雪解けと共に、結ばれた



「長い間、苦しんでいたのですね…。」


私の長い話を聴き終えると、ぼそりと、か細い声で昭子は呟いた。



「いやいや、私の苦しみなど、所詮煩悩よ。そんなことよりも、婚姻して以来、ずっと気苦労をかけて申し訳なかった…私が安心して抱き寄せられるのは、昭子、君ただ一人なのだ。離縁するなどと、そんな淋しい事は、お願いだから、もうどうか金輪際二度と、言わないでおくれ。」




「私、ずっと、貴方のお気持ちを疑っていました…。」




私のこの必死な懇願をまるで無視し、ポツリと昭子は言う。




「ええ、そうなのかい?それは悪いことをした…きっと、おしゃべりで軽薄なこの佇まいが原因に違いないな!昭子は気にしなくていいのだよ、私の日頃の行いが悪いのだからね。」




努めて明るくおどけると、昭子は、そんな私の顔を穴が開くほど、真剣にジッと見つめる。それは…面映ゆくなるほどに、澄んだ綺麗な眼差しであった。



「私、1人だけ母が弟妹と違いますし…、母は…な人で、私は母を…して生まれた上、父に溺愛されて育ったので…、弟妹達に恨まれて育ちました…。」



昭子が消え入りそうな声で、静かに語っている最中、偶然にも大きな風音が外でびゅうびゅうと吹き荒れ、その声を所々かき消した。



この風音が、もし風神の気まぐれによるものだったならば、私は例え神相手であったとしても、決して許さないだろう。



いや、神のせいではない。一番悪いのは、察しが悪く、能天気だった私なのだから。風の音に顔を思わずしかめた私は、襖をちゃんと閉めた後で、振り返ってこう言った。



「すまない、風のいたずらで、昭子の母君のお話だけ聞こえなかった。もう一度、私に話しておくれ。」




昭子は、私の顔を物言いたげに見つめている。今思えばそれは、私がわざと風のせいにして誤魔化したのか、それとも、私が本当に聞き逃したのかを探っていたのだろう。



この時、私は多少しつこくても、母君の話を掘り返すべきだった。私のトラウマを根気強く黙って聞いてくれた彼女のように、私も彼女のトラウマを察知して根掘り葉掘り聞くべきだったと思う。そうすれば、彼女を無謀なかけに挑ませずに済んだのかもしれないのに。



「いえ、貴方は噓が言えるような人じゃありませんよね。」




私の質問には答えずに、クスリと笑ってそんなことを言う。




「ああ、私は昭子に噓をつく必要なんてないからね。」




私は、胸を張ってそう答えた。




「私、弟妹にあの手この手で、いつも噓をつかれ命を狙われて生きてきました。父が私をあまりに溺愛するので、財産や地位を私が独り占めすると思っていたのでしょう。


食事に、毒が入っているのも珍しくありません。ですから、自分の身を自分で守るために、なるべく人を疑って、常に注意を払っていました。父は仕事に明け暮れて留守が多いですし、私の身を守れるのは、私だけなのですから。」




至極当然のように、淡々と、昭子は語る。そうした経験は、父を取り巻く女子たちの愛憎劇の渦中にあった私にも、身に覚えのあるものであった。つい親近感から調子に乗って、何気なく私は、こんな台詞を言ってしまったのだ。





「ああ、私も、跡目になったとたんに、『お前は忌み子だ!死ね!』と、冬の河原に突き落とされた事があった。あれは寒かった、下手したら死んでいたよ。私たちにとって、生きている血縁者こそが、一番の敵だな。」


 


 一瞬、彼女の顔がサッと曇ったように見えたのは、気のせいではなかったのだ。この時、昭子の悩みを、もっと深く聞いて知るべきであった。何千年も経った後で、そんな事を悔いても、もう元の木阿弥でしかない。



今生の「ぼく」に、今こそ私は伝えよう。昭子、今生の「きみ」がどんなに自身の不安や苦しみを伝えようとしなくても、どれだけ時間がかかろうとも、口を閉ざされようと、「ぼく」は常に「きみ」の心の声が聞かされるまで、辛抱強く耳を傾けるべきなのだよ。



それこそが、あれから何千年も経った後の世の「ぼくたち」が、信じあい、幸せに愛し合うための一番の近道なのだから。きっと、「ぼくたち」が、素直にそう思えるようになるために、前世の「私たち」はこのような切ない経験をする必要があったのだから。




「ええ、本当に。血縁者が一番怖いものですね。」




刹那崩した表情を、何事もなかったかのように元に戻した昭子は、そう言った。それから、私の表情をまるで観察するかのような目つきで見つめ、いたずらっぽく微笑みかける。




「そう言えば私、婚姻してからずっと、貴方を疑っていたとさっき言いましたけど、貴方に他の女性がいないことは、実は織り込み済みでした、ごめんなさいね。」




「??そうなのかい?それは良かったが…何故それをわざわざ教えてくれるのだ…?」




きょとんとした顔で首を傾げる私を見て、妻は、思わず吹き出した。




「貴方が、私が今まで出会った他の誰よりも、生まれて初めて信じられる人だと確信したので、特別に教えてあげました!」




朗らかに何かを吹っ切って、いつももの静かな昭子が、人が変わったかのように、ニコニコ笑いかける姿はとても愛らしい。単純な私はすっかり、喜びでのぼせあがってしまう。




「私にとっても、昭子は、生まれて初めて恥を打ち明けられた、誰よりも大切な妻なのだから。当然のことさ。」




そんな私の反応を、少し不安そうに見つめた昭子は、試すように色々な私の知らない新事実を恐る恐る明かしていく。





「私、婚姻してからずっと、貴方付きの下男たちに毎日お金を握らせて、貴方がどこに通っているか、ちゃんとお仕事にしか通っていないか、報告させていたの…こんな私の行動、『源氏物語絵巻』の六条の御息所みたいに、重いって…貴方は思う?」




怯えた子ウサギのようにこちらを伺う昭子の、そのあまりの可愛らしさに気が動転した私は、彼女が予想し、恐れていた反応とは真逆の方向に、鼻息荒く立腹した。




「何だって!!あんな下品な奴らに、君の大事なお小遣いを使っていたのかい!?駄目じゃないか、お小遣いは、昭子の欲しい物とワクワクする物品購入に全部使いなさい、といつも言っているだろう?



その為に私は、行きたくもない«かったるい仕事»に必要最低限で!通っているのだから!



本当は、毎日毎時間毎分毎秒、君とずーっと愛の文を交わしていたいところを!致し方なく!


君にお小遣いをあげたくて、それだけが楽しみで、つっまんない昔の律法を書き写したり、上司のおじさんたちとの、くっさい食事会を耐え忍んでいるのだよ!



それに、牛車でお出掛けをしたいなら、あいつらじゃなくて、私に直接言ってくれればよかったじゃないか…!仕事の合間に、十条河原や物売りの行きかう風景を、君に沢山見せてあげられたのに…!



そうすれば、普段とは違う和歌や短歌を一緒に詠めただろう…?てっきり、箱入り娘だから、おうちから出たくないのかと誤解していたよ…!これからは、一杯お出かけしよう、もう今、決めたからね!」




矢継ぎ早にそうまくし立てる私の勢いに気圧されたのか、昭子は驚いたようにパチクリと瞬きして、なお心細そうに、尋ねる。




「本当に、嫌じゃないの…?私、貴方に和歌で何回抱いてほしいって暗喩しても、手を出してくれなかったから、てっきり男色家だと誤解していたの。


証拠を抑えるために、一時期お屋敷に、下女見習いに見せかけた大量の稚児を、罠として放った事もあったのに…?」





「うん、ちっとも!何を嫌に感じるんだい?私が君の愛を信じきれなくて、嫌われるのが怖くて、長い間隠し事をしていたのが悪いんだからね。


不能だと打ち明けることで、昭子に軽蔑されたり、離縁されるのがずっと怖かった。つらい思いをさせただけじゃなくて、しなくていい手間をかけさせて…本当にすまなかった。これからは隠し事は一切しないから、安心しておくれ。



ああ、ところで…もう稚児を屋敷に放つのはやめておくれ。一時期、備蓄の米も全部すっからかんになったのは、きっと、彼らのせいだからね。彼らは、下女見習いの二倍は食費がかかるのだよ!米が食べられなくなるのは、君も困るだろう…?」



私のこの大分ずれた一生懸命な説得に、昭子は、口角を上げて、フッと微笑する。それは、何かを決心したようにも見えた。




「ねえ、私は…貴方が、少しでも私に性的興奮を感じてくれるならば、貴方に、思いっ切り私を抱いて欲しい。勿論、無理強いはしない。貴方が、そういう行為がもう怖くて出来ないなら、別にしなくても幸せなの。



ただ、勘違いしないで欲しいのは、貴方が、不能であろうとなかろうと、そんな事は私にとって、どっちでもいい。



だって、私ももしかしたら、石女かもしれないし、子が出来ない奥方も世の中には沢山いらっしゃるでしょ?もし出来たら出来たで、それは喜ばしいことだし、出来なかったら出来なかったで、また違う形で考えればいいと思ってる。


 

要は、私は、そういう子作りの義務的アプローチとしてでなく、他でもない貴方に、愛されていると、体で実感したいの。そして、貴方自身にも、伴侶である私に愛されていると自信を持って欲しいから、体で交わりたい。



…そう心から望む私の事を、貴方は淫乱で邪な存在だと、本当に感じる…?煩悩は、そんなに禁じなければならない事…?貴方は、私の素肌の温度すら、一生知りたいとは思ってくれないの…?」




そうゆっくりと問いかける昭子の凛とした眼差しは真剣そのもので、幼い頃から私が憧れ続けた観音菩薩のような、清廉とした美しさを讃えていた。その姿には、私が忌み嫌ってきた、獣と獣が食い合うような、生々しい人間の本能的性欲は微塵も感じられない。



どちらかと言えば、人間というよりは、男であれ女であれ、何物でも受け入れるかのような、荘厳とした慈悲深い神性を圧倒的に強く放っていた。私がずっと今生で探し求めていた、まさに運命の天女が具現化した姿と言っても、過言ではない。



自分が求めてきた以上の愛が、現実に目の前にあることへの余りの衝撃と感動に、雷に打たれたかの如く、動けなくなった私の衣を、ゆっくりと優しく脱がせながら、昭子は囁いた。



「私、考え過ぎた時期に思い付いたパターンで、貴方が実は女子の体なのかもしれないと疑ったことがあるの。



だから、もしそうでも、全然気にしないでくださいね。貴方は、私の夫で、私は貴方の妻で、それでお互い満足しているのだから、それでいいじゃないですか。」




昭子の疑り深い性格は、とっくにそんなところまで、まだ見ぬ私の体をあらゆる角度からリサーチしつくしていたのだ。しかし、その慎重すぎる性格に反して、最早彼女の眼には、私との信頼関係に、一点の曇りすらも浮かんでいなかった。



その割り切ったスピード感に気圧されたのか、感動したのか。いつのまにか、私は昭子と全裸で抱き合いながら、クスクスと笑いあっていた。愉快で、何か得体の知れない恐怖から解放されたかのように、心が躍りだしそうになる。抑えきれないワクワク感と同時に、洪水のように押し寄せる感謝と幸福感で、お互いの心と体が溶け合っていくように感じる。



私たちは気付けば、大いに笑い、大いに泣いていた。それは、今まで味わってきたどの感情とも違った。体験した者にしか理解できないような、輪廻転生の果てで起きる、魂の喜びの絶叫とでも言おう。底が知れないが、呼吸が楽に出来る、暖かな海の中に、気持ち良く溶けていく感覚、とでも例えようか。



私にとって、昭子の魂そのものが海となり、昭子にとって、私の魂そのものが海となった。本来、魂のつながりとは、かくあるべきものなのだ。その暖かさをお互いに共有するために、私たちは何度も伴侶として、お互いを選びあってきた。その魂の記憶を、私たちは交わりによって、転生するたび、思い出す。

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