友との相乗

 ただ黙っているだけで時を凌げると思っていた若君だったが、そうもいかなくなったようだ。この、口を聞いたこともない男が、何故、こんなにも理不尽な言い掛かりをつけてくるのか?まったく理解に苦しんだ。しかも、隣に座る寿院は、なんだか楽しそうにしている。この寿院という男は、これまでの言動からすると、絶対にこの理不尽な男に興味があるのだ。なんか面白いおもちゃを見つけた子供のようにはしゃいでいる。

 しかも、悪臭とは酷い言い掛かりだ。若君は、自身の誇りをひどく傷つけられ、頭の中で思考がくるくる回って、まともな会話ができなかった。

 「寿院様」と、月子が口を開く。「影近は、我らが感じ取れない、匂いとか、人の気とか、音…等の五感、即ち視覚、聴覚、味覚、触覚、臭覚を人一倍強く、また速く感じ取ることができると、義父上ちちうえが申しておりました。影近が感じ取るものを我らは感じることができないのです。ですから我は影近の話しを信じざるを得ないのです。しかし、影近の言っていることは、時として理解出来ないことがある…」

 「これはまた…」と、寿院は不思議そうに影近を見る。

 「なんと…。月子様は妄言を吐き、この男は誰も嗅げない悪臭を嗅ぎ、わたしに罪をなすりつけようとする」と、若君は怒りのまま言葉を発する。

 「罪とは…?」影近が言う。「わたしは罪など一つもなすりつけた覚えはない」

 「では悪臭とは?わたしは、その言葉にひどく傷つけられたのだぞ」

 「影近」と、月子が言う。「其方そなたはいったい何処に行ったのだ。珍しく其方そなたから文字が現れているが、それがどうも其方そなたの言葉ではないような気がする。誰かの言葉を持って帰っているようだが?」

 「えぇぇ、わたしが誰かの言葉を持ち帰っているのですか?なんと興味深い。しかし、誰かとは?一向に思い浮かばないなぁ」

 影近は、隆鷗たかおうのことは黙っていた。その名前は口に出してはいけないような気がしたからだ。昔、記憶が確かではないが、一度、月子が全ての記憶を失くしてぼんやりしていた時期があった。あれは何か外的な攻撃を受けたのではないかと影近は考えていた。同じ時期に隆鷗たかおうは家を出たのだ。何故か、月子のそんな状態を隆鷗たかおうと結び付けていた。確かなことは分からないが、影近の心がざわつくのだ。だから隆鷗のことは月子には言えなかった。

 「其方そなたの言葉を全て読み解くことが出来ないのだが、はっきり分かるのは、『犬…?』。せめて其方そなたが何処で誰と会って来たのか、教えて貰えないだろうか?」と、小首を傾げながら月子が言う。

 「おぅ、月子様、まさにその通りですよ。『犬』ですよ」と、影近は言った。

 その時、若君は恐ろしい面持ちで影近を見つめ、硬直した。影近も寿院も、月子も一瞬時が止まったかのように動かなかった。

 「犬ですか?」と、寿院が、止まった時を破った。

 「ええ、犬です」

 「なんと…」若君が呟く。その時にはもう恐ろしい面持ちではなかった。すごく落ち込んだように肩を窄めていた。

 「しかし、ただの犬ではなさそうですね」

 月子の言葉に再び若君は、顔を上げ、目ん玉をまん丸に見開き、影近を見た。

 「まさに。わたしは信蕉様にある屋敷を調べるように言われました。屋敷と申しましても、廃墟のような空家でして、まるで幽霊屋敷でした。周辺の聞き込みをしてみましたが、誰もが幽霊屋敷を毛嫌いしており、関わりを嫌う者ばかり。これでは一向に調べがつかない。そこで思い切って中へ侵入してみたのです。信蕉様が言うには、ある年その家族は次々と非業の死を遂げ屋敷には誰もいなくなったそうです。そして、その屋敷には獣憑がいたと言う噂を耳にした事があると信蕉様が仰るのです。如何にも調べてこいと言わんばかりに」

 「へぇ、もしも、そこに祓い屋が出入りしていたら、まるで先程聞いた阿袮という娘の父の実家の話しとよく似ていますね」と、寿院が言う。

 「そうです、そうです。信蕉様もまったく同じ事を仰っていた。阿袮の父親の実家ですよね」と、影近が言う。

 「まるで、この家の未来だな」と、更に寿院が言った。

 「それは可笑しな話しですね」たまらず若君が口を挟む。「我が家に祓い屋などという者がおりますか?月子様?」

 「はて、この家で祓い屋なる者をお見かけしたことはございません。しかし、『犬』なる不可解な文字を何処かで見たことがこざいますね。はて…?」

 若君は月子の言葉にびくっとした。

 「ほぅ、姫様、それは何処ですか?」と、寿院が言うと、「あっ、側妻そばめ!」と、箭重が思わず呟く。

 「おぅ、箭重殿、まさにそうです。紅様が自分を見てほしいと仰った時、異常に『犬』に怯えておられる心情が読み取れました。その事を申しますと、非常に落胆されて期待外れだ、と我を遠回しに罵っておりました。その心無い言葉に我も肩を落としてしまいました」

 「うーむ、それは逆ではございませんか?その側妻そばめ殿は、姫様からずばり言い当てられ、悟られまいと、そのような極端な態度に出たのではありませんか?そうでなければ、ただただ不思議に思うばかり、思い当たる節を考えたりするのが自然でございますよね」と、寿院は言った。

 「そんなものでございますか?しかし我ながら突拍子のないことを申したものだと思っておりました。紅様自身のことではなく、身近な者で犬神信仰をされている方がいないかなど、恥ずかしくて言い訳ばかりしてしまいました」

 「話しには続きがあります」と、影近が身をのりだして言った。

 「うむうむ、聞きましょう」と、寿院がはしゃぐ。

 「おぅ。聞いて下さい。実はその屋敷の北の寝殿に向かおうと足を運んだところ、なんと先程申しました酷い悪臭がしたのですよ。これはたまらんと思いながらも、無視はできない。北の寝殿は渡り殿を挟んで離れになっているのですが、もうその辺りは臭くて臭くて。何と言うか獣の死臭とでも言いましょうか?もう、完全にわたしの足は拒絶しておりました。勇気をだして、門戸を開きましたところ、寝殿はしとみで光が遮られ闇に覆われて何も様子が分からない。しかし闇に覆われていても悪臭と異様さは分かる。しとみをぶち破り、外光を入れると、やけに細長い寝殿だった。その奥は外光も届かない。しかしよく見ると、闇の中で何とも言いようのない不気味なものがいると分かるんですよ。更にもう一枚しとみを蹴破ったら、奥は、まるで牢屋のように仕切られるている。その中にそいつはいたんです。影が異様な動きをしている。まだ正体が分からない。更にしとみを蹴破り、そいつに外光が当たるようにした。すると、そいつは、これまでに見たこともないような素早さで狂ったように動く。俺はどんなに素早く動くものでもわりと見えるんですよ。そいつは野犬だった。しかしこれまでに見たこともない醜い野犬だった。殆どの毛が抜け落ち、顔は骨のように痩せ細り、目は飛び出て、大量のよだれを垂れ流していた。あれはもう悪魔でした。その証拠にそいつの周りに注連縄が落ちていた。おそらく犬神として祀られていたか、物怪もののけとして封印されていたのかのどちらかでしょう。あれが犬などと信じるものはいないでしょう。いや俺は分かったけど」

 「野犬…?」影近の言葉に寿院は考えた。「醜い…、毛が抜け落ち、顔は骨のように痩せ細り目は飛び出て、大量のよだれを垂れ流し…悪魔?注連縄?胸糞悪い話しだ」

 「えっ、胸糞…?おっさん…、突然、何ですか?」と、影近が寿院に問いかけたが、寿院には聞こえていないようだった。

 「おっさん、どうしたんだ?」と、影近は、月子に聞いた。

 「あぁ、すみません。ちょっと…考えていました。その野犬は病ですね。犬神とか、邪神とか、物怪もののけとか、まして呪いとかそう言う類いではないですね。ただの病です。でもおそらく助からない病です。なのに、人間の都合で邪神とか物怪もののけとか、呪いとか、そんな適当な扱いをされる筋合いはないですなぁ。立派な命です。穏やかに死なせてあげればいいのです。祀られるとか、封印されるとか、そんなの胸糞悪いと思うでしょう」と、寿院が腹を立てて言った。

 「えぇぇぇっ!なんで、なんで、月子聞いたか?この人、まるで信蕉様が言うようなこと言ってる。信蕉様が絶対言う言葉だよな」と、少し興奮気味に影近が言った。

 「だから、お前が呼び捨てするな!」と、溜まりかねて箭重が怒鳴った。

 月子は、そんな三人を上座から見ながら沈黙していた。

 「おっさん、実はそうなんだ。俺は信蕉様に子供の頃から色々な話しを聞かされて育ったから、知っていたんだ。あれが病だということを。おっさんとまったく同じだ。俺も本当に胸糞悪かったんだよ」と、影近が言う。

 「じゅ…いんと申します」と、強い口調で寿院が言う。

 月子は、まだ影近からぽつりぽつりと現れる文字を見ている。側妻そばめのときと同じ現象だ。一文字ずつ出ては消えるので、言葉が形成されず、集中力を高めなければ言葉を探しきれない。側妻そばめの時と違い消えていく文字の速度が早く、記憶に留める量が多いので、さらに集中力が必要だ。

 月子は、小声で呟いた。

 「『いか』『ないで』『く』『る』『しい』…『こわい』『あいたい』…『らいは』『ここ』『にいる』『よ』影近が連れてきた者は童なのだろうか?なかなか文字が言葉にならない」と、月子が言う。

 影近は意味ありげな笑みを浮かべた。「もしかして、死霊なのかも」

 その言葉に寿院と箭重が反応する。

 「おぅ、若いの、お前様には見えるのか?」と、寿院が言う。

 「まさか。おっさん、影近な」と、影近が言い返す。

 「うーん、しかし、影近から現れる文字は、なんかこうぎこちなく、童というより、言葉を覚えたての赤子のような感じだ」と、月子が言う。

 「いや、そんなこと言われても俺には皆目わからねぇ」と、影近が答える。

 すると、何故か、寿院と月子の会話を理解しようとしない若君が興味を示した。それどころか涙を溜めて、月子を食い入るように見ている。その様子に気づいた寿院は、若君に声を掛けるでもなく、ずっと見守った。

 「月子様」と、若君が言う。声が震えている。「なんと…、まさか?」

 「若君、どうしました?」と、寿院が尋ねた。

 しかし若君は、寿院の声は聞こえていない。まだ月子を食い入るように見つめ、「月子様はいったい何を言っているのですか?」と、震えながら言う。

 だが月子も文字に集中しているために若君の声は聞こえていない。

 「『きら』『いに』『なったの』『いつも』『いっしょ』『いっしょ』『いない』『だれ』『も』…」それ以降、影近の周囲が、まるで静まり返ったように何も出てこなくなった。暫く月子は文字を待った。しかし、文字の破片のような壊れた線がぽつりぽつりと出てくるだけだった。

 その時、寿院は覚悟を決めた。

 「若いの…箭重様…そろそろ覚悟を決めましょう。何かあったら姫様を守って下さい。迷わず…お斬りなさい。若様を」

 「なんだ突然…て、言うか影近な」と、言いながら影近は刀に手を置いて、鋭い表情に変わった。同じように箭重も懐の短刀に手を置いた。

 「若様、いい加減立場をはっきりしましょう。先程若様が仰った通り、我らは華菜様からのふみを受け取っています。だいたいのことは存じております。予知者のことも、そしておそらくこの家を支配しているに違いない祓い屋のことも。しかし、何故祓い屋がこの家を支配するようになったか、それが分からない以上、迂闊に手を出せないと思っておりました。しかし、わたしには姫様がついている。そして、そこにいる姫様の友がいる。若様、あなたは何故、急に態度を変えて、わたしと共に姫様の元を訪ねたのですか?それはあなたがまだ祓い屋に心まで支配されていないからではありませんか?しかし、おそらくあなたは祓い屋の支配下にいる。その支配から逃れたいがために、姫様に助けを求めても大丈夫なのか見極めようとしているのではないのですか?」

 寿院の言葉を聞いているのか、いないのか、若君は、まだ月子の次の言葉を待っていた。

 「若君、残念ですが、もう影近から何も出てこない。影近、我が文字を読む前、何の話しをしていましたか?」と、月子が尋ねた。

 「ああ、あの悪魔のような野犬ですね。あれは一通り暴れた後に、どうやら亡くなったみたいだな。ぐったりして動かなくなった。まるで悪霊に取り込まれたような姿だったな。もっと穏やかな死を迎えさせてあげたかったが、もう手遅れだった。なんかやりきれない気持ちになったもんだぜ」影近は、悪霊に取り込まれた野犬と戦った隆鷗たかおうを思い出しながら、そう呟いた。

 「若様、抄峯とねという侍女、そして華菜がもうすでに亡くなっているのは分かっていますよ。抄峯とねという侍女は儀式を目撃したために殺されたのでしょう。そして華菜はそれを探っていたために殺された。二人が殺されたことは姫様が言い当てていましたよね。さて、若様、祓い屋とはいったい誰なのですか?」

 若君は力無く寿院を見た。「寿院殿、もう遅いのです。もう少し早く寿院殿が来てくれていたのなら、あるいは我ら藤家は助かっていたのかもしれません。奴らは巧妙でした。人の弱い心につけ込み、我らが気付かぬうちに我らの財産や、地方に隠し持つ領地まで全て抑えられております」

 「奴らとは…?やはり郎党ですね?」と、寿院が尋ねる。

 「ええ、奴らはひとりやふたりではありません。甘く見ていちゃダメです。何人いるかも分からない、不気味な郎党です」

 「やはりかぁ」と、寿院は考えた。

 「なんでまた、若様は急に話す気になったのだ?」と、影近が尋ねた。しかし若君は何も言わなかった。「て、言うか、おっさんが若様の口を開かせたな。なんかすごいな」

 「そんなことはありません。若様のお顔に悔恨が滲み出ておりました。そして、寿院です。もう覚える気ありませんよね。まぁ、今後会うこともないわけですから、無理して覚える必要もありませんね。影近殿」と、寿院は若君を見つめたまま呟いた。

 「殺されたのは、その二人だけではございません。祓い屋にとって邪魔なものや利用する価値のないものは悉く惨殺されました。侍女、下女、もう何人殺されたか分かりません。しかし、月子様の、そのお二人が来られてからは祓い屋も用心したのか、誰も手を出していなかったのですが、遂にわたしの侍女、抄峯とねと、華菜殿が手にかけられました」

 「えぇぇ、我ら、ここに来て何の役にもたっていないのかと、思っていたが…、箭重良かったな」と、影近が言う。

 「馬鹿なの?」と、箭重は小声で呟いた。

 「と、申しますのも、奴は月子様が来られてからというもの、あんなに冷酷で冷静だったのに、何故か妙に落ち着きがなくなって、抄峯とねを殺したのも、華菜殿を殺したのも、元を正せば、月子様に正体が暴露ばれるのを恐れていたのではないかと思います。何故なら、抄峯とねや華菜殿まで手にかけるなど、考えられないからです。その二人がいなくなれば、月子様も異変に気付かない訳がないのに…。奴は、もう冷静な判断ができなくなっていたのですよ。我らの使用人をあんなにも躊躇なく惨殺していたのに、何を恐れる必要があるのか?あんなにも正体を隠す意味がない。そして奴は常々月子様の命を狙っておりました。しかし、悉く失敗しておりました」

 「あぁ、そういうことか?姫様の命を狙っていたのは祓い屋なのだな。それだったら納得がいくな」と、寿院は呟いた。

 「我は命を狙われていたのか?」月子は、背筋が凍る思いだった。

 「それは、祓い屋が姫様の力を恐れていたから?」と、寿院が問うた。

 「はい。異常なほど、怯えていたような気がします」と、若君が答えた。

 「と、いうことは祓い屋は姫様の力を知っていたのか?」と、更に寿院は考えた。

 その時、影近は、別のことを考えていた。影近は主に竹林から藤家の屋敷に出入りしていた。煩わしさが解消されるからだ。だからだいたい若君が弓の修練場にいる時刻を把握していた。若君がいない時は自由に出入りしていたのだが、そこで不思議なものを目にしていた。そこに来るたびに一通りそれを眺めては、いったいこれは何なのだろうか?と考えた。それはなんだか分からないが、やけに可愛いらしく、見ていてほのぼのとした気持ちになる。長い時刻眺めていても決して飽きることなく、様々なことを想像したり、中に入ったりして遊んでいた。

 それは、本当に小さいが、よくできた立派な寝殿造りの小屋?だった。しかしそれは大人が入るとちよっと窮屈だ、そのくせ贅沢な造りをしていて、かろうじて横になることもできた。若君が弓の練習に疲れた時に昼寝をする為に造ったのだろうか?いや違う。獣の匂い。あの小さな寝殿から獣の匂いがしたのだ。もしかしたらそれが若君から漂ってくる悪臭の正体ではなかろうか?

 「姫様?」と、寿院が尋ねた。「姫様は、祓い屋と接したと思いますか?」

 「いいえ。そのような者はおりませんでした。箭重、其方そなたはどう思いますか?」と、月子は箭重に尋ねた。

 「分かりません。もしも、祓い屋が祓い屋の格好をしていないのであれば、確信は持てません」と箭重が答えた。

 「つまり、そういうことなのです。祓い屋は、姫様に会う時は祓い屋ではなかった。という可能性はありませんか。若様?」と、寿院が尋ねた。

 「それは、存じ上げません。ただ、あの祓い屋が如何様に化けようとも、あの異様な雰囲気を隠しきれないのではないかと、存じます」と、若君が答えた。

 「異様な雰囲気?姫様、思い当たりませんか?」と、寿院。

 「異様な雰囲気?」月子は考え込んだ。

 寿院は思う。そもそも姫は文字を見ている。文字と人の身体から醸し出される雰囲気の関係は如何なるものか?相乗しているのではないのか?いや、そんな簡単なものだろうか?

 「そもそも、祓い屋は誰なのですか?」と、寿院が核心をついた。

 「憎琤院ぞうじょういんという女子おなごです。とても冷酷で、人の心などないのではないかと思っております。」若君が答えた。

 「憎琤院ぞうじょういん…?聞いたことないです」と、月子の言葉同様、誰もが小首を傾げる。

 その時、唐突に影近が話しに割って入った。どうしても気になって仕方なかったのだ。

 「若様、先程悪臭がするなどと失礼なこと申しまして、すみません。若様の匂いと、先程申しました野犬の匂いはもしかして別物ではないかと…」

 これまで話していたこととまったく違う内容だったが、寿院はすぐに対応して、その話しにも興味を示した。「えっ、それはどう言うこと?」

 「実は…、若様怒らないで下さいね。弓の修練場に、どうにも気になるものがございまして、わたしはいたってそれが不思議で大層興味がございまして、何度もこれは何だろうと、ずっと見ておりました」

 「おぅ、それはどう言うものですか?」案の定寿院は興味深々だ。

 「えぇ、小さな寝殿造りの屋敷と言っていいのか?あんまり可愛くて、ついつい見に行ってしまうのです」と、影近が言う。

 「あぁ、わたしもそれを見ておりますね。しかし時が許さなかったので、わずかに眺めただけで気にも留めておりませんでした」と、寿院は後悔している。

 「わたしもそれを知っている。鶏小屋ではないのですか?」と、箭重もはしゃぐ。

 「いやいやそれはないだろう。寝殿造りの小さな屋敷だ。おそらく若様の趣味の何かかと…?よく分からないのですが、内部はなんかすごく優しい内装でほのぼのするのですが、そこに獣の匂いがしたのです。その匂いと若様は深い関わりがあるのは見て分かります。悪臭などと申しまして、すみません。確かにその獣臭に似ていると言えば似ている」と、影近。

 しかし、若君は、それについては語ろうとはしない。苦々しい表情を浮かべているだけだった。寿院は、そんな様子の若君をじっと観察した。悔恨の表情をしている。その寝殿造りの小屋に悔恨が潜んでいるのだ。

 「そこに住んでいたのは犬ですかね?寝殿造りの小屋ですか?随分と可愛がっていたのですね。しかしその姿は見えない」と、寿院は考えながら言った。

 「確かに。一度も見かけたことがない。しかし、寝殿はすごくきれいだ。掃除が行き届き、寝殿の中もすごく居心地がいい。」と、影近が言う。

 「おや?影近殿は中にお入りになったのですか?まぁ、時があればわたしも入っていたでしょうね」と、寿院が微かに笑う。「若様、先程影近殿が野犬の話しをした時、野犬が呪いなどではなく、病と言った時、そして姫様の、影近殿から現れる赤子のような言葉を聞いた時、全てに異常な反応を示しましたよね。それを思うと、その小さな寝殿の住人は子犬の時からずっと共に生きてきた飼い犬としか考えられないのです」

 「えぇぇぇ?もしかして、俺から出た言葉って、犬?えぇぇ?月子って、犬の言葉まで読んでしまうの?うそだろう。犬が喋るのかよ?」と、影近が驚いた。

 「だから呼び捨て…」箭重は黙った。

 「あれは犬の言葉ではない。若様の言葉だ。影近殿に若様は干渉してしまったのだ。若様はおそらくその犬を人と同じように想っているのだろう」と、寿院は言う。

 若君は観念したように、肩を落とし震わせた。押し殺した声が漏れて、時折叫び声となって、静まり返った寝殿に響き渡った。暫くすると、若君は落ち着いたのか、静かに語り始めた。

 「遠雷とおらいと、呼んでいました。初めて遠雷とおらいが弓場を訪れた時、遠くの山々に雷が落ちたからです。遠雷とおらいは、獣か、或いは山犬に襲われて傷だらけでした。静かに竹林から姿を現した時、わたしを見て、ほっとしたように…、いやわたしにはそう見えたのですが、わたしの顔を見て、倒れてしまいました。何故か分からない。どう自分に問うても、あの時のわたしの気持ちが分からない。たかが獣、畜生だ。なのに死んでほしくなかったのです。わたしの命と同じ小さなか弱き命だった。わたしは何故か夢中で傷の手当てをした。何日も傷口に薬草を塗り、静かに寝かせる。そんな日々が続いた。やがて、そんなわたしを遠目で眺めていた母上が看病に加わった。そして母上の侍女だった抄峯とねが積極的に遠雷とおらいの世話をするようになった。遠雷とおらいが元気な姿を見せた時、我ら三人は本当に心から喜んだものだった。なんと…幸せな日々だったことか。いつしかそこに家族が集い、あの父上でさえも遠雷のために、あなたが見たと言う、あの寝殿を建てたのです。父上とわたしはそれ程上手くいってませんでした。しかし真ん中に遠雷がいると、いつしか言葉を交わしていたのです。心が和むのです」

 「おぅ、なんとお幸せだったのでしょう。其方そなただけではなく、当主様も奥方もきっと幸福だったに違いありません」と、月子が微かに涙を溜めて呟いた。「そんな日々が何故…?」

 「はい。ある日突然、遠雷と同じように竹林から憎琤院ぞうじょういんがやって来たのです。あろうことか遠雷を指差し『その物は祀られなくなった山神様の成れの果てだ。そのように姿を変え、人里に降りてきておるのだ。その物はやがて姿を変え醜き邪神となろう。そしてお前の一族に千年の祟りを与えようぞ。』と、言う。わたしは、そんな憎琤院ぞうじょういんを見て、ちょっと頭がおかしくなった女子おなごだと思い、手で払ったのだが、一向に女子おなごは帰ろうとしない。よく見ると、巫女の格好をして、少し不気味だったので、もしかしてこの世のものではないのかと、背筋が凍る思いでした」

 「はて、若様は、そんな馬鹿げた話しを信じましたか?」と、寿院が尋ねた。

 「いえ、そんな荒唐無稽な話し、誰が信じましょう。ただわたしは、その巫女の格好をした憎琤院ぞうしょういんの、見かけの恐ろしさに圧倒されたのではないかと今になって思います。まるで魅入られたような?」と、若君は悔恨の思いを隠しきれずに言った。

 「最初から藤家を狙っていたような気がするなぁ」と、寿院が言う。

 「では、寿院殿は遠雷が邪神などではないとお思いになりますか?」と、若君はまるで救いを求めるようにすがった。

 「ええ、邪神であろうはずがない。では、影近殿が見たという、全身の毛が抜け落ち、顔は痩せこけ目ん玉が飛び出た、そんな恐ろしい姿に変わってしまわれたと思われたのですか、若様?」

 若君はうなづき、涙を流して項垂れてしまった。

 「もしそうなら、憎琤院ぞうじょういんという女子おなごは本当に恐ろしい女子だな。故意に病をうつしたということか?或いは、その犬が病だと知っていたのか?いずれにしろ、その子犬を藤家に送り込んだのは女子おなごに違いない」と、寿院が言う。「本当に恐ろしいことだ」寿院は呟き続けた。

 「そんなことができるのか?病を移すことなど…?子犬を見ただけで病だと判断するのも難しい…?そうか、だから、その女子おなごが子犬の病と何らかの形で関わっているのか?」影近が呟く。しかし何故か釈然としない。

 俺が別な所で見た犬と、遠雷とおらいを同一に思っているのだろうか?その意図が分からない。

 その隣の箭重の表情も怒りに震えている。箭重は単純だから疑問に思わないのだろう。

 よく、信蕉様は物事を複雑に考えた後に余計なものを捨て、凄く単純にしてしまうことがある。多分、このおっさんは、邪神や祟りなど、そんな曖昧なものははなっから念頭にないのだろう。だから凄く単純に考えると、同じような状況の犬が別の場所に存在している。むしろそんな偶然があることの方が珍しい。同一の犬だと考えるのはあり得る話しなのかもしれない。それにあの信蕉様が関係のないことを調べさせるなんてあり得ない。姿形が変わるほどに病が進んだ犬をあの屋敷に移動したのか?だとしたら、あの屋敷を幽霊屋敷にしてしまったのは、憎琤院ぞうじょういん…と、いうことになるのか?しかし、何故、犬を移動したのだろうか?影近はまだすっきりとしなかった。

 「それで、若様、その憎琤院ぞうじょういんとやらは何処におるのだ?わたしが斬ってやるよ」と、影近が若君に注意を払いながら言った。

 「おそらく、おそらくですが憎琤院ぞうじょういんは、母上の寝殿にいるのかもしれない。いつもいつも母上の寝殿に、まるで母上など存在していないように我が者顔して主人のように居座っていたのだ。なんと、なんと歯痒い。本当にわたしがこの手でぶった斬ってやりたい」と若君は、弱々しく言う。

 若様も俺が見たあの病の野犬と遠雷を同一の犬と認めているのか?或いはその疑問に気づいていないのか?

 「よし、分かったよ。若様の変わりに俺がぶった斬ってやりますよ」と、影近が言う。

 影近が立ち上がると、箭重もそれに準じ腰を上げた。しかしそれを月子が引き止めた。

 「箭重、影近殿ひとりで充分です」

 「何がですか?」

 「それより、紅殿が気になります。多分紅殿はあっち側の人間だと思います。ひとりとて逃せません」と、月子が言う。

 「さすが姫様」と、寿院。

 「なるほど」と、箭重が呟く。

 「月子様はそこまで分かっていたのですか?」と、若君が言う。

 「紅殿が初めて我を訪ねて来たときから、なんとなくではありますが、普通ではない、我には理解できない文字ばかりが現れていました。そして組み立てることができた言葉が犬を異常に恐れていた言葉、そして誰かを守らなければという言葉。しかし、何か説明のつかない違和感があるのです。箭重、間違いかも知れません」

 「大丈夫。月子を信じる…などと言う訳ないでしょう。何気に若様がばらしてますし。わたしは側妻そばめを抑えてきます」

 「だから、呼び捨てするな」と、月子は自分で呟く。

 そうだ。若様がばらしている。故意なのか?気づいていないのか?もしかして若様は、あのおっさんに踊らされているのか?と、影近は思った。

 二人は突風のように寝殿を出て行った。

 寝殿に静けさが広がる。月子と、寿院は、それでもまだ釈然としていない。

 若君は、何故今頃になって全てを打ち明けたのだろうか?という疑問が寿院と月子の頭を掠める。我らを信じる気になったのだろうか?我らの側に付き共に戦う覚悟ができたのか?と、寿院は思った。

 そして、ここに隆鷗がいてくれたらと思わずにはいられない。隆鷗にはこの屋敷内がどのように見えただろう。門が開かれた瞬間から、真に戦うべき敵の元へ真っ直ぐ向かうだろうか?おそらく迷うことなく真っ直ぐ向かうだろう。あっ、いや、あいつのことだから、途中迷うな。進むべき方向は分かっていても、迷うな。絶対迷う。

 寿院がそんなことを考えている時だった。突然登葱が障子を開け、夜一様という琵琶法師様がお見えです。と告げた。寿院も月子もすぐに反応し、驚いた顔をして、お互いを見た。

 おぉ、なんと…。二人はすごく懐かしい気持ちになった。寿院はすぐに立ち上がり、月子に言った。

 「わたしは夜一を迎えに出るよ。姫様は若様を宜しくお願いします」

 「なるべく早く戻ってきて下さい。我も早く夜一殿に会いたい」

 「それはどうかな?」と、寿院は微笑し、対の屋を出た。

 対の屋を出た寿院は、登葱を意味ありげに見ると、「あなたは、姫様の乳母か何かですか?朝廷の女房のごとき風格ですなぁ」

 「何ですか?突然」と、登葱が言う。

 「いえ、あなたが幼き頃から姫様とご一緒なら、勿論姫様の言葉を何が何でも信じていらっしゃいますよね。姫様は今、若様とふたりきりです。姫様のことを信じていらっしゃるなら、守って下さい」と、寿院は言うと、「夜一殿は何処にいるのですか?」と、にこにこしながら尋ねた。

 「何ですか?琵琶法師様は表門におります。わたくしが呼んでまいりますが…まぁ、姫様はわたくしにお任せ下さい。お迎えにどうぞ」

 「はい。お任せ致しますよ」

 寿院が慌てて対の屋を出ると、月子は急に不安になった。目の前にいる若君は、実はすごく苦手で、美しい顔をしながらもいつも冷たい眼を月子に向ける。そして何を考えているのかまったく読み取れない仮面を着けている。今日は顔色悪く、その様相が更に不気味さを増していた。

 「奇妙な能力ですね」と、若君が言った。冷たくて尖った声だった。「虚空に文字が浮かぶ。やがて言葉を成し、月子様の知りたいことを遠回しに教えてくれる。妄想とはいえ、それが当たるのなら立派な能力だ」

 「妄想です。其方そなたはご自分の心の内を隠してしまわれる仮面を身に着けている。それも立派な能力です」

 「能力ですって。ご冗談を。仮面などではありません。本能ですよ。生まれた時から自分を守らなければならなかった故の防衛本能です」

 「ええ、立派な能力ではございませんか。さて、若君は、憎琤院ぞうじょういんが斬られた方がいいのですか?それとも影近が負けた方がよいのですか?どちらですか?これまで話してもそれさえ読み取れなかった」

 「なんと…。わたしはしっかりと伝えたと思っていましたが?」

 「遠雷の話しは本当のことだと思います。でも若君の真意はひとつも分からないのです」

 「本来、人と言うものはそういうものではありませんか?本当の気持ちを話す人がどれほどいますか?殆どの人が本心を隠して日々を過ごしていると、わたしは思っております。しかし、月子様は寿院殿もあの従者たちも信じていらっしゃる」

 「そうですね。信じております」

 「あの者たちでさえ、いつも本当のことを言っているとは限らないのです。事実これまでに信じていた者の裏切りなんてざらにある。実際自分にはそういったことは起こらないと思っていても起こるのです。まして、何処から生まれたかもわからない文字が織りなす言葉に何の意味があるのですか?言葉ほど曖昧なものはありません。それを万能でもあるかのように得意げに話されている貴方がひどく気持ち悪いですよ。そのような曖昧な言葉を信じて、わたしを悪鬼でも見るような目で見られる貴方こそ悪鬼なのでは。視線を変えてみて下さい。わたしこそ、貴方が悪鬼に見える。憎むべき悪鬼なのですよ」

 あれっ?

 月子の視線がゆっくりと動いていた。ここで話している間も、ずっと、蛇のような気持ち悪い文字が若君の身体から抜け出て、壁をゆっくりと這い回っていたが、壁から剥がれ落ち、すうっと消えていった。それと入れ違いのように若君から放出される黒い霧を月子は見ていた。それは、すごく小さくて、細かくかすれた、炭で描いたような文字だった。月子は前も同じものを見ていた。若君に北側の廊下で出会でくわした時だった。この変化は何を意味するのだろうか?若君が喋るたびにその黒い霧が濃くなっていく。その為に、若君は、まるで真っ黒い闇に包まれたかのようだった。その姿こそ鬼に見える。背筋が凍るほどの恐怖を生み出す。

 「若君は我を恨んでおられたのか?」と、月子は恐る恐る尋ねた。

 若君は薄ら笑いを浮かべた。

 「毎日あのような目で睨まれていたというのに、何故わたしが恨まないと思われるのですか?」

 「すまないことをしたと思っている」

 「人の心を砕くことは意外と簡単でございますよ。貴方のように正しき心で確信を持って突き刺して来られたら、わたしのように弱き者は途端に砕かれてしまいます。日々貴方の視線との格闘でした」

 月子は言葉を失った。若君の、抑圧的な言葉に罪の真意が分からなくなってしまったのだ。現実の世界では何の確証のないまま、先に若君を悪鬼と決め付けてしまったのは、他でもない自分だった。若君から恨まれても仕方のないことをしたのだ。

 「ずっと黙って聞いていたが、阿袮を疑っていたことも、紫乃が骸を片付けていたということも、何の確証もない文字が織りなす言葉から印象付けられたにすぎない。なのに貴方は自信に満ちていた。わたしはただただ恐ろしくなりました。そんなふうにわたしも疑われ、あのような目でいつも睨まれていたのですから。どうです?わたしから見たら、あなたこそ悪鬼に相応しいと思いませんか?そのような恐ろしいことを何の疑いもなく話している貴方と、寿院殿こそ深い罪を犯しているのですよ。貴方も視線を変えて、よく考えてみて下さい」

 若君の言葉に月子は深い悲しみを感じた。自分にしか見えない虚空の文字の存在そのものの揺るぎは、月子にとっていつも実存と空虚の狭間にあった。確信を失うと文字はすぐに消滅してしまうのだ。若君が言うように意味を成さない文字には何の価値もない。消滅と同じだ。

 「さて、貴方の見ている光景は、果たしてそこに存在したのでしょうか?貴方自身が誰よりも疑った光景だと、先程言われたばかりなのに、寿院殿と話を進めていくうちに次第に自信を取り戻し、いつのまにか自信に満ちあふれ得意げに語る自分の姿を顧みることはなかったのですか?わたしは話しを聞いているうちに本当に気持ち悪くなって、言葉を発することさえできなくなりましたよ」と、若君は嘲笑した。

 虚空の文字を見るのはいつも猜疑心に呑まれるまでの、おそろしく幻想的な現存であるかのように曖昧だ。しかしそれを寿院が現存であると知らしめるのだ。何故か寿院は絶対的な存在だった。確信はいつも寿院が与えてくれた。

 物乞いの格好をして町を彷徨っていた時期は、確かに、文字を見て紡がれた言葉から真実を見出していた。しかし、紡がれた言葉から真実を見ていたかといえば、そうではなかった。月子の中に圧倒的な情報が蓄積されたことで、関連づけられた多くの言葉を探し照合し、ある意味統計的に裏付けを取り、より真実に近づけるような作業を無意識に行なっていた。だが、寿院に出会ったことで、その作業をする必要が無くなった。何故なら、その作業が寿院の中で行われていたからだ。だから寿院から放出される言葉で大方の真実に近づくことができたのだ。それが寿院のすごいところだった。寿院は無意識のうちに常にあらゆる情報を集めて、必要と不必要な情報を分類し、ひとつの事柄に関連した情報を櫃の中に纏めてしまい込むような作業を繰り返し繰り返し行っている。そんなふうにいつも真実を探究していた。

 しかし、寿院の存在もなく、屋敷に閉じこもってしまった月子では、月子の中の情報が少なく、確信を持てるような真実を洞察することができなくなっていた。だから迷いが生じ、猜疑心に呑み込まれてしまう。現実と妄想の狭間に苦しむばかりだった。

 嫌がる月子に物乞いの格好をさせ町に放り出した信蕉の考えは、都の、無数の言葉を月子の中に蓄積させ、真実を生み出すための材料集めみたいなものだった。それにより優れた能力者を生み出すことに成功したのだった。しかし信蕉はのちに後悔し、月子を屋敷に閉じ込めてしまった。様々な真実に近づく月子には危険が付き纏っていたからだ。

 今の月子は、真実を生み出すためのたくさんの情報を持たず、藤家の屋敷内の情報と、これまでに聞いた信蕉や陸、影近から得た情報と、自分の経験などを元に真実を見出そうとした。そこに寿院がやって来たのだ。無数の情報と共に。

 月子は、寿院から放出された言葉から、華菜のふみを読み取った。そこに藤家を支配していると思われる祓い屋の存在が記されていた。そして儀式を目撃して殺されてしまった侍女の存在を知り、そのふみを書いたと思われる華菜が間者であったことを知った。そして、華菜からのふみが途絶えたこと。華菜の兄が寿院の元にやって来たこと。

 寿院から得た情報は、いつも異質だった。他の者から得る言葉は、ひとつひとつ文字が現れて、言葉を形成していく過程を見ながら情報を得るが、寿院の場合、常に言葉を成したものが無数に寿院の周りをぐるぐる周っていたので、他の者から得る情報の比ではなかった。ぐるぐる周っている間にも次々と言葉が生まれていく。追いつくのがやっとだ。だから、月子の視界には寿院が情報のお化けのように見えた。

 その中で、興味深い言葉を見つけた。華菜の兄には華菜の霊が憑いていて、その霊は、他の霊を連れていた。それは多くの怨霊が一塊りになった悪霊。多くの怨霊が塊になった悪霊とはいったい何だろう?しかしそれ以上のことは分からなかった。悪霊を見た者の名が隆鷗。月子は、その名前に覚えがあった。だが思い出すことが出来なかった。黙読が止まる。隆鷗…。確かに聞いた名前だ。懐かしくもあるが、とても怖い。その瞬間、寿院の周りの無数の文字が消えた。いつも文字に隠れた寿院の顔が突然月子の視界に入った。寿院は優しい目をしていた。その目は月子を安心させた。

 しかし、再び文字が現れた。その文字は寿院の顔の前で恐ろしい言葉を紡いだ。命が欲しくば予知能力は騙りだと白状せよ。と。

 月子は、思い出した。寿院は、凄く危機感を抱いていた。姫様の命は狙われている。と、悉く訴えていた。

 「貴方は、未熟なのですね。寿院殿がいなければ自信が持てない。大きな顔をして、このわたしを悪鬼呼ばわりするなど、とても許しがたい」

 そう言うと、若君は懐から短刀を取り出し、月子の胸に突きつけ、ぐいっと押し付けた。

 「ぐっ」と、月子が唸る。

 若君の冷たい視線が突き刺さる。

 「なにゆえに?」

 「貴方が嫌いだからです。それ以上の理由が必要でしょうか?」

 「我を殺したいほどに」

 「その通り…」

 月子は力無く笑った。

 「もっと深く刺さねば、わたしは死にませぬよ」

 「そう、慌てずも良いでしょう。すぐに貴方の心臓を突き刺して、葬ってみせますよ。一気に刺しますとすぐに死んでしまわれるから楽しみが無くなってしまいます」と、若君は薄ら笑いを浮かべる。

 月子の目に涙が溢れる。

 ああ、自分の能力に責任を持つとはこういうことなのだろう。だから義父上は屋敷から出さなかったのだ。

 「命乞いでもなさるおつもりか?今更後悔しても遅いですぞ。驚いたでしょう。人は恐ろしく単純なのです。顔を見ると具合が悪くなるほど、嫌いな者はどうしたって許すことが出来ないのですよ」

 「そうですか?人の行いに正義など求めても無駄なことなのですね。好き嫌いで人の生死すら左右されてしまうなど夢夢思いませんでした。てっきり其方そなた憎琤院ぞうじょういんと申す者に洗脳され、洗脳から逃れようと足掻いているのだと、そう思っておりました」

 「洗脳などあり得ません。わたしは他人から洗脳などされやしません。もしわたしが憎琤院ぞうじょういんに従っているのならば、それは利害が同じだからでしょう」

 「利害が一致していると?憎琤院ぞうじょういんから資産を奪われ、使用人までも惨殺されたと仰いました。我には理解致しかねますが」

 「貴方は、まだ子供だ。理解など出来ないだろう。子供のくせに鬼を見る目でわたしを責め、物事の本質を見ようとしない稚拙な者が能力など語って他人を裁くと、こんなふうに恨まれると覚えておくといい」

 「影近は理解できますか?」

 そう言うと、月子は、若君を通り越して頭上を見上げた。その時、若君は咄嗟に悟った。

 「わたしを謀りましたか?」若君はゆっくり後ろを振り返って、月子の視線をなぞった。そこには真っ直ぐに刀を構える影近がいた。

 「いや気づいていたでしょう。だから若様の、短刀を持つ手が無意識に力を制限していたのですよ。でないと、若様は今頃俺が斬り殺していましたね」

 「えっ、いいえ。何の気配も感じなかったが。あなたがそこにいるなど微塵も思っていなかったよ。まぁ、でもその前に月子様死んでますけど」

 「人とはそういうものなのです。人は無意識に死を回避しようとするものなのです。身体が、俺の殺意をちゃんと感じとっていたのですよ。だから月子は死なない。」と、影近がそう言っている間、月子は別の方向へ視線を向けていた。影近は、月子が何を見ているのか薄々勘付いていた。

 「登葱様、何をしているんですか?」と、恐る恐る影近が尋ねると、登葱が殺意を込めて呟く。「月子様を守る為です」

 「だから何をしているんですか?」と、影近が更に問う。影近には、振り返らなくとも登葱が御簾の隙間から、あの冷淡な眼光を覗かせ、鈍く銀色に輝く吹き矢を咥えている光景が目に浮かぶ。

 「毒矢で仕留めようと思いまして…」と、登葱が言うと、若君がひーっと悲鳴を上げた。

 中身は毒矢かよ…、怖いなぁ。「あぁぁ、若様の感じた殺意はどうやら登葱様のものか?ふぅーん、実は、俺や箭重よりも怖いのは登葱様なのですよ。ふぅっ…」

 「何を仰いますか?影近殿が戻るなど、思っておりませんでした故、仕方なくです。それにしても、影近殿のお手柄ですね」と、吹き矢を音もなく着物の袖に仕舞い込みながら登葱が言う。

 影近が構える刃の冷たさを頬に感じながら、大粒の汗を額に浮かべる若君は、何処で間違ったのか考えた。

 「何故、戻って来たのですか?」と、若君が尋ねた。「わたしは素直に話したではありませんか?」

 「さぁ、俺は、あのおっさんに従っただけだ。驚いたよ。若様の話しにちょっと感動したのに…なんで月子を殺そうとしたのだ。」

 「あぁ、何も嘘をついておりません。月子様に語ったのが全てです」

 「いや!全て聞いてたわけではないからな」

 「憎琤院ぞうじょういんの所は行かなかったのですか?」と、不思議そうに月子が尋ねた。

 「月子様が五感の話しをした後、あのおっさん、面白がって、ずっと俺に、皆には聞こえないような声で囁いていたんだよ。何かなっておっさんを見ると、俺に満面の笑みを浮かべてくる。そして囁くのです。若様は憎琤院ぞうじょういんを恐れてはいないし、支配されてもいない、姫様を恨んでいる。姫様と二人きりにして化けの皮を剥がしますよ。と、囁くから、俺もつい満面の笑みを浮かべてしまった。いやぁ、もう恥ずかしいぜ。そんなことより、月子様、刺されたとこは大丈夫ですか?」と、心配そうに影近が言う。

 「ええ、大丈夫。こんなものかすり傷ですね。よほど若君は恐れていたようですね。全然力が入っていなかったですよ。それより寿院様はいつ若君の本性に気づいたのでしょうか?」

 「あのおっさん、面白いなぁ。そんなことよりこの鬼を如何いたしましょうか?」

 「拘束しておいて下さい。先程、若君の文字の現れ方が変わったのです。もしかしたら若君の本当の言葉を見ることができるかもしれない」と、月子が言う。

 「勝手にするといい。しかし、女子おなご一人で紅さんの元に行かせたのは間違いだったな」と、若君は意味深に薄ら笑いを浮かべた。

 なんと嫌な表情だろうか。と、影近は思った。先程、遠雷とおらいのことを悲しげに語っていた表情とはまったく別人だ。しかし、そんな若君を寿院が見抜いていたことの方がもっと驚きだった。

 「其方そなたが心配する必要はない。箭重は、其方そなたが思っているより、かなり強い。知ったふうな口を聞くではない」と、冷静な口調で月子が言った。

 おぉぉう、月子様が箭重を庇った。と、思いつつ、すでに準備をしていたとしか思えない、手際の良い登葱から縄を受け取り、若君をきつく縛りあげた。

 「よしっ、これで大丈夫だ。観念しろよな若様に化けた悪鬼め」

 「果たしてそうかな?」と、突然若君が言う。

 「何がだ」影近がくってかかる

 「そちらこそ紅さんをなめている。人斬りの紅だ。男百人集めておくべきでしたね」

 「男百人だと」

 「そうですよ。藤家の使用人を惨殺したのが殆ど紅だ。あれはおおよそ人の感情を持ち合わせていない。ふっ、今頃、あの女子おなごは切り刻まれている頃だろう」

 若君の言葉に動揺したのは月子だった。「影近殿、箭重は大丈夫でしょうか?一人で行かせなければ良かった」

 「ふん、大丈夫だ。あいつは、いらっとくるほど卑怯なやつだから」と、影近は苦笑した後、疾風のごとく月子の対の屋を去った。

 「心配なのか…」とぽつりと月子が呟く。

 一方箭重は、紅の罠に嵌って離れの屋敷の表門に首を吊るされていた。

 箭重がいくら強くとも、門に入ったとたん身体が空中に浮いたと思ったら足を拘束され逆さ吊りにされてしまったのだ。すぐに紅が屋敷から出てくると、無表情に箭重の首に別の縄をぐるぐると縛りあげ、冠木に吊るし、足を吊るした縄を切った。箭重は無情にも首を吊られ振子のようにぶらぶらと揺れた。抗うほどに首が締め付けられたので、身体に力を入れることが出来なくなった。

 箭重は、何が起こったのかまったく理解できないまま、首を圧迫されて呼吸困難となり、視界がぼやけ、やがて真っ暗な闇に堕ちていった。

 あぁ、死ぬのだ。これでやっと母のところへ行ける。首を締め付けられたあらゆる苦痛が次第に闇の向こう側に遠ざかっていく。この苦痛は生を貪るほどに膨れ上がっていくのだ。抗わず闇に堕ちれば楽になる。そこに母がいるに違いないのだ。堕ちてゆく。深い、もっと深い、更に深く堕ちてゆく。もう生も死も何も感じない、まるで闇に溶けていくようだった。

 ちょうどその頃だろうか、疾風の如く走った勢いで高く跳躍した影近が刀を振り上げて瞬時に縄を斬った。箭重の身体が宙に舞い上がった。すぐに受け止めた影近は、泣き叫び箭重の名前を呼んだ。何度も何度も名前を呼び続けたが、目覚めない箭重の頬を夢中で叩いていた。

 深い闇から一瞬だった。箭重の視界に光が広がり、止まっていた呼吸が堰を切ったように溢れ出た。真っ白い視界にぼんやり人の姿が映った。やがて影近だとわかった。と、同時に激しい痛みが襲う。影近の、頬を打つ手が止まると、鬱陶しいくらい抱きしめられた。何がなんだか分からない箭重は、ただひとつ強烈な頬の痛みだけは理解できた。

 「痛い」

 「良かったよ。間に合ったよ。お前が月子のところを出て割と時間が経っていたのに間に合ったよ」と、影近が泣き喚いた。

 「痛い」再び箭重は呟く。

 影近は、箭重を抱えて、雑木林の中に入った。太めの木を選び根元に箭重を降ろし休ませた。

 「お前はここで暫く休め。あいつはもう離れにはいない。気配がないから心配するな。身体が動けるようになったら、ゆっくりでいいから月子の所へ戻れ、あの寿院様の所だったら安心だ。俺はあいつをぶっ殺してやる。多分屋敷にいる。くそっ、あいつだけは絶対許さん」そう言うと、影近は再び疾風のごとく去って行った。

 雑木林の静けさの中の、木々のざわめく音を箭重は聞いていた。

 間に合ったよ…と叫ぶ影近の声が耳に残る。恐らく間に合わなかったのだ。月子の対の屋を出た後、箭重は離れの屋敷に急いだ。かなり集中していたと思う。周囲の景色など何も見えていなかった。ただ離れの屋敷の道筋を頭の中でなぞっていた。しかしその途中でふわっと真っ黒い霧のようなものが箭重の視界を覆った。周囲の風景を見ていなかった箭重は途端に身体の均衡を失い吹っ飛ぶ程に転んでしまったのだ。暫く箭重は動けなかった。足を捻ったのだろうか激痛が走った。だが一刻も早く紅を確保したい。こんな失敗をした自分が異常に腹立たしかった。

 箭重は、そうした空白の時を挟み、紅が罠を仕掛けた離れの門に到着したのだ。転ばずに到着していたら影近は間に合わなかった。

 箭重は子供の頃、山林の奥深くで山犬に襲われた時のことを思い出していた。一人で剣の修行をしていた時だ。いつの間にか山犬に囲まれていた。その気配に気づいて、足が千切れるほど必死に逃げたが、逃げきれないと思い、死を覚悟した。その時も影近が助けにきた。

 あの時、隆鷗が言った。箭重には黒い煤のようなものが憑いていて、いつも守っている。最初は悪霊と思っていたが、どうやらそうではないらしい。それは優しくいつも箭重を想っている。おそらく火事で亡くなった母上ではないかと。信蕉様に聞いた隆鷗が教えてくれた。まだ見守っていてくれているのだろうか?まったく確証はない。もう一度隆鷗に会って尋ねてみたかった。今も周囲の何処かに佇んでいるのだろうか。この仕事が終わったら、あの寿院様に素直に話してみよう。きっと隆鷗に会わせてくれるだろう。

 その頃寿院は、表門で夜一に久しぶりに再会していた。寿院が童と称した物乞いが去ってからというもの、不思議と夜一にも会えていなかった。手鞠が殺されたと聞いて以来心配していたのだが、町で会うこともなく、なんとなくではあるが夜一の存在の気配がなくなってしまったような虚しさを感じるばかりだった。だから夜一との再会は久しぶりだった。しかし、そう喜んでもいられない。突然、この藤家での再会だ。何かあるに違いない。偶然と呼ぶにはあまりにも出来過ぎている。

 表門を出た寿院はすぐに夜一の姿を確認すると、名前を呼んだ。

 「やぁ、夜一殿、随分と久しぶりではないか。なんでわたしがここにいるとわかったのだ?」

 夜一はあまり目が見えない。だから昔は手鞠が夜一の手助けをしていたのだが、殺されてしまった後はどうしていたのだろう?何もかも一人でこなさなければならなくなってしまったのだ。随分と不便に思っているだろう。いや、そんな事どうでもいいことだな。手鞠を失った悲しみに比べたら。

 「寿院様、お久しぶりです」

 「いろいろ募る話しはあるが、後にしよう。早速聞かせてくれ。何故…」

 「はい、用件を申し上げましょう」

 「申し訳ないが、歩きながらにいたしましょう。なるべく人がいない外を歩きますので、距離を離れず、しっかりついてきて下さい」

 「大丈夫です。手鞠がいなくなってからというものは何でも一人でやっていますので、見えなくとも勘が働くようになりました」と、夜一は笑った。

 「あぁ、その話しもしたいのですが、それも後でゆっくりいたしましょう」と、寿院は歩き始めた。

 「あぁ、何かに巻き込まれたのですね。実に寿院様らしい。早速ですが、先程寿院様のお連れ様にお会いしまして、言伝を頼まれたのです」と、夜一も寿院の後を追った。

 「おぅ、隆鷗ですね」

 「隆鷗様と仰るのですか?実に不思議な方ですね。寿院様のお連れ様と聞いて、納得いたしました。あの方には、見えない何かが見えていらっしゃいますよね」

 「さすがだな。その通りです。やつは死んだ者の姿が見えるのですよ」

 「おおぅ、そうでしたか。あぁ、言伝ですが、実は久しぶりに町で琵琶を弾いていましたら、偶然にもそこに手鞠を手にかけた女子おなごがわたしに言い掛かりをつけてきたのです。勿論わたしには、その者が手鞠を手にかけたかどうかなど、わかりません。しかし、隆鷗様が琵琶を聞くでもなく、じっとわたしの方を見つめているのです。どうやらわたしではなく、こちらを見ている。そしてなんだか奇妙な動きをしているのです。ぼんやりだから何のためにその動きをしているのか、勿論わかりませんが、しかし何となくですが、あの者は見えない何かを見ているのではないのか?わたしは見えない目をじっと凝らすと同時に気配に集中いたしました。すると、わたしの隣に人の気配を感じる。驚きました。もしかして、あの者にはこれがはっきり見えているのか?」

 夜一は、確かに目が見えない。見えないと言っても、周囲がぼんやりとしていて、人の姿は確認できる。しかしどちらの方向を見ているのかは非常に曖昧に違いないが、勘が異常に鋭く、空間認知能力に優れていて、見えないところを脳が補足するのだろう、目の前の空間を創造してしまうのだ。本当は見えているのではないかと錯覚してしまうくらい、いや、むしろ普通の人以上に見えているのではと思うくらい、その場の、あらゆるものを瞬時に理解する。だからこういった話しは信用できた。

 「あぁ…隆鷗は、手鞠に会ったのだろうか?もしかして、手鞠はずっと夜一の傍に寄り添っていたのかもな」

 「やはりそうですか?それはいつも感じていました。隆鷗様は、しばらくぼんやりと立ちすくんで、多分わたしの方を見たかと思へば、女子おなごを見てという行動を繰り返していたように思えます。何度か繰り返すと、殺気を帯び、どうやら女子おなごと対峙し始めたようです。その時です。隆鷗様の背後に不思議な女子おなごが現れたのです。真っ白い女子おなごでした。その者は何もかもお見通しとばかりに、こう申しました。琵琶法師様に言いがかりをつけているその女子おなご黒根戒こくねかいと申します。法師様の大切なものを手にかけた女子おなごでございます。わたくしは全てこの目で見ておりました。昔から黒根戒こくねかいのことを存じておりましたので、あの日の出来事を目撃することができたのです。と。そこからわたしも手鞠の仇とばかりに戦闘態勢に入りましたが、女子おなごは『わたしはそんな名前ではない』と叫びながら、逃げてしまいました。隆鷗様は逃げた女子おなごを追いかけたのです。このことを藤家にいる寿院様に伝えてくれと言って」

 「手鞠の仇が現れたのか?よしっ、隆鷗がそれを追いかけたのなら安心だ。夜一殿、隆鷗に任せておけば大丈夫です。隆鷗は必ず成果を持って帰ってきます」

 「おぅ、良かった。これで仇が取れますね。それにしても隆鷗様とは異質なお方。あの時の隆鷗様の不思議な行動は手鞠と何か関わりがあったのでしょうか?」と、夜一は感慨に耽る。

 「わたしが想像するに…多分、隆鷗は呼び止められたのだ。女子おなごを指差した手鞠に何かを訴えられたのだろう。あいつは霊から声や音を聞くことができないから、暫く戸惑っていたのだよ」

 「そんな単純ですかね?手鞠は隆鷗様のことはまったく存じておりませんでした。隆鷗様に霊を見る力がお有りだと手鞠は知らない筈です。ですから呼び止めやしないでしょう」

 「そうだな。しかし、隆鷗が手鞠を見つけることができただろうから、いずれにしても似たり寄ったりのことが起きていたんだよ」

 「そうですね。不思議とわたしにもそう思えます。まぁ、更に言うなら、どうも手鞠の霊は隆鷗様に憑いて行ったのではないかと思われます。いえ、よく分かりませんが、そんな気がして仕方ないのです」

 「それはあり得るな。多分手鞠が隆鷗に会っていたら、わたしより懐いていただろうからね。しかし、ちよっと不思議に思うことがあるにはあるのだが…まぁ、それは隆鷗に会った時に尋ねればいいかな」と、寿院は笑った。

 「そうですね。隆鷗様の殺気ですよね。わたしは隆鷗様とは面識がない。だからわたしのこととは関係のない殺気だということになりますな。確かにそれはご本人にしか知り得ないことでございますね」

 「相変わらず鋭いな」

 「長い付き合いですからね。寿院様は人の話しをいい加減に聞いているようで、一文一句逃さないのは存じております。わたしも隆鷗様から殺気を感じた時に違和感を覚えました。ですからあなたが疑問に思わないわけがないのです」

 夜一の言葉に寿院は力無く笑った。

 そうした会話を交わしているうちに月子の対の屋に到着した。

 寿院が対の屋に入ると、拘束された若君の姿が視界に飛び込んできた。あぁ、やっぱりか。と思ったが、それより月子に早く夜一を会わせたくて、一旦若君を無視した。

 「姫様、連れて参りましたよ」果て、夜一はすぐに気づくだろうか?寿院はそんなことを考えると、いささかわくわくした。

 夜一は見えない目で対の屋を一通り眺めた。

 「寿院様、わたしは隆鷗様の言伝を頼まれただけなので、ここで失礼します」と、夜一が踵を返したところで寿院が引き止めた。

 その時、夜一は対の屋の周りに鈍い光の玉が浮遊しているのを見て、心を躍らせた。

 「おおぅ…。なんと…」と、夜一が呟いた。

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