幸せの形
「ねぇ、」
「んー?」
「子どものこと、なんだけどさ、」
間を置いて、「うん。」と返事が返ってきて。私は覚悟を決めるために、唾を飲んだ。
それはずっと考えていたことだった。きっかけがあったとか、そういうわけではないのだけど。そのことを考えて俯いてしまうようになったのは、彼がある日の昼下がりに呟いた、一言。
「子どもかぁ。」
見やれば、彼はどこかの動物園で生まれた、レッサーパンダの赤ちゃんのニュースを見ていた。日の差し込むリビングの、ソファーの上で、ゆったりとくつろいでいたのだろう彼が漏らした一言。それが、台所にいた私を瞬時に凍らせた。
「ユミ、子どもってどう思う?」
うまく息が吸えなくて、手に汗が滲んで。ああでも、もうそんな話をしなければいけない頃だと、思いながらも、聞き返した。
「どうって?」
「子ども欲しいなって、思う?」
彼と付き合うようになって三年が経ち、同棲するようになって一年が経ち、籍を入れて二年が経った。そんな中で、私が最も触れないでほしいと思っていた、話題。
「ううん、そうだねぇ。」
私の異変に気づかれないように、洗い物を洗い続ける。できるだけ深掘りされないように、できるだけ違和感がないように、私は。
「考え中ではあるけど、タクは?」
「うーん、俺もまだいいかな。」
「そっか。」
「うん。」
その返事にホッとする。ホッとしながら、『まだ』ってことはいつか欲しいのかなと考えて、彼は欲しいのだと思って、落ち込む胸の奥。ああ、何を考えているんだろう私は。
「今日の夕飯何がいい?」
「んー、魚がいい。」
「ん。」
後で鮭を買ってこようかな。そんな感じで、その時は終わった。子どもの話をしたのは、それっきり。だけど、そうか、と。彼も子どもを考える時期に入ったのだと思った。それが、私との子どもであることが嬉しいのは嘘じゃない。嘘じゃないけど、でも。
私は、子どもが好きだ。大人じゃ考えもつかないようなことを、その小さな体でめいいっぱい表現する姿が可愛くて仕方ない。でもそれは、他人の子どもだから。私の手で育てられた子どもじゃないからだ。親から虐待を受けてきた私が親になる? およそ健康的とは言い難い生活を送り続けてきた私が、まっさらなキャンバス同然の子どもを、育てる? そんな想像、欠片もできなかった。受けつけられなくて、気持ち悪くて、許せなかった。
私なんかが子どもを育てられるわけがない。そう思っていることは、誰にも話せずにいた。彼には、彼にだけはなんとかして伝えなければいけないと、思っていたけど、なあなあにして、振り向かないようにして、先送りにしていた。そうしていた中での、彼からの投げかけ。
『子ども欲しいなって、思う?』
欲しいとは、言えない。言いたくない。いや、『言ってはならない』。私なんかが、私なんかが、そんなことを望んではいけないのだ。私、なんか、が。
そんな風に自分を切り刻んでいた私に、彼が出かけないかと誘ってきた。「久しぶりにデートしよ?」とちゃめっけたっぷりの笑顔で言ってきた彼のことは小突いたけど、嬉しかった。デートと言っても、本屋を巡って自然公園を散歩するという、デートとしては素朴に思われるコースだ。でもお互いに気に入ってる道順だから、昔からデートと言えばこのコースを歩いてきた。
「いい本あった?」
本屋でいつも問いかける質問。互いにいい本を見つけては報告して、買うか悩んで結局買うんだけど、そういうやりとりも楽しくて。
「んー、これどうかなって。ユミが好きそうだと思って。」
「低身長メガネ攻めと高身長ピアス受けのハピエンストーリー?」
「ははは。そうじゃないけど、ほら。」
彼が指をさすそこに書いてあったのは、私が愛読していたジャンル。あまり作数が少ないジャンルだったから探すのに手間取っていたのに、ここで見つかるとは。でもそれより、彼がそれを覚えていたことに驚いた。
「よく覚えてたね。」
「俺はユミマスターだからな。」
「何それ。」
「俺はユミのことなんでも知りたいし、教えてほしいってこと。」
「わ、」
唐突に頭を撫でてきた彼は笑っている。よくわからなかったけど、彼が笑っているのならいいかと、私も笑った。
自然公園を歩いて、私はだいぶ自分が落ち着いていることに気づいていた。久しぶりのデート、それは私の心に良い影響を与えたらしい。今なら嫌いなトマトも食べれそうなくらいには気分がいい。なんてことを思っていたら、不意に手元が寂しくなって、隣の彼の手を握った。握り返された。
「……そういうとこ。」
「ん? なに?」
「なんでもない。」
誤魔化して、こうやって隣を歩ける相手がいるって、握ったら握り返してくれる相手がいるって、いいな、なんて思いながら。そうしている内に自然公園を出て、大通りを歩いていた。繋いだままの手を、そのままにしてくれている彼が愛おしくて、今キスしたら驚かせちゃうかななんてことを考えていた、矢先。
曲がり角を曲がったところですれ違った親子。男の子の手を握る母親という、ありふれた姿だったけど。急に、私は最近の私を悩ませていた『子ども』を思い出してしまった。でもそれにしては、抵抗感が薄かった。いつも蓋をしてしまうのに、その蓋が見当たらない、今ならーーー今なら、彼に言えるかもしれない。
「ねぇ、」
「んー?」
「子どものこと、なんだけどさ、」
「……うん。」
今なら。そう思いながらも、言葉にする恐ろしさと、伝え方に対する不安が混じって。それでもと、決める覚悟を握りしめて、唾を飲んで、口を開けた。
「私、子ども欲しくない。」
今じゃなきゃ。私の舌は、たどたどしくも私の気持ちを打ち明けた。
「子どもは、好き。タクとの子どもが、できたらって、考えたこともある、けど、」
こんなことを言っても困らせてしまうんじゃないかと、怖くて顔があげられない。それでも今伝えようと決めた数秒前の私が、背中を押した。
「私に、子どもが育てられるとは、思えなくて、思えないし、それに、」
足が止まる。息が詰まる。鼻がツンとしたと思ったら、もうダメだった。ぽろぽろと落ちるものが涙だと、気づいても、拭っても、収まらない。そんな私の口からこぼれたのは。
「わたし、こどもが、こわい、」
言葉にして、理解する。そうなんだ、私って子どもが怖かったんだ。なにがって、あの無垢さが。なにがって、あの無邪気さが。なにがってーーー
「私に育てられた子が、幸せになる未来が、見えない、見据えられもしない未来を、押し付けてしまっている気がして、辛い、タクとの子どもならって、何度も思ったけど、でもーーーこわい、だから、」
目元を拭っていた私の手が、掴まれた。ぼやけていた視界の中で、彼が私の手をのけて、代わりに拭ってくれて。ピントが合った時には、彼が、私の目線の高さに合わせて覗き込んできていて。いつもゆるく弧を描いている彼の目に、こんなにも不安を覚えたのは初めてだった。でも、その不安は拭われた。
「ありがとう、ユミ。教えてくれて。」
ふわりと笑った彼に驚いたのも束の間、両手を取られて、彼の片手に握られて。もう片方の手で彼は私の頭を撫でてきた。そうしたら、申し訳なさそうに眉を下げて。
「言いにくかったんだよな、ユミを一人で悩ませてしまった、ごめん。」
「そんな、こと、」
「それでも言おうとしてくれたこと、言ってくれたこと、すごく嬉しい。ありがとう。」
ポン、と頭に乗せられた手が、大きくて、広くて、温かくて。少しの間止まっていた涙がまた溢れる。彼は言った。
「俺にとっての一番はユミで、目指したいのはユミの幸せなんだ。ユミが幸せになれるならなんでもしたい。ユミの幸せのためならなんだって捨てる。だから、ユミが欲しくないというのなら、子どものことを考える必要はないよ。」
「でも、タクは、欲しいんじゃ、」
「あー、言い方が悪かったかな、俺はさ、どっちでもいいんだ。子どもがいてもいなくても。そりゃ、いたら賑やかになっていいかもなと思ったことはあるけど、そうなって欲しいわけじゃない。考えてみなよ、歳取っても二人で本屋漁ったり、レストランでランチしたり、自然公園を歩いて、夕飯の話をしながら家に帰るっていう毎日。なかなか夫婦添い遂げるってのも、ロマンチックじゃないか?」
ニヤリと笑う彼に、ようやく私は心の重荷が消え失せたような気分になった。涙は止まっていた。鼻を啜って、涙の跡を拭いて、「うん、」と返事をした時には、なんだか抱きしめて欲しくなって。彼の方を見たら、彼が両手を広げた。
「ぎゅってするか?」
「なんでわかったの。」
「俺はユミマスターだからな。」
「何それ。」
「ははは。」
笑いながら抱きしめてくる彼の背に手を回す。優しく抱きしめてくれる力加減が、切なくて、嬉しくて、面映くて。
「でもさ、子ども欲しくなったら言ってな。欲しくないって言ったから欲しがっちゃダメなんてことはないんだから。俺の母さんが言ってた、子育てはみんな誰もが初心者だって。怖いって思うのはおかしいことじゃないし、俺はユミが子どもを育てちゃいけないとは微塵も思ってない。ユミが子育てすることになったら、いい母親になるって思ってるよ。」
「そう、かな、」
「そう。気楽に行こう。なんにせよ、俺は今のユミを教えてくれたのがすっごく嬉しいから。また何かあったらなんでも教えてくれな。一緒に悩ませてくれ。」
離れて、その間際額にキスされて、このイケメンがと思いつつ彼を見上げる。柔和に笑う彼の、その笑顔が、好き、なのだと。胸が熱くなるのを感じながら、差し出された手を取った。
「今日の夕飯はなんなんだ?」
「グラタンが食べたいから、スーパーに寄ってマカロニ買いたい。」
「了解。」
ぎゅっと手を握る。握り返される。心の底から、この人を選んで良かったと思った。
書き散らし かしの あき @aki_4911
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