散り菊

 六畳一間のアパートは西向きに窓が付いていて、橙色の夕日が差し込んでいた。開け放した窓から、ベランダに朝顔の鉢が置いてあるのが見えた。狭い部屋に置かれた天井に届くほどの高さの本棚に教養書や音楽関係の書籍、新書が並んでいた。


「君の本棚とはずいぶん毛色が違うだろ」


 蕾が背表紙を眺めていると、菊池は言った。蕾は頷く。蕾が読むのはもっぱら商業用の小説だった。人を楽しませるために作られた物語。丁寧に計算された起承転結と、感情を揺さぶるクライマックス、それに伴う感動体験を本に対して求めていた。これも、自分が幼稚なロマンチック思考を肥らせている原因の一つなのかもしれないな、と無表情のままで蕾は思った。


「さて、牛丼と酒も買ってきたことだし、座りなよ」


 窓の外で、地元の高校生らしき集団が、部活終わりに群れて帰っていく声がする。


「俺は俺の敗れ去った、いや、自分で諦めた辛い初恋について話したが、まだ君のを聞いていないな。君は恋愛を知らなかった歴史について詳しく語ったが、それは単にこれから話してもらう初恋のインパクトを高めるためのプロローグでしかない。本編を話してくれよ」


「わかりました」


 蕾は小さなローテーブル越しに菊池と向かい合い、腰を下ろした。


「始まりは先輩と同じですよ。一瞬の出来事でした。理屈とか、パターンとか、そういうのを学ぼうとするのがいかに愚かしいことだったのかその瞬間にすべて理解できました。最初は、人生で初めて味わうこの感情が『恋』っていう名前のものなんだということが認められませんでした。だって私は、恋なんかしないから。恋愛感情ってものがまるまる抜け落ちた欠落人間だから。今まであんなに頑張っても恋ができなかったし、あれだけ他人を傷つけて、映画を観漁ってもわからなかったんだから、できるはずないんです。でも、考えれば考えるほどに、これは恋という言葉でしか説明できないことに気付くんです」


 少し手が震えている。


「家に帰った後、考えるんです。どこかの本で読みましたが、不在を愛することが真実の愛と呼べるそうです。その人がいないときも私は気付けばその人のことばかり頭にちらついて離れませんでした。なんにも手につかないんです。一人の人間に対してここまで執着の心を持ったことは初めてでした。声も好きだし、顔も好き、笑ったら可愛い、歩き方が好き。こんなの誰にも思ったことなかったんです。世界一の美女女優を見てもなんとも思わなかったし、世界一のイケメン俳優を見てもピンとこなかったのに、なぜかその人のことは気にしてしまうんです」


 話しながら、心が抉られるように切なかった。


「毎日、明日朝起きたら私、なにか致命的な病気になってないかな、と願ってから寝るんです。そうしたら全部勇気が出るのに。今日で人生終わりだと言われたら、喜んでその人に気持ちを伝えに行きますよ。でもそう簡単に世界も人生も終わらないんです。辛いんですよ。毎日学校に行く道すがら、いるはずもないのに似たような背格好の人を見つけては心が躍るんです。挨拶して笑ってくれたら、それだけで一日が良い日だったな、って思えるんです。一度だけいっしょに遊びに行きましたが、話したことの小さいことも忘れてないんです。こんなのおかしい。こんなの私じゃないなんて、何度も思うんです。でも、その回数と同じくらい、好きだって思う回数が邪魔をするんです。先輩は、私とその人が同じ学生同士なのだから、好きなら告白すればいいと思うと思います。でも、私はできなかったんです」


「わかるよ」


 菊池は言った。


「なぜなら私が、チキンだからです」


 これが、すべての苦しさの根本的原因なのかもしれなかった。


「私はその人を諦めました。自主的失恋です。理由の後付けならいくらでもできます。もしかしたらその人は他に好きな人や付き合っている人がいるかもしれない。大学内で付き合っていることが公になるリスクが嫌かもしれない。女が女に恋することが受け入れられないかもしれない」


 ローテーブルの上に置かれた牛丼がゆっくり冷めていく。だんだん薄暗くなってくる部屋の照明を、つけるタイミングを逃す。


「こんなの病気ですよ。精神病です。辛さしかないから、早く治してしまいたいって思うんです。でも、私を病魔で脅かす病原体こいは、その人のことを忘れさせてはくれないんです。諦めたはずなのに、同じ教室で授業を受ければ、私より前の席に見かけたらずっとちらちら見てしまうし、私よりその人が後ろに座ったら、もしかしたら視界に入っているかもしれないと思って背中がぴりぴりするんです。授業終わりに教室を出た後、ああ教室を出る前に一度振り返って探せばよかったななんて思うんです。もし見えたって何がどうということはないのに。私、狂っちゃったんですよ」


 菊池は立ち上がって蕾の横まで来ると、蕾を抱きしめた。蕾の身体は震えていた。


「俺の不幸は、届かない本物の恋を知ったことで、これは君の不幸の一部でもある。でも、本当の君の不幸は、恋という体験を通して、自分は絶対に罹ることのない病気だと思っていた病気になってしまったことだ」


 蕾は頷いた。鼻水をすする。


「俺の不幸と君の不幸は同じではない。でも、俺と君は似てるんだ。今夜、俺たちで慰め合うのはよそう。セックスなんかで紛らわさなくたって、時が経てば少しずつ、痛くなくなる」

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