グアテマラスイート

びびっとな

本編

珈琲は元々好きじゃない。ましてや、珈琲を淹れるのはもっと好きになれそうもない。

泡立つ水溜りに垂れる黒い雫は、彼女の最期の姿を想わせるからだ。




ほんの不注意だった。あの夜は急いでいた。疲れていて気が立っていた。

切り損ねたハンドル。事故で奪った命が赤の他人でなかったことだけが救いか。まして、助手席にいた自分の妻を亡くしたとあれば、他人から買うものは同情ばかりであった。


あれから、何年経っただろう。

薄情にも忘れてしまった。5年だろうか、6年だろうか。


もはや、年数などどうでもいい。


私の最近の関心ごとはたった一つ。夜な夜な珈琲を淹れると、冷たい何かが私の傍を通り過ぎて行くこと。これに尽きる。


初めは只の気まぐれだった。妻が遺したコーヒーメーカーと豆。私は全く好きではなかったが、少しずつ悲しみが薄れていく日々の中で、彼女が飲み続けた味を知りたいと思ったから手を出した。


慣れない手つきで説明を見ながら、フィルターという物を覚え、ようやく珈琲を淹れることが叶った。

すると、微かな空気の流れが私の傍を通り過ぎて行った。まるで、人が通った時のような。優しくて柔らかい風。


私は咄嗟に、いつも妻が掛けていた椅子を出した。ビスケットを皿に出し、カップを卓上に置いて珈琲を注いだ。

結局、その冷めた珈琲は私が飲み干したのだが。




それ以来、何だか彼女を身近に感じられる気がして、夜になると珈琲を淹れるようになった。彼女は少し冷たい空気を漂わせながら、必ず私の傍を通り過ぎて席に着く。私はその対面に座り、一緒に珈琲を嗜むのが日課になった。

おかげで最近少し、寝不足だが。


今夜も彼女が席に着いたのを見届けると、初めて声をかけた。


「なぁ。この焦げたような甘ったるいような香りは何だ。これの何が良かったんだ。」


すると、ピシッと音を立ててビスケットにヒビが入った。

もう、ビスケットは飽きたということだろうか。


「そっか。…今度は…干し柿でも、買って来るよ。珈琲に…よく合うそうだ。」


そう言いたかったのだが、とめどなく流れて来る涙と嗚咽で、最後まで言うことは叶わなかった。久々に彼女の悪態を聞けた気がしたのだ。




一通り泣き終えた後に珈琲を一口飲むと、鼻に抜ける少しフルーティーな香りがやけに心地よく感じられた。


しばらく珈琲は辞められそうにない。

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グアテマラスイート びびっとな @bibittona87

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