鈴虫が泣く初夜に


 あの日は、もうすぐ冬がやってくる晩秋であった。私たちの初夜となり、二人きりである。



寝坊助の鈴虫達の鳴き声ばかりが大きく響いて聞こえた静かな夜で、私は、不安と緊張で張り裂けそうだった。なぜなら、君だけが知っている、あの秘密があったからね。




とは言っても、その当時の君は、私の事情など知らない。昭子、君は、明らかにこわばっている私の顔を、静かにジッと覗き込んでいた。




真っ白な肌と、艶やかで綺麗な黒髪と、甘い香の匂いにくらっとなりながらも、私は元服したての頃のトラウマに苛まれて、すっかり萎縮してしまう。年上の男である私がリードせねばならない立場なのにも関わらず、私の手は、気付けばブルブルと小刻みに震えていたのだ。


 

 何か、気の利いた愛のある言葉の一つでも、送らねばなるまい。女人の方が不安な気持ちは、大きかろう。そうは思っても、焦りでますます言葉に詰まってしまう。こんな私が、都で女遊びの激しい風流な歌人と言われてるだなんて、我ながら、聞いて呆れる。ほとほと、自分の情けなさに愛想が尽きかけた、そんな時だった。


 

 昭子は、そっと私の震える手を握った。まるで、怪我をした小鳥の雛を地面から拾い上げるように、それはそれは、ゆっくりとした、暖かい動きだった。このような優しい手に、その人生で私は一度も包まれた事がなかった。



それは、例え私が何度転生したとて、簡単に忘れることが出来ないほどの、再び来世で相まみえ、同じように握られたならば、瞬時に思い出すであろう、優しい優しい手つきであった。その君の優しさの記憶は、手つきと共に、得も言われぬ感動を与え、私の魂に強い記憶として刻まれる事となる。そう、現世の「ぼく」が知っているように。




「なん…?」




泣きたくなるような新妻の優しさに、雷に打たれたが如く放心状態の私を見て、昭子は初めて、クスリと笑った。




婚礼の儀の際の、年齢とは分不相応に極めて冷静沈着な大人の女性の顔付きとは、まるで別人であった。そんな君の表情の華やかさに、私はすっかりやられてしまったのだ。




「落ち着きましたか…?」




鈴の音のように可憐な声で囁いた昭子は、いたずらっぽく笑い、つと私の手を放すと、傍にあった紙と筆を手に取りさらさらと慣れた手つきで瞬く間にこんな短歌を詠んだのだ。




(プレイボーイと名高い貴方ですのに、まるで秋の鈴虫の羽根のように女子の前で震えなさるのは、もうすぐ雪が降り始めるこの季節の寒さのせいかしら。)




「なっ…!」




先ほどの驚く程の優しさとは打って変わって、短歌ではサラッと毒舌を披露する、その頭の回転の速さと切り返しに舌を巻いた私は、気付けばいつのまにか負けず嫌いに火がついていた。




(季節外れの鈴虫の羽根が凍えてしまうのも、無理はないでしょう。鈴虫の足元には、貴女の心のように冷たい雪が敷き詰められているのですから。)



「まあ、酷い!」




私の返歌を見た昭子は、怒る風でもなくコロコロと笑うと、間髪入れず筆を取る。




(春になり暖かい風が吹けば、すっかり凍えている私たちの関係も、雪解けとなるのかしら。)




「上手い!」




思わず唸った私も、興奮してさらに筆を取った。




(春風に誘われて花芽吹く季節になれば、私たち鈴虫の元へも土の下の新たな命が芽吹くでしょう。)




 そう返したところで、私はハッとした。これを詠んでしまえば、まだ出会って日が浅い妻に、私の秘密をいつの日か打ち明けねばならなくなる。



それは、ここまで楽しく共に歌える新妻を失望させる事になるかもしれない。そして、その事実はまるで丸太のように私の心に重くのしかかった。自分の心に気を取られたせいで、私は気付けなかった。



私の返歌を覗き込んだ昭子が、少し悲しげな表情を浮かべた事を。


 


 初夜のあの晩、もしお互いに素直にここで悩みを打ち明けていたら、君ともっとずっと一緒にいれたのだろうか。私は、何回も何回も、その後の人生で自問自答して悔いた。あの晩から、やり直したいと、何度思った事だろう。




私の魂は、あれから、恥や秘密を黙るプライドよりも、打ち明ける情熱を重んじるようになる。私が打ち明けることで、君にも打ち明けて欲しい。私を想って我慢するのではなくて、私と君の抱えているものを共有しようと君が思えるような、心を解放出来るきっかけを作る努力がしたいのだ。



現世の「ぼく」が君に、あけすけにあらゆる感情を見せるのは、もう二度と、この時の人生の失敗を繰り返したくないからであろう。




私たちは、努力するべきだ。お互いを思いやっているからこそ、打ち明けかつ信じて、望む将来の為に二人で立ち向かうために。




少しの恥と、プライド、きっかけがなかったために、昭子、君を失った私は、何千年経ってもそれを後悔し続けているよ。だからこそ、何度目かの失敗を教訓に、現世の「ぼく」と君は、巡り合ったんだ。




それを、私は、君にも思い出して欲しい。冷たい風が吹いていたのに、暖かい気持ちになったあの淡い夜の思い出と共に。

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