道なりに歩けば
石動 朔
それは冷風が意味を成さない夏の始まりだった
降り立ったその駅はどうにも普段の世界と結びつけることができず、その違和感を背中から刺すように、背後でカラスがつんざめいた。
「なんだってこんなチンケなとこに行くのかねぇ」
そう私は呟きながら溜息をついて、所々崩れかけた石作りの階段を下る。
まだ初夏だというのに気温が下がる兆しはなく、かといって乾いた風ががそこらで吹いているわけでもない。
このまま知らぬうちに青葉が枯れてしまえばと心の底から思っているのだが、それが現実で叶うわけがないということは、私が生まれるもっと前から決まっている理であり、ほとんど諦めがついている。
ツタが絡みつき錆びきった踏切を渡ると、目の前には杉の森が
やはり、背筋を伸ばして屹立する杉の木達はどうにも体が受け付けない。そう私は顔をしかめながらに思う。
自然に人の手が加わるこの光景にはいつまでも慣れることができず、もっと自由に伸びたり、曲がったり絡み合ったりすれば良いのにとつくづく思っては、言葉に出さず、その横を通り過ぎて行く日々ばかりだ。
進む道は文字通り道なりで、右に山、左に田んぼが永遠と続いていて、まばらに一軒一軒家がある。
私は夏にふさわしい青々とした稲がどこか美しいと感じた。人の手で植えられた自然と言われれば確かにそうかもしれないが、人工林とこれは比べる対象ではない。
生まれて今まで都会に身を置いてきた自分としては、画像で見ていた景色が眼前にある光景にほんの少しだけ見惚れてしまっていた。これで雲の割合をもう少し減らせば完璧なのだろう。
しかし私は美しい景色を見るためにわざわざここに赴いたわけではない。
この緩やかな下りと上りを繰り返す道なりを歩き続けねばならない。
しばらくすると、降り注ぐ太陽が本気を出し始める。
心ばかりの冷風を提供してくれた電車に少しイラついていた自分が阿呆らしくなる程その日光は容赦なく照っていて、私は額から流れる一粒の汗を七分丈の袖で拭う。
そして妙に冷えた感覚と、皮膚と生地がぺったりとくっついた異様な触感が襲うことに私は少々嫌気が差していたが、ここらはどこも影がある場所はなく、自然と視線がアスファルトに落ちていることも相まって
とうとうまずいなと私が思ったその時、ふと斜め前を見やると、横長の建物が山際に沿って建っているのが見えた。
窓は横一面ガラス張りで、手前にはスカイラインのC10型が停まっていた。入口には青い背景と黄色い鍵のマークの看板が膝下程度の高さで置かれていて、それが喫茶店だという決め手になった。
私は自然と足を前に進めた。
なんと言えば良いのか。運命なのか知らぬが、これ程良いタイミングで来られると少々違和感を感じる程だ。
それでも今はそこに行くしかない。できれば冷房が効いていれば良いのだが、こんなところで高望みをすれば後々後悔をすることぐらいわかっていた。
向こう側へ渡ろう。そう思ったとき、手前に信号機があることに気づく。
このまま道路を斜めに渡ろうか、信号機まで行ってそこで待つか、数秒立ち止まって考えた末、私は信号機まで歩くことに決めた。
信号機はよくある形をしていたが、押しボタン式ではないようだ。
今は赤、つまり止まるべき。いずれ青になるだろうと適当に思い、私はマナーに沿って、点字ブロックの後ろに立つ。ポケットに手を入れると、右にはライター、左には小銭が入っている。
軽く小銭を踊らせてみるが、それらが何円なのか皆目見当がつかない。それがどうしたというのだと勝手に眉を潜めて、当然熱がこもったポケットからは手を出し、信号機を見る。
まだ、赤だ。どう考えてもこの道は自動車が優遇されるほどの大通りではない。強いているなら農業用のトラクターしか通らないだろう。
しかし信号機は赤を示している。それならば仕方がない。自分で決めたのだ。青になるまで待っておいてやろう。そう私は決心を下し、ぼぅっと立ち呆けた。
日光は意外にも、私の気分を害する気はなさそうだった。
「お前さん。なに立ち止まってるんだい」
結局一台も車は通ることなく日射角度がちょうど真上になった頃、後ろからしわがれた声が聞こえる。
「お前さんや。聞こえんのか、耳が遠い若造やの」
「なんだい爺さん、大きな声出さなくてもしっかり聞こえてるさ。なに、そんなに信号を待っている若造が気に入らないのかい」
暑いせいか、頭が回らなかった上に声を発したくなかった私は知らぬ存ぜぬを突き通すつもりだったが、このまま放置した方が面倒くさい様な気がしたので、仕方なくその声の主に体を向ける。
「なんじゃ聞こえておったのか。年寄りを炎天下に立たせてよう無視できるわい」
如何にも年寄りな言葉遣いが少し癇に障る。
「今の時間なんざ年寄りみんな家の中におる。いやはや、今年の稲も無事乗り切ってくれるといいんだがね」
「そんなことは良いんだ爺さん。ところで気になることがあるのだが、この信号機はいつになったら青になるんだい。私はただ向かいの喫茶店に行きたいんだ」
老人の話を遮って私はそう聞くが、言ったことがことがわからなかったのか質問には答えずただただ呆けていた。
困った。このままでは渡れない上に老人の話にも付き合わなければいけない。そう思った私は一旦先に進んで、もう一つ信号機がないか探しに行こうと決心した。
相変わらず微動だに動かない老人に気味の悪さを覚えた私は一歩、その足を踏み出そうとする。しかしその足は動かない。
「そうか、君はそこに信号機があるように見えるのだな。わしは見えてないが、確かに、それはそうかもしれんな」
置かれている状況に困惑していた俺に構わず、老人はそう呟いた。
「ど、どういうことだそいつは。老いて信号も見えなくなったのか」
それはまるで、今はもうそこに何もないと言っているようにしか聞こえてこなかった。
困惑から焦りと少しの恐怖に変わる。真意を聞き出そうにも、彼はじっと向かい側の道路を見つめているだけであった。
「お前さんは今、どうしてこの道を歩いておるんや」
「それは...友人を追うためだが」
聞かれた問いに、私は素直に答えた。
すると老人は目を丸くし、そのまま地面に視線を落とす。
曲がった腰と低めた
「そうかそうか、ははぁこれは参ったな」
数秒俯いてた彼は日差しで潤いが枯れたような笑い声でほんの少し天を仰いだ。
「私の妻はたいそう完璧主義で、若い頃はかなり悩まされた記憶がある」
突然始める話に、私は惑いを感じながらも続きを聞くことを決めた。なんとなく、そうした方が良いと感じたからだ。
「結婚を決めた理由も、子供ができたからだった。それまでは自分は二番目の、いや三番目の男なのではないかと心配したものだ。でも、それはただの杞憂だったことはすぐにわかった。おかげで家計も教育も安定して、文字通り『完璧』を体現したような人を貫いておった。だが...」
「だが?」
私は用意されていたかのように自然と相槌を打った。
「息子が高校に入るころには、私達の理想の反対を行くような子供になっておった。きっと私たちの理想を押し付け過ぎてしまったのだろう。大学を卒業したら、そのまま家を出て行ってしまった。
子供が一人しかいなかった私達は育児に解放された安堵よりも、人生という命題の取り返しのつかないような間違いを犯してしまったことへの罪悪感に打ちひしがれた。特に妻の様子はみるみるうちに悪いものとなっていった。
だから私は、この緑溢れる辺境を終の棲家にしようと決断したのだ。ここにした理由は...よく覚えていないが、なんとなく惹かれるものがあった。他にも良い土地はあったが、その時の私は彼女の意見を無視して即決した記憶があった。
端麗という言葉が似合う彼女が、田んぼで盛大に転んで泥まみれになる姿はなんとも不思議だった。なんでも生きててそんな風景を拝めると思っていなかったからの。彼女もその時、ここに来てから初めて笑っておった。その笑顔を見て私はやっとこの人生の意味を知ったような気がしたわい」
そこまで言って、老人は一つ息をついた。
人の人生をこれほどじっくり聞くという経験はなかったため、私はまるで一つの物語を読むような感覚を味わった。だがその内容が自分に何をもたらすか、日光で完全に蒸し上がってしまった脳みそではそれを考えるほどの細胞は働いていなかった。
そういえばと思い後ろを振り向くと、その信号機は青を示していた。
「最後に、一ついいかね」
静かに去ろうとした私の背後から老人が訪ねる。
「お前さん、戻るつもりはないかね。もしそのつもりならわしの車に乗せて駅まで送ったる」
その言葉に、不思議と私は躊躇いを感じることはなかった。
「いいや、友人を待たせているのでね。私は進ませてもらいますよ」
「...うんうん、お前さんならそう言うだろうな。そこまで迷いがないのであれば、わしも悔いはない。人生最高の岐路の、最大の選択肢は何も間違ってなかったと胸を張って言える。
達者でな、
老人ははっきりとした口調で私にお礼を言い、反対側のあぜ道をゆっくりと歩いて行った。
「その友人と云う人は、この先で君のことを待っているはずだよ」
そう最後に、一言残して。
安っぽい電子音のチャイムが響く。店内は広さの割に閑散としていて、テーブル席は皆布が敷かれていた。
「いらっしゃい。暑かっただろうに、律儀に信号機を待ってて偉いな青年」
店主はそう言い、ささ、こちらへと私をカウンター席に促す。
「やれやれ、やっぱり信号機はあるのだな。ったく、全くお騒がせな爺さんめ」
そうぶつぶつ言う私を店主は訝しげに見つめながら、小さな氷が無数に入ったお冷を静かに置く。
「はて、爺さんとは誰だい?遠目からだったけど君はずっと一人で待っていたじゃないか」
グラスを持とうとした手が固まる。
「...冗談、だろうな」
そう言う私を静かに見ていた店主は、しばらく固まった末、我慢していた感情が開放されたようにどっと笑った。
「冗談に決まっているだろう!その明らかな強張った顔、君、意外とビビりなんだな!これはからかいがあるなぁ」
「随分と度胸があるようなだなマスターさんよ...」
そう拳を握る私を見て、店主はさらに笑い転げていた。
ややあって息を落ち着かせた店主は、水出しコーヒーをそっと差し出す。この時間でいつ作っていたか、じっと店主を見ていたがわからなかった。それよりも。
「あの、私は頼んだ覚えが」
「爺さんが、もし信号機を律儀に待つ、年の割に妙な喋り方をする青年が入店したらここの水出しコーヒーを出してくれと、そう言ったんだ。いやはや、まさか爺さんの先見の明が当たるとは」
まさかあの老人が予知していたとは、と私は内心驚かされる。
この村に入ってからというものの、妙なことが立て続けに起こりどこか夢遊感を感じていた私は、気を確かにするためにそのコーヒーを一口、喉に流し込んだ。
「...これは、私が好きなブレンド」
そう、そのコーヒーはまさに私が好む味そのものだった。苦みの中に隠れた甘さが後になって舌に広がる。それこそ、友人が薦んで飲んでいたものだった。
目を丸くしていた私を見た店主は、やっぱりといった表情で頷く。
「君は、友人を追っているのだろう?」
「なぜ、それを」
と呟いてみたものの、それはそうだ。私が追ってるこの道を友人は進んでいるはずだ。店主が見てもおかしくないだろう。しかし、なぜその人が私の友人だとわかったのか。
私は黙って続きを促した。
「つい最近、君の友人であろう人が通ったのさ。
信号機にのところにいるいつもの爺さんの言葉も、信号も、この店も一切見ずに、ただひたすらに真っ直ぐ前を向いて歩いて行ったよ。
するとそのすぐに、爺さんが店に入ってきた。彼がここに入るのは当分なかったものだから何があったのか聞こうとした俺よりも先に、爺さんが言ったんだ。
『やっと、最後の役目が来たようだ』ってね。そして、その続きに君が来るっていう予見をしたというわけだ。
わしの役目は選択を確かめること、迷いがあれば力づくでも引き帰させること。そう爺さんは最後に言っていたよ」
そこまで言って、店主は静かになる。
どうやらあの爺さんは私達について何か知っているのかもしれない。
「ところで、あんたはなんで友人を追ってるんだい」
その問いを予測していなかった私は虚を突かれたような表情をしてしまう。
ニヤつく店主を睨みつけ、仕方なく経緯を話す。
「『ここに住んでても何も変わる気がしないから、一旦出ようと思う。帰ってきて欲しかったら指定した駅から東に、道なりに歩いて。ただ、その道を歩くだけだから』という書置きを残して出て行ったもんで、私はこんな炎天下の中歩かされてる次第なわけだ。
それにしても不自然にも程があるのは事実で、あんなに不変を望んでいたあいつが、こうも変化しない日常を嫌うなんて。私が何かしたのかと聞かれても心当たりがなくてね、どうも困っているのだよ」
項垂れた頭上から、店主の声が降り注ぐ。
「そいつはぁ、友人が君と恋仲になりたいという遠回しなメッセージなんじゃないのか?」
その問いに、私はふっと息を零す。
「そいつはないな、なんせそういう関係にならないからこそ同棲したというのだ。もし心変わりしたのなら、それこそ一緒には住めんというわけだ」
「じゃあそれこそなんで、君は友人を追っているのだい?」
それも簡単な問いだと俺は即答しようとしたが、何故か、その口が開いたままになってしまう。
「まぁ良い、ただ君は友人を機嫌を損ねてしまったと思って追っているだけだろう。君達の関係性も知らない第三者の言葉なんか、一つの参考として受け取っとくのがベストだと思うぞ」
そう店主は笑いながら言った。
「ああそうだ、話を戻すと、そのコーヒーは爺さんとその奥さんがこの村を選んだ決め手になっているんだ」
突拍子もない振りに、私はただ静かにしていることしかできない。
「元々爺さんの独断でここに来たらしくてな、奥さんはたいそう不機嫌そうだった。様子もどこかやつれてて、まぁよくある自然いっぱいなとこでケアしようみたいな感じかって思ってたんだ。
まぁそれで奥さんがこのコーヒーを飲んで、驚いた顔をしたんだ。そんで間髪入れずに、『私もこの村が良い』と呟いたんだ。そん時は俺も嬉しかったぜ、なんせこの村自慢のコーヒーだったからな。
その後も夫婦でここに来ては明るく談笑しているを見て、俺自身もやりがいを感じてた。それと同時に、この世にこれ以上幸せそうに見える夫婦はないだろうとも思ったよ」
店主は深呼吸をして外の、信号機の方を見る。
「だから、そんな彼女が失踪するなんて、よっぽどのことがあったんだなって思ったよ」
「最後に目撃したのは、かつて信号機のところに座りっぱなしでいたおばあちゃんでね。長い長い信号待ちをした末に、結局その信号を渡らず真っ直ぐ歩いて行ったらしい」
その言葉に引っかかりを覚えた私は、店主に聞く。
「歩いて行った、方向は」
「あっちだよ」
人差し指は、これから私が行く方向を示していた。
店を出るころにはすっかり日が傾いていて、山の頂上が、数時間前まで存在感をこれでもかという程発していた太陽を易々と飲み込もうとしている。
「人生には絶対に逃れられない時がある。決断を先送りにしたり渋っていたりすれば、自ずと代償は来る。ましてや真逆に引き返せば、それは人生の意味を失ってしまうだろう。
頭冷めたろ、ちょっとはわかったか?」
ドアの前で、店主はそう言う。
「...それは、どうやらもうどうでも良いことなのかもしれない」
私は、一度信号機の方を見る。
老人は、もうそこにはいなかった。
「それじゃあ、友人を追うとしますかね」
誰に言ったわけでもない。一言そう呟いて、私は東へ足を踏み出した。
道なりに歩けば 石動 朔 @sunameri3
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