シアハニー・ランデヴ(前編)

※注意書き※

 誘拐、拷問、殺人シーンを含みます。Bottom of the HELLほど苛烈ではないかもしれませんが、狂気的かつ猟奇的な描写を含みます。

 また、この作品はフィクションであり、誘拐や拷問を礼賛・推奨するものではございません。ご不快な思いをさせてしまう可能性がとても高いです。それでもよろしければ、どうかご注意の上閲覧していただきますようお願いいたします。(作者)


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 薄汚れた町並みの〝地獄ヘル〟ロザー・シェレフ地区、とあるビルの地下室。日光の差さない場所で、デュランは追想に耽り、金色の瞳を細める。幼く幸せだったあの時、アネモネと〝約束〟をした。彼女と語り合った内容を、彼は一言もこぼさず覚えていて、今も薄く微笑んで愛しい人の表情を思い出している。


 ――『ねえ、デュラン。わたしたち、大人になったら結婚しましょうね。小さな家で一緒に住むの。こぢんまりとしているけれど、ちゃんとしたお庭があって。季節ごとに、綺麗な花を植えようと思うの。デュランはどんな花が好き?』。

 

 追憶の中で、彼女の三つ編みにした赤毛が風になびく。穢れのない彼女を象徴するような白いワンピースと、白い帽子。優しく可憐な声、彼女の温かな手の温もりが鮮明に思い出せる。

 眩しく愛おしい、デュランの初恋。デュランの人生の中でたった一年にも満たないその時間が、何よりも大切だった。彼女の笑顔は、今もデュランの心のなかにある。

 

 ――『指切りげんまん。嘘ついたら、針千本飲ます』……。


 互いの小指を絡めて微笑みあったあの日、アネモネとデュランが永遠に叶えられない〝約束〟。

 それを思い出しながら、デュランは、目の前の〝不要物にんげん〟の指を、振り下ろしたなたで切り落とした。

 と鈍い音が響いた。

 

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 刑務所を出所したデュランは、手筈通り〝地獄〟のマフィアに出迎えられた。マフィアの構成員になり、〝下働き〟から任された。


 最初は、血で汚れた床を掃除したり垂れ流された反吐を片付けたりする仕事だった。母の介護に慣れたデュランにとっては何の痛痒つうようも感じなかった。

 響く悲鳴。言い争う声。結果、床に撒き散らされた臓物、脳漿。たかる蝿や蛆。それらを、デュランは黙って清掃する。淡々と働いていれば報酬がもらえる。

 それで日々をしのぎ、静かに暮らす。

 酒も煙草も女も博打もやらないデュランには、必要な金もさほどない。最低限の水と固形栄養食レーションを買うだけの金があれば良い。その金すらも、マフィアに所属していなければ稼げたかどうか分からないが。という前科を持つということは、あまりにも重い。

 

 血の繫がった■■■に生き地獄リビング・ヘルを味わわせたことで、デュランは自らの意思で、自らの人生の道の、か細い光を塗りつぶしたのだ。

 

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 追想の中から現在いまに思考を戻したデュランは、指を失って泣き叫び呻く〝不要物にんげん〟を見下ろした。

 目の前の〝不要物〟は、痛みのせいで鼻水と涙を垂れ流して、『家に帰してくれ』『妻のもとに帰してくれ』と縋るように呻く。 

 その言葉を聞いてと思い、ほんの僅かだけ嫉妬を覚えたデュランは、ふと目を留める。その男に見覚えがあった。

 

 幼い頃デュランが働いていたパン屋、グレーテルのかまどの店主だった。年数を重ねた分老けて太ってはいるが、目の色が同じだった。

 デュラン個人はパン屋の店主に特段遺恨は無い。強いて言うなら、病で弱った母を買春していたことが腹立たしいくらいだ。だが、指を切断するほどの怨恨ではない。

 パン屋の店主がマフィアの拷問部屋に連れてこられた理由はなんだったかと思考を巡らせる。そして資料の中の情報を思い出した。パン屋がマフィアの下位構成員だった頃、資金を幾らか横領し、その資金を元手にパン屋を開いたことが判明したらしい。 

 デュランに下されているのは、その落とし前をつけさせろという命令だった。つまるところ、。 


「お前、デュランか……!? た、頼む、頼むから、これ以上はやめてくれ! これ以上、指をなくしたら、生きていけない……!」

 

 パン屋の店主も、目の前にいるのがかつて雇っていたデュランだと気づいたらしい。必死に情に訴えようと何かを叫んでいる。

 しかし。ただ、任された仕事を淡々とこなしているだけなのだから。デュランは、何の感情も滲まない瞳で、パン屋の店主を見つめ返した。


「こ……この悪魔デビルが! 地獄に落ちろゴー・トゥ・ヘル!」

 

 懇願が通じないと悟ったパン屋の男は、デュランを睨みつけて恨みを込めて罵った。あまりにも質の悪いジョークに、デュランは思わず口角を上げて失笑した。ここがどこだと思っているのだろう。地獄になど、もうとっくに落ちている。


「……とおい、よるの……」 

 

 に堕ちてしまえば、〝地獄ヘル〟は案外住み良いところだった。マフィアの構成員である証、首元に刻まれた悪魔の鉤爪の入れ墨を見せれば誰も襲いかかってこないし、構成員同士の連帯感もあった。

 ずっと奪われ搾取される側にいたデュランは、奪う側の見る景色を知った。知ったところで、特に楽しくもなかったが。

 

 生きるためのただの作業。それがただ血腥ちなまぐさいだけ。

 

 しかし、こんなにも『楽』であるなら、もっと早く〝地獄ヘル〟の流儀に染まっていればよかった。そうすれば母の病を治すための治療費だって簡単に稼げただろうし、幼い頃からマフィアと関係を持てば、暴漢に襲われることすらもなかったかもしれない。

 

 だが、デュランが大切に思っていた母はもうどこにもいない。精神病院で、痩せこけて死んでしまった。脳裏に哀れな骸の姿が浮かんで、泡のように消えた。彼女の遺骨は■■■に全部食べさせて、デュランの手元には一欠片も残っていない。

 ――母にとって、それが一番いいと思ったから。


「ちいさな……はとば……」

 

 デュランはずっと、幼い頃から、デュランの母とデュランが困窮する原因を作った■■■を憎んでいた。だが、最高のお誕生日ハッピー・バースデイたる復讐を終えてしまえば、もう関心は薄れた。■■■への憎悪も興味も、〝幸せな家族ハッピー・ファミリー〟がどう苦しみどう壊れたかにも興味がなくなってしまった。


 幸せな家族を粉々になるまで壊す原因を作ったのが他ならぬデュランだとわかっていながら、他人事のように思考を巡らせた。とすら思った。


「……にんぎょは、あわに……」

  

 デュランは、二十歳はたちを超え、大人になった。

 穢れた人生と汚れた経歴を背負い、薄汚い〝地獄〟に相応しい悪魔に成り果てた。


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 デュランの所属する組織は〝地獄〟の住民から大袈裟に恐れられ、マフィアと呼ばれてはいる。だがしかしその本質は、所詮、薄汚い人でなしインヒューマンの群れでしかない。我欲の強い人でなしが集まれば、軋轢もあれば分裂もある。後継者争いすらもある。

 病で老いさらばえたボスの後釜を巡った、血で血を洗うような内部抗争。この世の業を煮詰めたような醜い共食いに、デュランもまた無関係ではいられなかった。


 デュランの居場所は、マフィアの所有する地下室にある拷問部屋だった。ここに連れてこられた人間を、分解したり解体したり弱らせたり秘密を吐かせたりするのがデュランの仕事だった。

 デュランは上役の男に指示されたことを淡々とこなし、その過程で〝不要物〟を数え切れないほど壊して処理した。

 人質を取られたり、脅されたりする心配がないというのも、デュランが配属された理由だった。大切なものアネモネ守るべきものデュランの母親を何もかも失ってきたデュランには、自分の命以外に失うものはもうなかったから。

 

 拷問部屋が戦場になり、銃声が鳴り響き絶叫と悲鳴がこだまする中に放り込まれることもあったが、それでもデュランは死ななかった。

 血で血を洗う抗争によって、マフィアの構成員の半分が犠牲になったという。結果として、デュランの属する勢力は勝者側に立ったらしい。デュラン自身の感覚としては、いつも通り仕事をこなしていたら、いつの間にか終結していたというだけに過ぎなかったが。


 デュランが気づいたときには、マフィアの幹部と呼ばれていた人間はほぼ死んでいた。そして、くだらない椅子取りゲームは終わり、その勝者である、デュランに命令していた男が、数え切れない血と臓物と屍で作られた玉座イスに座った。


「……ご苦労だった、良い仕事をありがとうよ」

 

 上役の男は、手袋をつけたままデュランの首元、悪魔の鉤爪の入れ墨が入った部分を撫でた。デュランは拒否も受容もせず、ただ次の命令を静かに待っていた。上役の男は何故か、デュランの金色の瞳を目を細めて見ていた。理由はわからなかった。

 マフィアの幹部がほぼ死んだため、デュランに命令していたこの男がと新たなボスの座に座った。

 結果として、デュランには、褒美としてマフィアの中でも『良い立場』が与えられるらしい。

 同じどぶの水に良いも悪いもあるものかと思考の片隅で思いながらも、デュランは上役の命令通りにその立場を受け入れた。

 

 報酬も待遇も以前より遥かによくなった。しかしデュランは前と変わらない最低限の暮らしを静かに送った。水と固形栄養食。幼い頃に失った味覚がずっと戻っておらず、食事を楽しむこともできないデュランには、贅沢をする場所がなく、余分な金は必要なかった。デュランは、渡された報酬、札束が無造作に入れられた袋を持って立ち尽くす。


「……」

 

 この金が、デュランの子供時代にあったなら、デュランの母は死なずに済んだだろうが、過去に戻ることは決してできない。時間は常に一方向に進む。やり直すことは決してできない。


 デュランは、壊れかけの階段を使ってビルの屋上に登る。ロザー・シェレフ地区の汚い街並みであっても、灯りはそれなりにあり、夜景は思ったよりも醜くはなかった。デュランは気紛れを起こして、札束をバラして、袋を逆さにひっくり返し、薄汚いビルの屋上から風に乗せて撒いてみた。

 

 ――まるで紙吹雪のように、高額な紙幣が飛んでいく。

 

 やがて地上ではビルの上から降ってくる金に気づいた人々が、砂糖に集る蟻のように奪い合っていて、暴力沙汰も起きていた。ほんの少し愉快な気持ちになったが、ただ乾いた息がこぼれただけで笑えはしなかった。人々の醜い言い争いや、怒声が聞こえる。


「俺のもんだ!」

「寄越しなさいよ!」

 

 どこかで発砲音が響いた気がした。デュランがばら撒いた金を巡って、銃撃戦が始まったらしい。続いて怒号と悲鳴が響いた。〝地獄〟ではそんなことが日常的に起こる。だからもう、デュランには気にならなかった。デュランは、撒き損なって足元に落ちている紙幣を一枚拾い上げた。紙幣は血で汚れていた。それでも、金は金なのだろう。

 こんな薄っぺらい紙切れの為に、多くの人生が狂ってゆく。壊れてゆく。歪んでゆく。こんなものが命よりも重いのだろうか。健康よりも幸福よりも重いのだろうか。きっと重いのだろう。

 手に持っている紙幣を離し、風に飛ばした。

 小さな紙屑は、突風に飛ばされ、夜の〝地獄〟に紛れてすぐに見えなくなった。

 

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 我欲が薄く、自分の勢力を持とうとせず、ただ与えられた仕事を淡々とこなすだけの存在。そんなデュランは、ボスにとって使いやすい駒だったらしい。逆らわず、でも従順にこなすデュランは、やがて重要な立場に配置されるようになった。

 護衛も兼ねて、銀行や汚職警察との取引、政治家との会合などに随行した。デュランは意図せずマフィアにとっての基幹情報を手にすることになったが、野心も興味もなく、ただ恭順したほうが楽なのでそれを示し続けた。ボスは、部下の中でも特にデュランを重用した。その理由は、一度だけボス本人の口から語られたことがある。


「俺は昔、ダイアナさんの信奉者ファンだったのさ。お前のおふくろさんは、世界で一番綺麗だったよ……」


 ダイアナというのは、デュランの母が使っていた源氏名のうちのひとつだ。デュランは、目の前のボスが本当の父親ならよかったかもしれないとほんの少しだけ思った。ボスには、血の繫がった家族がいないらしい。デュランにも、家族がもういないようなものだった。魂のうちに秘めた孤独が、ボスとデュランには共通していたのかも知れなかった。


「おふくろと、何か話したことはあるんですか」

「いいや。当時の俺は、娼館の下働きのガキだったからな。窓辺にほんの少しだけ見えるダイアナさんを、眺めていただけさ……」


 ボスは、瞳を細めて微笑んで、過去を追想していた。デュランも、まだ若くて美しかった頃の母を想って目を閉じた。デュランの頭を撫でてくれた優しかった母の体温は、もうほとんど思い出せなくなっていた。

  

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 ボスはデュランを腹心の部下として扱った。実子や縁者がいないボスは、デュランを後継者候補として育てようとしているようにも見えた。ボスは秘密主義で恐怖政治を敷き、冷血で冷徹な男であったが、デュランにだけはたまに笑顔を見せた。

 ボスは、母の面差しを色濃く受け継ぐデュランにも目をかけた。デュランの〝父〟のような役割を担おうとしていることは薄っすらと感じていた。それが親しい縁者を持たない孤独な者同士の傷のなめ合いであったとしても、全財産を毟り取られてゴミのように捨てられるよりは遥かにマシだった。

 人でなしインヒューマンどもが集まるマフィアの中であるというのに、デュランはわずかながらも安息を得ようとしていた。


「デュラン、お前もわかってるだろうが、〝地獄ヘル〟はくだらねえ、きたねえ場所だ。だけどな、俺は、そんな場所を此処から変えてやる。悪魔が〝天国ヘヴン〟に行けやしないってんなら、俺達の手で此処を天国よりいい場所に変えてやればいいんだよ」


 生まれてこの方〝地獄〟しか知らないデュランは、〝天国〟がどんなに美しい場所なのかわからない。それでも、ボスの夢の話を聴くのが好きだった。デュランにはきっとできないことを、この男なら成し遂げてくれるのではないかと言う期待と信奉が、デュランの中に芽生えつつあった。

  

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 そんなある日、いつもどおりの命令が下った。地下の拷問部屋に佇むデュランの前に、縛られた〝不要物〟が置かれている。


「デュラン。急で悪いが、このガキをバラしてくれねえか。ああ、顔は潰すなよ。親元に送りつけるからな」


 しかし、デュランは、動けなかった。 

 彼女は、学校帰りにマフィアの手勢によって誘拐されたという、十代半ばの少女だった。〝天国〟の中央区の住民らしい。

 彼女の親が身代金を渋ったため、見せしめに殺す必要がある。

 その指示は、理解できたが、動けない。

 デュランは縛られた少女を見て目を見開く。


「……!」


 彼女はだった。

 ――しかし、アネモネではない。別人だ。

 瞳の色が違う。デュランの愛した青色ではなく、黒色だ。年齢も背格好も髪質も何もかも違う。肌の色も若干違う。耳の形も違う。ほんの少し、髪の赤さが似ているだけの他人だ。

 それはすぐにわかった。それでもデュランは固まって動けなかった。まるでフラッシュバックするかのように、過去の想い出がデュランを締め付ける。


 ――『あなたのことが好きなの。他の誰よりも、何よりも、愛しているの。あなた以外は、何もいらないの……』。


 鮮やかで幸せな愛の記憶と、彼女の声音が蘇り、デュランの動きを阻害する。アネモネに髪色が似た彼女に手を下すことが、どうしても、できない。記憶の中の美しいアネモネの笑顔が、胸を灼く。

 アネモネの笑顔が過ぎって、アネモネをこの手で殺すことを想像してしまったら、吐き気がこみ上げてどうしても動けない。呼吸を忘れて、硬直することしか出来ない。脂汗をかいて跪いた。デュランは、荒い息を吐く。笑いだしたい気持ちになった。


「はっ……はっ…………ははっ……」

 

 堪えきれず、微かに笑いがこぼれる。デュランの心にはどうしようもなくアネモネへの未練と愛が絡みついている。こんなに穢れ果てて、人でなしインヒューマンの悪魔に成り果てても。

 会うことすら叶わないとわかっているのに、それでもなお、デュランは感傷と痛みを捨てることができないでいる。


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 両手足を縄で縛られた赤毛の少女、アネモネと少し髪色が似ているだけの彼女は、狂ったような笑顔を浮かべるデュランを見て大粒の涙をこぼし、歯を震わせてガタガタと震えていた。

 その哀れな姿に、アネモネの怯える姿が脳内で重なる。

 アネモネと初めて出会った日、彼女の手を引いてシアハニー大通りまで歩いたときのことが鮮やかに思い出される。


 ――『た、助けて……。迷子になっちゃったの……』。

 

 デュランの人生で唯一輝かしかった日々の思い出が去来する。デュランが心の底から幸福を感じていられた、わずかながらも満たされた幼い日の時間が。今、目の前にいるのはアネモネ本人ではない。わかっている。わかっている。

 それでもデュランに赤毛の少女を殺すことはできない。デュランは金色の瞳をこぼれ落ちそうなほど見開くことしかできないでいた。そんなデュランを、ボスは怪訝そうに見ている。普段のデュランならば、とっくに手を下しているはずだからだ。

 

「……おい、どうした、デュラン。さっさと――」 

 ――『わたし、あなたのことが好き。初めて会った日からずっと』。

  

 ボスの声に被さるように、アネモネの柔らかな声が脳裏に響く。アネモネの信頼に満ちた優しい眼差しがデュランを射抜く。デュランの魂がまだ穢れていなかった頃の倫理観がデュランを大きく揺さぶった気がした。は、顔見知りの指を平気な顔で切断して、嗤っているような存在だっただろうか。デュランはずっと考えないようにしてきた禁忌に触れてしまった。

 この赤毛の少女を殺さなければならない『仕事』とは、一体なんだ?

 

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「顔色が悪いぞ。どうしたんだ?」


 デュランは答えられない。荒く息をついて、許しを請うようにしゃがみこんでいた。ボスはそんなデュランの様子を見て、ため息を付いたが、その声に怒りは含まれていなかった。

 

「……まあ、いい。今回くらいは俺がやってやる。デュラン、座ってそこで休んでおけ。俺も昔はお前みたいに、〝下働き〟から始めたもんだ。見ておけ。

  

 ボスは、手ずから腰のナイフを取り出し、少女の喉を掻っ切るために近づいてゆく。赤毛の少女は必死に身をよじって逃げようとしていたが、両手足を縛られていて動けない。


「嫌! 死にたくない! 助けて! 助けて!」 

 

 その姿が、声が、僅かに似ている髪の色が。

 暴漢に襲われそうになっていたアネモネに重なった。

 デュランの脳裏に、暴漢を撃ち殺した幼いあの日の記憶トラウマが何度も何度も何度も反響する。

 ――違う。違う。違う。違う。。わかっている。デュランは、荒い息を吐いて、吐き気をこらえた。デュランの頭の中で、アネモネの笑った顔が浮かぶ。

 アネモネが傷つけられそうになっているようにしか見えない。アネモネが殺されそうになっているようにしか見えない。アネモネが死んでしまうとしか思えない。違う。違う。違う。彼女はアネモネではない。髪の色が似ているだけの他人だ。かつてのアネモネと同じ名門校の制服を着ているだけの別人だ。わかっている。だから、だから、だから、。そのはずだった。そのはずだったのに。デュランは息を吸えない。デュランの視界が混濁していく。頭が痛い。吐き気がする。動悸が止まらない。デュランが跪いて動けない間にも、ボスは少女に近づいていく。

 最後、最後、最後の最後に、デュランの心に残ったのは、たった一つの想いだった。

 ――


 それだけがデュランを突き動かした。


「――……」


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 破裂音の後に薬莢が転がり落ち、デュランは静かに息を吐く。デュランの手には拳銃が握られている。その銃口はボスの男の後頭部に向けられていて、硝煙の匂いがした。


「……嗚呼……」

 

 デュランは遠いあの日と同じように、返り血と脳漿を浴びていた。

 マフィアのボスは不意討ちされて呆気なく死んだ。

 ボスの死に顔は状況を理解できておらず、呆然と口が開いたままだった。その表情は、口をぽかんと開けたまま死んだ、デュランの母の死に顔に、少しだけ似ていた。


「……畜生……嗚呼……」 

 

 デュランは静かにそうつぶやいて立ち上がり、それを見下ろす。これはデュランの個人的な事情に伴う突発的な行動だった。計画性も、必然性すらも、全く無かった行為。だからこそ、殺気を放ったのすら一瞬のことで、ボスは、自分が殺されたことすら理解していなかったかもしれない。痛みを感じる暇すらなかったことを、願いたかった。

 ボスの哀れな屍がコンクリートの床の上に崩れ落ちて転がったが、デュランにとっては最早、どうしようもないことだった。ボスは、頭を撃ち抜かれて即死だった。


 ――『悪魔が〝天国ヘヴン〟に行けやしないってんなら、俺達の手で此処を天国よりいい場所に変えてやりゃいいんだよ』。

 

 ボスの声が脳裏に響く。デュランは、吐き気を堪えきれず胃の中のものを吐いた。錯乱しているデュランにすらも、ボスを殺したらはわかっていた。

 それでも、それでも、それでも、赤毛の少女が殺されるところを、見たくなかった。赤毛の少女の遺体を見せられたら、それがアネモネではないとわかっていても、他人であっても、デュランには耐えられない。だなんて。数え切れないほどの人生を踏みにじった悪魔デビルのくせに、人間ひとのようなことを思った。

 

「……ふふ……はははっ…………ははっ……」


 ボスの死体を見下ろして、狂ったように、かすかな笑いをこぼす。デュランはまた、取り返しのつかないことに手を染めてしまった。

 矛盾だらけで、歪んでいて、壊れている、どこまでも愚かな人でなしインヒューマン。デュランは悪魔としても出来損ないだった。

 狂ったような哄笑が、ゆっくりと収まってゆく。デュランは、静かに名も知らぬ赤毛の少女に手を差し伸べる。彼女は血まみれのデュランを見て絶叫し、半狂乱になって暴れた。目の前で人が殺されるのを見たのだ、無理もないと他人事のように思った。


「……とおい……よるの……はての……ちいさな……はとば……」

 

 デュランは、優しく微笑みかけると、子守唄ララバイを口ずさみながら彼女を半ば無理やり抱えてマフィアの所有するビルを出た。赤毛の少女は涙と鼻水をこぼして暴れていたが、それでもデュランは微笑を浮かべたままだった。


「……大丈夫。もう大丈夫だ。もう怖いものはいない。シアハニー大通りまで行けば、もう自分で家に帰れるだろ」


 そうデュランが語りかけると、赤毛の少女は怯えて動きを止めた。血まみれのデュランは、鳥籠バードケージから小鳥を逃がすように、赤毛の少女を地面にゆっくり下ろし、拘束を解いて、シアハニー大通りに逃がしてやった。赤毛の少女は叫び声を上げ、転びながらも走り去り、デュランはそれを目を細めて見つめていた。


「もう迷子になるなよ」


 壊れたデュランは子守唄ララバイを歌った。

 さよならの意味を込めて。

 

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 《シアハニー・ランデヴ(中編)に続く》


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