あの時代の私達の出逢い

 春の訪れもまだ遠く、御所に降り積もる白雪も解けきらぬ頃であっただろうか。大納言の父に久方ぶりに呼ばれた私は、冷たく湿った廊下をひたひたと歩いていた。出世し多忙を極める父から直々の話ということは、拒否出来るような話ではあるまいし、気が重い。あの男の、出世欲に満ちたギラギラとした目を思い出す。ろくな話ではないだろう。



私は、十四人兄弟姉妹の四番目に産まれた。次々とはやり病で正室腹の兄が死に、残された妾腹の男児である私に、ついに跡目のお鉢が回ってきたのだ。私が父の跡目となり、父からの期待を一心に受けるようになったことで、母は寵愛を取り戻したと狂喜乱舞した。だが、私にとっては、いい迷惑である。狂喜乱舞する母の笑顔とは対照的に、兄たちの死以降、父の訪れなくなったがらんとした屋敷で、出家し喪に服しているという父の正室殿の悲しみを思えば、喜ぶ気など起こるはずもなく、ただただ気が滅入るばかりであった。


 


 母に、私のこうした気弱さをよくたしなめられるものの、これが惟貞という人間なのだから、仕方あるまい。奔放な父を取り巻く女性たちの感情の渦を見やれば、憂鬱な気分しか湧かぬ。だが、かく言う私も、あの父の血を御多分に漏れず引いていると見えて、五条の屋敷に住む女性との逢瀬を昨晩楽しんだばかりである。



最も、父とは違って、私はそこまで大胆には動いていないが、その事実は都の誰も信じないであろう。そういう訳で、世間から見れば、私も立派な«色狂い藤原二世»なのだ。大きくため息をついた私は、父の待つ部屋へと、足早に向かうのであった。



「おお、惟貞。久しいな。」




時間に多少遅れたにも関わらず、父は、満面の笑みで座していた。



「遅れて申し訳ありません…今朝方、美しい花のかぐわしい香りに惑わされ、ついうっかり牛車を止めて見入ってしまいまして…。」



使い古した父の気に入りそうな遅刻の言い訳を空々しくすれば、好色な父の顔がニタアと歪む。




「風のうわさで聞いておるぞ。五条の歌人と名高い後家であろう。中々どうして、黒髪の艶やかな名器と聞くぞ。お前も若い頃のわしに似て、好きじゃのう。」




(お前と一緒にするな、私はあの歌人と言葉遊びを楽しみ、彼女の淋しさを紛らわせただけだ。そして、彼女は私の運命の人ではなかった。ただ、それだけだ…。)




心の中で、女性を子を産む器としか見ない下卑た父に、思わず毒づいた。この男の下卑た品性には反吐が出る。うんざりした感情を隠しつつ、愛想笑いを返す。これで深く突っ込まれることはないのだから。



「だが、お前にもそろそろしばらく女遊びを控えてもらうことになる。…というのもな…。」



「はあ…。」



まるで自分は最早遊んでいない風を装っているが、最近迎えた新妻がまたも懐妊中のこの男に、ほとほと愛想が尽きている私は、図らずも気のない返事をしてしまう。しかし、そんな事は意に介さず、自己中心的な父はこんな事を言ってのけたのだ。



「喜べ!お前の正室にと、関白殿のご息女を貰い受ける事と相成った!」



正室…。予想の範疇内の話ではあったが…来てしまったか…。こぼれだすため息を飲み込む。



(これで、運命の人探しが出来なくなった…。私もついに、年貢の納め時か…このまま、貴族の嫡男の運命よろしく、家の名誉の歯車として生を全うするのだろう…。)




感情が顔に出ていたのだろうか、珍しくあの父が、反応の思わしくない私を気遣った。



「おい、女遊びがもう出来ぬと落ち込んでおるな、仕方のない奴だ…。まあさもあらん、天下の関白殿のご息女を正室にとあってはな…しばらくは他に遊びに行けぬかもしれぬが…なあに、ご息女が一人目を懐妊なされば、関白殿も男だ。女遊びを再開しても、大目に見てくれるじゃろうて。」



 

 そんな軽薄な慰めを冷静に聞き流しながら、私は、こういう所が、父の出世がこれ以上見込めない所以であると確信した。



遠目から見かけた関白殿の、厳格な佇まいを思い出す。あの人は、そんな事で婿を大目に見るような人ではないだろう。女遊びなどで、家の品格を汚すような婿ならば、左遷も辞さないのではないか。だからこそ、並み居る有象無象の藤原氏の頂点にまで上り詰めたのだ。




絶望的なまでに人を見る目がない、奇跡的に大納言になったような、ぼんくら貴族の父と、関白殿とでは、同じ藤原氏と言えど、器が違う。鷹の目のように鋭いあの眼光を思い浮かべると、胃がキリキリと痛む。私の秘密を一番知られてはならない男だ、そんな風に思った。



 


 しかし、そんな養父の印象は、昭子、君との出会いで大きく変わった。父の知らせから季節は巡り、数ヶ月過ぎて迎えた婚礼の夜。初めて酒を酌み交わした養父は、ひどくはにかんでいた。



「いやね、昭子は私の秘蔵っ子でね。私の子供たちの中では、和歌を詠む才に最も秀でているもんで、どうにかこうにか、せめて歌人の元へ嫁に行かせてやりたくてね。」




ろれつの回らない口調でデレデレと愛娘の才について語る養父は、宮廷での凛とした姿とは、まるで別人に見えた。酒の勢いもあってか、つい私はこんな事を聞いてしまったのだ。




「…失礼をご承知でお聞きしてもよろしいでしょうか…?」



「なんだね。今夜は無礼講だ、遠慮なく聞き給え。」



「では、お言葉に甘えて…昭子様は、関白殿の正室様のお子ではないのに、秘蔵っ子なのですか?すみません…私は、側室腹で幼少期あまり父との間に良い思い出がなかったために、少し羨ましく不思議に感じてしまいまして…。」




 我ながら、無神経な事を聞いたものだ。これは、関白殿の怒髪冠を衝いたやもしれぬ…。そう思った私は、恐る恐る養父の顔を覗き込んだ。だが、その表情は、ひどく穏やかなものだった。




「そうか…君の母も側室なのだな…。それは良かった。」




思いがけない反応にたじろぐ私に構わず、養父は盃の酒を感慨深げに眺めながら、君の母について語る。




「君は、運命というものを信じるかね?」




「運命…ですか?」




 それは、私がずっと、探し求めていた言葉だ。言葉を失う私をよそに、淡々と、関白殿は続ける。




「昭子の母は、名を夕子と言ってね、実に美しく、頭のいい優しい人だった。元服したての私は、彼女の色香に舞い上がってしまってね、仕事も忘れて逢瀬を共にした。まだ、今の正室とは婚姻していなかった。彼女が初めての私の正室なんだ。



若い頃の私は、自信がなくてね、仕事の愚痴をしては、彼女によくたしなめられたものだ。彼女がいなければ、私は、今の地位にいなかったかもしれない。それほどまでに、彼女は私のたった一人の運命の相手だった。だが…。」




一瞬、言葉を言いあぐねた関白殿は、決心したように盃の酒を勢い良く飲み干し、続ける。





「私の出世の事を思い、私に先の左大臣の娘である今の正室との縁談が来た時、正室から下って側室となると申し出てくれたのだ。



私は…私は、若くて馬鹿だった。彼女の本心をくみ取ることすら出来なかった…。私が新しい妻と夜を共に過ごしていた頃、一人寂しく衰弱死してしまった…あれ以来、まるで片割れを失ったかのように空虚な気持ちになってね…がむしゃらに仕事をしていたら、こんな馬鹿な男が天下の関白だ。笑ってしまうよ。」




 

 自嘲気味に語る養父の目には、いつのまにやら目じりに大きな涙の粒が浮かんでいる。その涙には、強い自責の念が感じられた。



私はその時、今まで厳格だと思っていた関白殿の、実に人間らしい振る舞いに、思わず心を打たれてしまう。そして、そんな風に妻を人間らしく愛せる関白殿の、娘である君との出会いに、心を踊らせたのだ。御簾の中で静かに花嫁衣装に身を包む凛とした君も、きっと、心ある人間に違いない。そう期待していたよ。

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