シアハニー・ランデヴ(中編)


※注意書き※

 拷問、それにともなう四肢欠損シーンを含みます。狂気的かつ猟奇的な描写を含みます。

 また、この作品はフィクションであり、拷問を礼賛・推奨するものではございません。ご不快な思いをさせてしまう可能性がとても高いです。それでもよろしければ、どうかご注意の上閲覧していただきますようお願いいたします。(作者)


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「――デュラン、おはよう」

  

 心地よい声に惹かれて目を開く。デュランが愛する青い瞳が視界の中に飛び込んでくる。デュランは息も止まるほどに驚き、目を見開いて上体を起こす。

 デュランが慌てて周囲を見回すと、清潔なシーツと、上等なベッドに寝ていた。窓の外には柔らかな木漏れ日が指していて部屋も美しく整頓され、綺麗に保たれている。デュランは、あり得ない光景に呆然と息を吐いた。


「アネモネ……なんで……。ここは、どこだ……?」

「どこって、のお家じゃない。デュランったら、どうしたの? 寝ぼけちゃったの?」


 アネモネの白くて柔らかな手が伸ばされ、優しくデュランの頬を撫でる。温かな感触がする。彼女は寝台の傍らで佇み微笑んでいる。真っ白な帽子とワンピースを身にまとった彼女は、デュランの手をそっと引いて階段を降り、リビングに連れて行ってくれる。彼女の静かな足音が、心地よかった。


「朝ごはんの用意が出来てるわ。さあ、一緒に食べましょう」


 テーブルの上の皿にはハムエッグとサラダ、スープに美味しそうなパンにバターまで付いている。この朝食はアネモネのお手製らしく、少しハムエッグの端っこが焦げていた。食卓につくよう促されたデュランは、立ち尽くして呆然としたまま料理を見ている。アネモネは恥ずかしそうにはにかんだ。


「まだお料理に慣れていなくて、焦がしちゃったの。ごめんなさい。でも、一番きれいにできたのを、デュランに食べて欲しくて」


 食卓についたデュランは、勧められるままフォークを使って、アネモネが作ってくれたハムエッグを食べた。。デュランは随分前から味覚を失っているはずなのに、咀嚼して飲み下す感触まであった。デュランは、微笑んだ。


「美味い……」

「本当? 嬉しいわ。どんどん食べてね。おかわりもあるわ」

「……ありがとな、アネモネ」


 アネモネは幸せそうに笑って、デュランが食事する姿を見ている。しかし彼女の背格好は、どこからどう見ても十代前半の少女の姿だ。アネモネとデュランはほぼ同い年だ。デュランが二十歳はたちを超えているなら、アネモネもまた成人した姿になっていなければおかしいはずなのに、彼女は、思い出の中の姿のままそこにいる。

 そもそも、ふたりが今いるのは室内のはずだ。しかし彼女が、白い帽子を被ったままなのにも違和感がある。


「……アネモネは、どうして年を取ってないんだ?」

 

 彼女はその質問には答えず、デュランの左手に優しく触れる。その指には、いつの間にかおそろいの銀色の結婚指輪が嵌っている。

 アネモネは、デュランの視線に気づいてはにかんだ。


「ねえ、デュラン。わたしたちの結婚式ウエディング、覚えてる? とっても素敵なお式だったわよね」

「……覚えてない」

「もう。デュランったら、まだお寝坊さんなの? わたしたち、随分前に結婚したのよ。今は、わたしとデュランと、お義母さまと一緒に暮らしてるの。この間、お庭にデュランの好きな花を一緒に植えたでしょう? 忘れちゃった?」

「…………」


 デュランは沈黙する。

 どう考えても、おかしい。有り得ない。。そうわかっているのに、デュランはアネモネの手を振りほどけない。嘘であろうと、虚構であろうと、幻覚であろうと、愛しいアネモネの手を振り払うことができない。

 デュランは、息を呑んで、必死に言葉を絞り出した。


って……何を……。おれのおふくろは……もう、とっくに……」

 

 その言葉を遮るように、静かな足音がする。美しい所作で階段から降りて歩いてきたのは、見覚えのある黒髪の大人の女性だった。彼女は、笑みを浮かべながらデュランを見つめる。

 デュランの目の前には、ウェーブがかった黒髪と金色の瞳を持つ大人の女が立っている。デュランの母の若い頃の姿。まだ病で衰えていなかった頃の姿。デュランは絶句して言葉を途切れさせた。


「――おふくろ……。あんた、死んだ……はずじゃ……」

「勝手に殺すんじゃないよ。あんたが稼いでくれたお金で、病気も綺麗に治っただろう。ほら、寝ぼけていないで、さっさと支度をおし」


 デュランの母は、腰に手を当ててデュランを叱るようなポーズを取った。幼い頃、いたずらして怒られる時、いつもそんな仕草をしていた。デュランの母の顔には、病の後遺症である痣もない。きれいに治っている。彼女は呆れたような笑顔を浮かべてデュランを見ている。


「ほら、に、修理依頼の人が詰め掛けてきてるよ。急いで応対してあげな」


 デュランの母がすらっとした長い指で示した先には、デュランの工房があった。デュランの仕事場。デュランが修理屋リペアマンとして働く際に必要な工具や道具が揃った整然とした作業場。デュランに修理依頼をするためか、朝から多くの人達がやってきて手付金と修理が必要な品物を置いていく。客の一人がデュランにこう声をかけたのが聞こえた。


「――頼むよ! 修理屋あんたじゃないと直せないんだ!」


 その言葉を聞いて、デュランはかすかに微笑んだ。

 アネモネと、デュランの母の姿を眺めた。

 デュランの大切な人たちが笑い合う、清潔で美しくて幸せな場所。

 住まいも食事も仕事も何もかも、デュランにとって都合が良く、満ち足りた光景。何よりも理想的な暮らしが、そこにあった。

 

 ――

 

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 顔に浴びせられた濁った冷水によって幸せな夢から醒めたデュランは、金色の瞳を見開いて絶叫しようとしたが、できなかった。深く噛まされた猿轡の奥から、声にならないくぐもった悲鳴と喘鳴がこぼれる。

 現実のデュランは、左腕を拷問部屋の机に固定され、切れ味の悪いナイフで、左手の薬指を切断されているところだった。夢の中で、アネモネと揃いの指輪をつけていた薬指。それがデュランの目の前で永遠に失われていく様を、目を無理やり開かせられて見続けることしかできなかった。

 デュランが受けているのは、組織を率いていたボスを殺した者に対する当然の制裁だった。

 

 ――『指切りげんまん。嘘ついたら、針千本飲ます』……。


 アネモネの柔らかい声の追想が脳裏に響く。わずかでも現実逃避エスケープして、苦痛を和らげようと、デュランの脳は必死に幸せな記憶を手繰っているらしい。落とされた指が痛み、本当に針を千本飲まされたほうがマシだと思えるほどの苦痛が苛む。灼熱のような痛みが脳髄を襲っている。


「…………ッ、う」

 

 デュランは激痛のあまり一瞬意識を失って、白昼夢を観ていた。気を失っても水を被せられて叩き起こされる。拷問はまだ終わらない。続いてゆく。脂汗が噴き出す。失血死しないように傷口を縛られながら、少しずつ少しずつ左手の指の先から刻まれている。

 恩義のあるボスを撃ち殺し、悪魔どもの棲家にすらいられなくなっている。中途半端な、出来損ないの悪魔。

 

「……ッ、……ははっ……」

 

 数え切れないほどの人生や人間を踏みにじってきたくせに、未だに心の何処かで幸福を追い求めてしまっている己の浅ましさに笑みがこぼれた。 

 猿轡越しでも、デュランが笑っていることがわかったらしい。凄惨な拷問を受けながら、狂ったように笑うデュランを、拷問担当や、マフィアの悪魔たちですら遠巻きに見ていた。


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 やがてデュランの左腕は肘の上から切り落とされ、ばらばらにされた。元はデュランの左手だった肉片が拷問部屋の床に散らばっていた。デュランはもはや苦痛で正気を失いかけており、荒い息をつくことしかできなくなっていた。霞む視界の中拷問担当によってデュランの首元に鋭いナイフが突きつけられたが、最早恐ろしくはなかった。

 終わる。ようやく終わる。この長い苦痛が。デュランのくだらない人生が。デュランの脳裏に走馬灯が走る。デュランの人生は、くすんでいて淀んでいて、ろくな思い出がなかった。人を殺し、数え切れない人を傷つけ、人を〝生き地獄リビング・ヘル〟に突き落とした薄汚い罪人の死に様としては、何より相応しいものに思えた。

 そう思って目を閉じようとした時、男の声が聞こえた。

 

「――待て、まだ殺すな、そいつにはまだ利用価値がある」

 

 その言葉で、デュランへの拷問は中断された。 

 昨日、デュランが殺したボスは、ほとんど他人を信用しない疑り深い男だった。過剰なまでの秘密主義。徹底的に情報を管理し、裏切りや離反を防ぐ為に重要な情報を秘匿していた。

 結局、後継者候補と目されていたデュラン以外にマフィアの基幹情報を、口座や麻薬や賭場や汚職警官とのコネクションを伝えないまま、ボスは死んだ。

 ただでさえ先の内部抗争で幹部がほぼ全滅している。さらに、傲慢ではあるが求心力のあったボスを失ったことで、マフィアは存亡の危機に立たされていた。

 デュランの髪を掴んで拷問部屋の椅子から引きずり下ろしながら、マフィアの新たなボスとなるであろう年若い男は冷徹に告げた。


「お前にはまだやってもらわなきゃならないことがある。どうせなら、ボスを殺った分の穴埋めをしてから死ね」

 

 それが、デュランが生かされた理由だった。

 新たなボスに忠誠を誓うことを条件に、監視付きで生かされたものの、利用価値がなくなれば殺される。

 新たな幹部候補育成までのつなぎ。それがデュランの新たな役割。

 デュランが纏う黒いスーツの、中身を無くした左側の袖が風にはためく。デュランは、左腕を失ったせいで細かい作業を担当することが出来なくなった。他の組織との交渉を担当するために、暫定的にマフィアの幹部という立場と肩書を与えられた。仮とはいえ幹部待遇になったことで、デュランの担当する業務内容が変わった。文字の読み書きができて、関係各所にコネクションを持つ今のデュランの仕事は、金を動かし、土地を転がし、有意義な話し合いをすることに変わった。

 血腥く過酷な〝下働き〟――拷問や殺害は、デュランの担当ではなくなった。

 デュランの人生は、皮肉なことが多かった。人を殺すほうが、環境が良くなる。人を痛めつければ報酬がもらえた。人を傷つける組織の金を集めれば、生きていられる。本来なら赦されないことに手を染めたほうが楽に生きられる。歪んで狂っているのはデュランだけではなく、この世界そのものなのかもしれない。

 先代ボスに仕えていた頃から汚れ仕事を請け負っていたデュランは恐れられてマフィアの中ですら遠巻きにされていた。デュランは、先代ボスがやっていた業務を引き継いで、淡々とこなしていった。

 

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 アネモネと別の警察車両に乗せられたあの別れの日から、もう十年が経っていた。

 今でもデュランがはっきりと思い出せるのは、アネモネの青い瞳の色彩だった。親愛と好意に満ちていた美しい瞳。もう思い出の中にしかない、デュランのだいじなもの。デュランの甘露ペインキラー


 ――『あなたのことが好きなの。他の誰よりも、何よりも、愛しているの。あなた以外は、何もいらないの……』。


 デュランは、今でも彼女の言葉を忘れられずにいる。しかし、大人になったアネモネが今どうしているのが考えようとしてやめた。彼女はとっくの昔に〝天国ヘヴン〟に帰った。無垢な彼女は今も天国で幸せに暮らしているに決まっている。

 いっそ、最初から出会わなければ、デュランは甘露の味も〝天国〟の存在も知らないまま、惨めなことを惨めだと認識することなく〝地獄〟で生きていられたかもしれない。デュランの心に今でも絡みつくこの執着が愛情なのか呪いなのか、もうわからなかった。

 

 かつての日々に思いを馳せながら、デュランは〝地獄ヘル〟の汚れた町を闊歩している。今日のデュランの業務は、汚職警官との会合だ。無力な子供だった頃と違い、悪魔の鉤爪の入れ墨をしているデュランに近づいてくる者は誰もいない。そのはずだった。

 しかし、デュランの前に立ちふさがるものがいた。


「――見つけた……。お前が……デュランだな……」

 

 憎らしいほどに澄んだ。父親によく似た面差しの彼が荒い息を吐いて立っていた。少年はデュランに向けて、震える手で小さな口径の拳銃を構える。デュランは、それが誰なのか考えずともすぐにわかった。

 デュランと半分血の繋がった、腹違いの弟。名前はネイサン。

 デュランとは違って、両親に愛された幸せな子。

 ネイサンは震えながらも拳銃を構え、じわりじわりと距離を詰め、デュランに近づいてくる。デュランの護衛兼監視役の男が、スカイブルーの瞳を持つ少年に拳銃で狙いをつけようとしたが、デュランは手で指示をして護衛を下がらせた。

 

「ああ。何か用事か」

「何か用事か、だって!? お前が、お前が、お前が! を目茶苦茶にしたから、僕らの家はぐちゃぐちゃになったんだ!」

「……」


 ネイサンは、以前見た写真より随分と痩せて汚れたみすぼらしい格好をしていた。〝天国ヘヴン〟の片隅にある小さな家で、家族揃って暮らしていた頃は、ピカピカの白い服に身を包んでいたのに、今は洗濯もろくにされていないことがわかる不潔な服を着ていた。それだけで、ネイサンの過ごす環境がどれほど落ちぶれたのか目に見えるようだった。しかし、幼い頃のデュランが着ていた襤褸ぼろ切れのような服よりは上等で綺麗だった。

 

「どうしてあんなことをしたんだよ! どうして! お前、僕のお兄ちゃんなんだろ、お父さんと血が繋がってるんだろう。それなのに、なんであんなができたんだ!」

「血が繋がってたからやったんだよ。殺さなかっただけ、有り難いと思えよ。おれのおふくろは死んだけど、お前の親父は生きてるだろ」


 デュランは、冷たい眼差しをネイサンに向けた。デュランの胃の腑の底に眠っていた、生物学上の父への怒りが燃え上がる。デュランの母は、スカイブルーの目の男に騙されたせいで美貌も財産も人生も壊されて哀れに惨めに痩せ細って死んだ。直接殺されていなかったというだけで、■■■の罪が免除されるものなのか?

 と殺人になんの違いがあるというのか?

 デュランの憎悪の眼差しを真正面から受けたネイサンは、掠れた声で悲鳴を上げた。ガクガクと足が震えている。


「僕のお母さんは……お父さんの介護で疲れ切って――心を病んで」

「お前たちには金があるんだから、介護担当を雇えばいいだろう」

「そんな話じゃない、そんな話じゃないんだよ、愛してる人が姿にされて、ショックじゃないわけがないじゃないか!」

「おれのおふくろは、『姿』で死んだんだ。おれは、おふくろと、あいつを、おそろいの姿にしてやりたかっただけだ」


 デュランは、痩せ細った母の死に顔を思い出して、唇の端を吊り上げた。ネイサンは、父親譲りのスカイブルーの瞳で、デュランを睨みつける。

 

「……そんなことしたって、お前のお母さんは、蘇らない。お前のお母さんが復讐を望んでいたのか!? そうじゃないなら、単なるお前の私怨じゃないか。復讐なんて、に、を……僕のお母さんを巻き込むな!」

「意味があるかないか、それは遺族おれが決めるんだよ」


 デュランは右手で顔を覆って愉快そうに笑った。マフィアで長年汚れ仕事に手を染めてきた男のその表情は、悪魔よりも恐ろしいものだった。


「いいじゃないか。お前ら家族は、おふくろから搾り取った金を元手に裕福に暮らしてたんだ。……くらい、苦しめよ」

「ふざけるな!」

 

 ネイサンは涙をこぼして絶叫しながら人差し指を引き金にかけた。デュランは、銃口を向けられながらも少し愉快な気分になった。幸せな家族に対して、両親から愛された幸せな子供に対して、最高の報復ができていたとわかって、心の奥底から仄暗い感情が湧き上がるのを感じた。薄く微笑んでデュランは嗤う。


「……おれたちは、数え切れない人の人生をぐちゃぐちゃにした悪魔ちちおやの血を引いてる。おれたちは、生まれながらに、悪魔の子なんだよ。良かったな。もうすぐ、お前も人殺しだ」

「……ッ」


 その言葉に、怒りか悲しみか恐怖か、あるいは全てを感じたのか、ネイサンはガタガタと体を震わせる。半分だけとはいえ血が繋がっているその弟の姿は、哀れなほど幼い頃の弱々しいデュランに似ていた。デュランは静かに笑いながら、ネイサンを見つめた。


「お前、おれを殺しにきたんだろう。撃ちたいなら撃てばいい。お前には報復する権利がある。おれは、お前を巻き込むとわかっていて復讐した。お前やお前の母親が苦しむことになるとわかっていて、全部やった」

「……死ぬのが、怖くないのか……」

「おれが生まれてこなければ、おふくろも苦労しなかったし、お前の親父が〝生き地獄リビング・ヘル〟になることもなかったし、拷問を受けて苦しむ人間も、おれに殺されて路地の染みになる人間もいなかった。


 デュランは、ネイサンの持つ銃を掴んで、自分の頭に力いっぱい押し当てた。金色の瞳が爛々と狂気に満ちて光っている。ネイサンの手が震える。デュランは祈るように囁いた。


「――だから早く、おれに引導を渡してくれよ、ネイサン」 


 恐怖を感じたネイサンは、自分の両腕を力いっぱい引いた。銃身がブレて、銃口が大きく下を向いた。その瞬間、ネイサンの人差し指が引き金を引っ掛けるように弾いた。

 聞き慣れた乾いた音が鳴る。パンと弾けるような音がして、デュランは腹部に熱さを感じた。

 致命傷であることは、抗争の経験上、すぐに分かった。

 ――腹部に銃弾が当たった。内臓が深く傷ついている。

 デュランは反射的に腹を押さえてふらついた。動脈に傷がついたのか、真っ赤な血が、しとどに吹き出していた。の血も、自分の血も赤いのだと他人事のように思って、デュランは愉快そうに笑った。

  

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 ■■■とその妻エリザベスの間に生まれた子。

 デュランが■■■への復讐をするまで、間違いなく、幸せだったはずの子ども。デュランがこの手で不幸に陥れた子ども。

 返り血を浴びたネイサンは荒い息をつき、嘔吐している。

 

 デュランの薄汚く穢れた人生は、ここで終わるだろう。自分のつまらない人生の終焉を感じて、薄く笑った。自分の腹部の傷に手を当てて、べっとりとした血が付着するのを感じる。脂汗がにじみ、生温く、嗅ぎなれた鉄錆の臭いがした。マフィアの拷問の果てに死ぬよりも、血の繋がった弟に殺されるというのは、自分にとっては上等な終わりだと思えた。


「ちがう……違う……! 僕は……僕は……!」


 腹部から血を流すデュランを見てネイサンは泣いていた。拳銃を放り捨てて、泣きじゃくっていた。暴漢を撃ち殺した日のデュランのように、泣いていた。本当ならこんなことはしたくなかったのだろう。デュランにはわかる。デュランもそうだったから。かつての幼いデュランと同じように泣いている弟を見て、デュランは頭を撫でてやりたい気持ちに駆られた。しかしそんなことができるはずもなかった。

 

 ネイサンが泣いているのは、デュランがかつて■■■にもたらした〝生き地獄リビング・ヘル〟のせいだ。デュランにとっては唾棄すべき悪辣な男であっても、ネイサンにとっては、■■■は良き父親であり、愛すべき父親だった。調べて、わかっていた。■■■がネイサンに愛情を注いでいたことも。■■■にとって、ネイサンが大事なだったことも。 

 様々な人の人生を破滅させてきた男だとしても、幸せな家庭を持てないわけではない。■■■が新しく作った家庭。たしかにそこには――ネイサンの前には紛れもない幸福があった。 

 デュランが父親を誘拐し、完膚なきまでに壊さなければ、ネイサンは誰も傷つけることなく平穏に人生を送れたはずだった。デュランは、痛みと悲しみを己のうちにとどめておけず、再生産をする側に回ってしまった。屍と肉塊と血反吐に塗れる人生を、そうとわかっていて送ったツケが回ってきたのだ。


「……ははっ、はは………………ははっ、おれは……やっと……」

 

 今際の際になって、ネイサンの大粒の涙を見て、ようやく心の底から認めることができた。デュランは乾いた笑いを浮かべながら、巡ってきた因果を前にして血が混じった息を吐いた。 

 ずっとずっと間違ってきた。ずっとずっと、誤ってきた。

 その誤謬ごびゅうを正す時がやってきたというだけのこと。

 デュランが自らの罪業によって死に至るだけのこと。どうせ、ネイサンに撃たれずともいずれ誰かに殺されていた。恨みを買いすぎた。血に塗れすぎた。汚濁にまみれすぎた。

 死を以て償っても、足りないほどに。  

 デュランは悪辣なマフィアの構成員、しかも幹部だ。

 〝地獄〟で『誰か』に撃たれて死んだとして、その下手人が逃げたとして、まともな捜査は行われやしない。マフィアのボスをその手で殺してもなお警察に捕まっていないデュランはそれを誰よりもよくわかっていて、だからこそ愉快そうに笑っていた。


「なんで、笑ってるんだよ……僕……僕は……!」

「おれはお前が羨ましかった。幸せそうで、おれの欲しかったもの、全部持ってた。綺麗な母親に、いい家に住んで、学校に通えて……。憎らしかった。お前もおれと同じくらい苦しめてやりたかった」

「……!」

「でも、違った……。お前は、ただ〝天国ヘヴン〟で生まれただけだ。お前は何も悪くない……こんなことに……今更……」


 その言葉を聞いたネイサンは、顔をくしゃりと歪ませて大粒の涙をこぼした。ネイサンは、デュランの腹部の致命傷と、それをもたらした小口径の拳銃を見て絶叫した。

 

「何……! 何言ってるんだよ……今更……もう……!」

「そうだ。今更だ……。おれがやったことは、消せない。だから、せめて……親の仇くらいは……お前に取らせてやりたくなった。お前も、お前の母親が大事だから、〝地獄ここ〟まで来たんだろ」 

 

 ネイサンは、怯えた顔で後ずさる。

 デュランはそれを目を細めて見つめている。デュランの脳裏に、母親を失って復讐に取り憑かれた幼い自分の姿が浮かび、ネイサンと重なる。

 ネイサンの母親は何も悪くない。しかし、苦しんで心を病んだという。その想像上の姿が、心を病んで暴れるデュランの母親と重なる。そこでようやく、自分がネイサンとネイサンの母親に何をもたらしたのかを心の底から理解した。

 自分の命がもう長くないことを感じたデュランは、ネイサンの頭を撫でようとして、血まみれの右手を伸ばした。もし、出会い方が違えば、普通の兄弟のように、共に笑い合うこともできたかもしれない。そんな思いを込めて。


「ひっ……!」

 

 しかし、デュランの仕草に怯えた少年は、形振り構わず逃げていく。逃げ出したネイサンのことを、デュランの護衛が追おうとしたが、デュランは追わなくていいと言った。デュランの業務は、新たな人間にほとんど引き継いでいる。マフィアにとっても、今のデュランは然程重要な存在ではない。デュランの代役となる構成員は既にいる。だから、ネイサンがマフィアに狙われることもないだろう。

 ネイサンの遠くなっていく後ろ姿に右手を伸ばし、届くかどうかわからないまま言葉を紡ぐ。

  

「おれがずっとずっと、全部、間違ってた……。おれが生まれてこなきゃ……皆幸せだったんだ……ごめんな……」


 デュランは、薄れゆく意識の中で弟の背中を見て笑った。 

 逃げるといい。

 どこまでも。追手のかからぬ遠くへ。

 戻るといい。

 何もかも忘れて。

 幸福で綺麗な〝天国ヘヴン〟での暮らしへ。

 

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 《シアハニー・ランデヴ(後編)に続く》


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