月の川
かぐや姫の物語を、聞いたことがあるだろう?
殿上人を地上に残して、月の世界へ帰ってしまうなんて、とても大それたことをする姫様だ。
でも、あればきっと絶大な権力を持てる道具になっただろう不老長寿の薬を、富士の山の頂で焚いてしまった帝も、大胆だと思わないか?
一、
琵琶を入れた袋を背中に背負う僧侶は、片手に杖を持ち、もう片方の手で、蜜柑ほどの大きさの白い石を触っている。
僧侶は、掌で石を何度も回転させたり、指先で撫でたり、何度も感触を確かめている。
その石は、
「あぁ、それは
店主はニヤニヤと笑いながら、僧侶に話しかける。
あの「かぐや姫」の話にでてくるお宝さ、と付け加えて説明してきた。
「お兄さん、見えてないからわからないだろうけど、これはいいお宝だよ? 買っておいて損はない」
僧侶が盲目であることに気づいて、高く売りつけてやろうという魂胆が見え見えだった。
「こんな見事なものはなかなかありませんねぇ、ただの石灰石を丸く磨くなんて」
あぁこれは買いません、とにっこり笑って、僧侶は店主に「龍の顎の珠」もとい丸く磨いた石灰石を突き返した。
「……買わないなら触るんじゃねぇよ」
突き返された石を、また棚に戻しながら、店主は僧侶に悪態をついた。僧侶は聞こえないふりをして、市場の他の店に向かっていくところだ。
二、
僧の名は
光照が入滅したのち、かつての光照がそうしてきたように、澄生は国から国へと修行の旅に出ることにした。
片手に杖を持ち、背中に琵琶を背負い、草臥れた衣装を纏う痩せぎすの澄生に、この町の人々は優しく、食糧や路銀といった施しをくれた。
町の外れにある廃寺を、今宵の宿として借りることにした澄生は、かつて庭であっただろう空間に焚き火を起こす。
「あの骨董屋はいつか
澄生は、口元に微笑みを湛えているが、怨みがましい口ぶりで呟いた。
「見えなくても、あの骨董屋が悪人面しているのはわかりましたからね。いつか酷い目に遭います」
澄生の恨み言はまだ続いている。
焚き火のそばに腰掛け、火の温もりを掌で感じ、座る場所の距離を少し調整する。
「おぬし、坊主のくせに
澄生の近くで、若い女の声がした。
「目が見えぬのに骨董屋なんて覗くから」
呆れたように話す、女の声。
澄生のすぐそばに置いた琵琶の袋から、白い煙のようなものが立ち昇っている。
その煙はすぐに腕の形になり、そこを発端にして、もこもこと人の形をしたものが現れた。
背丈より長い、白い髪。眉毛やまつ毛までも白い。瞳の色は桜色。透き通るような白い肌。天女の羽衣のような衣装。
琵琶から現れ出づるその異形は、
名は
この桜の木の精は、今はわけあって、澄生の琵琶を依代にしている。
桜の姿は、澄生以外には見えない。厳密には、澄生のような「見える」人間には見えるのかもしれないが、澄生は今のところ、桜の姿が見える人間と出会ったことがない。
「骨董屋を巡っているうち、万が一で探し物が見つかるかもしれないじゃないですか」
澄生の目に「見える」のは、人間ならざるものであって、骨董品の真贋ではない。
骨董屋の品物の中に、人間ならざるものの痕跡がないかを見ているだけだ。
「何を探しておるんじゃ?」
焚き火越しに澄生の向こう側に座った桜は、焚き火を少し恐れを含んだ目で見る。
もとは木に宿る精霊であったために、こうして木々を燃やして起こす火は苦手なのだ。
「龍の顎の珠です」
澄生の口から出てきたのは、昔話に出てくる「地上では存在しないもの」だ。
「寝言は寝てから言うものだろうて!」
桜は半笑いで言い放つ。澄生は、すぅ……と唇を尖らせて息を吸い込む。
「探しているのは、龍の、顎の、珠です!」
龍の顎の珠、と言うときだけ、やたらとゆっくり、言い聞かせるようにする。
「強調しなくてよろしい」
桜は苛ついた顔で、澄生を睨む。
「本物など存在しないのに、阿呆にもほどがある」
「では、本物が存在しないという証拠はあるのですか?」
こう言われてしまうと、桜は強く出られない。なぜなら、
「ない。吾は桜の木の精じゃ、あちこち飛び回っていたわけじゃない。故に、世界のことは知らぬ」
この桜の木は、同じ場所で長年も咲いてきた。その場所のことはよく知っているが、その場所以外のことは知らない。
「でしょう? この世には、まだまだ知らないことがたくさんあります」
澄生は満足そうに、勝ち誇った顔で言った。
三、
「しかし、なぜに龍の顎の珠など欲しがる?」
少し膨れっ面になった桜は、不機嫌そうに尋ねる。
「かぐや姫のお話、桜さんもご存知ですよね?」
澄生は、近くにあった枝を焚き火に放り込む。
「わがまま高慢ちきな姫様が、求婚者に無理難題突きつけて、最後は殿上人まで手玉に取る話」
「だいたい合ってますけど、もう少し配慮した言い方をしましょう」
桜の「かぐや姫」の容赦ないあらすじ紹介に、思わず苦笑いが漏れる。
「師が言うておりました」
澄生は右の掌を、桜に向かって見せる。
「仏の御石の鉢、蓬萊の玉の枝、火鼠の
かぐや姫が求婚してきた
「この四種は実際にあり、師が
澄生は四種の名前を言い終わると、右の掌を膝の上に置いた。
「ですが、龍の顎の珠だけは、見つけられていないのです」
「その宝物たちには、祓わねばならんほどの
桜は目を見開いて声を上げる。
「さすがです、桜さん。よくおわかりで」
穢れ。
物にこめられた念が、長い時間をかけて瘴気を孕み、禍々しい力を持つことを指す。
「師が祓った四種には、相当強い穢れが取り憑いていたそうです。この四種も、桜さんと同じような顛末ですよ」
自分と同じ顛末だ、と言われた桜は顔を顰める。
「光照が祓ったそれらには、どんなものが取り憑いておった? 鬼か?」
強い念が穢れると、鬼といった、異形の中でも特に邪悪で暴れ回るものに変わりやすい。
「帝です。かぐや姫と泣く泣く引き裂かれた、帝」
しかし、澄生が答えたものは、桜の予想を遥かに超えたものだった。
「帝」
予想外の答えに驚き、桜は同じ言葉を繰り返す。
「なぜ帝が五種の宝物に取り憑いた?」
さきほど名前が挙がった宝物たちは、かぐや姫が帝に要求したものではなく、求婚しにきた五人の公達に、それぞれ要求したものだ。
「その五種を揃えたら、かぐや姫がまた来てくれるのではないかとお考えになられたのでは?」
「月に帰った時点で、地上にいた記憶はなくなっておるのに」
かぐや姫は、月から迎えに来た者たちに羽衣を着せられると、地上で過ごした記憶を全て忘れて、月に戻った。それが、現在も語り継がれる「かぐや姫」の内容だ。
「しかし、人の思いは理屈ではありませんから」
そう言うと、澄生は少し困ったように首を傾げてみせた。
四、
焚き火を念入りに消し、今は誰もいない、手入れすらされていない寺の本堂にあがる。
本尊があっただろう場所は今や何もなく、柱には傷がいくつもついている。
そして何より、壁や畳、果ては天井まで血の痕がついていた。この寺で何かがあったことは確かだ。
「私がこの廃寺に来たのは、理由があるのですよ」
澄生はゆっくり辺りを見回しながら、本堂の中を進んでいく。その手には琵琶が抱えられていた。
澄生の動きを妨げぬように空間を作りながら、周囲を取り巻くように、琵琶から白い髪が網の目状に広がっている。
桜は人の姿から琵琶に戻ったり、必要に応じて琵琶から腕や髪を伸ばすことができる。そうやって、瘴気の強い場所に踏み入れようとする澄生の周囲を防護するのだ。
「ご本尊があったであろう場所の瘴気が一番強いですね」
「もちろんそうじゃが、この空間全体、悪いものしかいない」
髪の毛の状態で、桜は警戒心を剥き出しにした声音で囁く。
「壁際にある石……でしょうか、そこから瘴気が」
「ご本尊とやらがあったところの壁際に、丸い石ころが落ちておるわ」
澄生の周りを囲っていた白い髪の一房が、蔦のように伸びて、本尊のあった場所に転がっている石を絡め取る。
「これは酷い瘴気じゃ」
桜の髪に巻き取られた石自体から、黒い闇が渦を巻くように広がっているのが、澄生の目に映っている。
人間の目に見えざるものだけは、澄生にも見えるのだ。
「これは、初めて会った時の桜さんみたいな瘴気ですね」
ただの石ながら、それは黒々と禍々しい邪気を放っているのが、澄生の目に映っている。
「見てくれはただの丸い石じゃの」
大ぶりな林檎を丸くしたような大きさの石だ。灰色でザラザラした手触り。
澄生が手を伸ばしたので、桜はその手の中に石を運んでやる。
「これが、龍の顎の珠です」
「えぇ⁇」
澄生の言葉に、桜は声を裏返した。
「昔は伝承通り、美しい虹色に輝いていたのでしょう。おそらく、穢れで光が失われてしまったのだと思います」
黒い煙のようなものを纏った石を両手で包むように持つ。
「こんなすぐ見つかるものなのに、光照は見つけられなかったのか」
信じられない、といった口ぶりで、澄生が抱える琵琶から声が響く。
「きっと師が生きていた頃は、この寺で丁重に保管されていたので、穢れに変化していなかったのでしょう。それならその方が良いのですから」
穢れるのは、そのものから人間の関心が失われた時や、人間の悪意に触れた時だ。手をかけ、目をかけている間は、どんなものも腐ったり穢れたりしない。
「なぜここは廃寺になった?」
桜は澄生に尋ねる。
龍の顎の珠であったものが放つ瘴気に触発された、他の禍々しいものがこの本堂を包み込んでいることに、気づいているからだ。
「町の人に聞くと、数年前に賊が入ったそうで。以来、廃寺になってしまったのだと。痛ましいことです」
澄生は、自分が聞いた話を桜に伝えると、経を唱え始めた。
その次の瞬間、桜の髪が澄生を守るように隙間なく覆う。
「それは、賊ではない」
経を唱え続ける澄生に、桜は呟いた。
――畳、柱、天井。それらに染み付いた「記憶」が、桜の髪の毛を伝って、澄生の脳裏に焼き付いてくる。
土下座している若い坊主が、頭から水をかけられ、草履を履いた足に頭を踏みつけられている。
経緯はわからない。一方的に詰られているようにも見えるが、何か理由があったのかもしれない。
こびりついた血の「記憶」は、断片的にしか伝えてくれない。
――あぁ……修行中の若い僧が、住職を切りつけて……住職を殺めてしまった僧は自分の首を――
経を唱えながらも、桜の髪が伝えてくる、この「記憶」に感情を持っていかれそうになる。この場に残る無念と後悔は、凄まじい力を持っている。
澄生は目を見開き、渾身の力を込めて経を
空間に渦巻いていた瘴気の大半が、霧散した。この寺で起きた血生臭い出来事が由来のものは祓えた。
今この場で瘴気を漂わせているのは、龍の顎の珠だったもの。
「これはまた別に祓わないといけないみたいですね」
澄生は手の中にある石について、もう片方の手で持っている琵琶に話しかけた。
「
澄生を守るように伸びていた髪の毛は、琵琶の中に戻っていく。
「申し訳ありません。こんな展開になるとは思わず、油断しておりました」
この桜の木の精は、もとは
「桜さんは琵琶の中でお休みになってください。あとは私がやります」
そう言って、合図のように琵琶の弦を指で弾いた。
五、
本堂の中で正座した澄生が、石を前にして経を唱え始めると、程なく、石から発せられていた瘴気が根源である石本体に吸い込まれていった。
代わりに現れたのは、金色の光。薄っすらと人の形をしているのがわかるが、顔は見えない。澄生の目に映る金色の光の塊は、とても凛々しい姿だった。
「わかっておった。こんなことをしたとて、姫に逢うことは叶わぬことなど」
穏やかな声音が頭の中に届く。なんとも心地の良い声音。華やかな香の匂い。こちらの背筋が思わずしゃんとなる、確かな威厳。
殿上人。
澄生は静かに頭を下げる。
「あの姫と私は、同じ世に生きてはいなかったのだ」
殿上人が澄生に、こう話した。
姫は月で、何かの罪を犯し、地上へ流されたのだと、姫を迎えに来た者たちから聞いた。
しかし、自身が月の者であることも、その罪のことも、姫は覚えていなかった。地上に流される、ということは、記憶を失うということなのだ。
月の者は、地上から月に戻る時には地上の記憶を失う。姫の記憶は、まるで赤子のように、全て真っ白になっているのだ。
「それで良いと思うておるよ。もしも記憶があったとしたら、あの姫は今でも泣いておるはずだ。その涙で、いずれ月に川ができてしまう」
澄生の目に、美しい満月が映る。これは、今向き合っている帝が見せた、満月の幻だ。
「ただ私は、姫に逢いたい、と願ってしまう時があった。勢い余った私は、不老不死の薬を一口、舐めてしまった」
全てではなく、たったひと匙。残りの薬は富士の山の頂で燃やしてしまった。
「いつかまた、姫が地上に流される日が来たら、その時こそ添い遂げたいと」
己の意思で取り込んだひと匙の薬。その行為に、一縷の望みを懸けた。
「待てど暮らせど、姫は現れなかった。考えてみれば自明の理、月の者とて、そう何度も姫に同じ過ちをさせるはずがない」
頭が冷えれば、己の浅慮に打ちのめされてしまう。
過ちを犯した者への締め付けは強くなるものだと、誰だってわかることなのに、有りもしない可能性に懸けたこと。
「いずれ私の肉体は朽ちた。十分過ぎるほど長生きはしたが」
澄生の前にある石は、少しずつ輝きを取り戻しつつある。本来の、美しい虹色へ。
「その長い
かぐや姫が五人の公達に要求した、無理難題の宝物五つ。それを集めるだけの財力と時間が、この帝にあった。
「私の血迷った心は、その宝物に乗り移ってしまったのだな」
金色の人影は、顔を、目元を拭う仕草をする。
「愛した者がいない世界で、己一人が、変わりゆく時代の中で生き続ける孤独は、人を変えてしまうのだな」
不老不死など、人間に与えてはならないものだと、金色の人影はぽつりと呟いた。
澄生はゆっくりと顔を上げる。
「愛した記憶は、愛された記憶は、その胸のうちに輝き続けるのです。何も、変わっておられませぬ」
それを聞いた金色の人影は、小さく頷くような動きを見せた。そして、一瞬のうちに消えてしまった。
残ったのは満月のように美しい、虹色に輝く丸い珠だけ。
六、
明け方の静謐な空気。
廃寺は鳥の囀りと朝陽の暖かさに包まれ、夜中の間の出来事などなかったかのようだ。
「こんなに綺麗な珠だとは思わなんだ」
琵琶からにゅるりと姿を現した桜は、澄生の手の中にある珠を見て、しみじみと呟く。
「隣町に、我が師のご友人が住職を務める寺がございます。そちらに預けようかと」
廃寺を背に、歩き始めている澄生は背中の琵琶に向かって言う。
「執念深い男に追いかけられるのは、気持ちが悪いのぅ」
「桜さん」
「いや、さすがに気持ち悪い話で」
少し呆れていた。
「そこは、いい話だったなぁ、で終わりましょうよ」
とはいえ、モノの見え方は人それぞれですけどね、と澄生は付け加えた。
「いつか、
そう思えば、時を超えた恋の歌は美しい。
「詩人か」
ふふっ、と琵琶から笑い声が漏れてきた。
「あなたに歌を詠んでみましょうか」
「桜はね 薄紅色の 花が咲く おお綺麗だな ああ綺麗だな――どうです?」
「……びっくりするほど才能がない」
渾身の一句は、さらっと切り捨てられた。
さくらうつくし、ちるはものがなし 卯月 朔々 @udukisakusaku
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