化けの皮

 若君の寝殿は北西に位置し、寿院が通された西側の寝殿とは正確には南西にあり、予知者が滞在しているところが西になるだろう?と、寿院は頭の中で間取り図のようなものを思い描いていた。表門が南東。南北から西側に社交場を置き外の空気を通している。反対に東には若君の寝殿があり、おそらく病に臥せっている奥方の寝殿も東側の何処かにあるのだろう。北東あたりか。

 寿院は、今歩いている廊下の位置を正確に間取り図の上に置き移動させた。

 三歩先に若君が歩いていた。寿院は若君との距離を三歩正確に保っている。時折若君は歩を止めた。おそらく寿院との距離を詰める為だったのだろう。寿院は気づいていたが、三歩の距離は緩めなかった。

 「寿院殿…」若君は寿院との会話を望んでいたのだった。いっこうに詰まらない距離に痺れを切らして遂に声を掛けた。「寿院殿は予知なるものを信じておられるのか?」

 「まったく。先程も申しましたようにわたしは現実的にその謎を解く事が得意なのですよ。」

 「先程とは…?あれは妄言ではなかったのですか?」

 「妄言かどうか、それは若様が受け取られる通りでございます。因みにわたしは妄言は申しません。」

 「と、言うと、呪術師と言うのも本当なのですか?」

 「ですからわたしは妄言は申しません。」

 「これはまた…」と、微かに若君は微笑んだ。「そうしましたら予知者なる者の本当の正体を見抜いて頂くことができるのですか?」

 「そのつもりでわざわざ若様を訪ねて会えるよう取り計らって頂いたのですよ。若様、正直に答えて頂きたくお願いいたします。東山様と姫様は付き合いが長いのですか?お互いに協力関係にあるのではないのですか?そのことだけは事前にお伺い致したく存じます。」

 「うーむ」若君は歩を止めて考え込んだ。「あぁ、なるほど。我当主が事前に予知を見てもらう者のことを姫様に流しているとお疑いなのですね。」と、若君は再び微笑んだ。

 「正直に申しますと、その通りでございます。」

 「それは残念だ。まったくそんなことはございませんね。寿院殿、そんな簡単なことではございませんぞ。まぁしかと腕前拝見させて頂きましょう。」

 「おぉ、当てが外れてしまいました。しかし東山様は如何に姫様の予知能力が優れていると知り得たのでしょう。姫様がここに来られる前からのお知り合いでしたか?」

 「いいえまったく。実はわたしもその経緯は存じておりません。ただ、父上は姫様が来られた当初から確信を持っていたことは間違いありません。姫様のお名前を聞かれた時からですかね。」

 「名前?名前ですか?血筋?知る人ぞ知る名高いお方だったのでしょうか?」

 「申し訳ございません。わたしはその問いを口にできる立場ではないのです。余計なことを問うことは父上が許さないのですよ。」

 「うーむ。これは難儀な…。」

 「はて、寿院殿お困りのようですが?姫様の予知の種明しはできるのでしょうか?」

 「勿論ですよ、若様。わたしはこれまでにそういった類いの輩を数知れず見て参りましたし、実際に対決しております。全て鼻を明かしておりますよ。」と、寿院は得意気に言った。

 「これは頼もしい。」

 「と言うことは若様も姫様の予知なるものを信じておられないわけですか?」

 「そうですね。そこまで関心ございませんでしたが、ただ…。」若君が口を噤んだ。

 「ただ…?」寿院は若君の言葉を促す。

 「そうですね。姫様の、わたしを見る眼にひどく心を傷めておりまして。姫様は、まるで悪鬼でも見るような恐ろしい眼で見られるので、次第にわたしも姫様を避けるようになりました。ところが、つい先日、そうした恐ろしい眼から憐れむような眼に変わったような気がしまして、こうしてわたしも一喜一憂させられ、ほとほと疲れてしまいまして。」

 「悪鬼をみるような眼…。うーむ。」

 「まぁ、それは私事。そんなことはどうでもいいことなのですが、実は少々まずいことが起きまして、災いが藤家にまで及ぼうとしております。」

 「私事…ですか?はて、私事をさし置いてまでご心配なさる災いとは如何なることでございましょうか?」

 「はい。実は、さるご高名なお方を姫様が予知なさったのですが、それが大層厄介でございまして。確かにそのご境涯はぴたりと当たったとは思いますが、それを良しと思わぬ方もいらっしゃいます。」

 「おぅ、つまり良くないことを言われたのですね。人は誰しも他者が思うよりも自分を高く評価しているものでございますからね。」

 「その通りでございます。相手が悪うございました。ご高名なお方は、選りに選って清盛公にその話しをされたのです。清盛公は聞いた話しでは占いの類いのものがひどく好みのようで近々姫様を召されるつもりだとか。」

 「ほぅ、それは…。しかし、そんなに当たる姫様であれば、更にその名声は高まる一方ではありませんか?災い転じて福となす。」

 「いえいえ、それにはある策略が潜んでおりまして、清盛公の御前で姫様の騙りを暴露するおつもりでして、それは勿論言い掛かりでございますが、完全なる証拠を用意していると。姫様を処刑させる策略です。兎に角姫様をひどく怨んでおります。」

 「何とそれはひどい逆恨みですな」

 「公家様故、我らにはどうすることもできず、いっそのこと姫様には予知者を返上させて、その公家様に姫様には予知能力はなかったとご説明して穏便に済ませようかと。」

 「なんと…。それでは穏便になど。そんな公家様でしたら騙りを働いたと姫様を手撃ちになさるのでは?」

 「いえ、流石にそれはできません。清盛公はできてもその公家様には出来ません。兎に角姫様の予知した言葉に恐れ慄いて怨んでいるのです。その言葉が妄言であると知れば、いくらかでも気が治まりましょう。それには姫様が認める必要があります。どうか寿院殿、姫様に騙りを認めさせて下さい。」

 「うーむ。その公家様は臆病者なのですか?予知の言葉にそれほど臆し、予知者までも殺めようとは?わたしのこれまでの経験では、予知の言葉に力を与えるのは、それを讃えるものの力が大きく関わってきます。それほどの力を持たせたのは、東山様ですぞ。」

 「今回のことで、今後は父上も予知者として姫様を人に会わせることはしないでしょう。」

 「うーむ。結局姫様は、東山様の駒にすぎないのではないのですか?何だか哀れな話しです。」

 「そのようなことはございません。しかし、寿院殿、臆病者とみくびってはなりませんぞ。臆病者こそ恐ろしいのです。何をしでかすか予測出来ません故、姫様の命は常に狙われていると思っていて間違いございません。ですから寿院殿が姫様の予知を論破することこそ姫様の救いになります。わたしとて、みすみす姫様を死なせたくはございません。」

 「そうなのですか?これはまた荷が重いなぁ。わたしはただ楽しみたかっただけなのに…」

 若君は言いたいことだけを言うと、すっかり黙り込んでしまい再び前を歩き始めた。

 寿院は、ただ予知者に会い揶揄からかうことを楽しみにしていただけなのに、今の若君の言葉ですっかり憂鬱になった。

 確かに臆病者こそ心に秘めたものが多く、健全な心にはない深い闇を抱え込んでしまう為、表立っての行動を避け、裏でこつこつと豆に策略を張り巡らす者もいる。そのような者に狙われるとなると常に心を張り詰めていなければすぐに足元をすくわれてしまう。

 しかし、寿院はそうした若君の言葉に違和感を覚えていた。

 弓場の時から考えると、突然態度を変え饒舌になった若君は、平家の家臣に随行する者に清盛公の名前を出して潜在的な威圧を与えているかに見える。更には姫様が怒らせた者は、さるご高名なお方、などと曖昧なことを言うが、それ以上の情報はない。それらの言葉はやけに軽々しく感じるが、ただ一つだけ、ずしんと重く感じる言葉があった。それは姫様の命が狙われている。と言う言葉だ。

 もし譜薛ふせつの妹のふみが正しければ、若君が祓い屋に心を支配されているとしても不思議ではない。若君の言葉の奥を覗き込むと、いろいろ不可解なことが浮き出る。さるご高名なお方と清盛公の、そうした会話をどうして知り得たか。一見、東山は庶家とはいえ資産家である。公家には顔が聞くので、噂話を耳にしたり…?或いはさるご高名なお方が直接東山に申し出たか?いや、予知者をかくまっている東山には話さないだろう。姫様の命を狙って策略をたてているのだから、東山に正直に話す馬鹿はいないし、東山の耳に入らないように慎重に進めているだろう。いろいろ考えても矛盾だらけだ。そしてつい先程姫様の名前を知った時、予知能力と姫様が結び付けられた。と言っていたが、若君はそれを問うことが出来ないと言った。それなのに若君がそうした話しを東山から聞けたのだろうか?こんな曖昧な情報より、寿院には藤家が祓い屋に支配されていると言ったふみの方がまだ確かだった。姫様の予知能力を無力化する目的は、多分清盛公と言う遠い存在ではなく、もっと身近なところにあるのではないかと、ふと寿院は思った。

 予知の綻びを突いて姫様の騙りを見抜くことなど、簡単だ。これまでに散々やってきたことだから。しかし、まだ姿を見せない祓い屋と姫様の立ち位置をしっかり見極めないと、間違えるような気がする。祓い屋と予知者は相いれぬ敵なのかも。だとしたら姫様をどう扱えば正解なのか?

 「しかし…、もしも、その話しが真実でなければ命を狙われている…?恐れ慄くような言葉…?まるで予知者が優秀であるような、そうした話しは何処から出たのたろう。若様は、予知者には会っていないと言った。本当に優秀なのか?」

 思わず呟いてしまった寿院を振り返った若君が不思議そうな顔をしたが、すぐに向き直って歩き始めた。

 やがて姫様が滞在している寝殿に着いた。姫様の寝殿は対の屋になっていて渡殿から、僅かだが様子を窺うことができた。庇の廊下に侍女だろうか年配の女が座っていた。こちらを見るなり若君と寿院を迎える為に、頭を下げた。

 若君の歩調は変わらず、年配の侍女に向かって歩を進めた。

 年配の女が余裕のある笑みを浮かべる。その笑みから女性ならではの貫禄が窺える。良く見ると、先程言葉を交わした女だった。改めて見ると、威圧感のある女だと寿院は思う。

 「まぁ、若様。この度はお忙しい中お越しいただき、有り難うございます。月子様はすでに中にいらっしゃいますので、どうぞお入り下さい。」

 ほんの一瞬だったが、寿院を見て、微かな笑みを浮かべた。まるで身内にでも向ける笑みのようだ。何かを訴えているのだろうか?それに比べて若君に対する態度は何処か冷たい。

 姫様の対の屋は珍しく障子で仕切られていた。それだけでも姫様の待遇がわかる。

 まず若君が対の屋の中に入る。寿院もそれに続いた。中は広々としていた。割と殺風景で掃除が行き届き板張りの反射に艶がある。

 寿院は、上座に座る姫様を見た。姫様は目を満丸に見開き寿院を見ていた、その様子にまず驚いた。

 「月子様、ご機嫌如何ですか?月子様がこちらにお越しになられて幾日も経ちましたが、今日まで訪ねることなく過ごしておりましたことを後悔し、本日は思い切って参じた次第でございます。」

 若君の言葉は姫様の耳には入っていないようだが、取り繕うように当たり障りない挨拶をした。

 「月子様、こちらにおられるのは華菜殿の従兄の寿院様です。」

 「何と申された?」姫様は更に驚いた様子で聞き返した。

 寿院は半歩ほど前に出て「寿院と申します、華菜の従兄でございます。本日は華菜の兄の譜薛に随行し東山様の御厚意で幾日か滞在させて頂くことと相成りました。どうぞ宜しくお願い申し上げます。」

 姫様は、満丸の目のまま瞳孔を忙しなく動かし寿院の周囲を見ていた。その様子はあまりにも不気味だった。こういった能力者を演じるものに有りがちな、大袈裟に訳のわからない不思議な行動で相手を威嚇する。そんなところだろうか。簡単に呑まれる寿院ではない。

 その時、部屋の隅に控えていた侍女が、座るようにと声を掛けた。よく見ると箭重だということに気がついた。

 「月子様、本日は噂に聞く予知能力を見せていただきたく参じました。実は、こちらの寿院様は遠方に薬草を取りに行かれた華菜殿が戻って来られる間、華菜殿が嫁げるかどうかご心配で、是非姫様に予知して頂きたいと申しまして連れて参りました。」と、若君が言った。

 「今、何と申された…?」

 姫様は相変わらず寿院を凝視している。そして、まだその瞳孔は忙しなく動いている。しかし、だんだん小刻みになって、先程感じた不気味さは無くなっていた。

 「華菜殿を見るのか?」と、言うと、姫様はゆっくりと立ち上がり、寿院の傍に歩み寄った。

 「本当に華菜殿のことを見るのか?」と、寿院の顔を見ながら、再び聞くと、ひょっこりその場に座り込んだ。目の前に姫様の顔が見える。寿院は僅かに身体をのけぞった。

 なんと…?こんなに近くに寄られると、まともに思考出来ないではないか?まだ子供の面影が残るこの姫様は、思考を混乱させるためにわざとこんな行動にでたのか?

 「すみません。近すぎます。」

 姫様には、寿院の言葉は聞こえていない。

 「其方そなたに聞くが、何処かで会ったことはないか?」

 何を言い出すのかと思えば、なんと突拍子もない。

 「いいえ。お会いしたことはございません。」

 「そうか。」そう言うと、姫様は本当に残念そうにしながら若干後ろへ下がった。

 「華菜殿のことはわからぬ。ただ嫁ぐことは出来ない。それは分かる」

 なんと…雑な予知者だ。と寿院は思う。

 「何故ですか?そう決めつけずとも良いではありませんか。」

 「嫁げない。其方そなたも分かっていることでしょう。この話しはもう終いだ。」

 「なんと雑な予知者だ。若様見ましたか?華菜のことをたった一言で終わらせましたよ。」

 若君は突然振られて驚いた顔をしたが、取り立てて何も言わなかった。

 「だったらもう一度聞く。其方そなたは本当に華菜殿のことを聞きたいのか?華菜殿が本当に薬草を取りに行っていると思っているのか?あゝ、いや何でもない。」

 寿院は黙り込んだ。華菜に起こったことをこの姫様は知っているのか?少し頭の中が混乱し始めた。

 突拍子のない姫様だ。相変わらず寿院を凝視して、せわしなく目ん玉を動かしている。寿院は確実に思考停止状態だ。

 こんな小娘に踊らされているのか?

 「姫様、やめてもらっていいですか。少し離れて頂きませんか?」

 「すまない。こうしなければ追いつかないのだよ。」と、姫様は目ん玉を動かしながら言う。

 「追いつかないとは…?」

 「其方そなたの言葉を読んでいる。」と、姫様は、そう言うと、何やら呟き始めた。

 寿院は耳をそばだてた。

 「さるご高名なお方を姫様が予知なさったのですが、それが大層厄介でございまして。確かにそのご境涯はぴたりと当たったとは思いますが、それを良しと思わぬ方もいらっしゃいます。相手が悪うございました。ご高名なお方は、選りに選って清盛公にその話しをされたのです。清盛公は聞いた話しでは占いの類いのものがひどく好みのようで近々姫様を召されるつもりだとか。うーむ。我はそのようなご高明なお方と会った覚えはないな。しかし其方そなたもこの話しは嘘だと思っているようだ。我も嘘だと思うな。なるほど、清盛公が我を召されると。そして我はその場ではかりごとの罪を着せられ処刑されるという謀略に陥れられるのだな。」

 えぇぇぇぇぇぇ…。

 「今何と…?」寿院は、思わずのけ反った。

 「其方そなたの言葉を読んでいる。其方そなたの言葉は多過ぎるのだよ。常人ではない。昔よりも更に多くなって、もう化け物だ。だから少し黙っていてくれ」

 「今何と…?」

 「だから黙っていてくれないか」

 「なんと…?」

 姫様は、もう答えなかった。黙ってただ寿院の左右上下その範囲に視線を移動しながら、微かに唇を動かして引き続き何かを呟き始めた。

 寿院も黙った。なんということか?こんな偶然があっていいのか?昔懐かしい空気が寿院の身体をかすめる。埃っぽい都の匂いが蘇り、あの楽しかった日々を思い出す。

 そして、姫様の顔をじっくり見つめた。

 「女子おなごだったのか?」と、小声で一言だけ呟いた。

 やがて、「分かったよ、寿院様。」と、一言言うと、姫様は身体ごと若君に向き、しっかりとその視線で若君の、感情の読めない瞳を捉えた。

 「若君、申し訳ございません。我には予知能力など一切ございません。何を思い違いをしたか、東山様が我に予知能力があると思い込んで、触れ回ってしまったのだ。我も退屈だった故、つい悪のりしてしまった。我は能力など持っておりませぬ。ただの妄想でございます。……どうぞ、そのさるご高明なお方にお伝え下さい。まぁ、真実であるのならばですが…」

 突然の言葉に若君は驚いた顔をして、何も言えずただ黙り込んでしまった。

 「いえ、実を申すと、我もその気になっておりまして、実際予知能力があると思い込んでおりました。しかし、どうしても辻褄が合わないことが出てきてからというもの、どうも我の能力が自分でも怪しく思われてきて、本当は、これは我の妄想なのではないかと疑わずにいられません。恐らく我は妄想を触れ回っていたに違いございません。たまたま因果の法則など学んでおりました故、的を射たことを、それらしく話して信じて頂けたのではないかと思われます。どうぞお許し下さい。」

 若君の額に大粒の汗が流れた。

 「いいえ、滅相もございません。だ…誰なのですか?さるご高明なお方とは?」

 ん?寿院は、若君の言葉に驚くしかなかった。すぐにそれを察したかのように咳払いをして、「あぁ、いえ、わたくしはただ、噂を聞いただけですよ。寿院殿。さるご高明なお方とは誰なのでしょうかね?」と、若君が苦笑する。

 「さるご高明なお方がどなたか存じませんが、我は今後一切他者とはお会い致しません。当主様にそうお伝え下さい。」

 そう言うと、姫様はゆっくりと立ち上がり、元の場所に戻り、またゆっくりと座った。

 その様子を見ていた寿院は、姫様が落ち着くのを待って口を開いた。

 「ところで姫様。先程おっしゃっていた辻褄が合わないこととはいったいどういったことでしょうか、この寿院、非常に気になります。」

 「そうか寿院様聞いてくれるのか?」

 「勿論でございます。辻褄が合わないこととか、この寿院、大好物でございます。」

 「大した事ではないぞ。でも若君に関わること故、若君にも聞いて欲しい。」

 「勿論でございます。」と、若君はばつの悪そうな顔をした。

 「実は、つい先日まで我は若君のことを悪鬼だと信じておりました。この藤家に起こる忌々しいこと全て若君の仕業だと思っておりました。」

 若君の身体が硬直した。

 「えっ?この藤家に起こる忌々しいこととは何ですか?この藤家に何が起こったのですか?」と、寿院が食いつく。

 姫様は、俄かに微笑んだ。「寿院様、いいのですか?我はまた妄想を垂れ流してしまいますよ。」

 「おぅ、なるほど。これから話すことは、全て姫様の妄想というわけですね。ではわたしも姫様の妄想に付き合わせて頂きましょう。」

 「はい。くれぐれも全て妄想です。」

 「承知しました。全て妄想なのですね。これはいささか楽しそうだ。」

 「我の妄想故、もし他者を傷つけたり迷惑をかけたりしたら大変申し訳なく思います。」

 「ここには若様と、後は姫様の関係者しかいないので、くれぐれも内密な話しとしてお聞きすればいいのではありませんか?若様如何でしょう?」

 寿院の提案に若君は、一瞬不安気な表情を見せたが、すぐに思い直したように渋々承諾した。

 「わたしが何故、姫様から悪鬼と思われていたか気になりますしね。」と、若君が言う。

 「はい。お話し致します。」そう言いながらも姫様は寿院の周囲に視線を向けて小刻みにを動かしている。

 「実は寿院様、この藤家では不思議なことが起こっているはずなのですが、そうとも言えない。つまり確証が一つもないのです。」

 「なるほど。その確証のない不思議なこととは、どんなことでしょう?」と、寿院が息を呑む。

 姫様こと月子は、まず、初めて藤家の屋敷に訪れた時のことを思い出していた。

 月子にとって、藤家の屋敷は暗鬱として、ひどく不気味だった。どんよりとした空気が立ち込めて、あらゆる陰影から人々の言葉が浮き出てきた。そして、月子に当てがわれた対の屋に入ると、呪文のような、蛇のような、読めない文字が四方八方の壁を這い回っていたのだ。月子はその光景に慣れるまでの間、ずっと恐怖に慄いた。月子は、この屋敷には悪鬼が潜んでいると直感した。

 「ご存知の通り、我は藤家の者ではございません。正直、藤家の当主、若君、そして病に臥せっていらっしゃって、顔を見せない奥方、奥方の代わりに藤家を取り締まっている側妻そばめがいるという事以外、何も知りませんでした。侍従、侍女のことや小間使、下男、下働きのことはよく分かりせん。しかし、寿院様も見てお分かりでしょう。ここはやたらと人が多いし、まるで貴族のお屋敷です。」

 「まったく、その通りでございますね。姫様はそんな藤家に客人として滞在されていらっしゃいますね。はて、何故ここに来られたのですか?噂によるとかくまわれていらっしゃると?」

 「まぁ、その話しは実のところ我にもあまり分からないこと故、話したとて内容の薄いものになってしまいましょう。ある日突然義父上が屋敷を空ける故、昔馴染みの知人のところで我を預かってもらうこととなったと命じられるがまま藤家に参りました。その時、義父上から侍女の阿袮をあてがわれました。我には乳母の登葱と、雑務を引き受けてくれる双子の童、それに影近、箭重という腕っぷしの強い者が傍におりますので、新しい侍女など不要でした。」

 寿院は、月子の話しを遮ることもなく、真剣に話しを聞いた。

 「寿院様に信じて頂けるかどうか、分かりませんが…」月子がそう切り出した時、寿院が口を挟んだ。

 「姫様は、人には見えない文字が見えるのでしょう?わたしには、その理屈はさっぱり分かりませんが、先程、若君と廊下で話していたこと全てを言い当てましたよね。普段でしたら、わたしは必ず疑います。必ずからくりがあるとね。しかし、今回はそんな野暮なことは申しません。」と、寿院が言うと、若君が釈然としないのか、不服そうに寿院に囁いた。

 「何を言っているのですか?先程、得意気に、必ず綻びを突き、騙りを見抜いてみせます。と、そう仰っていたではありませんか?」

 しかし、寿院は若君を完全に無視した。と、いうか、月子との会話に集中していたために聞いていなかったのだ。

 月子は、寿院から自分の能力を言い当てられたことを驚いたが、それはほんの僅かな時間だった。すぐに二人は昔のように話し始めた。

 「あゝ、寿院様なら分かって頂けると思っていました。良かった。」と月子が微笑む。「寿院様からも沢山の言葉を戴きました。でも、その前に、義父上から無理矢理押し付けられた阿袮のことを話したいのです。」

 「何か気になることでも?」と、寿院が尋ねる。

 「はい。実は、最初阿袮に会った時は、あまり喋ることもなく、ただ礼儀を知らないくらいしか思っておりませんでした。言葉遣いもあまり良くなかったのですが、然程気にしてはおりませんでした。しかし、藤家の屋敷に入って態度が急変したのです。」

 「急変とは?何か不自然な点があったのですか?」

 「まず、阿袮から、これまで現れなかった文字が出現するようになりました。文字が紡ぐ言葉により、阿袮はいささか他の娘と違う感じがしました。文字は汚い言葉や目を背けたくなるような言葉ばかり紡いでおりました。」

 月子は、そう話すと、一度深いため息をついた。

 「話しは変わりますが、我らが屋敷に入って、暫くして、若君を見かけました。若君はそれは美しい方でした。そして、三人の侍女を従えていました。それが抄峯殿、華菜殿、紫乃殿でした。」

 月子は、その時、若君の身体から蛇のような気持ち悪い文字がゆっくりと現れて、壁を這い回る様を見たのだ。虫のように這い回るあの気持ち悪い呪文のような文字が若君のものだと知った。あの文字は、屋敷に住む全てのものを、まるで縛り付けている呪いだった。

 「その頃からです。阿袮から文字が現れるようになったのは。同時に阿袮は、若君の侍女の御三方の陰口を言うようになりました。そして更に暫くして、その陰口が抄峯殿に絞られたのです。寿院様はご存知ですか?抄峯殿は今、ご当主様のお使いでこの屋敷にはおられないことを。抄峯殿がお使いに出られる前日に、阿袮の身体から文字が現れました。文字はひどく汚い言葉を紡いだのです。こうです。『あやつ、侮辱しよって。許せない。わたしが始末してやる。もう、我慢の限界だ。』そして次の日、抄峯殿がお使いに行って、暫く帰って来ないと、聞かされました。そして、その夜です。寝床に就いた時、我の頭上にふわりふわりと、何処からともなく文字が現れたのです。それは誰かの会話でした。『そうか。あの女子おなごが始末したのか。褒美を用意しなくてはな。』『そんなことより、骸はどうするつもりなのですか?』『そんな心配はいらない。紫乃が如何様にも始末致しましょう。』そんな内容でした。我は抄峯殿は阿袮に殺され、その骸を紫乃殿が始末したと思いました。」

 ふっふっ…と微かに若君が笑う。月子と寿院が同時に見ると、若君の笑い声が大きくなった。

 「あぁ、申し訳ない。しかし、どうしても我慢できない。可笑しくて。寿院殿、よく笑わずに聞いてられますね。あまりにも稚拙で。童と話しているみたいだ。」と、若君は、笑いを堪えて言った。

 「それは若様、全く正しい反応ですな。でも、若様、本当に腹から笑えましたか?そのうちその笑いも消え失せると思いますよ。」

 寿院が、そう言うと、月子は恥ずかしそうに俯いた。「だから妄想と言った…」

 もう少し阿袮の話しに付き合ってほしいと月子は頼んで、少し時をかけて阿袮のことを語った。

 阿袮は奇妙で、形容しがたいほどに浅はかだった。仕事は真面目にしないし、行儀も躾もまったくなっていなかった。

 そしてよく喋る。何を喋っているのか、月子は何一つ理解できなかった。だから阿袮の話しを聞くのが苦痛だった。何の脈絡のない単語が並んだだけのくそのような時が流れ、月子の苛立ちが増えていった。意味の分からない会話の次は他者の悪口が始まる。抄峯、華菜、紫乃、登葱と箭重。くるくると移り変わっていく。やがて月子の苛立ち以上に、怒りが頂点に達していた登葱が黙っていなかった。全く仕事をしない阿袮を罰として杖で二十回程打ち据えた。阿袮は打たれている間、表情一つ変えずずっと喋り続けていたことに登葱は恐怖すら覚えたと言った。

 「わたしが何故罰せられるのですか?誰に罰せられているのですか?まさか、あの姫様にですか?あれは何処の姫様なのでしょう。本当に姫様なのですか?自称姫様なのではないのですか?ねぇ、登葱様、私も父の実家に行けば姫様と言わているのですよ。私の方がもしかして姫様なのかもしれませんよ。こんな仕打ちを受ける謂れはないと思います。」

 そんな阿袮の言葉に逆上した登葱は最後に杖が折れる程の力を込めて打ち据えた。阿袮は気絶した。それから阿袮は、杖打ちの負傷を癒すために暫く休んで、大人しくしていた。月子や登葱には束の間の平和だった。

 しかし、阿袮の傷が癒えた頃、事件が起こった。

 箭重が妹のように可愛がっていた双子の麦と稲が半日程姿を消した。月子と登葱、箭重は二人を必死に探した。夜の帳が降りる頃、二人は雑木林の木に吊るされている姿で発見された。月子は、あまりにも無惨な姿に気が可笑しくなるほど叫びながら二人を下ろした。麦と稲は無事だったが、稲の方はひどく足を傷つけられて、歩けなくなっていた。

 何があったのか尋ねると、庭の掃除をしていたらいきなり阿袮がやって来て、「今、お喋りしていたよね。登葱様が仰るのよ。仕事もしないでお喋りしたら杖刑に処されるのよ。」そう言うと、阿袮から殴られて襟首を掴まれ、吊るされて、何度も杖で打たれた。特に稲は、お喋りはしたが、仕事はしていた。何もしない癖に下らない話しばかりしているお前と一緒にするな。と言ったがためにひどく打たれ、歩けなくなったのだ。

 そのことを思い出すと、月子は胸が詰まる。阿袮への嫌悪感が強くなる。

 月子は、傷ついた麦と稲を信蕉の元に帰した。稲の足が治ることを心から祈った。そして、阿袮を傍に置けないと信蕉に訴えたが、何故か信蕉は月子のその訴えを退けた。

 その頃から月子は、当主が招いた客人の未来を視るようになった。

 何故か当主から妙なことを言われたのだ。

 「姫様の名は月子と仰るのですか?もしかしたらわたしは姫様の母君のことを存じているかも知れません。」

 月子が興味を示さないはずがなかった。

 「もしわたしの考えが正しいのであれば姫様には不思議な力が宿っているはずです。ちょっと試してみては如何だろうか。もしそうであるのなら、わたしが姫様の母君のことをお教え致しましょう。」

 そんな言葉に騙されて月子は、当主が招いた者の未来を見るようになった。それが予知者と言われる所以だった。ところが、月子が客人を視ているところを覗き見た阿袮が月子のことを恐れるようになったのだ。

 それからだった。阿袮が様々な策を講じて、月子から逃れようとしたのは。そして、阿袮は月子の傍を離れた。それは月子や登葱にとっても好都合だったので、阿袮の姿が見えなくなっても詮索はしなかった。

 「何やら、聞いておりますと、阿袮という使用人の話しばかりですな。阿袮殿はそちらの使用人。我らには関わりのないことばかり…。」と、突然若君は口を挟んできた。

 「あぁ、なるほど。言われてみれば、そうですね。姫様が連れてきた使用人の話しですね。確かに藤家と関わりがないかも知れませんね。」と、寿院も同意した。

 「そうです。一見、阿袮は藤家と関わりはありません。ですから我も不思議に思っております。何故、阿袮から、抄峯殿がいなくなる前にあのような汚い言葉が現れたのか。普通に考えると、抄峯を亡き者にしたのは阿袮。そして抄峯殿の遺体を片付けたのが紫乃殿。阿袮は、今はどうしているのかさっぱり分かりませんが、あの時は、阿袮は紫乃殿と関わりがなかったはずなのです。紫乃殿の陰口を言っていたくらいですから、阿袮と紫乃殿の関係性が全く想像つかないのです。それから先程は申しておりませんが、現れた言葉には続きがあります。骸は竹がすごく密集した竹藪に捨てたと…。そんな会話も現れました。紫乃殿が重い遺体を運ぶのは考え難いのもあります。ここが釈然としないところなのです。」

 「まったく何も悩む話しではないですよね。月子様が仰る通り、全て妄想の域を出ていないではないですか。阿袮殿の話しは分かりませんが、紫乃が骸を片付けるなどとんでもない話しですよ。わたしに怒りを向けられてもいた仕方ない話しをしていらっしゃるのですよ。」と、若君は、怒りを抑えて、冷静に言った。

 「仰る通りです。しかも最も肝心なのは抄峯殿が死んだと言う確証が一つもないことです。抄峯殿は未だに戻って来ない。」と、月子が謙虚して言う。

 ぷっ。と、若君が吹き出した。「なんと…。なんと稚拙な…妄想ですね。」

 「姫様、妄想に確証が必要なのですか?もっと聞かせていただけますか?」と、寿院が言う。

 「そうですね。これは我の妄想…。」

 姫様は黙り込んだ。

 昔はあんなにも自信に満ちていたのに、すっかり臆病になってしまったな。と寿院は思う。

 「寿院殿、それはすごく乱暴な話しですよ。妄想とて、当事者である我らには屈辱に堪えない内容です。月子様、貴方は、わたしから斬られても仕方ないことを仰っているのですよ。」

 「そう言えば、そうかも知れませんね。しかし、もし、それが真実だとしたら。」と、寿院が言うと、勢いよく箭重が立ち上がり、懐に手を入れ身構えた。

 「おぅ、姫様に何かあればあちらの、滅相強い侍女殿が黙ってなさそうですなぁ。であれば、わたくしめがその竹藪で骸を探してみましょう。何もなければ、姫様を斬るといい。」と、寿院が言う。

 「なんと馬鹿なことを。寿院殿がそんな馬鹿だと思いませんでしたよ。まったく馬鹿馬鹿しい。ただ面白がっているだけでしょう。ここにいる価値もない。」と、若君が怒りを堪えて言った。

 「あぁ、若様、そうですね。ただの妄想故、聞く価値もないと思うのなら、この場を去られても構いませんよ。しかし、わたしはどうにも興味がありすぎて途中でやめる気にはならないのですよ。」

 その時、懐に手を入れ身構えたままの箭重が怒りに任せて言う。「ちょっとお待ち下さい。我らが姫を愚弄するなら黙ってられませんね。月子様を斬るだと。だったら、若様、竹藪の骸は我らがお探し致しましょう。もし骸が出てきたら、若様、いったいどうしてくれますか?覚悟は出来ているんでしょうね。月子様、わたくしめが必ず探して参りましょう。月子様はどうぞ引き続き妄想を垂れ流し下さい。」箭重は立ち上がり威勢よく対の屋を出て行った。

 月子は心の中で「お前が妄想とか言うな」と思ったが、決して口には出さない。

 「ほぅ、これは益々面白くなりましたね。まあ、姫様の妄想故、骸など出てきやしないでしょうが、報告を待ちましょう。」と、暢気に寿院が言う。

 「まったく、ここの連中ときたら何を考えているのだ。無いものを探しに行くなどと正気の沙汰とは思えませんね。」寿院の言葉に若君が苛立つ。

 「あぁ、我は愚かでございました。どうしても阿袮に対する嫌悪感が強くて、妄想ではなく唯の主観にすぎなかったら、どうしよう。」と、月子は突然黙り込んだ。

 「姫様、滅多な事を言ってはいけない。誰しも妄想だと思っていたら、ああして広い竹林に探しに行ったりしませんよ。箭重殿は昔から共に過ごした使用人なのでしょう?」と、寿院が言った。

 「よく分かりますね。使用人などと、形ばかり。本当は幼き頃から共に育った姉妹のようなものなのです。」

 「そうでしょう。あれは無駄だと分かって探しに行く目ではなかった。姫様の言葉は絶対だと信じた目をしておりました。」

 寿院の言葉に月子は驚いた。

 「まさか?あれはいつも我を馬鹿にして、そしていつも責めるような目をして睨むのだぞ。」と、月子が反論しても寿院は黙って微笑んでいた。

 そんな言葉を聞きながら、若君は「ふんっ」と、侮蔑の表情を浮かべ、座り直して胡座をかいた。

 「寿院様、もう一つ。辻褄が合わないというわけではないのですが、我には釈然としないことがまだあります。」と、月子が言った。

 「ほぅ、何でしょうか?」寿院の表情が変わった。「是非。姫様、一緒に考えましょう。」

 「阿袮の話しの続きなのですが、そんな阿袮をどうして義父上は侍女として付き添わせたのか、まったく理解できないのです。麦と稲のことで、もう我慢できず、義父上に阿袮を傍に置けないと強く申し出たのですが、まったく聞き入れていただけませんでした。そもそも、わざわざ知らない娘を侍女にする必要もありません。」

 義父上。つまり信蕉様か。確かにそんな無意味なことをする方ではないな。と、いうことはそれは意味があることなのだ。と、寿院は思う。

 「しかし、先程、寿院様から湧き出る膨大な言葉の中にその答えがあったような気がします。」

 月子は、自身の能力を、虚空に文字が現れる。と、いつもそんなふうに表現していた。それは一つ一つ文字が現れ、やがて文字が言葉を紡ぐ過程を経るからだった。若君のように訳の分からない例外もあるが、ほとんどがそういった状態だった。しかし、寿院に限ってはその過程がなく、紡がれた言葉が次々と生まれ、寿院の周辺をぐるぐる廻っていた。昔は寿院の周辺が言葉で埋め尽くされ、言葉の竜巻が大きくなったり、小さくなったりしていた。言葉が生まれては消えるが繰り返されているのだろう。

 だから、月子は、寿院の、ぐるぐる廻る膨大な言葉を読み尽くすことなどできない。集中力を高めて、出来るだけ多くの言葉を読む…と、いうより視て目に焼き付けるのだ。昔は、奇妙なことに、読めなかった言葉を寿院の口から引き出そうとしても、それが出来なかった。寿院さえ分かっていなかったのだ。きっとその言葉は寿院の意識下では埋もれてしまっているのだろう。と、月子は勝手に想像した。

 この寿院という男、自身の中に膨大な言葉を隠し持っていることを何も分かっていないのだ。なのに、肝心な時に恐ろしく的確に、その言葉を引き出してしまう。まったく自分の凄さを何も分かっていないのだ。

 「わたしの言葉の中にですか?どんな言葉でしたか?」

 「寿院様から溢れる言葉は、もうそれはそれは膨大で、しかも常に結構な速さで動いていますので、読み解くことなど、出来ないのですよ。考える暇はないのです。瞬時に拾い集めなければ、その言葉はすぐに何処かへ消えてしまいます。」

 「人を妖怪みたいに言うのはやめてもらっていいですか。」

 「実際妖怪です。」と、月子が小声で呟く。

 「阿袮という娘は、この藤家に連れてくる必要があったのですね。」

 「おそらく、それを寿院様が解き明かしてくれるのではないかと思っています。」

 月子は、唐菓子売りに扮していた陸に阿袮の処遇を託した。信蕉に阿袮の悪事を伝えて、阿袮を連れ帰って欲しいと願ったが、数日後信蕉が聞き入れなかったことを陸から聞かされた。

 その時、陸は、以前に信蕉から阿袮のことを調べるように命じられた話しを聞かされた。

 月子は、その時の話しを寿院に聞かせた。

 「おそらく若君も我にも、何故、阿袮がこの藤家に関係があるのか、分からないと思います。でも寿院様にはそれが分かるのではないかと。」月子が言う。

 「なんと…。また長い話しを聞かされるのですか?阿袮とかいう使用人が我が藤家と関わりがあるはずなかろうに。わたしはそんなに暇ではないのですよ。」と、若君が冷たい口調で言う。

 「いえ、若様には何が何でもここにいてもらいますよ。箭重殿から報告を聞くまではわたしは貴方を逃しはしない。」寿院の口調も鋭くきつい。

 若君は、諦めたようにため息をつく。

 「姫様、もしよろしければ、全てこの寿院に話して下さい。」

 「勿論ですとも。ありがとうございます。まず、我の義父上のことです。実は怪しい男が義父上に近づいてきたそうなのです。まったく見た事もない男がやけに親しそうにしながら、幾日も義父上の元に通ってくるのです。義父上も怪しいと思いながら調子を合わせていたそうなのですが、次第に義父上は、そんな男に興味を持ちまして…」

 おう、信蕉様に近づくなど命知らずだな。と、寿院は思う。

 「自分に近づくこの男は何者だ。と。やがて、義父上は、男のおおよその目的を知ることとなりました。義父上は縁戚でもあり、親交の深い高階家の庭園の相談を受けておりました。宋へ行ったこともある義父上は、大変知識が豊富故、庭の造形のことや植物のこともよく知っておりますし、庭園を造り変えたいという高階家に頻繁に出入りしておりました。しかし、男は何の知識もない。考えも浅い。なのに庭の造形も植物の知識も多少持っていると嘘をつき、高階家へ連れて行けと言うのです。義父上は思いました。男の目的は、警備の厳しい高階家の中へ入ることではないかと。勿論、理由は分かりません。」

 寿院は、この男の話しから、どんなふうに阿袮という娘の話しになるのだろう。と、わくわくし始めた。

 「すぐに身辺調査に長けている我らの家の者に、男のことを調べてくるように命じました。今は、西光様の事もある故、高階家への出入りの者は慎重に選ばなければならないのですが、義父上は興味の方が先に立ち、男の同行を許したのです。もし西光様の事案と関わりがあるのなら、平家や或いは大衆の企てを炙り出せるのではないかなどと考えたようです。我らの家の者は優秀なので、わりとすぐに男のことを調べて来ました。ここからはその者から聞いたのですが、男は地方の豪族の資産家の三男坊で、長男と次男は非常に優秀でお家を盛り立てていたのですが、この三男坊は出来が悪い。だから大切に育てられた長男、次男と違い下男に育てられ、扱いは下男並みだったそうです。やがて大人になって、分家として家を出されたのですが、すぐに没落してしまったそうです。まあ、これは一般的に知れ渡っている話し。しかし、調べたその者は、そうした話しなど興味はなかったのです。その裏の話しが重要なのです。じつはこの三男坊、生まれながらに他の者とはまったく違った異質な者だったのです。おおよそ人の感情を持たず、他者をまったく理解できないうつけ者。そのために当主から何度も折檻を受けることになるのですが、縛られ、打たれながらもいつもこの男はただへらへら笑い、ずっと他愛のない話しを続けている。何度折檻してもへらへら笑う。喋る。ヘラヘラ笑う。喋る、が続く。しかし痛みがないわけではない。時間が経つと嘔吐し、気絶する。父親も母親も兄弟も皆、この三男坊を不気味がったそうです。やがて当主は、三男坊には獣が憑いていると信じて疑わないようになりました。そのために、離れに牢屋を作り、そこへ三男坊を閉じ込めた。そしてたくさんの祓い屋を雇い、この三男坊の憑物を堕とそうと試みたのですが、どれも失敗に終わってしまったのです。まぁ、考えたらある意味長男や次男よりも親から構われている。当主は諦めずに更に祓い屋を探した。そこへ一人の祓い屋がやって来たのです。その祓い屋はこれまでとは違ってすぐに首にはならなかった。だからと言って三男坊の憑物が堕ちることはありませんでした。だが首にはならない。不思議な話しです。初めはこの三男坊の噂が周囲の村々に流布していたが、やがてそんな噂も無くなってしまった頃、まるで用済みのように三男坊は家を出され、噂も完全に廃れてしまった。」

 月子は、少し休憩でもするようにため息をついて暫く黙ったが、再び話しを続けた。

 「この者も我の兄のような友なのですが…。何でもかんでもすぐに興味を持つのです。もっともっと知りたくて知りたくて仕方ないのです。だから、以前豪族に仕えていた下働きの男を探し出した。驚くことに、その男は豪族の屋敷の目の前にいた。そして、その下働きの男からじつに興味深い話しを聞いたのです。三男坊の家は資産家で広い領地を持ち栄華を極めていたが、当主が病で亡くなったのをきっかけに、病で長男が死に、次男が事故で死んでいった。没落の道を辿る一方だったのですが、いつの間にか、亡くなった当主の腹違いの弟を名乗る者が当主を継ぎ、その頃から再び盛り返していった。しかしこの下働きが言うには、当主が子供の頃から仕えていたが、腹違いの弟などいないはず。弟と名乗る者は、真っ赤な偽物。弟が当主に就くと、家の者は皆殺され侍従や侍女、小間使や下働きまで全て入れ替えられたそうです。下働きの男は虫の知らせがあったのか、当主が子供の頃から仕えていた日々の蓄積が味方したのか、なんか様子がおかしいと思い、いち早く逃げ出したのです。弟の後ろにはいつも祓い屋がいて、後ろで糸を引いているような違和感しかなかったからです。そして家を出た三男坊に仕えていた下男はまったく見たこともない男だった。と、そう言ったそうです。下働きの男は、屋敷のすぐ傍で物乞いをしていた。そしていつも屋敷を見据え、まるで監視でもしているようだった。男がこう言うのです。どうです、見て下さい。あの屋敷は外から見たら、何の変わりもない。惨たらしい惨殺や、領地も資産も全て奪われた屋敷には見えないでしょう。わたしがどんなに声を上げても誰も信じてくれないのです。と…」そう言うと、月子は再び大きく息を吸い込み、呼吸を整えた。

 その時、対の屋に戻ってきた箭重が登葱に引き留められていた。

 「月子様が何故だか信蕉様の話しを始めたようです。」

 「えぇ?若様がいるのに?何故…?」 

 「さぁ、分かりません。まぁ、話してしまったのら仕方ありません。しかし、何としても若様をこの対の屋から出してはなりません。いざとなったらお斬りなさい。」

 「えぇぇぇ…登葱様は怖い事言わないで下さい。簡単に若様を斬れなどと。しかし何でまた、月子様はそんな、こちらの手の内を話しているのですか?」

 「月子様は、任務の内容など、何も知りませんので、悪く思わないで下さい。お前は骸の捜索はどうしたのですか?」

 「陸が来ていますので、任せた方が早い。鼻が効くから。それにあの若様、月子様に何をするか分からないから、わたしが外すわけにはまいりますまい。」

 「そうですね。それにしても影近は何をしているのですか?影近が傍に居てくれたら安心なのに。」

 「影近は、信蕉様に何か頼まれておりました。陸がふみを持って参りましたので。若様一人、わたし一人で充分です。」

 「だから陸は残っていたのですね。しかし、いつも忙しそうにしているのに珍しいですね。しかし、あの寿院という男、あれは只者ではないですね。若様より、寿院という男の方が心配です。」

 「あの方は大丈夫です。多分。」

 その時、西側の竹林から忙しなく影近が姿を現した。登葱と、箭重は交互にこれまでの経緯を影近に話した。

 「えぇぇぇ、月子様は何を考えているのだ。そんな話しをしたら我らの任務があの男に暴露ばれるのではないのか?まったく。」と、影近は驚いた。「まぁ、でも仕様がないのか。月子様は何にも知らないのだから。」

 「いや、月子も馬鹿ではないでしょう。話していいことと悪いことの区別くらいつくでしょう。」と、箭重が言う。

 「呼び捨て!てめぇ…!」影近が怒る。

 「いいえ、割と素直に全て話してますね。」と、登葱が言う。

 「えぇぇぇっ」

 「えぇぇぇぇぇっっ」と、二人同時に驚く。

 「でも、影近が戻ってきてくれたのなら、安心です。いざとなったら、若様とあの寿院と言う男もやってしまいなさい。」と、冷酷に登葱が言う。

 「いや、寿院様は駄目だ。斬ったら駄目だ。」と、箭重がわりと必死になっている。

 「あらっ、またどうして?」と、登葱が不思議そうに言う。

 「寿院様は少なくとも敵ではない。」と、箭重が慌てる。

 「いや、登葱様落ち着いて下さいよ。若様だって、そう簡単に斬れやしませんよ。藤家の者に簡単に手は出せません。いざと言う時とは月子様に危害が及ぶ時だけです。まったく登葱様は本当に怖いお方だな。」

 「怖いとは…?これも月子様や皆様を守るためですよ。」

 「しかしなぁ、まだその時ではないから。まだ何の手掛かりも掴んでいないし、藤家に巣食っている奴の正体が分からないから、下手に動けない。俺が思うに相当危ない奴だ。油断ならない。」

 「でも、影近が言う『時』とは、いったいいつなのだ?」と、箭重が言う。

 「敵の正体が分かってからだ。しかし恐ろしい敵だな。俺らがここに潜入して、いったい何日経った?敵がまるで見えないなんて…。」

 「だから…、月子様がここに来ることになったのでしょう。月子様がこんなところに来るなんて、有り得ないことですよ。」と、登葱が言う。

 「でも、何の役にもたたないし」と、小声で箭重が呟いた。

 「なんてことを言うの。あの能力は本当に凄かったのですから。ただあまりにも凄すぎて、月子様を危険に晒してしまうと考えた信蕉様が月子様に能力のことを忘れさせたのです。しかし此度は月子様の能力を借りなければならないほどに重要なのでしょう。」

 「あぁ最初は、我らには明かしてくれなかったけど、謎のふみから始まりましたね。内容も明かして頂けなかったけれど、これまでのんびり暮らしていた信蕉様が人が変わったようになってしまわれた。いったいこの家に巣喰う悪魔は何処にいるのだろうか?まったく姿を見せないなんて…。」

 影近の言葉で登葱も箭重も黙り込んだ。無力な自分たちの、お互いの姿をぼんやり眺めながら、苛立ちと後悔の、重い空気に押し潰れそうになった。

 一方月子は深呼吸をした後、更に話しを続けた。

 「我が友はある予測をたてました。家を出た三男坊の下男は、まったく見たことのない男だったと言った下働きの男の言葉に、下男は家を乗っ取った弟の一味ではないかと。何故なら、三男坊は没落どころか上洛している。それは愚か本家の計らいで家柄の良い嫁まで娶っております。しかし、三男坊の性格は一向に変わっておりません。いつもへらへらしていますし、長々と脈略のない話しをします。それに大ボラ吹きと、現実と妄想の区別のつけられない状態が加わり、やがて半年もしないうちに、地方から都に移って何も分からない奥方は心を壊してしまったのです。暫くして阿袮を産み、心労が積み重なってしまい、遂には現実のことが分からなくなってしまいました。阿袮が歩けるようになった頃、奥方はこれまで家に籠っていたのに、外に出るようになりました。そして泣き喚いたり、叫んだりを繰り返しているうちに、獣が憑いていると噂されるようになった。そこへ祓い屋が三男坊の家の門をたたいたのです。祓い屋はずっと、今日まで阿袮の家に住んでいます。ですから阿袮は実質その祓い屋に育てられているのです。」

 「姫様のその友は、よくそこまで調べましたね。その方と直接話したいものです。」と、寿院が感心した。おそらくそれは顔の広い信蕉様の助けがあったからに違いない。と寿院は思った。「なるほど、阿袮という娘には、そうした曰くがあったのですか…?」と、寿院は考え込んだ。「姫様、よく分かりました。ところで姫様はわたしの言葉を読んでいらっしゃいましたよね。わたしの言葉は理解していただきました?」

 「はい。おおよそ。寿院様の言葉の中に何度も『祓い屋』と、言う文字が出て参りました。我らは、そんな存在をまったく知らずに驚きました。しかし、それは阿袮ではない。阿袮がここに来る、もっと以前からここにいたと思います。」

 「それは阿袮という女子おなごではないのですね。以前の姫様はわたしが発する言葉をお読みになって、全てを理解されていた。わたし自身が気づかないことでも姫様が教えてくれたのです。だからこそ色々な事件を解決できたのですよ。」

 寿院の言葉に、月子は驚いた顔をしたかと思えば、暫く寿院を見つめた。

 「おおぅ、寿院様、やっと気づいて下さったのですね。そうです我です。良かった。良かった。このままずっと気づかれなかったら、寿院様と我の関係は終わってしまうのかと心配しておりました。」

 「そんなことはありませんよ。もうずっと前から気づいておりましたよ。ただ、今ようやく気づいたのですが、童の名前を知らなかったことに今さらながら驚いております。」

 そんな二人の会話に若君は静かに聞き耳を立てていたが、何も言おうとはしなかった。ただ、見守っていた。何を見守っているのか、若君の、いつもの無表情の中に隠していた。

 その時、障子の方から男の声がした。

 「影近です。月子様、入りますよ。」

 男の声に月子が微笑む。「寿院様、我の、もう一人の友です。剣術の達人です。これまでに一度も負けたところを見たことがないのですよ。…入って。」

 月子の言葉で男が勢いよく入って来た。剣術の達人の割にはすらっと背が高く、色白の男の子だった。

 「信蕉様から言われていた屋敷を調べて参りました。あれっ、若様、失礼いたしました。月子様の従者、影近がご挨拶申し上げます。あれっ、若様、顔色が少しお悪いようですが、お加減でも悪いのですか?」

 若君は、はっとした顔をしたが、何も反応ができずにお辞儀をしただけだった。

 「お加減が悪いのですか?」と、月子が再度聞き返したが、若君は「大丈夫です。」と、一言だけ呟く。

 まもなくして箭重も寝殿に入ってきた。箭重の登場に若君がびくっとした。

 「早いお帰りですね。骸はどうしたのですか?」と、月子が尋ねると、若君は、口を押さえながら俯いた。本当に具合が悪そうだった。一瞬、月子は若君を見たが、何も言わなかったので、話しを続けた。

 「どうせ誰かに頼んだのでしょう。」

 「はい。わたしなんかよりも、もっと有能な者に頼みました故、おそらくすぐに見つけ出すと存じます。」

 「なるほど。今こちらへ来ているのですか?」

 「はい、影近へふみを届けた後ずっと待機しておりました故、すぐに頼むことが出来ました。」

 「寿院様、先程、阿袮の家を調べた我の優秀な友です。竹藪の骸はどうやらその者が探しております故、案外早く見つかるかもしれません。」

 「おぉぅ、それは楽しみでございますなぁ。わたしにも優れた友がおります。なんと申しましょうか。勘が良いのか?鼻が効くのか?調べごとに関しては右に出る者はおりません。そう確信しております。姫様の友と組んだら、どんな難しい事案も一瞬で解決できましょうぞ。」

 「そうですか。我もその者にお会いしてお話ししたいものです。さぞ、おもしろげな言葉に溢れているのでしょうね。」

 「あぁ、姫様の友もそんな言葉に溢れているのですか?」

 月子は考え込んだ。

 「それが寿院様、その者からは言葉が溢れて来ません。日常のつまらない言葉しか湧き出て来ないのです。ですからあの者から知り得たことは全て聞きました。そして、その影近からもほとんど言葉が湧き出ません。そう、義父上からも。前から不思議に思っておりました。どんなお方でも言葉の文字は湧き出てくるものですが、例えば、箭重殿など一定ではないのですが、時々驚くほど文字が出ます。まぁ、ほとんどくだらないことではあるのですが、時折、色々なことをご教示して頂いております。」と、月子が笑うと、箭重は余計なことをと言わんばかりに月子を睨んだが、すぐにその表情を変えた。ほぼ首を動かさずに月子と寿院を交互に見つめ、不思議そうな顔をした。何故、この二人は親密そうに話している?元からの知り合いなのか?箭重は、その謎を解くために二人から目が離せない。

 「へぇ、それは不思議ですね。わたしからは無数の言葉が湧き出ているのでしょう。わたしは昔からその言葉に覆われているのですよね。でしたら姫様の眼にはわたしの容姿はあまり見えていないのでは?」

 「そうですね。寿院様は他の方と次元が違い、言葉に囲まれていますので、容姿は殆ど隠れて見えていません。だから逆に寿院様の存在は一眼で分かります。だからこの部屋に入ってきてすぐに寿院様だと分かりました。」

 「まさに妖怪だな。」

 「ごもっとも。しかし、不思議な方がもう一人います。それが若君です。」

 月子の言葉に若君は、俯き加減の顔を上げ、少し驚いた表情をした。

 「なんと…」と、若君は一言呟くと、何を言うでもなく月子を見た。

 「不思議とは?」と、寿院が聞く。

 「はい。若君からは同じ言葉しか出ないのです。」

 「同じ言葉とは…?」

 「因、因果、因縁。と言う文字しか見えないのです。後の文字は全く見えない。と言うか、読めないのです。言葉を成さない文字ばかりが無数に出現するばかりなのです。しかし、我には、その言葉を成さない文字が呪文のように思えるのです?」

 月子は、文字の形を成さない、蛇のような気持ち悪い呪文が虫のように壁を這い回っている様は伝えなかった。その不気味さが悪鬼に喩えることに繋がったそもそもの原因だったので、まだ口には出せなかったのだ。

 「へぇ、若様、なんかお心当たりはありませんか?」

 若君は少し考えた。

 「いいえ。まったく。と、言うか…月子様と寿院殿の話しの内容がまるで理解できず、先程から口を挟むことができませんでした。それに月子様と寿院殿は古くからの友人のようで、本日は久方ぶりにご再会されたようですね。寿院殿は予知者の鼻を明かして見せましょうと息巻いておられたが、そのお約束は如何いたしましたか?」と、力無く若君は言った。

 若君の言葉に箭重が息を呑む。

 「はぁー。いかにも姫様とわたしは古い友人です。わたしが姫様の鼻を明かすなど到底できませんね。わたしが唯一本物と認めた方故…」

 「なんと…。このままでは月子様のお命が危ないとお思いになりませんか?」

 「さて、その事ですが。いったいどなたが姫様の命を狙っているのかな?まさか、さるご高明なお方とお茶を濁すのではあるまいな。命を守らなければならない者に何故、そのように曖昧な物言いをなさる?」と、寿院は凄んだ。

 「それは…?」若君が口籠った。

 「答えられないのか?答えるつもりがないのか?結局若様は姫様を助けるお気持ちはないのでしょう?わたしには若様が本当のことを仰っているとは到底思いませんね。若様、あなたはご自分の立場をはっきりさせなければならないのでは?ずっと、そんな風にどっちつかずでいるおつもりですか?」

 「待って、待って、ちょっと待って。えぇぇぇ、まるで事態が呑み込めねぇ。誰か状況を説明してくれ」と、影近が頭を抱えて話しに割って入った。しかし、寿院と、若君の間には緊迫した空気が張り詰め、月子は沈黙して二人の動向を見守っていた。そんな中、影近と箭重は明らかに蚊帳の外に置かれていた。途中から話しに加わったとはいえ、影近にはこの三人が何の話しをしているのか、まったく理解出来ない。箭重は途中抜けた短い時に何が起こったのか、この急展開にまったく付いていけず、何一つ口を挟めない。

 時が重なる毎に、更に空気が張り詰められる。若君の口も重くなっていくばかりだ。何に追い詰められているのか、先程よりも顔色が悪くなっていた。

 この空気のなか、影近は冷静に三人を交互に見た。そして驚いた顔をひきづったまま、呼吸を忘れた箭重を見た。そこへ微かに漂ってくる異臭。更に四人の様子を見る。四人はこの異臭には気づいていない。影近は知っていた。他の者には分からない微々たるものを感じることができる自分にだけ分かる異臭だということを。目蓋を閉じる。覚えのある異臭だ。つい先程嗅いだばかりだ。偶然なのか?信蕉様がいつも言っていた。偶然などない。と。色々などうでもいいことが積み重なって、見えにくくなっているだけで、物事をもっと単純に見つめれば、真実が見える。

 ふと目を開けると、月子と目が合った。月子は、影近を見ているようで見ていないことが分かった。まるで影近の身体から何かが出ているように何かを目で追っていた。

 えぇぇぇ。もしかして俺からも文字が出ているのか?えぇぇぇ。おぅ、なんか新鮮だ。

 そして影近が動いた。ゆっくり立ち上がると、若君の前に立ちはだかり、見下ろした。寿院と若君がその動向を不思議そうに見守る。まず影近は、若君の前に座ると、何故か寿院を見る。

 「えーと。おっさん?」

 「寿院と申します。」

 「じゅ…?まぁおっさんでいいか?」

 「寿院です。」

 「おっさん邪魔するよ。」

 「名前覚える気ないですよね。」

 「月子、若様のこと悪鬼に見えたんだよな?それで、つい先日、箭重に若様は悪鬼ではないかもしれないと泣きついたそうだな。なんで、いったん口に出したものを覆すのだ。」影近が言った。

 月子は唖然として、口を開けなかった。

 部屋の隅で「呼び捨てはやめろ」と、箭重が呟く。

 「あぁ、影近。」と、言うと、しばらく月子は考え込んだ。そして意を決したように話しを続けた。「寿院様なら分かって頂けるかもしれないので、最初からお話しいたします。ここに来た時、この屋敷の異質さに恐怖を感じました。屋敷中に虫のような蛇のような文字が這っていたのです。何も言葉を成さない文字でした。文字は形を変えていく。まるで呪文でも唱えいるみたいに不気味で恐ろしくて仕方なかった。そんな文字を見たのは初めてだったので。そして、ある日その文字が若君に繋がっていることに気づいたのです。この恐怖は若君から発せられるものだと思いました。若君は禍々しい気を纏っているみたいだった。そして、阿袮がまるで魅入られたように若君のことばかり気にし始めたのです。それくらいから阿袮から文字を見かけるようになった。そして綴られる言葉があまりにも酷い言葉ばかりだったのです。まるでふたりの文字が相乗しているかのように。阿袮は若君に取り込まれたのではないかと思いました。」月子はそこまで話すと、一息入れ、影近の背中を見つめた。月子は、何かを目で追いながら、再び話しを続けた。

 「しかし、少し前に北側の方角から部屋の中に文字が現れたのです。なんだか助けを呼ぶような危機迫る言葉でした。その文字の後を追いかけたら、いつのまにか行ったことのない廊下に出ました。そこで、箭重から肩を掴まれ、これ以上は行くな。と止められました。確かにその辺りはよく分からない場所だった故、箭重に止められなかったら迷ってました。そうこうしているうちに若君が前方の影から現れたのです。暗闇のなか若君が持つ蝋燭の灯りで辺りがほんのり明るくなっていました。若君の身体から発せられたいつもの文字、因果、因縁などの言葉と、呪文のような文字の中に『助けて』という文字を見てしまったのです。その文字を見て色々なことを考えました。若君は、悪鬼のような気を放っていると同時に何かに縛られているか、もしくは呪われているのではないか?若君が恐怖で支配していると思っていたが、それは間違いではないのか?と…。もしかして、若君も誰かに支配されていて、本当の悪鬼がいるのではないだろうか、とそう思ったのです。」

 「俺は、女子おなごを殺めたかどうかとか、そんなのは分からないが。月子は間違っていないと思うぞ。」と、影近が言う。

 「だから、呼び捨てするな。」と箭重が呟く。

 「俺は、ついさっきとんでもない悪魔を見たんだ。そいつは生臭い、嗅いだことのない、この世の物とは思えない悪臭を放っていたんだ。そして、その悪臭を若様が放っているのですよ。何故若様からあの悪魔の匂いと同じものが臭ってくるのですか?」

 「えぇぇ?何も匂わないが。」と、寿院が言う。

 「それは、あなたの鼻がへっぽこだからです。」と、影近が言う。

 「えぇぇぇ。」と、寿院が絶句する。

 若君は、怒りの表情を浮かべた。

 「若様、あなたは、いったい月子のところへ何しに来た?助けを求めに来たのか?それとも偵察に来たのか?あなたは敵なのか?味方なのか?単純な話しではないか?」と、影近が声を荒げた。

 「だから呼び捨て。」と、小声で箭重が呟く。

 「この者は月子様の従者ですか?」と、若君が不愉快そうに尋ねた。

 「影近殿は従者でも何でもない。幼き頃から共に育った兄とも言える。その兄が言うのですから、我は信じます。」

 「何をわけの分からないことを。今、寿院殿も何も匂わない。と言ったではないか?侮辱するなら、わたしも従者を呼んで、この者を容赦しないぞ。」

 「まぁ、落ち着いて下さい。百人呼んだとて、この影近様には敵いませんよ。」と、月子が言った。

 「えーと、寿院が申しますよ。影近殿でしたっけ。あなたの話しがさっぱり見えない。見えないが、何だかとっても興味深い話しをしているような気がしますので、もっと詳しく話していただきませんか?」

 「おぅ、おっさん。何かあんたとは話しが合いそうだ。信蕉様みたいに俺の話しを理解してくれるような気がする。」と、嬉しそうに影近が言う。

 「それは、どうも。」

 寿院は、信蕉様の掌の上で踊っている自分を想像した。もしかして、わたしは来るべくしてここに来たのではないだろうか?と、疑い始めた。しかし、心が躍るわくわくを止められない。そんな寿院の性格も、信蕉様はよくご存知だ。と寿院は思った。

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