可視霊籟

 空気が渇き、砂埃が舞い上がる町の中、ある屋敷を中心に広がる黒い霧を見つめていた隆鷗たかおうは、自身の経験から近いうちに何かが起こるのではないかと考えていた。思い過ごしかも知れないが、寿院じゅいんが屋敷に入って尚一層霧は強くなったような気がした。

 隆鷗たかおう寿院じゅいんから、のんびりとしていて、あまり喋らず、他人はおろか、自分自身にも興味がない、くそ面白くない男だといつも罵られていた。しかし隆鷗の本質は決してそうではなかった。それは、隆鷗の一族が皇族に仕える厳格な血筋だったことに影響を受けているからだろうか。隆鷗の中に一本頑強な芯が通っている。言葉には出来ないほどの大きな願望がある。そんな大きな願望を抱えていながら、隆鷗は決して妥協しない。ただそれを心の奥底に隠していた。

 そのせいか隆鷗の行動は分かりにくいが、いつも迷いはなかった。母を元々早くに亡くしていたが、父や兄が死んだ後は、隆鷗も寿院が言うように仇を討つことが自分に課せられた使命なのかと考えた時期もあったが、父や兄が殺された現場で死霊に出会でくわしてからというもの、仇討ちの意義に目的の真意を見出せなくなった。隆鷗の目の前であまりにも沢山の死が横たわっていたからだ。行き場を失った死霊の、殺されても尚、生命の余韻を貪りしがみつく姿は、死を理解できない、あまりにも絶望的で怖しい光景だった。隆鷗は思わず死霊を両断していた。死霊に再び死を与えてしまったのだ。隆鷗は『死』というものに取り憑かれた時があった。生を貪ろうとする死など存在しない筈だ。死霊が見えた現実は、死の世界の狭間にあり、決して現実ではなかった。そして自分は常に死の世界の狭間に存在しているのだ。と、思った。現実に戻るには、正しい『死』を知らなければならない。『死』への正しい手順。それができないのがこの世界に違いない。この現実は死の世界の狭間なのだ。隆鷗だけが見えているその者たちが消えない限り。

 寿院が藤家の屋敷に入ってすぐに隆鷗は幾つかの、残穢ざんえを感じる空家や廃墟を回った。それは隆鷗独自の調査方法だった。空家や廃墟の残穢ざんえから、譜薛ふせつの妹のふみでは明かされていない祓い屋へ繋がるような気配を探っていたのだ。その者たちは過去も同じことをしているのでは、と隆鷗は考えた。他人との会話は苦手だったけど、強い残穢ざんえを感じた空家や廃墟では周辺の聞き込みも行った。

 すると一つだけ興味深い空家を見つけた。よく見ると、そこは数年前に寿院が調査していた屋敷だということに気が付いた。隆鷗も一度訪れたことがある。死んだ者を見て欲しいと、寿院に頼まれたからだった。その時、ひどい怒りと苦しみ。そして悲しみを感じたことを思い出した。死霊は屋敷から離れようとはせず、怒りの矛先を求めていた。このままだと永遠に屋敷から離れず、やがて悪霊になるだろう。と、隆鷗は思った。そのことを告げると、寿院はそれ以上のことを隆鷗には依頼しなたった。だから、あまり関わりを持つことはなかった。

 あゝ、もっといろいろ尋ねていれば良かった。と、隆鷗は思う。

 そして、再び、空家となったかつての屋敷を見上げた。

 その空家からは強い残穢ざんえを感じた。共通の怨みを持った一塊の黒い霧が屋敷内を覆い、ここを訪れる者への憐憫れんびんを誘っていたが、訪れる者も久しくいなかったのだろう。その執着が濃く現れていた。周辺での聞き込みを行ってみたら、思いのほか評判が悪く、『お化け屋敷』と称され、畏れられていた。中でも呪われた屋敷と聞いた隆鷗は、共通の怨みが何処から発生しているのか調べることにした。そこに儀式の跡が残っていたら、藤家の祓い屋との関連性が比較的に高い。

 隆鷗は、屋敷の門の前に立った。開け放たれた妻戸から漂う不浄の気が隆鷗を覆う。ゆっくり中門廊を抜け、庭に出る。そこいらじゅうに漂う不浄の気が屋敷外に溢れている。隆鷗は、こうした気にあたると、見えない人に比べ格段と疲労が蓄積してしまう。だから一気に屋敷内を回れないので、一旦庭に退避してしまったのだ。

 表からは分からなかったが、中に入ると屋敷の大きさが分かる。おそらく身分の高い人が住んでいたのだろうが、意外と聞き込みでは分からなかった。空家になって随分過ぎたのか、人の手が入らない独特の時の流れを感じた。耳を澄ませば時の狭間から囁き声が聞こえてくるようだった。それは蔀の内側から漂ってくる不浄の中から聞こえてくる。

 隆鷗は、ゆっくりと確かめるように格子状のしとみの中に上がる。すると、人影がさっと視界の隅で動いたような気がした。その瞬間、影の方を見ると、そこに人はいなかった。いや、人とは限らない。しかし、違和感があった。影は悟られるのを避ける動きをした。しかし屍人しびとは反対だ。存在しない虚空を埋めようとする動きをする。個を失っても存在を訴求するのだ。目の前に、そいつは現れるのだ。

 生きた人間の気配を感じたのか、いつのまにか隆鷗たかおうの前に死霊が立ちすくんでいた。人の形をしたすすのような真っ黒いもの。しかしさっきの影はこいつではない。

 隆鷗は、ゆっくりと剣を抜いた。その間にも2体、3体と現れる。

 「また死ぬよ。後悔を断ち切ってやるよ。来世では正しい手順で死ねるといいよね。」そう言うと、一気に両断した。そして次も、また次も、そのまた次も。死霊は次々と出てくるが、体の中心を正確に切っていく。しかし死霊の中に何か別なものを見たような気がした、その瞬間、目の前に二つの目が現れた。隆鷗たかおうの驚いた顔がその瞳に映った。隆鷗の動きが止まる。そして剣が飛んだ。隆鷗が振っていた剣が飛ばされたのだ。

 「僧侶がこんな所で何をしている?」

 隆鷗の首筋に刃が当たっていた。

 「何?」と、隆鷗たかおうは、その男の顔を見た。あのすすのような黒い死霊の中に人がいたとは驚きだ。なんと素早い動きだろう。閃光のようだった。人と認識できなかったのだ。先ほどの影はこの男に違いない。

 「空家だからといって勝手に入っていい訳ではないよ。お前はこの空家と関係がある者なのか?」

 「いえ」

 隆鷗たかおうは、両断出来なかった死霊を見た。動きは遅いがまだ5体残っている。最初はばらばらに動いていたが、何か規則制があるのか?生前に関係したものか、同じ動きを繰り返していたが、生へのむさぼりなのか、隆鷗と剣を構える男の方へゆっくりと歩いてくる。

 「って言うか、何してたの?稽古?一人で剣振ってたけど?」

 「死霊を両断してました。」

 「え?」男は一瞬驚いたが、すぐにくっと笑った。

 隆鷗たかおうは、相変わらず死霊を見ていた。死霊は5体とも何故か男の方へ向かっていた。男の前に止まると、ホイッと男の身体に入っていった。隆鷗は、えぇーっとびっくりした。

 「お前はちょっと頭がおかしかっりする?」

 「いえ、特に。頭はいい方だと思います。」

 「いや、そうは見えないが」男がそう言っているうちに2体目がひょいっと入っていった。

 「なんか…大丈夫ですか?」と、男に尋ねた。

 「はっ、何が?って言うか?こんな空家で何してたんですかねと、聞いたよね。ちゃんと答えてくれませんかね。」

 3体目も入った。

 「いや、だから死霊を両断してました。って言いましたよね。そんなことより、なんか身体がだるかったりしませんか?」

 「死霊って何だよ。だるくない。元気だ。いや、どうだっていいだろう。」

 そして、4体目もスイっと入り、遂に続いて5体目も入ってしまった。隆鷗たかおうはごくりと息飲んだ。

 男は、剣を持った腕を震わせ始めた。

 「お前はこの空家の何なのだ?ここは平家の持ち物だ。お前も平家の者か?」

 「いや、平家の者ではない。が、本当に大丈夫ですか?腕が物凄く震えていますが?」

 「だ…大丈夫だ。ただちょっとだるい。いや、何でもないし、ちょっと何か腹が立ってきた。それで平家でも何でもないお前が何でここにいる?いや、死霊はなしだ。」

 「そう言われても、表を歩いていたら、すごい残穢を感じたので、入ってみようと。」

 「いや、何言っているの?ここは坊さんが幽霊見たからと勝手に入っていい場所ではないし、あぁ、なんか腹立ってくるし、ねぇ、刀下ろしいいかな?何にもしないよね。刀ぶんぶん振り回していたけど、刀下ろした途端ぶすっとかなしでお願いしたいんだけど、下ろしていいかな?ぶすっときたら、刺されたとしても、確実にお前殺すから。腕だるいんだよ。いいかな?」

 「あぁ、大丈夫です。ぶすっとはしませんから。それと幽霊ではありません。残穢です。」

 「そんなの、どうでもいいから。刀下ろす。」

 男は刀を振るい下ろした。それだけなのに肩で息をするほど、疲れていた。

 「なんだよ。これ。身体が思い通りならないんだけど?お前何かしたんか?あぁ、イライラする。」

 「いや、何も。ただ、わたしが死霊を両断した時、あなたが止めたから、5体仕留め損ない、それが全てあなたの身体に入り込んで…」

 「何言ってるの?あぁだるいし、腹が立つ。そんな馬鹿な話し信じられるか」

 「だるいのも、腹が立つのも、そのせいかも?」

 「かもって何だよ。どうしたらいいんだよ?だるいよ。」

 「あなたが飛ばした剣は人を切る剣ではないんですが、それを拾っても?それで何とかなるかもしれません」

 「えぇ?何をする気だ?」

 「一振りで1体、二振りで2体、身体から追い出せるかもしれないです。」

 「だからかもって何だよ。で、ちょっと聞くが、お前名前何て言うんだ?名乗れよ」

 「えっ、突然何ですか?」

 「俺、影近って言う者だ。俺は名乗ったぞ。だからお前も名乗れ。」

 かげちか。懐かしい響きだ。かげちか。昔、その名前を呼んでいた。

 「わたしは隆鷗たかおう。」

 「たかおうか。やっぱり隆鷗だよな。死霊を両断とか言っているし、そんなこと言うのは、やつしかいないんだよ。この世にはな。」

 「影近殿。影近殿、本当に影近殿なのですか?顔が…面影が全くなくなって…」

 「お前は、面影残っているな。そうだよ、そんな顔をしていたよ。なんかこうぼーうとして、まったく会話にならない斜め上の訳わからない事ばかり言ってくるから、本当に会話にならないんだよ。今みたいにな。」

 「えっ、そうなんですか?」

 「そうだ。俺くらいなんだよ。お前と長く喋れるのは。普通だったら、二言喋ったら諦めてやめているから。そんなことどうでもいいから、早く何とかしてくれよ。だるいし、くそ頭にくるし、何だよ5体って…」

 「分かりました。」そう言うと、隆鷗は飛ばされた剣を拾い上げ、影近に向かって一気に5回剣を振るった。影近の身体に入っていた死霊ががくがく震え、留まれなくなったように逃げ出していった。

 「普通の人が見たら、それ馬鹿っぽいから。俺だから理解できるんだよ。おぅっ、確かに変わった。」

 隆鷗は、剣を収めると、じっくり影近の顔を見た。見違えるように大人の顔になっている。

 「もしかして最初から分かっていたとか?」と、隆鷗は聞いた。

 「まさか…。忘れていたんだよ。お前が最初に死霊と言った時、ふざけた奴だと思ったんだ。でもお前と喋っているうちになんか懐かしい気持ちになって、遅れて気がついた。」影近は、今にも泣きそうになるのを堪えていた。「お前が突然寺を去ってしまったから、あの頃の記憶がもう無茶苦茶になってしまってね。まぁ言うても子供だったし。でも、なんでこんな所で偶然会うんだ?」

 「あぁ、さっきも言ったようにここの残穢が酷くて。」

 「だからって入って来ないだろう?なんか調べているのか?」

 「そうだね。」

 「言えないのか?ところで今、何処にいるんだ?」

 「呪術師のところで世話になっているよ」

 「あゝ、その関係で調べているのか?」

 「そう言う影近だって同じでしょう。平家なんて関係ないのだから。信蕉様に言われて何か調べているんでしょう。」

 「まぁね。」影近がそう言うと、突然隆鷗が剣を抜いて、振り回した。

 「おぅ、びっくりした。声を掛けてからやれよ。まだ死霊がいるのか?」

 「はい。ここはちょっと異常です。」

 「死霊がいない所はないのか?」

 「庭にはあまり出てこない。蔀の外だったらまあ大丈夫かも知れない」

 隆鷗がそう言うと、影近は、率先して蔀の外へ移動した。

 「まぁ仕方ないか。ここには誰も入って来ないから大丈夫だろう」と、影近が警戒した「あゝ、そう言えばここに入ってきて、なんかこう気分が優れないと思ったが、まんざら気のせいと言う訳でもなかったのか。でももしかして、お前が来る前、俺の身体の中に奴らは入り放題だったのか?」

 「いや、その場にいなかったので分かりませんが、今ので入った奴は全て出ていきましたので、もういません」

 「だったらいいが、でも俺はそれを認識出来ない訳だから心配してもあまり意味ないのかもな」

 「ええ、あいつらは基本見えない者には興味ないです。ただ怨念とか凄く激しい感情が残っているものもいるようで、そいつらは攻撃してきます。」

 「でも認識のない者は分からないよな。攻撃されてもさっきみたいにだるくなったり、いらっとするくらいだろう。」

 「そうですね。ただ奴ら疲れとか、時とか関係ないからずっと攻撃してきますよ。」

 「うーむ、なんか厭だな。凄く厭だな。確かに不幸になるな。わっ、考えたら怖いぞ」

 「地味ですが、確実に潰れます。」と、隆鷗たかおうは不気味な笑みを浮かべた。「ところで影近殿。ゆっくり話したいところですが、ここに入ったのは、他の空家にはない残穢を感じたからなのですが…」

 「それだよ。そんな話しが聞きたかったんだよ。なのにお前ときたら、だいたい話しを端折るから聞いてるもんにはほぼ伝わらないんだよ。」

 「なるほど…。」

 「なるほどじゃない。昔もそうだったよ。だいたい5文字以上喋らなかったから、お前の言いたいことを推測するのにどんなに苦労したか分かっているのか?それで何だよ。その残穢とは?」

 「あっ、うちの呪術師からも言われます。」

 「だろう。それで?」

 「はい。一塊の、共通の怨みと恐怖を持つ巨大な悪霊のようなものです。うちの呪術師が、それは儀式ではないか。と推測しまして、例えば人が生贄にされたのではないかと。」

 「儀式か?それは祓いや呪いと関係あるだろうか?」

 「祓いには関係あると思います。古くから神を鎮めるために生贄を供物にしますので、祓う訳ではありませんが、鎮める効果がありますし、何かと引き換えにする為にも生贄を供えることもあります。そう考えるとどうでしょう。呪いはどうかな?呪ってもらう為に供えることもあるのかな?しかし普通の人はそんな事深く考えませんよね。神を鎮める…ことと、祓うことの区別ってつくのかな?」

 「なんだよ。呪術師のところにいる割には、適当だな。どうせそこまで興味ないんだろう。」

 「あぁ、ばれました?」

 「しかし、神か?妖怪や霊の類いではないのか?神であるのなら祓わないな。いや祓えないのか」

 「神ではなく邪神かもしれません。よほど強い霊能力があれば邪神は祓えるかも。それに呪いではないけど、祟りはあります。」

 「邪神かぁ…この家少し調べてみたんだが、驚く程短い時間で家族全員亡くなっているんだよ。死因は皆ばらばらなんだが、亡くなる前に祓い屋が出入りしていたのではないかと、信蕉様が仰るのだが、それを調べているんだけど、なかなか確証が見つからない。」

 「あぁ、なんかわたしが調べていることと、似ていますね。今うちの呪術師があるお宅に潜入しているんですが、そこにいた者からのふみでは、ある侍女からこの家は祓い屋に乗っ取られていると聞いたが、その事実がなかなか見つからないと言う事だそうで、その侍女もいなくなり、殺されたのではないかと言うんです。」

 「おぉ、祓い屋か。隆鷗、話してくれて有難い。そう言う話しは大概秘密にするんだが、お前が馬鹿で助かったよ。」

 「そんなこと言うんですか?じゃあ、もう話しませんよ。」

 「冗談だ。俺は今でもお前を弟のように信頼しているさ。ここはひとつ情報交換しよう。何か悪い予感がするんだ。急がないと何か良くないことが起こるような気がするんだよ。まぁ、俺の勘だけどね。」

 実は、影近がすごく勘が鋭いことを隆鷗は知っている。子供の頃の話しではあるが。影近は、唯ならぬ剣の使い手だ。それはいつも相手の行動の数歩先を見ることができ、ほぼ同時に動くことが出来るから、敵無しだったのだ。大人の剣術家でもそうそう影近に敵う者などいなかった。隆鷗は、ある時信蕉から聞いたことがある。

 「影近は、目の前で両親と妹を殺され、その異常な光景に思考と身体が一度崩壊している。そして影近は、己の強い力でその崩壊した、ばらばらに千切れた思考と身体を力づくで組み立て直したような作業をやってのけたのだよ。その時、記憶と感情が消えて、目の前にある光景だけが影近の全てとなった。それから一歩一歩歩み続ける度に目の前の光景が変化した。先の光景を完璧に予測することができるようになったのだ。流れる空気を感じ取り、どんな小さな音でも聞き分け、匂いを嗅ぐ。五感全てが鋭敏になったのだろう。お前と境遇が似てるな。ただ獲得したものは違ったが。」そう言うと信蕉は微笑ほほえみ「ただな、隆鷗。両親や兄妹が目の前で殺されるような、そんな事態がこんなに多い今の世があまりにもおかしすぎると思わないか?そんなこと異常なのだよ。」

 隆鷗は、信蕉の言葉を思い出していた。誰とも口を聞かなかった隆鷗だったが、その言葉で明らかに影近との関係が変わっていったのを覚えている。そして、異常なこの世という意味がよく理解出来なかった。しかばねが転がる町中まちなかで、人が人を罵り合い、大人も子供もひもじい思いをして、盗みを働く。そんな町の光景ばかりを子供の頃から見てきたので、その異常さが分からなかった。そうではない世界が存在するのだろうか?それが普通の世界なのか?もはや分からなかった。ただ信蕉から、「安寧な世が本当の姿である」と聞かされていた彼らの心の奥深くには、見たこともない平和な世界が根付いていた。

 そして、ひどく漠然と、この世には仕組みというものがあり、その仕組みが人々を争いへと導いているに違いない。と、感じてはいるが、その仕組みを理解していなかった。しかし、仕組みを理解し、強い力を持っていれば変えられるのではと、隆鷗は信じていた。信蕉は言う。強い力とは権力ではない。一人一人が平和を願う強い想いがなければ、決して一人で強い力を抱くことなど出来ない。一人の力は弱いものだよ。

 隆鷗は、それがよく分からなかった。ただ隆鷗の中で人一倍、それを願う心はあった。せめて、周りの大切な人の幸福を願う気持ちは強く抱いていたい。と、思った。

 「影近殿、もし良ければ一緒に探してみませんか?その共通の怨みや恐怖を持った一塊の悪霊を」と、隆鷗の眼光が鋭い刃のように輝くのを影近は見逃さなかった。

 「当然だ、隆鷗。そうだ。お前は昔、悪霊を両断する、恐ろしい技を持っていると、信蕉様から聞いたことがあるぞ」

 「そうですね。悪霊は死霊とは別物です。子供の頃は純粋だった故、何も考えずに出来ていましたが、今はそれが簡単なものではないと理解してしまったのですよ。だから容易ではないのです。」

 「なるほど。理解した故、余計な事を考えてしまうわけだ。だったら単純に考えることを覚えればいいだけのことでは?」

 「なるほど。影近殿。ここから奥へ向かって北側の方角から厭な流れを感じる。」

 「あゝ、先程一通り見てきたが、奥はおそらく母屋のような大きな建物があったな。その北側はうーむ離れになっていたかな?」

 「そこです。行ってみましょう。」

 「おうよ。」

 二人は早足に母屋を囲む廊下を通り北側の渡り廊下に向かう。母屋と対になっている北屋を見ると、思わず立ち止まった。辺りに立ち籠める強烈な匂いが北屋を中心に広がっている。

 「なんだこの匂いは?」と、影近が堪らず叫んだ。

 「獣の腐った匂い?」隆鷗が言う。

 「獣?果たしてそれは人の死骸と見分けがつくものなのか?」

 「つかないかも?」

 「これは俺にもわかるぞ。北屋から漂う悪霊の気配か?」

 「さっき一通り回った時は気づかなかったの?」

 「すまない。北は行かなかった…。いや、確かに厭な匂いがしていたのは気づいていたのだが、空家になって随分たっているし、そのせいかな?と思って…いや、気づいていたのだ。こっちから匂っているのは。でも無意識に臭いのを避けた。俺は駄目だな。臭いからこそ行くべきだったな。」

 「でもこれは悪霊とは関係ないと思うけど、でも厭な感じは確かにあそこから漂ってくる。動物の死体でもあるのかな?」

 「人だったりして」

 「とにかく行ってみましょう。」

 二人は北側の渡り廊下をゆっくり歩いた。

 「鼻がひん曲がりそうだ。」

 「影近殿が避けたい気持ち分かります。」

 北屋の妻戸の前に立ち、用心深くゆっくりと両開きのドアを、右が影近、左を隆鷗が開いた。影近が少し大きめに開くと、隆鷗は手を止めた。更に強烈な匂いが一気に噴き出てきたからだ。それに悪気を一気に浴びた隆鷗は、眩暈めまいを起こした。

 「これは…」と、影近は鼻を抑えた。「おい、隆鷗大丈夫か?」

 「間違いなくここですね」

 「俺が先に入ってみるよ。悪霊なんて見えなければなんでもないだろう?」

 「その存在を全く知らない人にとってはそうかも知れません。しかし、影近殿はわたしを通してその存在を知ってしまった。だからそうとは言い切れません。」

 「屁理屈だな。それよりさ、隆鷗、敬語やめてくれないかな?昔通りで頼むよ。」

 そう言うと、影近は刀の柄を持ち中に入っていった。

 「はい。そのうち。あっ、でも五文字は厳しいかな。」

 隆鷗も影近の後を追った。中は何もない広い板張りの空間だった。外光が遮られ昼間でも暗くて、すぐには匂いの根源を見つけることはできなかった。しかし明らかに得体の知れない何かがいた。影近ははめ殺しになっていた格子の蔀を蹴り飛ばして外光を部屋に入れた。板張りの空間は細長い。奥にまだ部屋があるのか御簾が垂れており、それを開くと、なんとそこには牢屋を思わせるような格子があった。そこまで外光が届いていないので闇のなかだったが、明らかに部屋の中央で何か黒いものがゆっくりと動いている。そこから強烈な匂いが発せられていた。影近は目を凝らして、黒いものの正体を見極めようとしていた。その時命を脅かすような、地面を這う低い唸り声が聞こえてきた。危険を感じた影近は咄嗟に、もう一枚の蔀を蹴り飛ばし、更に外光を入れた。格子の向こうに光が差し込み、その中に得体の知れないものが入り込んだ。その瞬間、それは暴れ始め、唸り声を上げながら部屋中を走り回った。しかしすぐにうずくまり呼吸を荒げた。

 「おい、隆鷗、俺にも悪霊が見えたぞ。」

 「いや、そいつは生き物だ。野良犬か?何かか?」

 「なるほど、悪霊ではないのか。」

 「しかし野良犬にしては奇妙だ。顔はただれ、よだれを異常に垂れ流し、光を畏れていた。毛は殆ど抜け落ち、そこら中に散らばっている。そして何より注連縄しめなわが床に落ちている。こいつが野良犬という保証はないかも」

 「いや、野良犬だな。こんな犬のことを信蕉様から聞いたことがある。病に罹っているのだろう。病によっては人に移る場合もある。咬まれたり、涎や血にも触れない方がいい。」

 「うーむ。そんな話、多分信蕉様だから知っているのですよね。うちの呪術師も知ってそうだが。しかし、多くの人は知らない。」

 「あゝ、注連縄だな。騙せるな、これは」

 「騙すというより、知らないのでしょう。本気で祟りや呪いの類いのものと結びつけていたかも知れない。もし知っててやっているのなら、そいつは本当に畜生だな」

 その時、蹲っていた野良犬が立ち上がり、凄い勢いで格子にぶつかってきた。めりめりと音を立てる格子に恐怖を感じる。

 「いずれにしても放って置けないな。相当苦しんでいるように見えるな」

 「そうですね。」

 隆鷗は険しい表情で野良犬と部屋の片隅を交互に見ていた。その様子に緊張して、「いるのか?」と、影近が尋ねる。

 「はい。部屋の隅に、歪な形をした何かが。犬を怖がっているのか?警戒している…というか、我々の訪問を警戒しているのか?恐らく野良犬はずっと眠ったままだったのでしょう。犬が突然動いたので驚いたのか?今はただざわざわしているみたいだ。」

 犬は動きを止めた。身体が激しく波打っている。そして地鳴のように呻いている。

 「あゝ、もう力が残っていないのだろうな。」と、影近が呟く。

 立ち上がろうとする気概は感じられるものの、もう動けないようだ。犬が弱まっていくと、悪霊の動きが攻撃的になっていく。どれくらいの時間閉じ込められていたのかわからないが、犬と悪霊は互いの存在で均衡を保っていたのかも知れない。悪霊にとって犬の存在は脅威となっていたに違いない。そして犬は、死に近づく度に悪霊に飲み込まれることを知っているから、生命が尽きるまで悪霊を遠ざけていたのだろう。

 「悪霊は、この犬に殺された者たちなのでしょうか?犬を畏れながらも強い怨みを持っているようです。」

 「犬が殺したとしても、何か人為的なものを感じるな。犬が人を襲うのは野生なりの理由があるからだ。無闇に殺しはしない。ましてやこの犬は病気だ。あの牢屋のなかに人を入れたら、容赦なく襲ってくるだろう。犬を取り囲むように置いてある注連縄に卑劣さを感じるな」

 「あゝ、そうですね。この犬は祀られたか、封印されたかのどちらかでしょうね。」

 「もしもだが、お前の言う儀式として生贄をこの犬に捧げていたのならば、時をかけて苦しんで死んでいった者がいるということだな。そんなことをする奴は本当に畜生だ」

 「犬の死が近いようです。悪霊が活発に動き始めました。」と、隆鷗が剣をゆっくりと抜いた。「格子を抜けてこっちに来ます。影近殿は外へ」

 「俺は大丈夫だ。悪霊なんて見えないからな。」

 格子の間から、もはや人の形を保っていることができない異形のものが隆鷗と、影近にゆっくりと近づく。影近は何かを感じとったのか、身震いをし、嘔吐しそうになる。異形のものはいつのまにか犬を取り込み、先程とは形を変え、より凶暴になっている。隆鷗でさえ恐怖を感じた。予測不能の、異形の動きが隆鷗の動きを封じる。影近がそんな隆鷗を助けようとしていたが、影近も嘔吐感で思うように動けない。「隆鷗」と、声を出してみるがなかなか届かない。異形のものが分裂し、幾つかに増えると、寸分の隙もなく攻撃してくる。それに触れると精神的な苦痛が伴う。見た事もない幾種類もの暗鬱な光景が次々と頭に浮かぶ。次第に辺りの風景がそれ其の物に変化して、今自分が何処に立っているのか分からなくなる。やがて時の感覚も無くなってしまった。時折黒い塊が隆鷗の身体に激突してきた。それが何処からやって来るのかまるで感覚が掴めないので、剣を振うことさえできない。勿論激突の衝撃も痛みもある。ふらふらになるまでその攻撃が続き、ついにひざまずいてしまった時、最後に飲み込まれた野良犬が牙を剥き隆鷗の肩をがぶりと噛んだかと思うと、味合ったことのない締め付けを感じ、気がつくと、左肩から腕を食いちぎられていた。それを見た隆鷗は恐怖で叫び声を上げた。その時、影近の言葉を思い出していた。物事は単純なのかも知れない。

 影近は言った。悪霊なんて見えなければ、何ともないだろう。

 確かに理屈はそうである。

 しかし見える者にとって、他の者には見えていないものからの攻撃を受けると痛みを感じてしまうのは何故だろう。呪いも同じである。呪いの存在を知って初めて効果を発揮する。それは人の仕組みではないだろうか?隆鷗はゆっくりと立ち上がった。

 目の前にある、醜く千切れた自分の腕は、もしかしたら存在していないのではないだろうか?腕はある。ここにあるのだ。確かに指を動かしている感覚、関節が動く感覚、肘を曲げる感覚、全てここにある。その時、再び分裂した一塊の黒い影が隆鷗を襲った。咄嗟に両手で剣を持ち黒い影を切り裂いた。瞬間、周りの風景が北屋の室内の風景に戻った。格子を挟んで野良犬の、息絶えた姿が飛び込んできた。相変わらず黒い異形のものもそこにいる。

 「おう、戻ってきたか?」影近が言った。

 「あぁ、心配かけました。」

 「何が起こったのだ?叫んでいたぞ」

 「はい。地獄のような光景のなかにいました。野良犬が悪霊に取り込まれ、わたしの左腕を肩から食い千切ったのです。わたしは何が起こったのか分からなかったのですが、目の前の食い千切られた腕を見て叫んだのです。だけど影近殿の言葉を思い出しました。それで戻れたのです。」

 「なんだそれ?幻覚を見せられたのか?」

 「はい。」

 「まだ、悪霊はいるのか?」

 「はい。でも、危険な野良犬は死にました。だから影近殿には見えていない、あのような悪霊など関わらなくていいのです。放っておきましょう。少しでも関わりを持とうとするからつけ上がるのですよ。」

 「おぅ、同感だな。しかし、見えているお前が関わらないのと、見えてない俺が関わらないとでは大きな違いがある。想像もつかないような強い精神力を持っていないと成立しないな。」

 「そう言うところが影近殿のすごいところなのです。優れた想像力を持っているし、他者の立場を容易に受け入れられる器の大きさ。それは誰も持ち合わせていないのですよ。」

 「へぇ、そうなのか?」と、影近は照れながら言った。「しかし、あの野良犬は何なのだ。野良犬と言うより山犬みたいだったけど?ここに住んでいた平家と、祓い屋と関係あるのだろうか?」

 「犬自体人間より長く生きられませんし、あの犬がその時生きていたとは考えにくいです。」

 「そうだよな。うーむ」

 二人は空家を後にして町に出た。通りの賑わいを背に向け長屋の軒下に佇んだ。

 「犬が勝手に入ってきたのだろうか?そしてご丁寧に注連縄を締めた。うーむ、何のために?あの犬の病は珍しいものだよな。そうそう見かけないよな?」と、影近が尋ねた。

 「そうですね。それですかね。種ですかね。怖い話しだけど。あの病を絶やさないために常にあのような病の犬を出来るだけ長く生かしているとか?」 

 「別の犬に病を移すために?だとしたら、あの犬は死んだよな。新たな犬に移して、用済みということだろうか?いやいや考えにくい。あの家のものが亡くなって、どれくらいの時がたっているだろうか?その間いったいどれくらいの犬が必要だったか、想像もつかない。」  

 「そうですね。あの犬と、死んだ屋敷の住人は関係があるのでしょうか?もう随分時が経っていますし、関係ないと思います。でも、ここに出入りしていたという祓い屋は関係あるのかもしれないですね。いずれにしても何らかの理由で何者かが、あの犬を閉じ込めているんですよね。それにあの北屋の奥の牢屋のようなものも気になりますよね。端にはご丁寧に閂のようなもので戸が開かないようにしていましたね。あれは当時のものですよね。」

 「嫌な予感当たるかもしれないな。隆鷗、今度ゆっくり会おう。俺は心配だから行くよ。」そう言うと影近は、閃光のような速さで去って言った。

 隆鷗は見送る間もなく、影近が去った方向を歩き始めた。この案件は、恐らく影近が追っているものと同じだと隆鷗は考えていた。

 今は平家のものとなったあの空家からこぼれてくる悪霊の執念は、何処か譜薛ふせつの妹の後を追ってきたものと感じが似ていた。

隆鷗は、影近ほど速くはないが、人の往来を避けながら、急足で寿院の元へ向かった。影近と同じで厭な予感がした。寿院は、隆鷗の能力を目の当たりにしながらも、こうした現象を信じない、おそろしく現実的な思考をしていた。ある意味、隆鷗の能力を認めながらも物事を冷静に見ることができるのだが、予知者と祓い屋の話しを聞いた時の茶化した寿院の呑気さがどうしても気になった。もしも、病に罹った犬と関係のある祓い屋だとしたら、寿院に対峙は無理だと思った。真正面から物事を見据え正しい手順で騙りを見抜いていくあの純粋な力が崩壊するほどに、この祓い屋の存在は不気味で不快だった。寿院は決して弱くはなかったが、このような悪意のある不気味で不快な存在に出会ったことがあるのだろうか?以前出会った物乞いの童のことさえ、あんなに楽しく語るのだから。

 隆鷗は町の中を急いだ。そんな時通りの向こう側の人だかりが目に飛び込んできた。思わず足を止めて、目を凝らした。人だかりの中から、すすのような黒い影が空へ伸びている。

 「なんだ?」

 隆鷗はゆっくり人だかりへ歩み寄った。人だかりの中心は琵琶法師だった。そして琵琶法師の隣には、白く輝く子供の幽霊がいた。隆鷗は、白く輝く幽霊などこれまでに一度も見たことがなかったので、すっかり見入ってしまった。子供の幽霊は恐ろしい目をして一点を睨んでいた。その視線の先にいたのが、煤のような黒い影を纏った女だった。隆鷗は子供の幽霊と、その女を何度か交互に見ていた。琵琶法師の歌声が響く。まるで呪いの歌だ。子供の視線が隆鷗の視線を捉える。そして隆鷗に教えるように黒い影を纏う女を指差した。それに応えるように再び女を見た。女は今にも琵琶法師に襲いかかりそうに刀の柄を握り締めていた。そして黒い影が騒ぎ始めた。

 琵琶法師が歌をやめた。

 「さぁ、今日はこれでしまいです。」

 人だかりがゆっくりと散っていく。しかし女は去らなかった。歯軋りをして琵琶法師を睨んでいた。

 「さて、わたしは目が見えないのだが、お前さんは誰なのか?お前さんの殺意は不思議と見えるのだが。」

 琵琶法師の問いかけに女はただ黙って睨んでいる。

 隆鷗も気付かれないように剣を掴んだ。

 「お前は命知らずだな。何者なのだ。今度そんな不届きな歌を歌ったら死ぬぞ。」と、女が言った。

 不届きな歌?隆鷗はあまり歌を聞いていなかったが、やはり呪いの歌だったのだろうか?

 「ただの噂話ですよ。昔から歌っていましたが、何を怒っておられるのかな?」と、琵琶法師が言う。

 そこに隆鷗の背後から静かに囁くような女の声が聞こえきた。

 「あらっ、あなたは…そう、黒根戒様ですね。」

 黒い影を纏う女は、はっとして、見られたくないように顔を背けた。

 「こんなところで事を起こしてもいいのかしら?」

 隆鷗が振り返ると、そこには白拍子の女が立っていた。女は、隆鷗の顔を見るなり驚いた顔をした。

 「あらあら、あなたは隆鷗様、寿院様とよく一緒にいらっしゃいましたが、今日はお一人なのですね。」と、白拍子の女が言った。

 「えっ、誰?貴方の事知らないですが、何処かでお会いしましたか?」と、隆鷗は驚いた。

 「いいえ。あなたは私のことを知らないはずですよ。」と、白拍子の女は微笑した。

 「詩束しづか殿ですか?」と、琵琶法師が言った。

 「はい。詩束しづかです、夜一様。夜一様の目の前にいる女子おなごは危険ですよ。この女子おなごは手鞠さんを殺めた女子おなごです。私は偶然見ておりました。いつしかその女子おなごが夜一様を見張るようになりましたので、わたしも気にかけていました。」

 「おぅ、詩束しづか殿はお優しい。さて、そこの女子おなご、わたしに何か用がおありか?手鞠を殺めていながらよもやわたしの命までも欲しくなったか?わたしが黙ってお前に斬られるとでも思っているのか?随分時が経ったがお前のことは当然仇と思っている。命を取られるのは、さてどちらかな?」

 そうした会話を聞きながらも隆鷗の、剣を握る手は強くなる。咄嗟に剣を抜けるように準備していた。

 「世迷言を。貴様らは何の話しをしているのだ?わたしはただ琵琶法師がいい加減な歌を歌って世に広めていることが許せないのだ。」

 「左様でございますか。ではお望み通りこの歌は歌いますまい。だが、手鞠の仇をただ黙って見過ごすとお思いですか?」

 「いったい何を言っている。たわけた事を。そして、そこの女。わたしの名前はお前が申したような名前ではない。勝手な事を申すな。今度、そのようないい加減なことを言ったら、ただじゃ置かない」そう言うと、黒い影を纏った女は踵を返し、急いで去っていった。

 その時、琵琶法師の傍にいた子供の幽霊が隆鷗の衣服を掴み、必死になって黒い影を纏う女を指差しながら、まるで逃がすなと、叫んでいるようだった。子供の幽霊が掴んだ隆鷗の衣服が不自然になびいていることに誰も気づいていない。

 「すみません。わたしはどうもあの女を追わなければならないようです。頼まれてくれませんか?結構歩きますが、この先に藤家があります。そこに、先程あなたが仰った寿院がいます。それに、わたしは怪しい女の後を追った。と…」と、隆鷗は、白拍子の女に頼んだ。

 「寿院様ですね。」と、白拍子の女は微笑を浮かべた。「絶対逃がさないで下さいまし。寿院様もそれをお望みでしょう。それにあれは手鞠さんの仇です。それは間違いないのです。あの女はこれまで己を欺いておりましたが、今は本性曝け出しております。わたしが思いますに危険な状況と存じます。」

 いったい何者なのだろうかと、思いつつ隆鷗は、早足にその場を去るしかなかった。琵琶法師、夜一、それに手鞠。何もかも何処かで聞いたことがあるような気がして仕方なかった。

 隆鷗は、寿院が話していたあの日殆ど眠っていたので、何も覚えていなかったが、そうした名前を無意識のうちに捉えていた。あの黒い影を纏った女は間違いなく自分の最大の敵だと確信していた。

 「夜一様、わたしが何故、あの場に偶然いたと思います。」白拍子の女は言った。

 「はて、あの場とは?」

 「あの日、わたしはまだ子供でした。子供でありながら傍観者を気取っておりました。更に申しますと、それよりもっと前からあの黒根戒を見ていました。わたしは、子供は皆等しく無垢だと思い込んでおりました。しかし、わたしが記憶し始めた黒根戒は、すでに悪魔のような子供でした。感情を何処かへ置いてきたのか喜怒哀楽が欠け、自分の興味があるもの以外の記憶を留めることができない。いえ、そうした記憶など黒根戒にとって無意味なものでしかないのでしょう。記憶を留めるに値するものは強い憎しみや怒りのみ。常にその感情に晒されているものだから、強い喜びさえ、変色してしまう。今、黒根戒を動かしているものは、あの日平家から一族を皆殺しにされた記憶。私は見ていました。あの日、平家の者に斬られる時、弟を盾にし、無残にめった斬りにされた弟を投げ棄てた悪魔を。その時、手鞠さんが弟を助けようとしました。その手鞠さんを斬ったのが、黒根戒。あの悪魔は夜一様、手鞠さん、そしてもう一人、物乞いの子供のことをしっかり記憶しています。そして、今名前が出た寿院様。寿院様は黒根家を追い詰めていました。しかし、寿院様自身そのことにまったく気づいていません。ですから、私は、あの方の約束を果たさなくてはいけないのです。多くのものが殺されてしまうでしょう。」

 「わたしも一緒に参ります。寿院様のところへ。」と、夜一が言った。

 「そうですね。一緒に参りましょう。寿院様は、自分が狙われていることなど、微塵も考えていらっしゃらないでしょうね。本当呑気な方ですね。」と、白拍子の女は微かに笑った。

 しかし、暫く歩くと、白拍子の女は歩を止めた。

 「夜一様、伝言をお願いしていいですか?私は、隆鷗様のことが気になります。今は隆鷗様にあの女のことを伝えなければいけないような気がします。いずれあの二人は戦うことになるでしょうから。」

 「そうですね。寿院様とは付き合いが長い。任せて下さい。」

 夜一がそう言うと、白拍子の女はその場を去ったかと思ったら、あっという間に小さくなった。詩束という女とそんなに親しくはなかったが、初めて会った時から不思議な感じがした。今見ても、やっぱり不思議な女子おなごだと夜一は思った。

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