海の音
しゃむ四
第1話
船を漕いでいた。辺りには島どころか岩すらない。ただひたすらに、輝く海水と丸い青空があるだけの世界だった。
こんな有り様になったのはもう何十年も前の話だ。世界中の優秀な学者をかき集めても分からず終いの度重なる異常現象により、いつの間にか世界の大部分は海の底に沈んでしまった。わずかに生き残った人々は必死に船を量産し、海水を真水に変える技術を向上させ、主な食料を海産物とした。陸上に生きる私たちにとって、唯一の居場所は船となったのだ。
さて、なぜ私がたった一人で大海のど真ん中を進んでいるのかと言うと、原因はその『船』という居場所にある。ただでさえ群れて生活していた我々の距離が、水上生活を余儀なくされたことによりさらに密接になり、これまで以上のチームワークが必要となった。ここまで言えば察しがついた者もいるだろう。私は集団生活に息苦しさを感じ、この小舟に乗り込んで逃げ出したのだ。
しかし、これはあまりにも無謀な逃走であった。釣り竿もあるし、真水の確保も問題ない。一見すると用意周到でなんの心配もないが、それだけで生きていくことができるなら、言葉も文化もいらないのだ。
そう、私はそのとき感情に飢えていた。こんなだだっ広いだけのつまらない海の上で何日も揺られていては、情緒も何もあったものではない。
脳が石に変わっていくような心地がして、なんだか悲しくなって歌をうたった。今は過去の記憶を掘り起こすことしか、できることが無い。月が爛々と光り輝く夜に、船のデッキで祖母に教えてもらった歌。あまりにも昔のことで、きっと歌詞なんてめちゃくちゃだ。それでもたしかに、どこか悲しくも心を穏やかにするこの旋律だけは覚えていた。船の上の誰よりも長く生き、最後には冷たくなって海の中に捨てられた祖母の歌。ずっと昔の誰かがずっと受け継いできた大切な歌。この虚しいだけの海の上で、それだけが私の命綱だった。
一番を歌い終え、ちょうど二番の三小節目に差し掛かった頃、小舟の底がわずかに震えた。波の揺れではない、もっと繊細で、力強い音。それには確かな音の変化があった。
これは、音程だ。音というものは、聴覚だけでなく触覚でも音の変化がわかるものだ。
舟底に手を当てて、注意深く音を感じた。ゆったりとしたテンポ、静かにせぐり上げるような高音への推移。間違いなくそれは、先程まで自分が歌っていた曲そのものだった。こんな怪奇現象が起こるなんて話は聞いたことがない。しかし何故か、“恐ろしい”という感情は一切なく、むしろ嬉しさを感じている。
最後の一音が手に伝わり、元の波の揺れしか感じなくなって、ふと思い出した。船から持ってきた小さな袋を開けて中を漁る。そうしてやっと見つけたのは、一枚の地図だった。
自分が船から逃げ出した後、ずっと進んできた方角へと指を滑らせる。その先には、薄れたペンのインクでバツ印が書かれていた。
そこは、祖母が沈んだ海の上だった。
海の音 しゃむ四 @kurukuru65
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