなごの所在だけは分からない。それは寿院には不安要素だった。だから儀式場というものが何なのか?何処にあるのか?気になった。

 「憎琤院ぞうじょういんがある日、突然月子様のことを恐れ始めたのですよ」と、突然若君が続きを話し始めた。

 寿院と、月子は、咄嗟に若君を見た。そして夜一も瞬時に耳を傾けた。

 「月子様の今の話しを聞いて、こう思ったのです。憎琤院ぞうじょういんは、確かに月子様がこの屋敷に来た時、阿袮の存在には驚いていたけど、月子様のことは見向きもしなかったし、気にも止めていなかった。なのに突然月子様を恐れ始めたのは何故か?ずっと不思議でした。父上が月子様にその能力でこっそり身分の高い者を占わせても、その御礼の品にしか興味を示さなかった。憎琤院ぞうじょういんが全て巻き上げておりましたから、それさえ誤魔化さなければ何も言いませんでした。後は全く知らない顔をして、そればかりか何をしているのかさえも実際知らなかったのではというくらい興味がなかったのです。ところが、月子様の能力を阿袮が恐れ始めたことで憎琤院ぞうじょういんは若干興味を持ち、紅に様子を見てくるように命令していた。それさえも忘れてしまうくらいだった。紅が月子様の様子を見に行って、あの女子おなごは危険だと訴えました。犬神と犬が恐ろしいとすぐにあの女子おなごは言い当てた。と紅が訴えても、憎琤院ぞうじょういんは鼻で笑った。それは東山とうざんが口を滑らせたかも分からない。東山とうざんに尋ねてみよ。拷問しても構わないぞ。などと言っていた」また、若君は呼吸を整えた。

 「若君は、何故、そのように憎琤院ぞうじょういんの様子が分かったのですか?」と、寿院が尋ねた。「いつも一緒におられたのですか?」

 「これらの会話は、殆ど母上の寝殿で行われておりましたゆえ、わたしは母上が寝たきりになってからというものずっと母上の傍におりました。しかし、母上に触ることさえ許してもらえなかった。だが、後々気付きましたが、その頃の母上はすでに寝床にはいなかったのではないかと思います。衝立が置かれておりましたので、幾らでも誤魔化せる。それゆえ、不本意だが、憎琤院ぞうじょういんとわたしは長い時間共に過ごしております」

 寿院は、若君に対してかすかな疑念を抱いた。若君は決して弱い人間ではない。それにどう見ても洗脳されているように見えない。と言うか、若君は何故なにゆえ憎琤院ぞうじょういんの言われるがままに胸を斬られ呪符を貼らせたのか?若君が恐れ慄いて呪符を貼らせた光景がどうしても想像出来なかった。

 「話しがそれてしまいました。憎琤院ぞうじょういんが月子様を恐れるようになったのは、突然でした。突然、紅、阿袮、それにわたしにまで、『すぐにあの女子おなごを殺せ。あれを放っておくと厄介なことになる』と、騒ぎ出したのです。しかし、我らは悉く登葱殿と箭重殿に阻まれました。元々影近殿は警戒していたゆえ、影近殿が身近に居る時は手出しはいたしませんでしたが…。しかし何故か上手くいかなかった。そのはずです。登葱殿の先程の行動を見て、納得いたしました。登葱殿も箭重殿も普通の女子おなごではなかったということでしょうね。それにしても何故、あすこまで憎琤院ぞうじょういんが月子様を恐れたのか?それは因縁ではないのですか?月子様が琵琶法師様の知り合いで、殺された手鞠さん?と仲の良い友だと聞かされ、憎琤院ぞうじょういんは気がついたのではありませんか?昔、恐れていた誰かだと。あの頃貴方方の間に何かがあった。憎琤院ぞうじょういんが恐れる程の何かが?あの恐れようは、よほどのことがあったのでしょう。勿論、それは貴方方が一番ご存知の筈です」

 寿院の疑念が更に深くなった。この男…?洗脳される玉であろうはずがない。

 「すみません。疲れました。もう口を聞く力もございません。登葱殿、義忠にここに来るように侍女頭に伝えて下さい。わたしは、自分の寝殿に戻って休みます。義忠に運んでもらいます。これから先、わたしは一切誰にも何も言いませんし、何もしません。誓います。とにかく休ませて下さい」と、若君は身体を横にして、眠るように静かに目を閉じた。

 「若様、最後に儀式場とは何ですか?答えてくれませんか?」

 寿院の言葉に若君は、「もう貴方も影近殿も知っているのではないのですか?」と、最後に小さな声で言った。

 「影近殿と、わたしが…?」と、寿院が呟く。そして月子を見ると「義忠とは?」

 「義忠?はて?そう言えば、時々若君の傍に控えていた、滅法強そうな男がいたような。我はあまり見かけたことないが…しかしあの者は、この屋敷の者ではなかったような。うーむ、分からない」

 その時、登葱が廊下から顔を出した。

 「あぁ、そのような者がいました。若様が随分慕っておった。わたしは従者と勝手に思っていたが…?月子様が倒れた時は寝床まで運んでもらいましたよ。まぁ、あんまり目立っていなかったから。そんなことより月子様、もうすっかり夜の帳も降りてしまいました。夕餉の支度を致しますので、若様が寝殿に戻られたら、夕餉を召し上がって、もう、寝床について下さい。皆様はわたくしどもと召し上がって下さい」

 「いえ、わたしは、いったん譜薛殿の寝殿に戻ります。適当に報告をしないと怪しまれますからね」と、寿院が言う。「しかし、箭重殿か影近殿が戻って来ないことには姫様が心配だな」

 「登葱、こんな時に食事とは…?其方そなたはどんだけ肝がすわっているのだ。今日は普通ではありませんゆえ、皆で食事を致しましょう。箭重も影近も心配です。寿院様はお戻り下さい。我は大丈夫です」と、月子が言う。登葱も同意し、寿院に戻るように促した。

 しかし、寿院はせめて若君が月子の対の屋を出るまではここにいると主張した。

 「分かりました。すぐに侍女頭に義忠殿を連れてくるように伝えて参ります」と、登葱が対の屋を後にした。

 その時、月子は寿院にだけこっそり伝えた。

 「寿院様、いろいろなことがあり、言いそびれておりましたが、華菜殿を殺めたのは他でもない若君だと思います。そしてやはり紫乃が後始末をしたのだと思います。会話が現れたのです。そう解釈できました。三人いたと思います。でもそれが誰なのか分からない。一人は若君だと思うのですが、後一人はおそらく憎琤院ぞうじょういん。自身のことを紫乃と呼んでいたのではないかと。でも後一人がどうしても思い浮かばない。なんとなくですが第三者…、我らの知らない人物かも知れません」

 「姫様の知らない人物?はて…?」月子の言葉に寿院は考え込んだ。


 その頃、影近は紅の後を追って、西側の寝殿にいた。

 紅は、おおよそ人とは思えない素早さで、寝殿に入り、東山とうざんを斬って大怪我を負わせた。もう一歩影近が遅かったら、東山とうざんは殺されていただろう。深手を負った東山とうざんは何故か、弓場にある遠雷とおらいの小さな寝殿に行きたいと影近に懇願した。不思議に思った影近だが、東山とうざんはもう助からないだろう。と、その願いを叶えた。東山とうざんをおぶって遠雷とおらいの小さな寝殿まで連れていき、そこに寝かせた。

 はて、この男もこれほどまでに遠雷とおらいのことを思っていたのだろうか?いや、そんなはずはない。しかし、今は考えている余裕がない。紅は東山とおざんの襲撃に失敗したその後、何処へ向かうだろう?月子のところ?いや、月子のところには若様がいる。恐らく奴らには役割があるに違いない。

 「紅はかなりやけを起こしている。危ないなぁ。もう、これ以上は無理だと悟ったか?」

 影近は、こういう時こそ、心を静かにする。目を瞑り、不自然にざわつくところを捜しだす。ざわつくところがひとつ。それが西側の寝殿だった。影近はすでに動いていた。


 一方、とどめを刺せなかった紅は、東山とおざんを諦めて、今日やって来た招かざる客人の寝殿に向かった。標的は藤原譜薛。平家の家臣で、至る所で悪事を働き、人の誇りと財を掠め取った悪党。平家の名を笠に力もないくせにやりたい放題だ。

 紅は、もう、藤家を捨てると吐き散らした憎琤院ぞうじょういんから東山とおざんの始末を命じられていた。しかし東山とおざんの始末に失敗したことで、日頃平家に恨みを持っていた憎琤院ぞうじょういんへの手土産代わりに藤原譜薛の暗殺に向かったのだった。それに紅は、憎琤院ぞうじょういんが計画の途中で逃げ出したのは、藤原譜薛の突然の訪問のせいだと思っていた。譜薛が屋敷を訪れた時、憎琤院ぞうじょういんは表立って譜薛に会うのを避け、庭の影から覗き見たのだ。憎琤院ぞうじょういんからかすかに声が漏れたと思うと、何故か茫然としていた。

 「なんと…、あれは…あの男が何故…ここに?」

 隣に控えていた紅は、憎琤院ぞうじょういんのその顔を見た。なんと怯えた目をしているのだ。と思った。憎琤院ぞうじょういんがこんな小物の悪党を、何故怖がっているのだろう?紅には違和感しかなかった。だから余計に腹がたった。譜薛の隣りにいた寿院には目もくれなかった。だから憎琤院ぞうじょういんの視線の先を考える余地もなかったのだ。

 「くそっ!もうダメだ。ここは終わりだ。くそっ!なんと口惜しい」

 憎琤院ぞうじょういんはしきりに悔しがっていた。それはもう紅の立ち入れない強い感情だった。

 「紅は我らのことを知っている者を皆始末しろ」と、憎琤院ぞうじょういんが言った。

 「皆とは?」紅がが尋ねた。

 「考えたら分かるだろう。東山とうざんと、それに近い使用人、侍女頭一派。後はあの予知者一派だ。あぁ、若様はいい。わたしが今から邪神の祟りの恐ろしさを更に植え付けてやる。あの女子おなごを必ず亡き者にしないと、どんな目に遭うか。まぁ、どっちにしても死ぬのだが」

 「今日来た連中は?」

 「お前にやれるのか?お前には無理だな。あんな連中、放っておけ。もうここは捨てるから関わらなくともいい。だが次はただでは済まさない」

 そう言うと、憎琤院ぞうじょういんは若君のところへ向かった。

 紅は、若君が不気味だった。憎琤院ぞうじょういんに従順なふりをしているのだが、本当にそうなのか?若君には何だか別の思惑があるような気がした。しかし、憎琤院ぞうじょういんがあの呪符を貼った以上、今後の憂いは消えるだろうが、生きている今、気の抜けない男であることには違いなかった。

 しかし、藤原譜薛、あの悪党だけは許せない。我らの計画を壊したのだ。この報いは死を持って償ってもらう。憎琤院ぞうじょういんから無理だと言われたことも腹立たしいし、計画を中途半端に終わらせたのも腹立たしい。

 そして、紅は、一旦離れの屋敷に戻った。誰も近づけさせない為に表門に罠を張った。誰も近づくことを許さないと強い意志を持っていた。それは憎琤院ぞうじょういんでも同じだ。一気に怒りが湧き出る。そして紅は戦う準備を整えた。

 この屋敷でずっと暮らしていく筈だった。やっと居場所ができたというのに、また諦めなくてはならない。何度喜び、そして諦めたか?

 ずっと森の光景しか知らなかった。親も知らない。近くにいつも山犬がいた。いつ襲われるか分からない恐怖を抱き、毎日びくびくしながら暮らしていた。恐怖がいつもいつも付き纏う、そんな日々が続いても恐怖には一向に慣れない。姿形が違う獣と、自分はどう違うのだろうか?

 紅は、譜薛が滞在する寝殿に入るなり、その勢いのまま斬りつけた。しかし、思いの外譜薛は強かった。


 譜薛は、寿院がなかなか戻って来ないことに苛立ちながら、藤家に振る舞われた夕餉を食している途中、空気が変わったことに気づいた。紅が入る前から殺気を感じ取っていたのだ。そして、剣を構えた。だから紅の咄嗟の攻撃にも対処できた。紅を弾き飛ばすと、夕餉の膳を投げて次の攻撃を防御した。しかし紅の動きは素早く、膳を避け、再び譜薛を斬りつけた。譜薛はひえっと声を上げ、尻餅をついた。

 「なんだ、なんだ、お前は何者だ」

 「わたしは、ここの奥方代行だ。だがお前のせいで全て台無しだ」

 「何を言っている」

 紅は、再び剣を振った。それは譜薛の右腕を擦り、皮膚を抉った。

 「こやつ狂っておるのか?」

 そして紅は、譜薛の頭上を飛び越え、背後を取って、背中を斬った。譜薛がその場に力無く倒れ込むと、剣を突き刺そうとしたが、譜薛は避け、剣が勢いよく床に突き刺った。

 それを見た譜薛は再びひえっと声を漏らした。

 「なんだお前、こんなにも弱いのか?こんな奴を何故、恐れる?何故わたしがこんな奴に勝てないと思ったのか?分からぬ」と、紅は独り言を呟いた。「お前は何故ここに来たのだ?」と、床から剣を抜きながら、譜薛に向かって紅は言った。

 「何故来たかだと。貴様は知らないのか?わたしは華菜の兄だ。藤家が華菜を亡き者にしたことを知らないとでも思っているのか?」と、譜薛が答えた。

 「だからどうした?」と、紅が叫ぶ。

 「わたしは知っているぞ。お前が奥方代行だと?お前は祓い屋だろう。この家を支配し、藤家の者も財産も使用人も全て奪ったつもりで居るのだろうが、この世はそんなに甘くないぞ。全てお見通しなんだよ。残念だな。わたしが帰らねば、父上が平家の軍を使って、ここを攻めてくるぞ。どの道お前らはお終いなのさ」

 「華菜か?たかだか使用人ではないか?虫けらが一人死んだところで何だって言うんだ」

 「使用人だと。虫けらだと?貴様、我ら平家家臣を愚弄するのか?華菜は平家家臣の娘。使用人などではない」

 「知ったことではないな。華菜は我らでこき使ってやったさ。たかだか使用人の家族が偉そうにするな」

 「貴様は何にも分かっていないのだな。藤家など、元貴族というだけで、今は庶家なのだぞ。平家家臣の我らの足元にも及ばない。とんだ祓い屋だ。山から降りて来たばかりなのだな。使用人の定義さえ分からぬか?お前など、華菜の下女にもなれぬぞ。祓い屋ごときが、位を語るな。まぁ、代々こんな屋敷に住んでいるから藤家のことを勘違いしてしまったのだろうが、ここを支配していったい何ができるのかな?」と、譜薛は高笑いした。

 平家の軍だと?

 あぁ、憎琤院ぞうじょういんが恐れたのはこのことか?それに華菜が殺されたことも暴露ばれているのか。こいつが帰らなければ、ここは平家の軍に囲まれるのか?いったい、何故こんなことに…。

 「わたしはただ、自分の家が欲しかっただけなのだ。それに華菜を殺したのは我らではないぞ」

 「なんだそんな子供のような言い訳は?自分の家が欲しいのなら、山に穴でも掘って、そこに住んでいればいいだけのことだ」

 「何を言っているのだ?」

 「お前は藤家のお陰で随分綺麗な衣を纏っているが、頭は獣並だな。祓い屋?こんな低俗なものに支配されるとは、藤の者はなんて間抜けなのだ。この屋敷は平家がきちんと管理しなくてはな。お前らごときは我らが処理してやるさ」

 「うるさいやつだな。平家の軍が何だ。お前はわたしが処理してやる」と、再び紅は剣を振り上げた。

 その時、影近が現れ一瞬にして、紅の両足首の腱を切った。紅は悲鳴を上げ、その場に崩れた。

 「誰だ?」紅は、痛みを堪えて、突然襲いかかってきた影近を見た。

 「お前か?」

 「殺されないだけでも有り難く思え」影近は、そう言うと、今の状況を冷静に見定めた。

 「わたしは奥方の代行だぞ。そのわたしに何をするのだ。」と、紅は表情を歪めて、叫んだ。

 「奥方代行が聞いてあきれるわ」

 一瞬何が起こったのか理解できない譜薛は、呆然と影近と、紅を交互に見ている。譜薛は状況をまだ把握できない。

 「うるさい。お前ごときが私に意見するではない。私は奥方代行だ」

 影近は笑った。「奥方代行さん。今日はよく喋るのだな。普段は口数も少なく、淡々と仕事をしていたが、そう命じられていたのかな?なるほど、喋ると馬鹿が丸出しだ。人を無残に殺めるしか能がないのだろうから仕方ないのかな?」

 「何を!」紅は、立ちあがろうとしたが、立てないことに驚いた。「なんだ、お前何をした?」

 「そこは身体を支える大切なところなのですよ。そんなことも知らないのですか?あなたはもう立てないのですよ。観念したらいかがかな」

 「何を観念しろと言うのか?馬鹿者」

 二人の会話を黙って聞いていた譜薛が口を挟んだ。

 「あなたは?」

 「わたしは、この家にお世話になっているものに仕えている者です」と、影近が用心深く答えた。

 「ふんっ、この家の者ではないのか?この家の者は何をしているのだ。華菜を殺しておいて逃げ通せるとでも思っているのか?」と、譜薛が怒鳴る。

 影近は、この者が何者なのかよく分からなかった。まして、この者が寿院と共にやって来た客人ということも知らなかった。空き家を調べて帰って来たら、突然月子の対の屋に寿院と若君がいて、これまで調べていた事案の核心に近い会話が展開されていたのだ、驚くしかなかった。そして、ここに来て見知らぬ男が華菜を殺しておいて、などと怒鳴っている。細心の注意を払わざるを得ない。

 「おいっ、お前、私を歩けない身体にしておいて、無視するな。お前知らないだろう。箭重は、お前の仲間だったな。今頃箭重は亡き者になっているだろう」と、紅が笑う。

 「だから殺されなかっただけでも有り難く思えと言った。だが、箭重は死んでいない。箭重がお前ごときに殺されるか。残念だな」

 「そんな馬鹿な。あいつは私の罠にかかったのだぞ。あの娘が一番にあの門をくぐるのは想定外だったが、私は確実に首を吊るしてやったぞ」

 「想定外?いったい誰を想定していたのだ。あれっ、あの門をくぐるのは確かに箭重ではないな。思い当たると言えばお前のあるじか?」

 「主?ふん、東山とうざんか?」紅は、東山とうざんを殺そうとして、邪魔をされたばかりだ。

 「お前のあるじだよ。お前の主は、東山とうざんなのか?笑わせるな。本当の主だよ。もしかして、お前、主を殺そうと罠を張ったのか?ここに来て仲間割れか?」

 紅は、すぐには何を言われたのか理解できなかった。この男気づいたのか?

 「黙れ。うるさい。主というな。あんな奴は主などではない。私に居場所を与えてやると約束したのだ。私に居場所を与えた奴こそ本当の主だ」

 「居場所?何故、そんなものが欲しいのだ?」

 「仕方ないだろう。私には家がない。物心ついた時には私のまわりは樹木と草木、土しかなかった。そして、いつも気配だけを垂れ流した山犬の群しかいなかった。私は時々山犬に襲われ、生死を彷徨い、深い恐怖を植え付けられた。やがて襲われた山犬を殺して復讐しても一度植え付けられた恐怖から逃れられない。そんなある日、山寺に助けられた。しかし、私は檻の中に入れられ、ずっと獣のような扱いを受けたのだ。姿形が違う、あの山犬と私にどんな違いがあるのか、私は未だに分からない。だけど、ここにいた時、私は人間でいられたのさ」

 「だからお前は黙っているように命じられていたのか?お前が喋ると一瞬にして正体が暴露ばれてしまうな。馬鹿垂れ流しだ」と、影近が笑った。

 「分かった。お前は予知者の関係者だな」と、再び譜薛が割って入った。

 「さっきからあんたは誰なのだ。俺は出掛けていた故、何も事情が分からないのだ」

 「わたしは華菜の兄だ。華菜はこの家の者に殺されたのだ。だからきちんと調べにやって来たのだ」

 「そうか。如何にも、貴方が言うところの予知者の関係者ということになるな。まぁ、本当は予知者などではないが。と、言うことは、本当に華菜殿は殺されたのか?」

 「そうだ。東山とうざんには隠して調べようと考えていたが、この女がわたしを殺そうとした。もう隠し立てする必要もなくなった。東山とうざんを呼べ、何もかもはっきりしてやる」

 「それは残念だな。東山はこの女が殺しそこなって瀕死の重症だ」

 「なんてことだ。こいつは祓い屋なのか?」

 「それも違うな。こいつは多分祓い屋に使われている者だ」

 「では祓い屋は何処にいる。」

 「それは、わたしがこれから始末する」

 「そうか。祓い屋が華菜を殺したのか?」

 「それは違う。我らではない」と、紅が言う。

 「祓い屋でなければ誰が殺すのだ」と、影近が言った。

 「華菜は祓い屋に殺されていないと言うのか?だったら華菜は誰に殺されたのだ。藤家の者か?それは我らには重要なことだ。予知者の者。お前のところに寿院がいる筈だ。呼んで参れ」

 影近には、この男と寿院が結びつかない。どう見てもまったく違う空気を纏っている。この男は如何にも無能で権威を笠に着た鼻持ちならない男だ。

 「さて、寿院とは誰かな?」と、影近はとぼけた。

 「まさか?あの男は予知者のところへ参っていないと申すか?何処で遊んでおる。まったく腹立たしい奴め。貴様、つべこべ言わず、わたしの連れを探してこい」

 「だから、俺は出掛けていた故、何の事情もわからぬ。連れと言われても、いったい誰のことを申しているのかな?」

 「なんと腹立たしい。だったら藤の使用人にでも伝えて、呼んで参れ!」

 「それはご自身でどうぞ。何処のどなたか存じませんが、事情も分からないのに、動けませんし、ましてや俺が何故あんたの言うことを聞かなくてはいけないのか、よく分からんしな」と、影近が言う。

 「こいつは腕が立つことをいいことに、我らに対しても大柄な口を聞く。怒鳴っても無駄だ」と、紅が嘲笑った。

 「祓い屋の使い走りが口を挟むな」と、怒りに任せて譜薛が怒鳴る。

 「使い走りとはなんだ。わたしは使い走りではない。奥方代行だ」と、性懲りも無く紅が怒鳴った。

 「もうよせ。みっともないぜ」と、影近が言う。「なんか邪魔したな。俺は、お前のあるじをぶっ殺しに行くぜ」

 影近の言葉に紅が意味あり気に笑う。「それはご苦労なことだ。まぁ、お前のような能無しがどんなに騒ごうが、我らの手の内でくるくる踊るだけだが…」

 「動けない馬鹿がほざくな。そこの男にでも嬲り殺されな」と、影近は、譜薛の寝殿を後にした。

 しかし、東山が殺されたと聞いても、何も動こうとはしない、あの男は何なのだ。何もかも寿院頼りか。やはり見ての通り無能のようだ。

 影近は、譜薛の正体を知らなかった。寿院はいったい誰と、何をしにこの藤家にやって来たのだろうか?ちゃんと分かっていない自分に改めて、驚いていた。 

 「まぁ、いいか。味方と敵だけ分かればそれでいい」と、呟く。

 影近は、その足で一度も足を踏み入ることが出来なかった奥方の寝殿に向かった。何度も試みたのだが、奥方の寝殿には何故か仰々しいほどに見張り番がいた。その度に影近は思う。屋敷の中でいったい誰に対して見張りを行っているのか、この者たちは何の疑問も抱かないのだろうか?と。見張り番は、いつも影近に遭遇すると、表情ひとつ変えず、ただ、道を遮るだけだ。何の敵意も抱いてはおらず、ただ命じられただけの者たちに違いないのだが、隙がない。普通の者ではないと感じていた。

 しかし、もう遠慮する事もないだろう。東山は、本性を露わした紅に殺されかけ、紅は、客人を襲っているし、若様は月子様と、おっさんが抑えているだろうから。

 これまで一度も影近は、見張り番に本性を現したことはなかった。奥方を探ろうと何度か、訪れたが、悉く見張り番に遮られ諦めた。影近なりに問題を起こせないと考えていたし、それにこの見張り番は本気を出さないと倒せないと分かっていたからだ。

 しかし、一瞬で片付いた。本気の影近との実力の差があり過ぎた。こんなことなら、もっと早く探れただろうが、影近はしなかった。『時』を待っていたのだ。そして、今がその『時』だった。

 奥方の寝殿の周囲には簡単であるが、仕掛けも施されていた。そして見張り番。そんなもの影近は簡単に突破できた。しかしそれをしなかったのは、奥方の状況を示唆してのことだ。奥方は、捕えられている。そして本当に病を患っているのであれば、奥方の命は常に危険に晒されている。助け出すにはそれなりの準備が必要だ。

 まず奥方の寝殿に出入りするものを根気強く調べた。若君、東山、抄峯、紫乃、紅、侍女頭。それ以外の出入りはなかった。月子の言葉を信じるなら抄峯は殺害された。若君は、ほぼ毎日、長い時間滞在した。その次に紅と紫乃。侍女頭は滅多に出入りはなかった。それよりももっと東山は少なかった。しかし、憎琤院ぞうじょういんらしき者の姿は見かけることはなかった。更に言うと、抄峯や紫乃は出入りはあるが、何故か華菜は出入りしていなかった。奥方との間に確執みたいなものがあったのだろうか?華菜は何となく独自の動きをしていたような気がするし、抄峯や紫乃とは異質な雰囲気を纏っていた。

 先程、華菜の兄なる者が華菜は殺されたと言っていた。しかし、紅は殺したのは我らではない。と訴えていた。

 時々聞こえてきたのが…、平家の家臣。だとすると、華菜のあの独自な動きは間者。それだといろいろ納得がいく。華菜は、出会うはずのない場所で偶然出会うことがあった。

 奥方の寝殿は、招かれた者しか立ち入ることが出来ない。招かれた者は臆することなく、堂々と入ることが出来たが、招かれざる者には、近づくことは愚か、まるで何処にあるのかさえも分からなくなってしまう程に危うい場所だった。奥方の寝殿に通じる渡り殿には、幾つもの絹の御簾が垂れており、そこを潜る者を威圧した。影近は、幾重にも重なる御簾と御簾の間で三度程華菜に会った。影近は、当然招かれざる者は自分の方だと思っていたから、華菜の視線から逃れるように瞬時に隠れた。しかし、華菜の様子も普通ではなかった。用心深く、辺りに注意を払いながら、奥方の寝殿へと近づこうとしていた。そして見張り番が視界に入ると、身を隠し、やがて諦めたように去っていく。華菜は招かれざる者だったのだ。

 影近は改めて考え直した。

 この屋敷に巣食う者はひとつではないのだ。複雑に絡み合っているからこそ、簡単に姿を現せないのだ。何故、そのことに気づかなかったのか。

 影近は、寿院の思慮深さを考えた。

 おっさんは、特に何も言わず、じわじわと、若様を追い詰めていった。そして自分は若様が追い詰められていたことすら気づかなかった。何を言った訳でもない。なのにあの化け物のような洞察力は何処からくるのだろうか?どんな言葉で若様が月子様を亡き者にすることが分かったのだろうか?

 考えても分からないことばかりだ。

 月子様の助言を得ているのは分かっているが、多分、あのおっさんは月子様のことを信じ切っているし、月子様もおっさんに絶対的信頼を置いている。おっさんはぼーうっとした顔をして、月子様から沢山の言葉を引き出している。我らは何も月子様から言葉を引き出すことが出来なかった。だから、この屋敷に来て、何も分からないまま、幾日もやり過ごしでしまったのだ。月子様の近くにいた箭重からも何も聞いていなかった。

 箭重は、月子様の言葉の能力に関しては、きちんと理解している訳ではない。ただ、他の者が持ち得ない特別な能力があることと、それが他の者よりも多くの事を知り得ることができる能力程度しか知らないと、影近は思っていた。箭重にとって月子様の言葉は決して重くはなかったのだろう。だからわざわざ報告しなかったに違いない。子供の頃から共に過ごしていても、月子様との距離は影近と、箭重では大きな差がある。この屋敷に滞在した数ヶ月、無駄に費やしてしまった。もっと、月子様の近くにいるべきだった。と、思っても、影近には、それが出来ない理由があった。昔見た、記憶を失った月子様のあの姿を思い出すと、どうしても能力を使わせることに抵抗があったのだ。

 それにしても、あの寿院という男は何者なのだ。影近は、先程の、若君と対峙した寿院を思い出していた。

 「何だ…あの寿院という男は、いったい何者なのだ」

 影近は悔しくて思わず口に出した。そんな影近の目の前には奥方の寝殿がある。

 影近は迷わず、庭に廻り廊下から御簾を上げた。御簾を上げると、余程中の様子を見られたくなかったのか、部屋を隠すように大きな衝立が3枚も置かれてある。

 影近には、寝殿の中に人がいないのは分かっていた。まるで気配がなかったからだ。衝立を超えると、案の定蛻の殻だった。しかも部屋の中に置かれた衝立は倒れ、破れていた。寝床は乱れ、床は衣などが散乱していた。まるで人が暴れた後だ。

 そして、部屋中に充満した獣の匂いを嗅ぎ分けた。それは、以前若君の寝殿造の小屋で嗅いだ匂いと同じだ。先程空き家で嗅いだあの強烈な匂い程ではないが、何処か似ている。

 影近は目を瞑り、獣臭の後を追う。その姿を想像した。若君が言っていた遠雷が成長した姿だった。遠雷は寝殿の中で、走りまわっていた。すごく慌てていた。衝立に激突して、寝床を乱し、また別の衝立に突進する。その姿は、若君から聞いた遠雷とは違う野生そのものだった。しかし、まだ釈然としない。遠雷は逃げ惑っていたのか?そこに遠雷を取り囲む数人の人の姿が見えた。よく動ける者たちだ。遠雷が取り押さえられた。しかし、暴れる遠雷を抑えつけるのは困難だ。人と遠雷が入り乱れるうちに誰かが噛み付かれた。噛まれた者が驚いて飛び上がった。そして、絶望したように蹲った。

 影近が幾つかの匂いを拾いながら想像した世界だ。もしも、寿院が言うように、空き家で見つけたあの病の野犬が遠雷であるのならば、誰かが運んだことになる。奥方の寝殿は全く片付けられていない。遠雷を運んだ後、この寝殿には誰も寄り付かなかったようだ。もしかしたら、遠雷を運んだのは最近のことかもしれない。更に言えば、あの空き家と通じる者がいる。しかし、一番重要なのは、何故遠雷をわざわざ別の場所に運んだかだ。

 更に影近は獣臭を追いかけた。匂いの線が浮かび上がる。それは寝殿の裏から庭に出ると、ほぼ一本の太い線となった。何度も何度も遠雷が歩いたり走ったりした道筋に違いない。影近は太い線を辿った。暫くすると、この道筋が何処に向かっているのか分かった。遠雷の寝殿造の小屋だ。

 「そう言えば、東山を忘れていたな。さすがにあそこに寝かしておくのはまずいか。しかし、侍女頭に言うのはいいが、俺がやったと騒ぐんだろうな。面倒くさいな」と、そう呟きながらも、太い線を進む。東山をどうするか結論が出ないまま、遂に小屋を目の前にした。中を覗くと、何故か東山の姿がない。大量の東山の血痕が残っているだけだ。

 はて?

 あの身体では自力で動けないだろう。

 影近は、暫く立ちすくんでいた。小屋の周囲を見ると、異常にでこぼこしている土に違和感を覚えた。時をかけて多くの足跡が入り乱れている。以前は気づかなかったが、この小屋には不思議と多くの者が出入りしていたようだ。新しい足跡もある。影近が訪れて以来、遠雷の姿などなかったのに、いったい誰がここを訪れるのだろうか?あれっ、奥方の寝殿から人の気配が消えて、どれくらいの時が経ったのだろうか?もしも、想像通り奥方の寝殿のあの散乱が遠雷の仕業だとしたら、随分と時が過ぎているということになるのか?いや、遠雷がいつあの空き家に移されたのか?はっきりしている訳ではない。その間、奥方と遠雷は何処にいたのだろう?そして、憎琤院ぞうじょういんはどこに滞在していたのだろうか?

 憎琤院ぞうじょういんなる祓い屋など一度も見かけなかったのは非常に無理があるし、祓い屋なる者の存在そのものを今日まで知らなかったことが不思議だった。ならば、憎琤院ぞうじょういんは知っている誰かなのかもしれない。

 それに、以前、双子の稲と麦と仲が良かった使用人の娘が、親かった娘が突然居なくなったことを凄く嘆いていたのを思い出した。使用人の娘が言うには居なくなった者はひとりやふたりではないと、稲と麦に愚痴っていた。

 今、思えば、それらは憎琤院ぞうじょういんと紅の仕業だったに違いないのだ。しかし、何も気づいていなかった自分の無能さを改めて思い知らされた。

 自分が無能なのか、或いは、それ程までに用意周到に事が進められていたのか?

 しかし、この短時間に寿院と月子様がひとつひとつ暴いている。これまで自分が気づかなかった多くのことを。

 影近は、再度遠雷の小屋に入った。無数の足跡の謎と、東山の姿が消えた謎は、関係があるに違いない。影近は、突然暴かれた様々な情報をひとつひとつ思い浮かべ、静かに目蓋を閉じた。心を静かにすると、何処からか風の音が聞こえてきた。風は小屋の床から流れてきた。影近は目蓋を開け、小屋の床を見た。東山の血痕が見えた。先程は気づかなかったが、血痕が一方向に流れていた。そして壁の境目で血痕は一直線に切れていた。血痕が床の下に落ちたのだろうが、そこから流れてくる風の音は、床下の狭さを考えると、どうにも勢いがあり、大きい。床を叩くと、想像以上に響いた。恐らく床下に風の通り道があるのだ。それは多分大きな空間に違いない。影近は力の限り床を叩いた。すると、すっぽり床が抜け落ち、中から真っ黒い闇が出現した。

 影近は息を飲み目を凝らして、闇の中に視線を投じた。

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