君の心を垣間見た

 昭子と婚姻してから、数年が過ぎ去った。毎晩、夜明け前まで、和歌や短歌の応酬をし、一緒にいる事に飽きが来ない私たち夫婦の間には、何物にも代えがたい確かな絆が芽生えていた。私は、この人生で最も充実した、幸せな時を迎えていた。



 しかし、私たちの間に、新たな命が芽吹くことはなかった。当然だ、その源となる行為をしていなかったのだから。だが、私は妻との関係でプラトニックを貫いている事に、何ら問題を感じていなかった。私自身のトラウマとなっている事象であり、昭子に打ち明けるのが怖かったのもあった。



そもそも、何よりも、昭子との日々が楽しくて仕方なかった。私は、昭子に夢中で、有頂天だった。それと同時に、若く、愚か者でもあったのだ。



時が過ぎるにつれて、愛が深まると共に、昭子の表情にこの一件が、大きな影を落としているとは…その時の私は、夢にも思わなかった。




「話があります。」




 ある夏のじっとりとした湿気がこもった晩に、昭子に話を切り出された。いつものように、和歌で話をしようと、筆を取ろうとすると、手で制される。困惑する私をよそに、淡々と、冷たい抑揚のない声で、昭子は言った。




「私たち、離縁しましょう。」



「…え?」




一瞬、私は聞き間違えたのかと、自身の耳を疑う。蚊の鳴くような声で聞き返す私に、昭子は次々と、事務的に理由を挙げていった。


 


 曰く、婚姻して数年過ぎているにも関わらず、子供がいないことで、石女ではないかと宮中で噂されて、心苦しい。養父には相談し、実家への出戻りの許可を既にもらっているので、自分に気を遣わず、子を産める他の女性を遠慮なく妻に迎えて欲しい。一緒に過ごせた日々はとても楽しい時間であった、感謝しているとのことであった。


 


最早、決定事項のように羅列される言葉の数々に脳ミソがついていかない。離縁した後は、仏門に入り尼寺で余生を過ごそうと思っている、という未来の展望を聞いたところで、すっかり混乱した私は、昭子の肩を思いっ切りゆすり、誠に愚かしい失言を叫んでしまったのだ。





「何でそんな寂しいことを言うのだ!!私はこんなにも貴女を愛しているのに!貴女は私のことを愛していないのか!?」





「なんで…なんで…。」




妻の肩が震えているのに気付いた私は、ハッとした。言ってはいけない言葉を放った。直感的にそう感じたからだ。



突発的に、昭子の顔を覗き込むと、いつも静かで穏やかな彼女の表情からは、想像できない程に感情のかき乱れた苦しそうな顔をしていた。




「愛してるからこそ…こんなに必死に、貴方を責めないように我慢して頼んだのに…、何でそんな意地悪を言うのですか?!」




彼女の目から、大粒の真珠のような涙がぽたぽたと零れ落ち、私の頬を伝ってゆく。初めて見た其方の泣き顔は、それはそれは、この世の何よりも、息を吞む程に美しかった。一瞬、昭子に見惚れた私は、頭を振って雑念を振り払うと、思い切り妻を抱きしめた。





「子などいらぬ!私は、昭子さえいれば、それで幸せなのだ!ずっと二人でいたい!」




「いけません!」




昭子は、私の肩をぐいとつかむと、毅然とした態度で言った。





「惟貞様、貴方は、栄えある藤原氏の跡継ぎなのです!私と二人だけで和歌を詠むのではなく、もっと位を挙げて、宮中で噂される話題の的になるような、素晴らしい和歌を沢山の人の前でも詠んで下さい!


それは、女の私には出来ない事です。私は、貴方の才能がこのまま埋もれる事が一番悲しいのです。


貴方が、私と婚姻してから、和歌を様々な人々と詠まなくなった事が、ずっと気懸かりでした。最初は、プレイボーイとの噂だった貴方が私に一途になってくれたと思って、とても嬉しかったのです。



ですが、和歌や短歌は、本来、恋文として詠まれることの多いもの。浮名をある程度流さなくては、歌人として死んでいるのと一緒です。遊んで欲しいと言っている訳ではありません。私も女ですもの、嫉妬しないとは言えません。ですが、私は、貴方の正妻です。



例え、貴方が抱いてくださらなくても、私が正妻であることは、ずっと変わらないのです。もし仮に、別に体の関係がある女性がいるなら、側室として認めます…だから、隠さないで下さい!


私の父が関白であることに遠慮して、言えないなら、素直に今言ってください!私の事も、愛していないから、抱けないのだと言って下さい!もう、優しい噓は聞きたくないのです!!」




わんわんと、まるで感情が決壊したかのように泣き続ける昭子の姿を見て、私は茫然自失した。



 まさか、これほどまでに、私の小さなゴミくずのようなプライドと恐怖のせいで、彼女が長年にわたり苦しみ続けていたとは、思いもよらなかったのだ。また、それだけでなく、私が世界で一番愛している愛妻が、私の予想の範疇をはるかに超えて、愛してくれていることに、すっかり打ちのめされてしまってもいた。




「…ちがうのだ…。」




間の抜けた小さな声を振り絞るようにして、私は言った。




「何が違うのですか!?私を愛していることが違うのでしょう?!」




すっかり傷付いて、感情が高まっている妻を壊れ物のように、そっと抱きしめて、私は呟いた。




「プレイボーイなどという噂は、全部世間の噂でしかないよ。私は、女人とセックスをしたことがないのだから。元服したての頃に受けた、下女の手解きの筆おろしを経験してから、ずっと、ね。」




「…噂になっていた女人たちとは何をしていたのですか…?」




頬を膨らませ、疑いの眼差しを向ける妻は、いつになく幼く見えて、愛おしい。私は、思わず頬を綻ばせ、抱きしめた妻の黒髪をゆっくりすきながら、答えた。




「昭子に今しているように、抱きしめたことすら、ないさ。私は、ただ、恋文の真似事をして、言葉遊びを楽しんでいたんだ。



そうしていれば、いつか運命の天女が私の前に舞い降りて、私も女人が怖くなくなる、と思った。


情けなくて、馬鹿にされるのが怖くて、ずっと、誰にも打ち明けられなかった。だが、運命の女人である昭子、君ならば、怖くない。私の貧相な一物も、使い物になるかもしれない。少し、昔話を聞いてくれないか。」




 昭子は、私の腕の中で、小さく頷く。あの初夜の晩のように、小刻みに震えだした私の手を、優しくさすり、観音菩薩のように気遣う昭子の姿は、まさに私にとって、運命の天女に他ならない。失望させずに済むだろうか…そんなことを思いながら、私は元服をした年の夏の夜の悪夢を思い起こした。

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