愛別離苦 置いて行かれた者と取り戻した者の話

 三十三の層に分かたれた忉利天の最上層に位置する善法堂の衛兵、白雲天子は背後で行われる神々の帝王にして忉利天の統治者帝釈天の新年祝賀の御言葉を聞きながら、ふとかつて自分の父親であった者のことを思った。

 たった一度、一瞬の再会であったが、あれから地上では何年経ったのだろうか。人間の寿命は短い。間違いなくワンポ・ナムギャルは既に亡く、次の生でも人間であればそろそろ再度の転生を迎える頃であるかもしれない。

 

「——昨年は、とりわけめでたいことがあった。かつて私の近衛兵であった瑞雲天子が、度重なる転生の末に悟りの道を歩み始めたのを私はこの千通眼で見た。残り七回の転生の内には、彼は菩薩となるであろう。一優婆塞としてこれほど喜ばしいことはない。諸天らも彼に倣い、いずれ訪れる今生の終わりを恐れることなかれ。なんとなれば、忉利天の者は解脱できず、仏・菩薩や梵天王の座す天に昇ることもできず、生きて他に行ける場所といえば修羅道つまらぬところしかなく、次に人として生まれるより輪廻の苦から逃れる術はない故に——」

 それまで耳に留まらず流れて行くのみであった帝釈天の言葉が、突然白雲天子の頭の中で意味を成し始めた。

(瑞雲天子……父上)

 天の帝が一介の近衛兵に過ぎなかった彼の父を気に掛けてくれていたのだという喜びと同時に、父の行く先についての悲しみが生じた。

 仏への道を歩むというのはこの世の全ての情ある存在にとって無上の善道だと、彼の主君は繰り返し口に出しているが、白雲には実感が沸かなかった。

 生まれつき他の五道の住人より遥かに安楽な暮らしが約束された忉利天の住民の多くにとって、彼らより上位の世界に住み、慈悲の心から下の世界の者に施しを行う菩薩の有難さを理解することは難しい。白雲天子も同じく、こう思うだけである。

(それでは父は、二度と天人として生まれず私と再会することもないのか。)

 やがて祝賀の儀も終わり、参列者達は静かに退去を始めた。白雲は去って行く者達の流れに逆らい、帝釈天の姿を追った。その内容に対する感情はどうあれ、父に対する「勿体ないお言葉」への礼を奏するべきだと彼の感覚が命じていた。


 神々の帝王は通路に立って白い蓮の花が咲き誇る美しい庭園を眺めていた。彼の外見は人間でいうところの三十歳程で、常に感情を抑えた顔は生来美しい神々の間でもとりわけ整っていた。例年、元日から式典と訪問者との会見引見また行幸と天の国の皇帝は多忙であるが、幸いこの時は衛兵以外には彼の傍に誰もいなかった。白雲は膝をついて帝釈天に奏した。

「陛下、瑞雲の倅の白雲でございます。陛下の御言葉を賜ったことを、亡き父に代わりましてお礼奉ります。父は、……」

 彼は言葉に詰まった。本心では、もはや如何なる輪廻の道を辿ろうと父瑞雲と再会できることはないのかと尋ねたかった。もう一度会わせてほしいと平伏して乞いたかった。しかし、彼は既に一度恐れ多くも皇帝の千通眼を借り受けその望みを叶えてもらった身である。これ以上は身の程を弁えぬ振る舞いに違いなかった。

「……その、私は、陛下の国の為に命を捧げた父を、誇りに思います」

「白雲天子、私に申したいことはそれではないのだろう。立ってよい、話を聞こう。他の者は下がってよい」

 頭上で帝釈天の声がした。白雲は顔を上げた。幸い、皇帝は彼を疎ましく感じているような表情ではなかった。

「先に私から話をさせてくれ。きみには一度、瑞雲天子のその後を教え、姿を見ることを許可した。しかし我が千通眼はきみに多くを見せすぎた。ワンポ・ナムギャル師と共にいるのが、その仇であったかつての歪視羅刹であることを知り、きみと四刃阿修羅は羅刹を斬り殺した。私はきみの怨恨を甘く見ていたのだと後悔している」

 白雲は驚かなかった。帝釈天が無用な殺生を好まないのは忉利天の住民であればわかり切っていることだ。だが、納得はいかなかった。何度生まれ変わろうとあの羅刹は父母の仇であり、その上に今生でもまた父の生まれ変わりを害そうとしていたというのに、阻止する事が好ましからぬ振る舞いであるというのか。

「恨みもございましたが、私と四刃殿が前世の事を告げた際に、奴は罪業を悔やむ素振りを全く見せず、それどころかあの僧の血肉を食い尽くし前世の力を取り戻すと放言する始末でした。それ故に、私達は放置すればあの僧の命が危ないと判断したのです。ただ、確かに何故あの者共の罰があまりにも軽いのであろうと思っておりました。奴らは天界で略奪を行い、私の母を含む住民を殺したというのに」

 白雲の声は込み上げる怒りに震えた。凌辱を受ける母親の凄まじい悲鳴が彼の耳に蘇っていた。

「きみが今なお苦しんでいるのは知っている。早急に忘却せよと強いることはできない。だが、少しずつ私の言葉に耳を向けてくれることを期待している」

(よく言う。陛下は、私の痛みなど決してお分かりではないのに。いや……ご存じかもしれない。噂が本当ならば)

 羅刹族の蜂起軍の根城に連行された皇帝が神々の都に帰還した時の有様は、天人たちが思わず目を背けるようなものであった。身体は至る所の肉を削がれ痩せ衰えており、表情からは別人のように温厚さが消え、近づく者の凡そ全てに不安と疑いの目を向けていたという。

 傷の具合など具体的な状態は公表されなかったが噂は広まるもので、やれ衣服を剥ぎ取られ柱に縛りつけられて悪鬼の兵卒の弓矢の的にされていただの、羅刹族の王の前で女の格好やのことをさせられただのという話は白雲の耳にも入っていた。

「努力はいたします。ただ……おそれながら、悪鬼共の汚辱は陛下の御身にも及んだと伺っております。陛下はどうやって彼らを許せたのですか」

 帝釈天は端正な顔を一瞬苦痛に歪ませた。白雲は息を呑み、取り返しのつかないことを口にしてしまったのではないかと恐れた。しかし、帝王は直ぐに微笑を浮かべ庭園を見た。蓮の花に泥は付かないという格言の如く。

「確かに私も彼らの荒々しく卑しい振る舞いに昼も夜も苦しんだが、王が憎しみを持ち続ければ、互いの国にとって不幸である故に、私は恨みを抱いていない。そもそもあの羅刹大王も配下の将軍達の多くも結局は討ち死にし、残る者は毘沙門天が彼の国の法に則って処刑したではないか。彼らを死後まで拘束する法はこの世のどの王国にもない。ただ自己の業に依って次の生が定まるのみだ。歪視羅刹だった者も転生の後には力を失った。きみと四刃阿修羅は、バターを割くように容易く彼の身を斬る事ができただろう? もっとも毘沙門天はきみと同じ考えを持って、逆賊が地獄に堕ちず転生の後自由に振る舞っているのでは忉利天の者達に申し訳が立たないと自分の権限で彼を土地に縛り、小さな川の対岸に進む事すらできなくしたようだがね」

 確かにあの日の白雲も、仇討が呆気なく終わったことに拍子抜けしていた。少年の頃の彼を絶望させた悪鬼が、転生を経てこれ程にあっさりと仕留められるものとは思いもしなかった。

(最早取るに足らない存在になったのだから、納得すべきだ、と? 陛下はそう仰っているのかもしれないが、私には、まだわからない。)

「私の話が、少しはきみの納得の援けになればよいが。まだまだ釈迦如来様や諸菩薩殿のようにはいかないものだな」

「いえ、陛下のご慈悲は存じ上げております。思い返せばあの時、ワンポ・ナムギャル師は前世の記憶がないとはいえ、確かに羅刹の死を悲しんでおられました。それで私は益々腹が立ったように思います。何故私を覚えておられず、また自らの仇にお気づきにならないのかと」

 白雲はそう答え、庭園を見た。咲き誇る白い蓮と瑞々しい葉の間から、池の水に反射した太陽の輝きがきらめいている。神々の世界においても庭師の努力あってのものではあるが、人間の世界では、これに並ぶ美しい庭はないだろう。

 庭だけでなく、食物にせよ衣類にせよ、平民の白雲であっても帝釈天に仕えさえすれば人間の王族以上のものを享受できる。生きてさえいれば父にもそれを享ける権利があった、と再び瑞雲天子の行く末について思わずにはいられなかった。


 帝釈天は人間として生まれ変わることをさも素晴らしいことのように語る。それは彼が「人間には菩薩に成る可能性がある」という仏の教えを信じているからでもあるが、幾分かは忉利天の住人の慢心を戒める為の口実であるのだろうと白雲は考えている。修羅界より理性はあるが天界ほど美しくはなく、脆く短い命に向かって絶えず病や災害や戦争といった苦が押し寄せている人間の世界など、彼にとっては到底生まれ変わりたい先ではない。

「私は、いつか父が再び忉利天に生まれることを望んでおりました。そうなれば私の方が年上になりますが、共に過ごせることもあるでしょう」

「共に過ごす、か。生前の瑞雲天子はきみを大層可愛がっていたな。彼は私に対しても息子の話をしていたよ。そうした親子の絆が一度の死別で絶えるとは信じがたいかもしれないが、その来世に、残された者が縁を期待するべきではない。我々が常日頃『魂』と捉えているものすら不変ではないのだから」

 ここまで語った上で、帝釈天は白雲の肩に手を置いた。そして辺りを見回し、やや小さな声で話を再開した。

「……と、理屈の上ではこうだがね、寂しいだろう。彼を我々の世界に呼び寄せる方法がないわけではない」

 白雲は目を見開き、喰らいつくように尋ねた。

「陛下は、そのような秘術をご存じなのですか。では、私は陛下に一体何を捧げればお情けをかけていただけるでしょうか?」

「魔法の類いではないよ。私程度の力では、命あるものが為した業とその結果は捻じ曲げられない。我々にできるのはただ、その定めを逆手に取るだけのことだ。衆生の善行には動機が伴う」

「と、仰いますと……」

 白雲がそう尋ねると、帝釈天は左腕に掛けていた羂索を右手に持ち直し、彼に見せた。地上の王侯はこれを狩猟の為に用いるが、そうした遊興を廃止して久しい忉利天では式典の際の装飾品の一つとして、或いは敵の捕縛の用途で使われている。

「羂索でもって捉えるような確実さを期すならば、長い時間をかける覚悟は必要だ。一つの例えとして、私の話をしよう。私もかつて、畜生道に堕ちた愛する者……前世での妻であり、今の妃を諦めきれなかった」

 帝釈天の妃である舎脂夫人は、敵対する毘摩質多羅阿修羅王の娘である。何故か神々の王は神格の高い他の神の娘ではなく忉利天の麓へと追放された一族の者である彼女を妃にと望んだ。そしてわざわざ単身で阿修羅族の有力者が集まる婿選びの場に正体を偽って乗り込み、見事に彼女の愛を勝ち取った、と白雲も聞いている。白雲を含む多くの天人は政治的な意図で舎脂夫人を娶ったのだと捉えているが、その動機が前世からの愛であったとは。白雲は些か驚いた。

「私達はお互いに人間として生まれて結ばれた。私はその生で為した善行に依り現世では天人として生まれ、幸いにも今の地位を得た。しかし、彼女には功徳が足りず地上の水鳥に生まれ変わった。それでも尚美しかったが、忉利天の皇帝が地上の畜生を皇后にはできない。逢うだけならばと何度か彼女の元に通ったが、私には到底諦められなかった。前世を思い出した彼女も、天人に生まれ直して私の隣にいることを望んだ。そこで私は、彼女に五戒を守ることを教えた。寿命が尽きるまで戒を保った彼女は、次には愛らしい人間の娘として生まれた。私はもう一度、同じことを繰り返した。そうして阿修羅の一員として生まれた彼女を、晴れて娶り皇后の座につけることができたのだ」

 夫人について語る時、帝釈天の顔には幸せそうな表情が浮かんだ。白雲も警備任務の際に皇帝夫妻の仲睦まじい様子を目にしたことがある。離れ離れになっていた間、一日千秋の思いで夫人の転生を待っていたことだろう。

「きみも、ただ『彼』を忉利天の住人としたいのならば、同じようにすればよい。人間の世界では、如何なる生も往々にして苦に満ちたものだ。彼が悩み苦しむ時、きみが天人の生には憂いなく無上の幸福だけがあると囁けば、彼はきっと自らの功徳を天の国に生まれる為に回向してくれるだろう。時間はかかるがね」

 帝釈天の声は、白雲の耳には実に甘く優しく聞こえた。


 その時だった。

「これはこれは随分と身勝手な。まるで魔障の者だ。『お釈迦様の前では一弟子に過ぎない』と自ら称する天上の王のお言葉とは思えませんね」

 宮殿の柱の影から、何者かが軽蔑の言葉を口にした。白雲にはその声に覚えがある。忉利天の神々の宿敵阿修羅族の一員であり、彼の父瑞雲天子の友人、そしてかつて彼の村を略奪した羅刹族の将軍を討ち取った男、四刃阿修羅であった。

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