権威の怪物

 屋敷に入るなりすっかり人が変わってしまった譜薛ふせつと、容赦なく年配者の威厳を見せつけた東山とうざんが対峙していた。一見東山の威圧感が優っているかのように見えるが、寿院じゅいんの眼には譜薛ふせつが圧倒していた。

 この屋敷を訪れる前日、寿院じゅいん譜薛ふせつの正体を知った。

 寿院じゅいんは偶然という曖昧なものを常に疑っているような人間だ。だから譜薛ふせっとの出会いも当然偶然とは思っていない。意図的に譜薛ふせつ寿院じゅいんとの出会いを仕組んでいたことに気づいていた。べらべらよく喋る男だったが、気持ち悪いくらい違和感を覚えた。急激に距離を縮めてくる不自然さを寿院じゅいんが放っておくわけがなかった。すぐに町中に潜ませた行商人に酒や米を握らせ探らせた。親しくしている行商人の中には寿院じゅいんを師匠と思っている熱心な者もいた。それは確かな仕事をしてくる。りくという男だ。

 譜薛ふせつのことを詳しく調べ上げてきたのがこの男だった。

 「寿院様、譜薛という男、あれは危険です」と、陸が言う。「あれは平家の家臣です。様々な策略を秘密裏に行う役割を持っているのではないかと思われます。譜薛は、幾つもの顔を持っております。陽気で人の良さそうにしている譜薛は、芝居のように演じております。だからもしも寿院様に陽気で人の良さそうな顔を見せているのであれば、それは真っ赤な偽物です。本来の顔は、人の命など何とも思っていない冷徹な男で、独りよがりで、じつに我儘な男です。果たして妹さんを救いに行くなどとそんな甘い人間でしょうか?そして、その妹も冷静で残酷な女子おなごのようです」

 「そうか。陸、ありがとう。そう言う男であればお前さんはもう関わらないほうがいいだろう」

 「寿院様、心配ご無用です。奴の名前は藤原譜薛。わたしはこの男に何故寿院様が目をつけられたのか、それが気になります」

 「そうだな。しかしそれはわたしが探ればわかることだ。もうお前は関わるな。危険だ。お前がやられるのはしんどい。だから絶対関わるな」

 そう言っても聞く男ではないことを寿院は承知していたので、なるべく早くこの事案を終わらせたかった。しかし、藤家も藤原の遠縁。そして藤原の姓を名乗る譜薛。権力に呪われた一族。信西が平家を祭り上げた時、平家の勢力がここまで強くなるとは誰も考えが及ばなかったのだろう。そして信西の家来である西光の、平家を陥れる陰謀は流言となっていた。平家の勢力は留まることがない。寿院は大きな渦に巻き込まれていることを実感した。不本意で不愉快な話だ。民を蔑ろにして、権勢に固執した愚かな者達が勝手に踊っていれば良い話しだ。

 このとぼけた男は、藤家に着くまで、牛車のなかで1人べらべら喋っていたのだが、牛車を降り立ったとたん突然変貌し、寿院を驚かせた。陸の話しを事前に聞いていなければうろたえていただろう。

 譜薛ふせつは、寿院じゅいんに数歩下がるように命じ、冷淡な顔で、少しでもわたしの前を歩くなとわめき散らした。

 そして今藤家の当主と対峙し、一歩も引かない。

 「今、当主は何と申した。我妹に使いを命じただと。使い?よもや我妹を侍女と勘違いなさっているのではあるまいな?」静かに喋っていた譜薛が突然声を荒げた。一瞬東山は怯んだものの、さすがの年長者。すぐに威厳を取り戻した。

 「そうではござらん。妻が病にせっているゆえ、指導できる者がおりませんので、お断り申し上げたはずです。しかし奥方のお世話でも構わないから指導してくれと。女手がないゆえ、この先嫁ぎ先がないのではと不安だからと、無理強いされたのはそちらではござらぬか?何ゆえ我藤家をお選びになったのか?考えても分かりませぬ。何か、下心でもおありなのですか?」

 「我らは地頭なのだぞ。藤家の荘園は御当主の一族が守っておられる。謂わば我らは地主と地頭の関係ではあるが、我らは特別に藤家の荘園の管理を清盛公に任されている。藤家の荘園はお寺宗の荘園に囲まれているゆえ、常に脅かされているではないか。我らがいなければ、あの荘園が未だに藤家の元にあるとは限らないぞ。なのに妹ひとり上手く扱えないのか?妹が侍女のような扱いを受けているのは、大きな間違いだ。すぐに妹を連れ戻してくれ」

 「そう申されても、華菜殿を取りに行かせたのは希少な薬草故、遠方にございます。私どもの下働きと共に行かせておりますので、どうぞご安心なさいまし。華菜殿がお戻りになるまで西側の寝殿で御ゆるりとお待ちなさいませ」

 「なんと?いったいいつまで待てと言うのか?わたしが連れ戻せと言っているのだ、何故従わない?よもや我らを格下と侮っていまいな?」

 「滅相もございません。我ら藤家が平家の家臣、藤原家を侮っていようはずもございません」

 「果たしてそうかな?藤家は代々資産家とお聞きしております。そんな資産家の藤家がいくら庶家と仰せでも平家の家臣の我らなど見下されておいででしょうに」

 「いいえ、決してそのようなことはございません。譜薛様の仰るようにすぐに使用人を走らせ、華菜様を呼び戻しましょう。ただ、決まった道順がございませんゆえ、大いにすれ違う可能性がございます。そこはどうぞご理解下さいますよう、お願い致します。それまでは西側の寝殿でおくつろぎ下さいませ」

 寿院はぼんやりと2人のやり取りを聞いていたが、東山とうざんがいつのまにか華菜殿から華菜様に呼称を変えたことで東山の、案外肝の小さい一面を覗き見たような気がして、思わず苦笑いをしてしまった。

 結局、二人は歩み寄りを見せ、その場は収まったかに見えた。しかし譜薛は妹の死をまだ知らない。それに妹を心配しているだけではなさそうだ。むしろそれは口実に見える。本来の目的があるのではないかと寿院は考えていた。

 そして、この東山という男。なんと不気味なのだろう。華菜の死はこの東山が関係している。いやむしろこの東山が手を下していないにしろ、黒幕に違いないのだ。威厳を見せているのだろうが、心の何処かに臆するものを隠し持っているのか?何か釈然としない。それは祓い屋に関係があるのか?

 そんな時、寿院は何か別の緊迫する威圧感を覚えた。何処からか見られているような、そんな空気を感じ、思わず振り返り天井の大きな梁を見上げた。その時、一瞬だけ、寿院の視界に何かが入った。しかし、譜薛が忍びの者も連れて来ると言っていたので、あまり気にも留めなかった。

 それから二人は侍女に案内されて西側の寝殿に向かった。

 さて、これからどうするべきか?寿院は考えた。一番の目的は、勿論華菜の死を明らかすることだが、これが困難だ。しかばねを探すか、証言を得るか?華菜の死には祓い屋が必ず関わっているに違いない。証言と言っても、華菜のふみによると、祓い屋が行っている儀式は噂にはなっているが、実際それを見た者は始末されているようだ。確実な証言を得られるとは思えないし、それが本当に行われているのかさえ明らかではない。隆鷗たかおうの話しによると、数体の、一塊りの悪霊が妹の霊の後を追ってきたと言う。共通の怨みや哀しみを持ったものたちの霊が悪霊と化したものだと。果たしてそれが儀式によるものなのか?それが華菜の死にどう関わっているのか?何もかもがはっきりしない。安請け合いしたが、実際どう動いていいのか分からなかった。

 まず、祓い屋を探すべきか?侍女や下働きのものに尋ねても意味がなく、当主や若君、また側妻そばめくらいしか本当のことは知らないだろう。

 西側の寝殿に着いても寿院はずっと考えた。譜薛はどう動くのだろうか?肝心のこの男は寝殿に着くなり行ったり来たりうろうろしながら苛立ちを吐き捨てるばかりだ。「くそっ!くそっ!くそっ!」と。なんか面倒くさい奴だなと寿院は思う。

 「譜薛様はこれからどうするおつもりですか?」

 「あぁあー、どうするか、あなたは何も考えていないのですかね?」

 やはりこの男、本性を曝け出してきたな。

 「わたしは、前も言った通り予知者と会う手筈を整えます」

 「予知者だと?そんな者どうでもいいわぁ!華菜のふみを読み解いたら、予知者は華菜とはあまり関わりがないし、あなたの言う通りただのかたり屋だ。そんなもの優先することではない」

 おぅっ、この男、言ってることがころころ変わる大層厄介なやつだな。と、寿院は思う。

 「おや、譜薛様、妹君のふみを見せて頂いた時は、そんなことは仰っていませんでしたなぁ。それにそのように感情的になっておりますと、真相に辿りつきませんぞ」

 「やかましいわ。あんたは、ただわたしに従っていればいいのだ」

 「へぇー。それはわたしが、あなたの言うところの格下だと思っておいでだからかな?」

 この男、時とともにどんどん変わっていく。これはこれで割と面白いなぁ。と寿院は思う。

 「いちいち突っかかるな。格下などとは思っていない。ただ、住む世界が違うだけだ」

 「なるほど。同感ですな。まったく住む世界が違う。ではわたしの住む世界の仕事をさせてもらいましょう。わたしはやはり予知者に会ってきます。とりあえず予知者をからかってから、祓い屋なる者を探って参りましょう。あなたは、その苛立ちが収まるまではじっとしていた方がいい」

 「何を言うか!おいっ、勝手なまねはするな!」

 喚き散らす譜薛の声を背中で聞きながら、寝殿を後にしたところで寿院は、藤家の侍女二人に捕まってしまった。

 「これは…恐れながら何か御用がおありでしょうか?」

 侍女の一人は年配で人を見下すような眼をした鼻持ちならない女だった。

 「お茶と珍しい唐菓子からがしをご準備させましたので、どうぞ寝殿にお戻りになり、お召し上がり下さい」

 「わたしは結構。寝殿に譜薛様がおりますので、そちらへ。きっと喜びますよ。」

 「いいえ。お戻り下さい。宮廷にお出しする菓子でございます故、滅多に食することはできません。是非ともお召し上がり下さい」

 「生憎、それはないなぁ。わたしの師匠は宋に行かれたことがありますので、本場のものを食しているし、特に食したいとも思いませんので、どうぞ譜薛様にお持ち下さいまし」

 「いいえ、お戻り下さい。お客人がお一人で屋敷を出歩かれては私が叱られます。私の手が空きましたらご案内いたしますので、暫くお待ち下さいませ」

 「あぁ、案内など必要ないです。お構いなく」

 「いえ、それでは私が困ります。御当主様に叱られますので」

 「そうなんですか?しかし…」

 侍女とのやり取りをしていると、不審に思ったのか譜薛が寿院の後を追ってきて、またすごい剣幕で怒鳴り散らした。

 「やかましいな!」譜薛は侍女を見下ろすと、「なんだその呪術師がなんかしでかしたのか?」

 「じ…呪術…?いえ、滅相もございません。ただ、お茶と唐菓子からがしをお持ちいたしましたので、寝殿にお戻りになりお召し上がり下さいと申していたところでございます」

 この侍女は主従関係をよく理解している。譜薛を説き伏せれば、私が従わざるを得ないことを承知している。

 しかし生憎譜薛との間に主従関係などないし、それにこの男は、わたしを従兄いとこ東山とうざんに紹介しておきながら呪術師と自らばらしている。もしかして、威張り散らしているだけのただの馬鹿なのか?益々面白くなってきた。と寿院は思う。

 「譜薛様。唐菓子からがしだそうですよ。宮廷御用達だそうで、珍しいからわざわざ寝殿に戻って食せと仰る。そんなに珍しいのなら、大層譜薛様はお喜びになるでしょう。と申しておりました。」寿院は皮肉な笑みを浮かべた。わざと譜薛を挑発したのだ。

 「何だと。何が宮廷御用達だ。そんなもの珍しくはない。やはりお前達は当主共々、我らを見下しているのだな。」と、譜薛は、後ろに控えた侍女の持った盆を苛立ちのまま叩きつけた。後ろに控えた侍女は若く、譜薛に恐れ慄き尻餅をついた。

 「おやおや、譜薛様女子おなごにそのような」と、寿院が言う。

 譜薛は、寿院の言葉は耳に入らなかった。盆を叩きつけた左手首を年配の侍女から掴まれたからだ。譜薛は湧き上がる怒りのままに年配の侍女を殴りつけその勢いで刀を抜いた。寿院は素早く侍女を跳ね除け、身体で刀を阻止した。刀はかすかに寿院の背中を掠った程度だったが、侍女を震え上がらせた。

 「譜薛様、駄目ですって。他家の侍女にこのような真似をしたら、難癖つけられて何をされるかわかりませんぞ。まったく。どんだけ気が短いのだ」

 「やかましい。お前が侍女如きに言い掛かり付けられるからだ。当主は我らを寝殿に軟禁するつもりなのだろう。しかもこのような侍女を使って。どこまでもこの藤原譜薛を馬鹿にする気だ。おい、そこの女子おなご、当主に伝えろ。本日中に華菜が戻らなければ、わたしは何をするか分からないとな」

 侍女二人は悲鳴を上げながら、慌てて逃げていった。

 「ふんっ!これでもうここには寄りつかないだろう」と、譜薛は膝をついた寿院を見下ろし「あんたは意外と役立たずだな。」と言った。

 「それは申し訳ない。あなたは意外と横暴ですな。もう少しで人殺しの仲間になっていたところだ。あなたに殺される前にわたしは屋敷を回って、色々調べてきますよ。これからは別行動で頼みます。正直、もう報酬などどうでもいいんで、好きにやらせてもらいますよ」

 「勝手な真似はするな。あんたはわたしが雇った呪術師だ」

 「勝手な真似でもないでしょう。わたしは当初の予定通り、予知者に会いに行くんですよ。その為に屋敷を回って調べるんですよ。勝手をしているのはむしろ譜薛様ですね。多分あなたは、こういう仕事にはむいていない。その短気直さないと、いずれ死にますよ」

 「このわたしが死ぬだと。何をほざいている。わたしが死ぬわけがない。わたしを誰だと思っているのだ?」

 「いえ、死にますね。あなたが誰であろうと、あなたがあなたでいるのなら、尚更」

 寿院は、譜薛が何を言い返そうと、もう何も聞いていない。ただ動物のように反射的に返ってくる言葉に何の意味もないし、もう譜薛に何の興味もなかった。先日妹のふみを持ってきた譜薛であるのならばもう少し付き合ってもいいが、あの譜薛は、平家の権威そのものだ。

 平家は、密偵として都に三百人の禿童かぶろを放っているという噂を聞いたことがある。平家の陰口を言っただけで、刀を抜いた禿童かぶろが捕えるらしい。考えただけでもぞっとする。平家の名を笠に着たわらべから取り押さえられるなど、死んでしまいたいほどの屈辱だ。だが、実際そういった光景を見たことがなかった。譜薛の、ああいった姿が揶揄されたのだろうか?禿童かぶろに見えなくもない。寿院は思わずぷっと吹き出していた。

 西側の長い廊下から渡殿わたりどのに出ると突然視界が開けた。一見人の姿を見かけなかったが、何処からか女たちの働く声がしていた。その声の方へ視線を向けてもやはり人の姿は確認できない。その方向へ寿院は歩いてみた。しばらくすると、女の声が寿院を呼び止めた。

 「すみません。お坊様」

 辺りを見渡すと、その声の主は庭から寿院を見上げていた。先程の、若い方の侍女だった。寿院は中腰になり、なるべく侍女に目線を合わせた。

 「あぁ、先程の侍女か?さっきは驚かせて申し訳ない。でもわたしはお坊さんではないよ。これお坊さんの衣に似ているけど違うんだよ。それで、何か用かな?」

 「先程はありがとうございました。あの、背中から血が出ています。きっとさっきの刀の傷ではないかと。台盤所だいぼんどころに傷薬がありますので、持って参ります。しばらくここにいて下さい」

 「あぁ、これくらい大丈夫だ。それより君は予知者を知らないか?」

 「予知者?いいえ。それは何ですか?」侍女はきょとんとした視線を寿院に向けた。

 あぁ、これは本当に知らないのだな。

 「では、このお屋敷に何処かのお姫様が居候していないかな?」

 侍女はしばらく考えこんだ。

 「わたくしは存じませんが、ただ、箭重やえ様という下働きが突然入ってきたのですが、何というか、箭重やえ様は誰かにつかえているように見えず、衣もわたくしどもと違うものをお召しだし、時折剣術の稽古をなさっている。なんかこう特別なところがございます。わたくしどもは外からお客様が見えても、全てを把握することはございませんが、もしもお姫様が居候されているとしたら、箭重やえ様がつかえているのかもしれません」

 「おおぅ、なるほど。それは良いことを聞いた。ありがたい。剣術の稽古とは、その娘は本当に下働きの者なのかな?」

 「ええ、わたくしどもにもよく分かりません。ただ箭重やえ様は下働きの者しか入らない台盤所だいばんどころや水場にお越しなので下働きには違いないと思いますが、何分自由に振る舞われますので、皆関わらないようにしております。でもちょっとかっこいいので、隠れて箭重やえ様をお慕いしている女子おなごは多ございます。じつはわたくしもその一人なのですが。」と、侍女は恥ずかしそうに顔を赤らめた。

 「そうか。その箭重やえ殿と、何処に行けば会えるかな?」

 「うーん、今くらいでしたら、あそこの木々の間に離れのお屋敷と蔵に続く小径がございまして、離れの屋敷の前を素通りしたら、西側の竹林に通じる道がございます。もしかしたら箭重やえ様はその竹林で剣術の稽古をしているかもしれません」

 「へぇ、剣術の稽古か。その娘はどんな特徴をしている?こう…衣の色とか?」

 侍女は寿院の質問に笑った。「箭重やえ様は、もう一目見ただけで分かりますよ。すらりと背が高くて、こう、何て言いますか?箭重やえ様がいるだけでぱっと周りが明るくなったような…?分かりますか?」

 「よく分かりました。すらりと背が高いのですね」寿院は、そう言うと、庭から少し高い庇の廊下を飛び降り、侍女に挨拶をして小径へと向かった。予知者以外にもいい情報が聞けた。木々の間にある小径はなかなか見つけにくい。外から来た者は分からないだろう。その小径を行けば、離れの屋敷と蔵があると言う。蔵とはおそらく藤家の食料庫だろう。穀物や絹、麻や綿などの藤家の資産を締まっているに違いない。

 確かに庭の片隅に綺麗に整えられたこじんまりした林がある。中に入ると、意外と奥深く、表面は整えられているがちょっとした雑木林になっていた。しかし小径はきちんと整理されており、離れのお屋敷と蔵までの行き来はしやすくなっているものの、先程の庭から見てもなかなか見つけづらい。おそらく意図して造られた庭だろう。東山とうざんにとって、離れのお屋敷と蔵は隠しておきたい場所なのだろうか。

 しばらく小径を歩いていると、突然視界が開けた場所に出た。そこから立派なお屋敷が見えた。本屋敷と見劣りないお屋敷だったが、こぢんまりしていた。しかし蔵は見当たらない。何か構造上の仕掛けでも施されているのか?いろいろな可能性を考えながら寿院は、蔵の場所を探した。しかしやはりそれらしいものは見当たらない。先程の侍女にもっと詳しく聞けば良かったのだが、怪しまれない程度に動かなければならない。侍女はお喋りだ。

 まぁ、蔵のことは後で考えよう。それより今は箭重やえと言うすらりと背の高い娘が先だ。

 小径は屋敷に続いていたが、屋敷の前を素通りすると竹林に続く道があると言っていたが、それらしき道が見当たらない。

 「うーむ、なかなか困難な構造だな。多分この敷地は後から付け足しでもしたのだろうな。屋敷も蔵も後から建てたに違いない。しかも最初から蔵は隠すために造られたということだな。藤家と言う者はいったい何者なのか?」

 寿院は行ったり来たり、うろうろして竹林に続く道を探した。だいたい屋敷の前を素通りしたらというが、それがよく分からない。今、寿院が立っている所から小径は彎曲していて、そのまま進むと、簡素な開門されたままの門があり、その向こう側にお屋敷が見えた。屋敷の前を素通りするにはこの彎曲の入口あたりを屋敷に向かわずに真っ直ぐ突き進むといった感じだろうかと、想像できるが、屋敷に続く小径以外何もなく、寿院はただ途方に暮れるばかりだった。何回か行ったり来たりしていると、寿院が想像していた真っ直ぐ突き進む方向から「箭重!」と呼ぶ声が聞こえてきた。

 「箭重、あなたはすぐに怒る。相手は月子様なのだから、少しは立場をわきまえなさい。箭重!出て来なさい。決して…決して月子様に腹を立ててはなりませんぞ!」

 その方向は寿院には雑木林しか眼に入らない。いったい何処から聞こえてくるのだろうか?きょろきょろ辺りを見回していると、少し距離が開いた屋敷側の雑木林がざわざわしてひょっこりと、すらりと背の高い娘が出てきた。

 寿院はひと目で箭重やえだとわかった。

 娘は、眼をまん丸に見開き寿院を見た。

 眼が合ったとたん「あっ」と、娘が驚く。

 「おぅっ!」と、寿院は感動する。

 思わず娘が「華菜殿の…?」

 「えっ…?」と、寿院。

 「あっっ!しまっ…」

 「華菜殿の…?」寿院は、虚空を見上げて少し考える。

 「いやっ、何でもない」と、娘が慌てる。

 「あぁあ?もしかして天井から…?」

 「何でもないと言っている」

 「あゝ、どうでもいいな」

 「いや、どうでもいいわけではないが、勘繰るな。」

 「はい。勘繰りませんから」と、寿院は微笑む。「むしろ自己紹介が省けて助かります。もしかして箭重やえ様ですか?」

 「何で?」

 「何で知っているか?と言うことですか?」

 「何で知っている?」

 「良かった。やはり箭重やえ様ですね。」

 寿院は、箭重を見て、この屋敷の者達とは何処か違う、何と言うか親しみに近い感情を抱いた。この者には余計な計算はいらないかな。と思った。

 「いや、答えになっていない。何故私が箭重やえだと知っている?」

 「いえ、知っているわけではないのですが、若い侍女から聞いたもので…」

 「何を聞いた?」

 寿院は、まわりくどい言い方をせず核心をついてみようと考えた。もしその選択が間違っていても、この者なら切り抜けられるかもしれない。

 「予知者に会うにはどうすればいいかと侍女に尋ねてみた。そしたら箭重やえ様なら分かるかもしれないと言われ、箭重やえ様の居場所を尋ねたら、ここを教えてくれた。すると偶然あなたに出会えた」

 「予知者だと?そんな者はいない。あれは予知者などと、そんな大層な者ではない。ここの当主から祭り上げられ調子に乗っているただの妄想に耽っている子供だ。まったく笑わせる」

 箭重やえがそう言うと、箭重やえが出てきた同じ所からもうひとり年配の女が出てくるなり、箭重やえを叱りつけた。

 「また、そんなことを言っている。何度言っても口の聞き方を直そうとしませんね。いい加減…あらっ?この方はどなたですの?」

 「知らない」

 箭重やえが答えると、すかさず寿院は、年配の女に向かって愛想を振り撒いた。

 「お初にお目に掛かります。わたくしは、華菜の従兄で寿院と申します。もしよろしければあなた様のお名前をお聞かせ願いますか?」

 「あなたが華菜様の従兄?」そう言うと女は、箭重やえを怪しげな表情で睨んだ。

 「いやっ、私は何も知らない。この人がここに突っ立っていただけです」

 「何故、あなた様がここにいらっしゃるのですか?」と、冷静に女が尋ねた。

 「簡単に説明しますと、ここに予知者がおられると伺っていましたので、若い侍女に尋ねましたところ、それなら箭重やえ様が知っているのではないかと教えていただきまして、箭重やえ様ならここに来れば会えるのではないかということでしたので、参りましたところ、こうして偶然お会いすることができたというわけです」

 「まぁ、いったい何のお話しをされていらっしゃるのかしら?何処でそんな奇妙なお話しを聞いたか存じませんが、この娘はただの下働き。そんなつまらない話しに振り回されずに華菜様のご心配をなさっては如何ですか?」

 「予知者はいないと仰るのですか?」

 「何でしょう、それは?」

 「そう仰るのなら深追いはいたしますまい。ここの方々はあらゆるものを隠されておられるようにお見受けしておりましたが、実際何も知らないのは確かなようです。実を申しますと、先程の侍女も何も知らないようで、箭重やえ様という異質な存在がこの屋敷の中の不思議なものの象徴だったのでしょう。実際のところ箭重やえ様が何を知っているのか具体的なことは何もわかっておりませんでした。わたしも賭けだったかもしれませんね。外から来たわたくしの方が詳しいのかもしれません」

 「ほうっ。貴方様はいったい何を知っていると?」と、女は食いついてきた。

 「実は、わたしは華菜殿はもう亡くなっていると思っています。それを確かめに来たと言ってもいいでしょう」

 「えっ、華菜様がお亡くなりになっていると?何故、そう思いに?」

 「華菜殿は几帳面な娘故、定期的にふみを寄越していましたが、ふみが来なくなってもう随分経っています。そんなことはあり得ないことなのです。監禁されたか?もしくは亡くなっているかでしょう」

 「そうですか?それはご心配ですね。だったら箭重やえに構っている暇などないでしょう」

 「だからわたしは予知者に会いたかったのですよ。華菜殿が亡くなるなどと尋常ではありません。これは単純な話しではありません。この屋敷全体の問題なのです。この屋敷で何かが起こっているとしか思えないのです」

 そこに箭重やえが口を挟んだ。

 「登葱とき様、ここで話すのまずいのでは?この前も、ほらっ側妻そばめ…」

 「しぃっ!まぁ確かに。とにかく華菜様の従兄様。今は間が悪いのですよ。とにかく間が悪い」そう言うと、この登葱ときという女。なんか閃いた顔をして、にこりと笑った。「そうだ。私には分かりませんが、あなたが言うところの、その予知者に会えるかもしれません」

 「なんと仰いました?」

 「ええ。この方法だったら」

 「いったい何でしょう?」

 「ここの若様です。若様がもし頼めば、きっと月子様も喜ぶでしょう。ねぇ、箭重やえ?」

 「あぁ、なるほど。なんか知らないけど、決着をつけさせるみたいな」と、箭重やえが小声で呟く。

 「なんと?若君を連れて参れば会えると言うわけですか?」

 「はい。若様はそれはそれは美しい方。若様が頼めばきっと上手くいきます。箭重やえ、早速若様のところへ案内して差し上げて」

 突然、この登葱ときという女、やけに楽しそうに言う。先程の冷静な女は何処へ行ってしまわれたのか?と、寿院は呆然とした。「かくまわれた姫様は美しい顔をした若君が好きなわけですか?」なんと、淺ましい。なんか…もう、予知者に会う意味を見出せない。揶揄からかう価値もないような気がする。

 「若様でしたら、今は弓の修練をされているころでしょう。案外簡単に行けます。この細い道を真っ直ぐ行けば竹林に出ますので、竹林に出たら東に向かってすぐに弓の稽古場があります。そこに若様はいらっしゃるでしょう」

 あぁ、さっき見つけることが出来なかった道だ。この細い道、いろいろ便利な道のようだ。そして背中で「月子様〜」と、登葱ときという女の声が聞こえる。また別の道があるのだろうか?

 藤家の若君は挨拶には出て来なかった。これだけの資産家だから、屋敷でぶらぶらしていても文句を言う者もいないのか?庶民のふりをした貴族?貴族のふりをする庶民はいるが、そちらの方が余程人間らしい。藤原から姓も改め藤と名乗っている。荘園から続いたものでなければそうそう寝殿造の屋敷など建てられないだろう。二つの寝殿造の屋敷と、この広大な敷地。不気味な庶民だ。

 若君は、登葱ときという女が言ったように、男が見ても美しかった。寿院は率直に予知者に見てもらいたいから会わせて欲しいと、尋ねてみた。

 「どなた様ですか?」と、若君は、弓の修練はせずに、ただぼんやり竹に寄り掛かり物思いに耽っていた。寿院が声を掛けると、きょとんとして、そう言った。

 「わたしは華菜の従兄の寿院と申す者です。華菜が遠くまで使いに出されたとお伺いしまして、お戻りになるまでに予知者に会いたいと思い、若様を探しておりました」

 「華菜殿の従兄様ですか?これはまた、何故予知者のことをご存知でいらっしゃるのでしょう?予知者のことはわたくし共が特別に招待したものだけに教えておりましたが?」

 「あゝ、なるほど。随分高価なものと引き換えにですか?」

 「おや、何から何までご存知のようで。屋敷内のものですら存じておりませんぞ。おおかた華菜殿がふみでもお書きになられたのでしょう?しょうがない娘でございますね」

 若君は、ひどく冷酷な顔で寿院を見た。でも寿院は決して引かない。

 そして、先刻から後ろに控えていると思っていた箭重がいつのまにかいなくなっていたことも承知していた。この一筋縄ではいかなそうな若君を見て、箭重がいなくなったのも、なんとなく頷ける。

 「まぁ、怒らないで下さいな。まだ、年若い娘でございます。たった一人で見知らぬ家族の元で暮らしておりましたゆえ、不安だったのでしょう。ふみくらい他愛のないことでございましょう」

 「まぁ、他愛のないものでしたら仕方ございませんね。華菜殿はすごく好奇心がおありで、あちらこちらにお顔を出されていらっしゃって、わたくしも幾度となくご注意申し上げました。好奇心がおありなのは結構ですが、他所よその家族のことに踏み入るのは如何なものかと思いますぞ。それとなくそちらでもご注意なさった方が華菜殿の為にもなると存じますが」

 「畏まりました。それとなく注意しておきましょう」注意できるのであれば。と寿院は心の中で続けた。

 若君の言葉には常に含みがあった。恐らく華菜が、何かを探っていたことに気づいていたのだろう。そして、この男、華菜が死んだことを知っているのか?それは寿院には予測が出来なかった。素直に華菜への注意を促しているのなら、単純に知らないのでは?と思うかもしれないが、我らの目的を知らないとは考えにくい。華菜の死を隠そうとするのは普通のことだが、結論づけるのは尚早だ。と寿院は思った。

 「さて、予知者でございますな。それはちょっと難儀なことでございます。わたくしがどうこうできるものではございませんゆえ、お約束出来かねますね」

 「左様でございますか。それは残念です。わたし一人でふらっと会いに行くことは可能なのでしょうか?」

 「うむ、難しいでしょう。お役に立てず申し訳ございません」

 寿院は、いささか若君の説得に力が入らない。かくまわれた若い姫がただこの美しい若君に会いたいだけの茶番に付き合う気もない。

 「いえいえ、考えてみると、身勝手でございました。突然押しかけ無理なお願いを致しまして、誠に申し訳ない。わたしはひとところにじっとしていられないタチでして、観念して寝殿に戻りましょう」

 「戻られるのですか?思っていたより諦めが早いのですね」と、若君はにこりと笑った。

 「予知者などもの珍しさのあまり心が浮き足だっておりました。お恥ずかしい限りでございますよ」

 「まぁ、そう急がずとも。もう少し粘られると思っておりましたが、こうもあっさり引き下がれてはつまらないです。分かりました。これから共に会いに参りましょう。予知者とは、ここに短い間身を寄せておられる姫様のことなのですが、わたくしとて、姫様が去られた後は恐らくもうお会いすることもございません。それにまだ姫様とは正式にお話ししたこともございません。実はわたくしも興味がございまして。こう言う機会ももう訪れることもないでしょう」

 あれっ、雲行きが変わった。果て…?

 「折角、華菜殿の従兄様がお見えとあらば、華菜殿のことでも尋ねてみましょう。良い嫁ぎ先があるのか、お伺いしてみましょう」と、若君が言う。

 何を…?意外な展開に寿院の頭が混乱した。これは思った以上に厄介な申し出ではないか?

 隆鷗たかおうを信じるのであれば華菜はもう死んでいる。華菜らしき霊を見た時、その正体を明確にしたわけではないが、しかし隆鷗たかおうが、多分譜薛の妹だろうと言ったのならば、寿院はそれを信じてしまうのだ。ぼうーっとしているが隆鷗たかおうはこれまでに一度たりともはずしたことはなかったからだ。だとしたら、やはり若君は華菜の死を知らないことになる。まぁ、それも予知者なるものがちゃんとしているのであればだが。予知者が華菜の死をきちんと言い当てるほど優秀であれば、若君は、華菜の死に関わっていないことになる。それに姫様と正式に会話をしていないのであれば、若君は予知者が優秀かどうかもわからない筈。華菜の死を知っているのなら、そんな賭けに出たりしないだろう。

 寿院は、その真意を見極めるために若君の様子を何一つ見逃すことなく見つめた。

 若君は虚空を見つめ、何処かぼんやりした面持ちだ。心の中でいろいろな戦略を巡らせるような顔つきではない。何かしら心が空洞のように、いやお面をつけているように、その表情から何も伝わらない。

 そうか。結局この家を支配しているかもしれない祓い屋に通じているのか?と、寿院は思う。

 「華菜は嫁ぐことができましょうか?」寿院は、いろいろ考えながら、尋ねてみた。

 「どうでしょう?正直なところ今のままでは難しいかもしれませんね」

 「おや、手厳しい」

 「いえいえお気を悪くされたのなら、申し訳ございません。華菜殿は女子おなごにしておくのが勿体無い程のお方。勇敢で冷静で多分戦略家だと思います。それにお美しい。お恥ずかしい話しなのですが、藤原家の御息女でおありだから、我ら藤家に行儀見習いに来られた意味を考えずにはいられませんでした。てっきりわたくしの縁談かと思っておりましたが、すぐに思い違いだと分かりました」

 「あゝ、なるほど。何と言っていいか…」

 「ひとつ寿院殿、あすこに的があります。一本付き合って下さい」そう言うと、足元にある弓を持ち、矢を手にして、ゆっくりと引き始めた。

 「申し訳ありませんが、わたくしはどうも武器全般が苦手でして…」

 寿院がそう言うと、若君はゆっくりと寿院の方向へ矢を向けた。

 「宿命というものでしょうか?かつて栄華を極めた藤原家も今や生き残るためにそれぞれの主君に身を寄せております」

 「若様、危ないからやめましょう」

 「平家の藤原家、縁談でもないのに何故大切な妹を他家に預けた?何をこそこそと調べている」

 「いえ、危ないですって。誤解ですよ」

 「お前たちは本当に傲慢だな。たった二人で乗り込んできて、殺されても仕方ないですよね。そんなことさえも予測できない程に平家は傲慢になってきているのですよ。お気づきになられた方がよろしいですよ」

 「いやいやいやいやいや…何を…誤解ですって。決して…いやいや、違います。違いますって。わたしは平家の家臣ではござらん。わたしはしがない呪術師…雇われものでござる。呪術師と言っても、物怪もののけが見えたり、呪術が使えたりするものではなく、げ…現実でそうした現象を読み解くことが…と…得意でして…」

 寿院は数歩後退りながら、必死で両手を前にして防御の意思を込めた。しかし若君は割と本気に見える。その眼には殺意がある。まずいと寿院は思った。確かに。華菜を殺した残忍さを持ち合わせている一族なのだ。何故、我らが優位だと錯覚していたのか?

 若君から殺意は感じられるが、相変わらず読み取れないお面のような表情が余計に不気味だった。殺されても何ら不思議ではない。しかし、若君は一瞬寿院から視線を外すと、矢を放った。矢は寿院を通り越して、遠くの竹に刺さった。

 「冗談です。着替えてきますので、しばらくそこで待ってて下さい。羊三刻くらいには参りましょう。月子様にもそう伝えておきましょう。あなたの咄嗟の妄言は面白かったですよ」

 そう言うと、若君は去って言った。寿院は力が抜けて長い溜息をついた。

 「いや、あれは本気だったな。矢を放つ前にわたしを殺した後の面倒を考えたのか?それとも…」

 寿院は、振り返り、矢が刺さった竹を見た。そしてそこに人の気配を確認した。

 「そこにいるのは誰だ?箭重やえ様?」

 竹から出てきたのは、りくだった。

 「寿院様、大丈夫ですか?」りくが駆け寄って来る。

 「お前、何しているのだ?」

 「あゝちょっと心配になりまして、この屋敷でしたら、いつも唐菓子からがしを売りに来ていますので、よく存じておりまして、この竹林は広くて、実は外から簡単に入れるんですよ」

 「そうか?さっきの唐菓子からがしはお前が売ったものか?」

 「あぁ、そっちですか?」

 「いや、どっちだ」

 「いや、竹林のこと興味を持ってくれるかと思って」

 「まぁ、そうだな。いざというときは、ここから逃げられるわけだ。でもそんなこと藤家も承知しているだろう?」

 「まぁ、そうですが、多分わたしの方が詳しいです」

 「そうか、それは頼もしいなぁ。今も殺されそうになったからな。殺されていたよな。いや、あれ絶対本気だったよな。まだ心臓ばくばくしている」

 「大丈夫ですよ。寿院様がやられる前に毒矢を撃つつもりでしたから」

 「あぁ、お前、あすこから毒矢で狙っていたのか?」

 「まあ、そうですね」

 「いや、そうですね。じゃあないだろう。完全にばれていたよね。撃たれているじゃないか。もういいから、帰れ」

 「大丈夫ですよ。寿院様、何かあればいつでも駆けつけますので」

 「いらないよ。頼むから帰ってくれ」

 「ほら、寿院様、もう行った方がいいですよ。怪しまれますから。いいですか、何かあれば西側の竹林に逃げると、何とかなりますから忘れないで下さいね」

 「分かったから、お前は帰れ」

 「大丈夫ですって。ここのことは多分寿院様よりも何倍も詳しいですから」

 寿院は、振り返ることなく修練場の的を通り過ぎて、更に屋敷近くまで移動した。その途中、寿院は不思議はものを見た。なんとも形容しがたい。小さな寝殿造の小屋?何のためにその建物が存在しているのか、予想もつかない。中に入ってみたいが、今はそんな余裕がなかった。

 そんな寿院の姿を小さくなるまで、竹の影からりくは見ていた。そして寿院と入れ替わり、ひょっこりと箭重やえが顔を出した。

 「なんだ陸?なんでお前が華菜の従兄を知っているんだ?随分と親しそうに話していたではないか」

 「あぁ、箭重やえか?」

 「あぁ、箭重やえか、じゃぁないよ。なんであの男と親しく話していたのだ?と、聞いているのだ」

 「おぅ、寿院様はわたしが尊敬する呪術師なのさ。何とかさんの従兄ではない。藤原譜薛に依頼されて同行しているだけだ」

 「えぇ?あの男は華菜の従兄ではないのか?そうなのか?警戒すべき敵なのか?」

 「わたしは寿院様が凄く好きなのだけど、立場的に敵か味方かといえば、分からない」

 「お前、馬鹿?そんな男と親しく話するなよ。まさか我らのことを喋っていないだろうな?これ絶対信蕉様に言いつけてやる!」

 「言うなよなぁ。でも信蕉様は、何となくだけどわたしが寿院様の仕事の手伝いをしていることを知っているのではないかと思うんだ」

 「えぇ、仕事の手伝いだと?それってけろっと話すことではないでしょう。まずいよ、それ。信蕉様が知るわけないでしょう。なんでそう思うのさ?」

 「だって寿院様の寺に隆鷗が住んでいるのだよ。寿院様が隆鷗の名前呼んでいたし、顔を見たけど、子供の頃の面影がちゃんと残っていた。わたしのことは分からなかったみたいだけど、あれは絶対隆鷗だよ。我らの前から突然いなくなった隆鷗が寿院様の所にいたんだぜ。信蕉様と寿院様がつながっていると思っても不思議ではないでしょう」

 「えええっ!それ本当なのか?」

 「本当だ。最初は糖粽売あめちまきうりがやけに羽振りが良くなったと思ったら本業をそっちのけにして、何やら楽しいことをしていたので、問い詰めたら、寿院様の手伝いをしているという。だから無理言って紹介してもらったのさ。寿院様の手伝いはわくわくするほど楽しいんだよ。信蕉様も、わたしの行動を問い詰めたりしないものだから、どっぷり浸かっちゃって。それで何度も寿院様の寺に行くようになってね。で、隆鷗に出会ったというわけだ」

 「そんな偶然ってある?それで隆鷗は元気だった?」

 「何やら寿院様をすごく揶揄からかって、寿院様も笑って。だいたいあいつは自由で寿院様が何も言わないことをいいことに言いたい放題だ。まったく失礼なやつだ」

 「それで…?あゝ…。幸福なのだな」

 「そうだな。寿院様は一見間の抜けた阿呆に見えるけど、あの方はすごいのだ。阿呆みたいなことを言いながら、間違わない。沢山の人の話しを見聞きして、必ず正しい選択をする。どんなに嘘の話しを聞いても、その嘘から真実を導き出すのだ。寿院様がこの屋敷に入って、いったい何刻の時がたった?こんな短い時でもう月子様に辿り着こうとしているんだよ。そんなすごい方の傍にいるのだ。幸福でない筈がないさ」

 「なんだ、陸、まるで見てきたように。なんで月子様に辿り着こうとしていることなんて知っているのだ?そう言えば、あいつわたしが天井で盗み聞きしてたの知っているみたいなことを言っていたな。しかし、私は隆鷗のことを聞いているのだ。寿院という男のことばかりだな」

 「しょうがない。わたしは寿院様が大好きなのだから。寿院様と若様が予知者に会いに行くと話していただろう。わかるさ。寿院様は兎に角すごいのだ」

 「馬鹿なの?しかし確かに。間抜けな顔をしているのに、予知者のことも知っていたし、月子様が予知者であることは東山が選んだ特別な人しか知り得ないことなのに、普通のやつがこの屋敷の中で月子様に辿り着くなどと並大抵なことではないのは確かだ。それにあの若様を動かすなんて。陸、これは大きく動くかも知れない。ここに侵入して何も掴めないまま、今日まで過ぎてしまった。何も掴めないから、信蕉様、どんな手を使ったか知らないが、月子様までもここに侵入させた。でもあの女、自分の能力に自信が持てず、今ではこの能力は全て妄想だと寝ぼけたことを言う。まったくあの女」

 「箭重やえは昔から月子様のことが嫌いだな。でも本当はすごく気になっているのではないか?まぁ、そんなのはどうでもいいけど。しかし、人の心を支配してしまうような、そんな妖怪のような人間が本当にいるのだろうか?この屋敷の者は本当にそいつに支配されているのか?」

 「信蕉様がずっと追いかけていた化け物だよ。必ず尻尾を掴んでみせるさ。とはいってもそれが誰なのか?まったく分からない。月子が若様を疑っていたが、見当違いだったと、わたしの前でおいおい泣くんだよ。まったくあの女、どうしようもないな」

 「月子様な。呼び捨てはまずい。ついでに言うと、あの女はもっとまずい」

 「登葱様も怖い人だよ。若様と直接対決させるなんて。あの女、もしかしてぼろぼろになって、もう使い物にならないかもしれないな」

 「無視か?登葱様は昔から怖い人だったよ。信蕉様さえ、登葱様には頭が上がらないんだから。箭重やえ、そろそろ戻った方がいいのでは?」

 「あぁ、そうだな。陸。隆鷗に会えるかな?会いたいな」

 「わっ、箭重やえ、気持ち悪いぞ。そんなに会いたいのなら、寿院様と仲良くなればいいのではないか。会えるぞ」

 「そうだな」

 「わたしは一日中、屋敷の周囲で待機しているよ。何かあれば笛を吹いて知らせよ。すぐに駆けつけるから」

 「分かった」

 陸は、あっという間に竹林の奥深くへと入っていった。情報戦に優れた陸の言葉は意外と重みがある。陸があそこまで褒め称えるのだから寿院という男は優秀なのだろう。

 箭重やえは、去っていく陸の姿を見ながら、隆鷗のことを考えていた。

 信蕉は、戦で親を失った子供や、不当に家族を失った子供を寺に連れ帰り育てていた。貧しくはあったが、信蕉自ら田畑を耕し、食事を作り、子供たちに不便な思いをさせずに大切に育てたことを皆知っていた。だから皆信蕉を本当の家族のように思っていた。箭重やえ隆鷗たかおうも、そうした子供たちと同じように育った。しかし、信蕉は、やがて隆鷗、影近、陸には、それぞれが持つ特別な能力を伸ばすように育てた。そこに外れてしまった箭重やえは、仲が良かった影近と陸から距離を置かれ、孤立するようになった。箭重は、悔しくて、剣術が好きな影近にもっと近づくために寺から少し距離がある山林で剣術の稽古を始めた。そんなある日、突然木々の間から隆鷗が顔を覗かせた。箭重やえは剣術の稽古を見られたことが恥ずかしくて、俯いてしまった。しかし、隆鷗は一歩も動こうとしないし、声をかけることもしないので、不思議に思った箭重やえは、顔を上げて隆鷗を見た。

 すると隆鷗は、驚いた顔をして身体が硬直している。箭重やえも驚いて、隆鷗を直視した。その時箭重はひどい違和感を覚えた。隆鷗の視線が箭重やえを通り越して若干上を見ている。何処を見ているのかわからない視線だった。そんな隆鷗を見て箭重やえもしばらく動くことができなかった。やがて、踵を返し急ぎ足で寺に戻った隆鷗の、きのこが入った籠だけが残された。一人できのこ狩りをしていたのだろう。箭重やえは力が抜けて、茫然とした。

 しばらくの間、隆鷗のことを考えると、何も手につかなかった。何かしら理由のない恐怖がずっと箭重やえを支配していたからだ。

 あれはいったい何だったのだろう。そうした日々を幾日か過ごした後、箭重やえは勇気を出して、隆鷗に声をかけた。

 「この前、何だったの?何か言いたいことがあったんじゃない?」

 「ごめんなさい。何でもないよ」と、隆鷗は言う。

 「何でもないわけないじゃない。物凄く怖い顔をして、私を見ていたでしょう」

 「見てない」

 「見ていた。ううん、私じゃないかも知れないけど、でも私を見ていた」

 「本当に何でもないんだ」

 そう言うと隆鷗は、慌てて箭重やえの前から去ろうとした。しかし咄嗟に腕を掴まれた。

 「いつも逃げてばかりだ。何も言わないけれど、でも私を怖がらせる。私があんたに何かした?」

 「何もしていない。怖がらせてもいない」

 隆鷗は、やはり箭重やえの顔より少し上を見て、その眼に恐怖を浮かべ、腕を払い慌てて逃げていった。

 「だから…何なの」箭重やえは、どうしようもなく声を荒げて泣き叫んでしまった。身体に理由のない恐怖を擦り込まれ、半日もずっと泣き続けた。泣き止むきっかけを与えてくれたのが影近だった。影近には名前に反して影がない。と、箭重やえは思っていた。影がないから言葉をかけられるとほっとする。箭重やえは影近の過去は知らなかった。

 「なんだ箭重。お前の顔、無茶苦茶でかくなっているぞ。半日泣いていたから腫れるのも半端ないな。どうした?」

 「分からない。ただ怖いんだ。隆鷗が私を見る時、いつも頭上を見てちゃんと私を見ない。隆鷗が怖い。あれはいったい私の何を見ているの?」

 「あゝ、隆鷗か。あいつ不気味だよな。何でも

死霊が見えるとか。中には怨みが強いと悪霊になって生きたものを攻撃してくるそうだ。変なこと言うやつだよな」

 「じゃあ、隆鷗は私ではなく悪霊を見ているのか?」

 「悪霊ではないだろう。死霊だ」

 「隆鷗はそれを見る時いつも恐怖に慄いている。悪霊だ。だからいつも逃げる」

 「あいつは臆病だからな。でもさ、よく考えてみなよ。俺たちには見えないのだから。そんなものはいないんだよ。あいつ、いつも独りぼっちだからそんなことを言って気を引きたいんだよ」

 「そうか。なんか寂しいやつだな」

 「そうだ寂しいやつなんだ。だからお前が泣く必要はないのだよ」

 「分かったよ。もうあんなやつ相手にしないよ」

 「うん、それでいい」

 隆鷗はいつも独りぼっちだった。いつも孤立して誰とも喋らない。考えたら声さえ聞いたことがなかった。ただ信蕉様と一番長くいるのは隆鷗だった。その一点を除いて、可哀想な境遇の男の子を恐れることなどひとつもなかったのだ。

 しかし、幾日か経ったある日、いつものように寺を離れ、誰にも見つかることがないように山林の奥深くまで足を延ばし剣術の稽古をしていた時だった。微かに霧が立ち込めいつもと様子が違う。稽古をやめて辺りの様子を窺うと、鳥の鳴き声がやみ、恐ろしい静けさが箭重やえを襲った。唸り声が静けさを割く。獣の声だ。

 箭重やえの恐怖が死を覚悟した。

 囲まれている。山犬か。泣き叫んでも無駄だ。と悟る。ここにいることは誰も知らない。山犬の被害はいつだって耳にしている。集団で襲ってくる山犬に人は太刀打ちできない。食い荒らされ見つかった遺体の話しを聞いたことがある。

 箭重やえは、ゆっくりと後退り距離を開こうとする。あゝこれも無駄だ。と箭重やえは思う。涙が溢れる。食われるのか。痛いのだろうか?痛いに決まっている。そう思うと、正気ではいられない。ひと思いに振り返り逃げてしまった。すると一気に林の影から抜け出してきた無数の山犬の鳴き声を背中で聞いた。箭重やえは振り返らずに夢中で逃げた。沢山の獣の足音が聞こえる。兎に角足が潰れるまで逃げるのだ。助かる見込みがなくとも、少しでも痛い思いをするのを遅らせる刹那だけが箭重やえを動かしていた。やがて足を取られ、地面に倒れた。箭重やえの脳裏に山犬にむさぼられる自分の姿が浮かんだ。

 あゝ死ぬのだな。

 山犬が襲ってくる。キーンと頭に刺さるような声が聞こえる。しかしまだ山犬は襲ってこない。まだ…。箭重やえは恐る恐る閉じている眼を開けた。そこには影近がいた。そして影近の足元に山犬が倒れていた。箭重やえは、大人の手で引っ張られ抱き抱えられた。視界のすぐ傍に信蕉の顎が見えたとたん涙が溢れ、咳き込むように声が出た。喉が破れるほど泣き叫んだ間に山犬は山林の奥深くに消えていった。そこに残っていたのは影近と隆鷗だった。

 「どうして…?」と、箭重やえは呟いた。

 信蕉は微笑むと、箭重やえを降ろした。

 「わたしは先に戻るから、何故君が助けられたか隆鷗に聞くといい」と、言うと、信蕉は寺に戻っていった。

 箭重やえは、肩をゆらして息をしている影近の傍に寄った。

 「どうしてここにいることがわかったの?」

 「あぁ、隆鷗に聞けよ」

 箭重やえは隆鷗の姿を探した。

 隆鷗は、少し距離を置いて箭重やえを見ていた。いや、やはり箭重ではなく箭重の頭上に視線を向けている。

 「おい。隆鷗、全部話せよ。信じてもらえなくても、兎に角話せ」

 「分かった」と、隆鷗は言うと、箭重やえに歩み寄った。「いつもいているんだ」

 「えっ?何」

 「初めて見たときからずっと」

 「だから隆鷗。細々と話すなよ」と、苛立ちながら影近が言う。

 「焼けた煤のような霊が」

 「えっ…?」箭重やえは泣きそうになる。

 「悪霊と思っていたから…。ずっと注意していたんだけど。でも違った」

 「信蕉様から聞いたんだよ。箭重やえが大火で焼き出されたことを。箭重の母上様が箭重を命がけで守ったと。でも母上様は火の中に取り残されて死んだとね」と、たまりかねた影近がその多くを捕捉した。

 「あぁ、うん。悪霊ではなく多分母君かと。君の危険を知らせに来たんだよ。で、影近に言うと、飛び出して、わたしは信蕉様を呼びに行って向かったんだ。その悪霊と思っていた者は君を守っている、多分母君に違いないよ」

 あゝそうなんだ。あの時、隆鷗があんな顔して見た時、箭重やえの頭にあの光景がよぎったのだ。母が必死で外へ出そうとしたあの顔を。だから自然と涙が出た。そして二度と思い出したくなかった恐ろしい光景が何度も浮かんできた。

 やがて、突然隆鷗はいなくなってしまった。

 隆鷗にもう一度会って、まだ母上が私を守ってくれているのか、それを聞いてみたかったのだ。あの寿院という男が会わせてくれるのだろうか?

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