彷徨うコメットハンター

秋口圭吾

第1話

 夜空を見上げると、薄く灰色の雲が浮かんでいるのが見えた。雲は街明かりを反射してどどめ色となり、夜空をぼんやりと覆っている。朝焼けや夕焼けと全くもって異なる、膿んだ腫れ物のような色合いである。そこに散りばめられているはずの星影は、街明かりに殺されて判然としない。大きく身体をのけぞらせ、阿呆のように口を開いてぐるっと全天を見回す。高く昇った月が、冷たい光を放っていた。金や銀に近いが、よく見ると様々な色彩を含んだ不思議な色合いをしている。月明かりは思いがけず強い物で、足元には薄っすらと影ができていた。私はガードレールに寄りかかり、月に手を差し伸べてみた。指先に何かが触れる事はなく、私の手はただ宙を掻いた。五本の指が冷たい月明かりの視線を遮る度、視界がちかちかと明滅した。薄っすら纏わりつく夜気が肌を撫でるだけで、月明かりには温度も感触もない。私にはそれがどうしてもつまらなくて、荒涼とした月の地平に想いを馳せた。

 青白いクレーターの縁に私は立っている。大気のない空は眩暈のするほど真っ暗で、ふと何かを違えると頭上の地球へ落ちていってしまいそうに感じる。それでもゆっくりと頭上を見上げると、地球には幾万もの街明かりが輝いて見える。無数の星系や星雲のように、仄かな輪郭となって大陸を形取っている。目線を落としてみると、月の地平線は地球のそれより遥かに小さく、丸みを帯びていた。遠くの方をぼうっと眺めていると、自分が巨人となって佇んでいるように感じられた。しかし足元に目を落としてみれば、自分の胴や脚は特段長くも何ともない。むしろ先程まで自分が巨大であると錯覚していたために、己がとても小さなものに思えた。

 ふっと一歩を踏み出してみると、きめ細やかな、片栗粉のような砂が舞い上がった。それと同時に、身体がぐうっと前に押し出された。空気のない月面で、まるで突風に煽られたかのように身体が跳ねた。もしかするとこのまま月面を飛び出して宇宙の彼方へ消えてしまうのではないか、そう恐ろしく感じたが、私の身体は間もなく、ゆっくりと月面へ戻っていった。身体が放物線を描いて落ちてゆくのに合わせてそっと手を伸ばしてみる。指先に何かが触れる事はなく、私の手はただ虚空を掻いた。しかしその瞬間だけは地球に手が届いてしまいそうで、背筋がぴんと伸び切った。

 月面の地表がより遠くまで見通せる。辺りを見回す間にも、私はぐんぐんと加速しながら月面へと堕ちてゆく。その勢いが恐ろしくなって空を掴もうとしたが、その手に触れる感触は何もなかった。じたばたと不格好に暴れながら、声をあげようと息を振り絞った。気の狂いそうな沈黙の中、のっぺりとした距離感の掴みづらい地表が凄まじい勢いで迫ってくる。突然視界の端に自らの影が現れ、その意味を理解する前に、影は私の身体と繋がった。

 咄嗟に目を瞑ったが、全身を打つ衝撃は終ぞ訪れなかった。

 私はのけぞった身体を起こし、ふらついてカーブミラーにしがみついた。空を見上げると、膿んだ腫れ物のような薄雲がゆっくりと月へ迫っているところだった。手を伸ばせば届きそうだった無数の街明かりが、今周囲に満ち溢れている。空を見上げると、微かな星明かりが一つ二つと瞬いて見えた。ふっと一歩を踏み出してみたが、私の身体はもう、月面にいた時ほど軽くはなかった。弾力のないアスファルトを踏み締めて歩き出す。

 私はもう、何を違えたとしても星々に手を伸ばす事はない。私は地表に縫い付けられ、星々を掻き消す街明かりの中で暮らしている。偽りの星々は夜空に病人の仮面を被せ、空に手を伸ばすひとときを奪った。

 人々はこの数千年の間、夜空を見上げてはそれに手を伸ばし続けてきた。積み重なった先人たちの遺骸によじ登り、更に高く、夜空に近い場所を目指し続けてきた。

 だが、それももうお終いだ。周囲に満ち溢れた星明かりは墓石を踏み越える理由を奪い、そればかりか、自由の名の下に思考のベクトルから方向を奪い去った。私の持つ力は、もう何の仕事も行わない。幾万もの星々に照らされた私は、誘蛾灯に照らされてふらふらと彷徨う羽虫によく似ている。私もいつかはこのどれかへと身を投げる事になるのだろう。

 考えてみれば、誘蛾灯がどんな月明かりよりも羽虫を惹き寄せるのはその光があまりにも魅力的であるからに違いない。偽りの星に惑わされる生であっても、あんなに美しく雄大なものに惑わされていられるのならば、それも一種の幸せであるのかもしれない。

 湿気を帯びた夜気を纏いながら帰路に着く。鋭い灯りに照らしだされた街は夜を隅に追いやり、無数の影はどれも薄墨色をしていた。ガードレールに寄りかかったせいで白く化粧をした衣服をはたき、暗い小路と明るい大路を縫うようにして歩く。時折通りすがる人々はまるで私のことなど眼中にないようで、ただ足早に家路を辿っている。私という存在が空間に溶け出してゆくような心地の良い感覚がした。街は私の事を見ていない。ただそこにあり、ありのままの姿を曝け出している。私は街の気を惹かないように忍び足で歩き、その姿を観察した。あまりじっくり観察しすぎると街に気を遣わせてしまう気がして、自然と歩調が忙しなくなる。

 ふと足元から伸びる薄い影を辿ると、膿んだ腫れ物のような薄雲の一点が清澄な光によって塗りつぶされていた。それは金や銀に近かったが、よく見ると様々な色彩を含んだ不思議な色合いをしている。夜空の盟主は、偽りの星々のあまりに魅力的な輝きを事も無げ退け、ただ堂々と佇んでいた。思わず手を伸ばしたくなるほどに、明るく美しい光だった。

 今や星明かりは私の手の届く場所にある。だがそれはそれとして、本物の夜空はいつも私の頭上にある。決して一人の人間には届き得ない高みからこちらを見下ろしている。

 私は煌々と輝く月から視線を逸らし、高く跳ぶことのできないこの身体を呪った。

 星空がそこにある事を知りながら、今日も私は輝かしい星団の中を彷徨っている。

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