松葉

「先輩は軽薄そうにふるまってはいるけれど、どこか上品ですよね」


 蕾は空のように真っ青なクリームソーダを、細長いパフェスプーンでつつきながら言った。白い雲のようなバニラアイスクリームが浮いている。


 二人が入ったカフェは、夏休みの時季なので、若者や家族連れでにぎわっているかと思いきや、思いのほか客は少なかった。様々なカフェが集まっている通りの、少し横道に逸れたところにある、落ち着いた雰囲気の店だった。二人の頭上で、吹き抜けの天井に取り付けられたシーリングファンがゆっくりと空気をかき回していた。


「そうかな」


 他人一般に無関心のように思っていた蕾が、自分のことを観察していたのだということに少し驚きを感じながら菊池は言った。恋愛的に見ることはできなくとも、それなりに他人に興味を持つことはできるらしい。


「ドアの開け方とか、エスコート、歩き方、食事の仕方、ちょっとした仕草からなんとなく。あと、こんなおしゃれな店を知っていることも意外でした」


 ただのチャラついた浮世人のような印象だった菊池が、今日いっしょに過ごしてきて、蕾の中で印象が変わっていた。


「今はこんな見た目だけど、人生ずっとこうだったわけじゃないんだぜ」


「話してくれませんか」


「君にこんな話をするのはちょっと変だけど、でも話そうかな。上品、と君は言ったけれど、この所作やマナーは俺にとっては武装と同じような意味で、自分を強くするために身に着けた。俺は君が想像するよりずっと育ちが悪い。まともに学校に通い、まともな企業に就職なんて未来は、当たり前じゃなくて、別世界の話みたいなところで生きてきた。俺は別に君みたいな人生をうらやんだりしていたわけじゃない。特に何の感想もなく、俺の人生はこうなんだな、としか思っていなかった。いわゆる上品さが求められるような人生じゃなかったし、それを受け入れていた」


「でも、上品さを身に着けたいと思う出来事があったんですね」


「そうだ。陳腐な表現になって申し訳ないけど、俺はある人に恋をしてしまった。相手は、金持ちのお嬢さんだった」


 菊池は、クリームソーダのグラスの表面を流れ落ちる結露のしずくを眺めていた。ぽたりとテーブルに落ちる。


「俺は今までたくさんの女と付き合ってきたし、お互いの抱く感情が恋愛感情じゃなくても寝たりしていた。恋愛感情のことを歪んだ性欲のように思っていた時期さえあった。でも、その人を見てから、世界が変わったみたいに見えた。俺が今まで感じてきた『あ、ちょっと好きかも』『この人、気に入ったな』とかいう安い感情じゃなくて、もっと大きい感情。すぐにわかった。これが恋なんだって」


「わかります」


 蕾もテーブルに落ちたしずくを見つめたまま言った。


「世界には、恋愛感情を本当に理解しないまま、体験したことのないままに、恋愛もどきをしている人がたくさんいる。かつての俺みたいに。元恋人を傷つけ、映画を観漁ったころの君みたいに。恋に落ちた瞬間のことなんてわからない。一瞬だったから。俺はその人と話したくなった」


「……わかります」


「俺は生まれて初めて無我夢中に勉強をした。その人がピアニストを目指していると聞いて、演奏会に行っても恥ずかしくない所作を覚えた。俺の住む世界の外の人達が休日はどこにいくのか、デートでは何を食べるのか、その人が好きな演奏家についてもすべて自力で学んだ。当然、クラシックの曲はすべて覚え、曲名がわかるようにした」


 丸いバニラアイスが溶け始める。水色に濁った青が上からゆっくり混ざっていく。


「何度かデートを取り付け、話すことができた。天にも昇るような気分だった。でも、俺は彼女を諦めた」


 クリームソーダを見つめる目が、線香花火を見つめる自分の目と同じことに蕾は気付く。


「理由はいくらでも後付けできた。彼女の夢を応援するのに俺は無力すぎること、音楽の業界について調べ上げたからこそ実感を持ってわかる、俺との時間をすべてピアノに注いでもまだ夢には遠いこと、彼女には他にも愛してくれる人がいること。でも、本当は違う。ただ、俺がチキンだっただけさ」


 しばらく、二人は黙って座っていた。バニラアイスクリームはすっかり青の中に溶けてなくなった。


「こういう話は、思い出すたびに辛くなるな」


「今でもまだ痛いですか?」


 菊池は目を伏せた。


「きれいさっぱり忘れちまいたいよ」


「私も忘れたいんです」


 濁ったクリームソーダをストローで一口飲む。


「ところで、セックスって気持ちいいんですか?こんなに辛いなら、恋愛感情が無くたってできるなら、忘れてしまうのはどうですか?」


「急に何を言い出すんだよ」


「別に恋愛の最終形態がそれじゃないのなら、痛みを忘れるためにしたっていいじゃないですか」


「確かに、本当の恋を知るまでの俺は、君と同じように恋愛感情なんてものもわかっていない子供だったけれど、恋愛感情を理解したいという強い気持ちがあったわけじゃないから、恋愛感情という言葉を利用してただの性欲を満たしていた。一時的に楽になれるのは本当だよ」


 今だけでいい。恋愛を知らなかった人間が唐突にそれを知り、それを失った寂しさを、分かり合える二人がここにいる今だけ、お互いに慰めあってもいいような気がした。菊池にはそれは一瞬の慰めでしかないことは分かっていたが、忘れたかった。蕾も内心ではわかっていた。これは一瞬の気晴らしに過ぎない。でも、忘れさせて欲しかった。

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