愛別離苦II 神々は欲情を離れず
「これはこれは随分と身勝手な。まるで魔障の者だ。『お釈迦様の前では一弟子に過ぎない』と自ら称する天上の王のお言葉とは思えませんね」
柱の影から聞こえた声に対し、帝釈天は返事の代わりに目を細め羂索を構えた。その手の先から流れる雷の気が満ちた綱には青白い閃光が絶え間なく走っている。白雲は数秒置いて状況を理解し、慌てて剣を抜いて身構えた。彼らは阿修羅族の王が送り込んだ刺客だ。
「阿修羅共め、陛下の玉体に指一本でも触れられると思うな!」
「白雲天子、一旦待て。四刃阿修羅は私に話があるのだ、聞いてやらねばならない。ただ、他の者はそうではないようだね。大人しくしたまえ」
忉利天の皇帝はそう言い終えるや否や羂索を投げた。刺客達もめいめい得物を手に斬りかかったが、縄が身を掠めた瞬間に如何なる剣で貫かれるよりも鋭い痛みと猛烈な熱に苛まれ、その場に倒れ伏すより他になかった。そうして同胞が次々と縛り上げられ昏倒させられていく中、残された四刃阿修羅は舌打ちをした。標的は鎧も着けず武装は羂索一本のみ、護衛も未熟者の白雲一人だというのにこの有様か、と。
「正月早々私の首を取りに来るとは、如何にも義父上の使者らしい。さて四刃阿修羅、先程のきみの言葉について我々に説明してもらおう。武器を収めてこちらに来てくれ、顔を見て話した方がお互い良いだろう」
帝釈天の顔には微笑が浮かんでいた。それが益々気に障ったのか、四刃は細槍を彼の胸に向けて投げた。白雲がすかさず飛んできた槍を自らの剣で叩き落した。
この四刃という男は白雲にとっては父の友人であり、皇帝本人もそれを認識していたらしく忉利天の王都に忍び込むのも半ば黙認されている。が、そうは言っても彼は阿修羅族の一員で、帝釈天暗殺部隊の指揮官である。彼が来る度に近衛兵の白雲は今度こそ帝王の堪忍袋の緒が切れるのではないかと不安であった。本来の任務を遂行しようというのならば、犯罪者として扱われなければならない。
「陛下、恐れ入りながら……」
「案ずるな、そう簡単に殺しはしない。ただ、我々の法に則り神々の王に刃を向けた報いに相応しい痛みは与えなければならない。彼らにとってもその方が良いだろう。あちらでは無傷で帰れば喜ばれるどころか寝返りを疑われ処刑されかねないからな」
帝釈天はそう言うと、柱を飾る七宝の装飾に軽く触れた。帯電した一繋がりの金銀細工は彼の意の儘に柱を離れ、輝く網となって四刃に覆い被さった。当然、神の雷を全身で浴びた阿修羅は言葉を成さない悲鳴を上げ、床に倒れ伏した。彼は痛みに呻きながらも帝釈天を睨みつけた。
「このッ、蜘蛛が……!」
「ほう、それは私の方が
天の皇帝の指が、宝石で飾られた網の端を掴んだ。再び走る電流に動かされるまま、網は四刃の体に巻き付いた。
「好きに己惚れているがいい、だが、舎脂姫に対する貴方の所業は蝶を捕らえて楽しむ蜘蛛のそれだ。掛かった獲物が愛欲にもがき業に雁字搦めになっていくのを眺めるのは愉快か? 神々の国へ繋がる糸が輪廻の苦しみから脱出する道と誤解させ、自らのねぐらに誘き寄せて貪る畜生の振る舞いを楽しむ者が尊者気取りとは実に笑わせる。恣意的に解脱の道を閉ざすのが仏に従う者の愛か?」
四刃の刺々しい言葉を耳にして尚、帝釈天の微笑は崩れなかった。寧ろ、怒りを抱いたのは傍で聞いていた白雲の方であった。
「黙れ! それ以上陛下の愛を愚弄するならば、恩義ある方とはいえ斬らせていただく!」
彼はそう怒鳴って剣を振り上げ威嚇したが、彼の主君はその右腕に諭すように軽く手を添え、降ろさせた。四刃は遠慮なしに話を続けた。
「そもそも、舎脂姫の前世であった人間の娘には家族がいたはずだ。人間の世界で婿として暮らす気も無い者に娘を骨抜きにされた彼らへの憐れみはなかったのか」
「彼らには償いとして、生活に困らないだけの財を与えたが。それで彼らも悪い話ではないと納得していた。なにより、私は彼女の意に反することは望まない。故に、舎脂への求婚の際も、義父上のまさに目の前で他の求婚者と公正に選別を受けた。義父上はすっかり忘れておられるようだがね。そもそも、先程からきみは私が舎脂を弄んでいるかのような物言いをしているが、この縁は私と彼女のものであって、私もまた彼女無しに生きることなどできはしない。その結果が今生だ。それができるものなら、私は前世でとっくに悟りを求めて出家していたよ」
白雲は帝釈天の自信に満ちた物言いを傍らで聞いていた。彼の考えでは神々の帝王の言葉に誤りなど滅多にない筈だった。王がかくの如く愛する者を求めるのであるから、彼にもまた家族と再会する望みが許されるに違いない……。
しかし、帝釈天の言葉を聞く内に、ふと彼の心の底に不安が生まれた。白雲が当然得られると信じ込んでいたものは、果たして確かに存在するだろうか。だが、その疑念を強めてしまえば、彼の望みは否定されてしまう。
「それも如何にも無上の贅に溺れる者らしいお言葉だ。自らの死の淵が遥か遠くにあるとの自信をお持ちであるからこそ、前世を懐かしむような物言いができるのだろう。死を前にして尚も同じ振る舞いができるかどうか、是非とも目の前でお示しいただきたいものだな」
「無理な相談だ。間違いなくきみの方が先に命が尽きるのだからね。それにしても四刃阿修羅は短気なだけかと思っていたが、随分とよく仏の教えを理解しているね。阿修羅にしておくのは勿体ないほどだ。一般に言って人間に対する天人の振る舞い方については、概ねきみの言うとおりだ。神の縁と人間の縁のどちらが優れているわけでもなく、またそもそも釈迦如来様のお考えでは家から離れ愛欲から身を遠ざけることに努めるべきだとされている。さて、白雲天子、これでわかっただろうか」
突然に自分の名が天帝の口から出たことで、白雲は心の内を言い当てられたかのように感じ身を震わせた。
「陛下、なんのことでしょうか。私は阿修羅の言葉よりも陛下のお言葉の方が理にかなっていると信じております」
「きみの望みについて、私も四刃阿修羅も考え直すべきだと認識している。それに、私にはきみの心も視えているよ。かつてのきみの父を唆し神に転生させたところできみの望む者には成らないかもしれないと気づいたのだろう。その通りだ。一度きみが本当に必要とするものを省みると良いだろう。私はその執着を消すための相談ならばいつでも乗るよ」
もはや反論はできなかった。白雲の胸の奥に沸き、帝釈天の言い当てた疑念は確信に変わった。彼の望んでいる「彼を無条件に愛してくれる父」は実体なき彼の願望に過ぎず、永遠に手に入らないのだ。
「さて、そろそろ招かれざる客には退出してもらおう。その前に、きみの要件は私の首を取ることだけか? それとも
神々の王の声は穏やかであるが、口から出た言葉は実に剣呑であった。四刃も負けじと言い返した。
「一語一句そのまま申し伝えさせていただきますが、偶には我々をそちらのお城にて御もてなしになられてもよろしいのでは? 貴方様の座は我が王にとってさぞ座り心地が良いでしょうね」
「全くその通りだよ。常に隣に大変愛しい人がいてくれるのでね。では私は次の式典に向かう。白雲天子、後は頼んだよ」
帝釈天はそう言うと、再び即席の網の端を掴んだ。すぐさま音を立てて青白い稲妻が走り、四刃は激痛のあまり気を失い微動だにしなくなった。
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