残像

 蛙の声がしている。二人は堤防沿いを歩いていた。数十メートル置きに立った、蛾が群がる街灯が夜道を照らしていた。遠くの街の灯りが地平線でぼんやりと空の色を薄くしていた。


「先輩、私、きっと明後日には、就職活動をしてますよ」


 きわめて普通の口調で蕾は言った。


「先輩の不幸と私の不幸は違うって言われて、少しわかったんです。私はきっと、あれほど変わりたかった『恋がわからない自分』のことも少し愛していたんです。疎外感、孤独感にさいなまれた色盲患者が、自分だけに見える色の存在を信じるように、その欠落に唯一性や、アイデンティティさえ見出していた。恋を知った私は、そのアイデンティティを失った。私は普通の人と一線を画した化け物でも、どうしようもないサイコパスでも、脳にハンデを負った障害者でもなかったんです。私は少し不適合なだけで、ごくごく普通の独りよがりな一般人だったんですよ」


 蕾はカフェで菊池に「まだ痛いですか?」と聞いたときの表情を思い出した。


「先輩と私はすごく似ています。すごくよく似た、平凡です。きっと、今の先輩はあの頃の痛みの100%を感じてはいないんでしょう。いや、感じることはもうできないのでしょう。時々思い出してはかさぶたをはがすけれど、少しずつ痛みは薄れてしまうんでしょう」


 蕾も菊池も主人公なんかではなかった。


「その通り。俺は、あれだけ俺を突き動かした情動も、もう十分に思い出すことができない。諦めて自分の世界に戻り、毎日気を紛らわせながら生きていたら、だんだんそれが当たり前になっていく。普通に生きれてしまうんだよ」


「寂しいですね」


「寂しいよ」


 高架橋の下を通る。橋の上を車が走る音がする。


「お互い、癒しあえたらよかったんですけどね。お互いの傷は、お互いが背負っていくべきなんですよね」


「君はまだわからないだろうけど、時間が経てばこの記憶も、ただ痛いだけの傷じゃなくなる時が来る」


「私、からっぽになったみたいです」


「その傷があるじゃないか」


「いつか、この傷も愛しく思える日が来るんですか?」


「来るといいね」


 線香花火が落ちるみたいにあっけなく、二人は高架橋を抜けたところで別れた。


 朝日が昇る前に一人、家まで歩いて帰るのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ビフォア・21 岡倉桜紅 @okakura_miku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る