オムライスの話

チェシャ猫

満月の君と

 後から思えばあの日も普段と変わりのない日常のワンシーンだ。大きな変化のきっかけということもなく、取り留めもない一日。でも、こうして書き留めさせられるだけの何かが確かにあった。


 都会で話題の何某とかいうチェーンの市内一号店開店の報を耳の早いサークルの女友達から聞いたのが始まりだった。少し不便な立地だからかあまり流行っていないということだ。静かな飲食店なら人混みが苦手な相手でも連れて行けて、どんな話題も話しやすいだろう。綺麗な洋食チェーンというのもお誂え向きである。


 いつものように先に到着し、鼠色の空に溜息をつきながら所在無げに佇んでいると、紺色の傘を携えた白いブラウスの女性が覗き込むようにして僕の視界に入ってきた。

 「ごめんごめん、お待たせしました。雨だと思わなくて、準備に手間取っちゃって。外で待たず先に中入っててくれれば良かったのに。」

 今来たところだから大丈夫だよと型に嵌った返答をしつつ店内に入る。ランチタイムのピークを過ぎたのか客の入りはまばらだった。店内左奥の静かそうな席まで足を運んだ。窓から見える西の空はグレー一色で、晴れる兆しもない。こういう日は気分も沈み、妙な考え事ばかり捗ってしまう。我ながら悪い癖だとつくづく思う。

 いつの間にか自然にこちらを向けられたメニューに目を向け、開いたページに載った数枚の黄色い写真を見比べる。そこに写った僕の大好物について思案しているうちに、現代人も案外同じようなものだよな、とふと思う。みんな同じような面構えをしていて、でも腹の中はわからない。強い個性を押し殺して周りと合わせている印象すら覚える。僕はどちらかというと変わり者だと自負しているが、そんな癖の強くて難がある男ですら見た目には同じに見えるものなのだろう。SNSで流れてくる何かの漫画のコラージュと同じだ。専門外の人から見たらどこが違うかわからない、というやつである。問題は、対人関係においては誰しもある程度見極められなければならないという点である、が。

 そういえば高校時代によく話したあの子も「アイドルって可愛いのはわかるけど、パッと見ただけじゃ区別がつかないからあんまり興味ないんだよね〜」って自嘲気味に笑っていたっけ。

 懐かしいな、今頃どうしているんだろう——と、顔を上げたところでこちらを不審そうに見る視線とぶつかった。それもそうか、メニューの1ページを凝視していたのだからいくら何でも不自然だ。

 ごめん、ぼーっとしてて、と軽く謝った。他のページを見るか尋ねたら、少し悩んで「いや、いいよ」と返された。大方、僕が考え事をしているうちに見えている中から決めたのだろう。選択肢を1ページに絞ってしまったのは些か申し訳ない気持ちもあったが、決めたと言うならそれで良いのだろうということにした。

 注文を終えた後も、無言の時間が続いた。仮にもデート中に考え事に耽っていたことに負い目を感じ、何か楽しい会話を始めたいと思いつつも、楽しく会話できるような話題など一つも用意していない。何かないかと店内を見渡すも、湿度の高い店内は心なしか薄暗く、話題になるようなものは見つからない。僕はじっと屋根を叩く雨の音のただ響き渡るのを聞くのみであった。

 そうしているうちに料理は届いた。スプーンを手に取りながら「何年ぶりだろう、中学以来とかかも。」と言っているのを聞いたが、流石に聞き間違いだろう。なんだかんだ誰しも高校生のうちに一度くらい食べる機会はあると思う。やや不思議に思いながらも気にせず僕もスプーンを手に取る。

 料理というのは、綺麗であればあるほど、一口目に手をつけるのが憚られるものだと思う。「今、目の前にある美を、現実に存在するものなのかさえ疑われるほどの美を、自分の手で崩さなければならない」ということに後ろめたさを覚える、僕はそういう類の人間なのだ。料理でなくてもそうかもしれない。自分の手で壊してしまうくらいなら手放してでも美しいままにしておきたい。そういう人間なのである。

 ところで、まさに僕が美しいまま手放さんとしている女性は、一体何を頼んだのだろうか。考え事に夢中でオーダーも碌に聞いていなかったのを後悔する。向かいの皿に目をやると、未だ満月と見紛うほど綺麗な状態である。チキンライスはもちろんピラフでもバターライスでも美味しく食べそうな人であるだけに、どうにも気になってしまう。

 さて、と覚悟を決めて、満月のように完璧な美を崩し、内面を窺う。多少の罪悪感はあるが、顔の綻んでいるのを自分でも感じるほどの美味しさに吹き飛ばされる。人間も皆こうあれば良いのに。しかし僕の言えた話ではない。視界の端で女性に目をやる。震える手でゆっくりと一口目を口に運んでいた。チキンライスだった。オススメと書いてあったからだろうか。定番だからだろうか。少しだけ期待外れのような寂しい気持ちになった。

 僕の食べ終わった時にも、向かいの皿にはまだ3割ほど残っているのが見えた。どんな顔をしているのか気になるものの、ここで美味しそうに食べる眩しい笑顔などを見てしまうのは良くないと己に言い聞かせる。店内に視線を泳がせながら今後のための言葉選びに努めた。やけに静かな店内に、淡々と食器の音だけが響く。その静けさは僕にとって気味の悪い物であったが、その一方でその時間が永遠に続いてほしい気持ちもあった。

 「あのさ、」

 いつの間にか食べ終わっていたらしい。驚いて、何?と返してしまった。

 「いや、その……、やっぱりなんでもない。」

 いつの間にか雨は上がっていたようで、セピア色を基調とする落ち着いた店内に夕陽の差し込んだ様が何とも趣深い様子だった。正面に座る女性の、窓の外に目をやりオレンジ色の光に照らされながら髪をかき上げるその横顔には、誰もが見惚れてしまうだろう。そんなチープな感想とは裏腹にセンチメンタルな想いで溢れる僕の心境を知ってか知らずか、女性は視線に気付いて、左腕を下ろしそっと右手で庇った。何か言われるかなと僕は慌てて目を逸らした。

 数秒経って、「帰ろうか。」と彼女が言った。

 そう言われてしまうと引き留めてまで話を切り出す度胸は僕にはない。大人しくお金を払って帰路に着いた。歩きながらも何も話さずにいることはやはり耐え難かった。足元ばかり見ていると雫が溢れそうだったので、空を見上げる。東の空に月が見えたので、綺麗な満月だねと話しかけた。話題選びとしては最悪だが、そんなことを考える余裕はあるはずもなかった。余計に気まずくなるかもしれないと焦ったその瞬間——

 「満月だけが綺麗なわけじゃないけどね。」

 そう言ってふふっと笑った彼女。夕暮れに照らされた横顔は、ただまっすぐに前を見ていた。

 月の満ち欠けの話なのか、星や夕陽など別のものを指しているのか、はたまた何かの比喩なのか。真意はわからないし、聞く勇気もなかった。


 でも、満月以外も綺麗だと言う彼女の心の中には、もしかしたら自分の居場所もあるのかもしれないと期待してしまったのだ。

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