Bottom of the HELL

 ※注意書き※

 

 過度、かつ、凄惨、かつ、執拗な拷問描写があります。不適切かつ狂気的、猟奇的、グロテスクな描写を含みます。部分的にカニバリズム的要素が含まれます。少しでも苦手な要素がある方はこの話を読まれないことを強く強く推奨いたします。

 また、この作品はフィクションであり、誘拐や拷問を礼賛・推奨するものではございません。ご不快な思いをさせてしまう可能性がとても高いです。それでもよろしければ、どうかご注意の上閲覧していただきますようお願いいたします。(作者)


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 暴漢を撃ち殺し、茫然自失となったデュランは立ち尽くす。やがてけたたましく鳴るサイレンの音に気づいた。警察車両から降りてきた警官がデュランを取り囲む。デュランは既に拳銃を取り落としていて、すぐに取り押さえられて、彼の手には無骨な手錠が掛けられた。


「デュラン! デュラン……!」


 アネモネが必死に呼んでいたが、彼女の方を振り返ることはできなかった。とうとう手を汚してしまった自分や、それを間近で見てしまったアネモネのことを思えば、もう、彼女と関わることが赦されるはずもなかった。

 

 脳漿と返り血を浴びたデュランは虚ろな目で子守唄ララバイをささやきながら、頭に布をかぶせられて、警察の車両に乗せられた。警察は、デュランやデュランの母が苦しんでいたときには何もしてくれなかったのに、こんなときだけは素早いのだと皮肉げに笑った。

 デュランは乗っている。

 アネモネとは別の車両に。アネモネとは違う人生に。

 アネモネは保護されて親元に戻ったらしい。手続きも移送も、何もかもが、現実味のないまま進んでいった。感覚も思考も麻痺していた。デュランは事実確認の聴取にも茫洋としたまま頷き、全てを認めた。

 

 デュランは家庭環境や生い立ち、過去に受けた被害、恋人を襲われそうになったところを返り討ちにしたという点を考慮されて少年院に行くことになり、そこで数年を過ごした。

 なぜだか人を殺す前より、人を殺した後の方がまともな飯が食えている。その事実にデュランは笑ってしまいそうだったが、笑い声は出ず、ただ、乾いた息が漏れただけだった。

 デュランの涙は、もう枯れていた。

 

 デュランには暴漢を射殺したことで前歴がついたが、今更そんなことは気にならなかった。元々〝地獄〟に不法移民の子として生まれた時点で、デュランの人生は最初から終わっていた。


 これまでは、ただ、だけ。殺さず、殺されずにいられたのは、優しく温かなアネモネがいたからだった。そうでなければデュランはとっくに荒みきり、〝地獄ヘル〟の流儀に染まっていた。

 という、狂った場所の流儀に。


 それが、ほんの少しの間、〝天国〟から齎された甘露ペインキラーによって、延期されていただけの話。

 デュランはとっくに壊れていた。

 デュランはとっくに、壊されていた。

 

「おれは何度生まれ変わったって、何度やり直したって、あの日あの時、あいつを殺すよ、神父様ファーザー


 デュランは、巡回に来た神父に向けて、静かに笑ってそう告げた。敬虔な神父でさえも、ましてや神にさえも、デュランの魂についた罪と穢れを落とすことはできないだろう。懺悔さえもできなかった。

 

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 心を病んだデュランの母親は精神病院に入院させられていた。

 そして彼女は、デュランが少年院にいる間に亡くなった。

 彼女の晩年は、穏やかだったらしい。デュランの母は日に日に食事を受け付けなくなり、衰弱して、眠るように死んだという。

 その死の報せは、あまりにも現実味がなく、彼は呼吸をすることも忘れて立ち尽くした。


 遺体との対面は、僅かな間だけ許された。

 火葬されるまでのほんの数十分間、それがデュランに許された別れの時間だった。薄く質の悪い寝台に寝かされ、骨と皮だけになって痩せこけた母の亡骸の頬。かつての美しさは欠片も残っておらず、ほとんど乾涸びたミイラのようになっていた。

 

 死という静寂が霊安室を包む。

 誰よりも美しく生まれついたのに幸せになれなかった女。この世の汚濁と理不尽を一身に受けて壊れてしまった女の亡骸が、哀れに口を開いたまま悲鳴を上げるような姿で死んでいる。

 もし、デュランが人を殺さなければ、もう少し、あと少しくらいは、長く生きられたのだろうか?

 答えは誰にもわからない。デュランは静かに語りかける。


「おふくろ。死ぬまでの間、痛かったか? 苦しかったか? 悲しかったか……?」

 

 亡骸は、答えない。


 ――遠い、夜の、果ての、小さな、波止場……。

 

 デュランの脳裏に、健康で美しかった頃の母の姿が過ぎる。彼女はまだ幼児だったデュランの頭を優しく撫でて、子守唄ララバイを歌ってあやしてくれていた。

 柔らかく温かかったその掌の温度を思い返しながら、デュランは、現在いまの彼女の痣だらけで痩せこけたしわくちゃな手──骨と皮だけになってしまった可哀想なつめたい手に触れて、優しく目を細めて微笑んだ。


 ――うねる、海の、中で、光る、夜の月……。

 

 デュランは、寝台に寄り添って子守唄ララバイを歌ってやった。デュランの涙は枯れ果てて、泣いてやることすらもできなかったから。

 そしてデュランの母は、感傷に浸る間もなく火葬された。

 そして、小さな壺の中に入れられて、デュランのもとに帰ってきた。栄養失調で病に冒されていた母の骨は、焼かれている間に崩れて壊れてしまって、形があまり残らなかったという。 

 デュランは、白く小さな骨を一欠片取り出して、人差し指と親指でつまんでみた。その姿はあまりにも哀れで、あまりにも不憫で、あまりにも痛ましかった。


 ――人魚は、泡に成り果てて……。


 デュランの母は死の間際まで、古い写真を握りしめていたという。懐妊している母の写真と、その隣に佇むスカイブルーの瞳の男の写真。デュランは、その男が、自分の生物学上の父だと知っていた。

 身ごもったデュランの母を捨て、財産と呼べるものを根こそぎ奪い、身勝手に行方をくらました男。

 そいつが背負うべきものを背負っていれば、こんな悲劇トラジェディは起こらなかった。


「おふくろ、ずっと言ってたよな。あの人とって。遅くなっちまったけど、その願い、おれが叶えてやるよ。だから、だから――だから……だから……」


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 ■■■やつの居場所は随分前に掴んでいた。デュランにとってその名前や呼び名はあまりにも忌々しい。 

 少年院を出たデュランは、時間をかけて緻密な計画を立てた。■■■の過去や経歴、とその家族の生活リズム、警官の配置、死角になる場所、そのすべてを調べ上げた。


 やつは、に得た資金を元手に事業を起こし、それなりに裕福な暮らしをして、■■■は幸せ太りして笑っていた。

 シアハニー市の〝天国ヘヴン〟。

 アイベリー地区の片隅にある、小さな家。

 標的はそこに美しい妻と可愛らしい子とともに住んでいた。

 ささやかな庭園には季節ごとに咲く花が植えられている。


「……」


 虚構と屍の上に築かれた理想的な家庭。

 理想的な住まい。

 理想的な人生ハッピー・ライフとでもいえばいいのか、その全てがそこにあった。

 だが、■■■の新しい家族──■■■の妻や子に、罪はない。彼等についても調査したが、落ち度や過失、犯罪の経歴は認められなかった。そんな彼等を結果的に巻き込むことに罪悪感がないといえば嘘になるが、

 どれだけ過失がなかろうと、許せるはずがなかった。

 直接、妻子に手を出すつもりはないが。

 デュランの母の屍を踏みつけた結果と影響を、彼等にも少しくらいは背負ってもらうことにした。


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 事前に入手しておいた管理ナンバーのない車を運転しながら、デュランは■■■の身柄を連れ去った。■■■の仕事帰りの時間帯を狙って、音もなく路地に連れ込んで口を塞いで縛り、抱えあげて車に乗せた。皮肉なことに、少年院で規則正しい生活を送ったことで、デュランの体格は以前よりも良くなっていたのだ。

 

 突然両手足を縛られて、猿轡を噛まされた■■■は、まるで鳥に啄まれた芋虫のように大げさに暴れていた。

 しかし、デュランが入念な調査の末に設定したルートは、人通りや検問がほぼない。いくら泣こうが叫ぼうが、助けは来ない。


「――おれさ、おふくろを車に乗せてドライブしてやりたかったんだ。お前じゃ代わりにならねえけど、今日は我慢してやるよ……」

  

 デュランは運転しながら鼻歌を歌う。微笑みながら。

 やがて彼は愉快そうに笑いだした。

 幸せな生活に浸って鈍り、肥え太った男を誘拐するのは、反吐へどが出るほど、簡単だったから。


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 〝地獄〟の町外れに格安で購入した地下室に、拘束した■■■を運び込む。


 地下室の真ん中に備え付けられた特製の棘付きの椅子が、■■■を待ち構えていた。 

 この、デュランの母の髪色と同じ色をした黒の椅子はデュランが手ずから工作して作ったもので、装飾にも凝っている。

 まるで玉座のような美しい出来栄えだが、現実は鋭利なかえしのついた針や棘が多く仕込まれた拷問器具でしかない。

 ■■■は必死に暴れ、抜け出そうとするが、玉座には頑丈な手錠や足枷が付いていて、両手足を切断でもしない限り抜け出すことはできない。こんな郊外には、人は来ない。親子ふたりきり、水入らずの時間を楽しめるというわけだ。


「おれが誰だかわかるか。……わかるなら、お前に刺さった棘、一本外してやるよ」


 デュランはそこまで言うと、猿轡を外してやった。■■■は荒い息を吐きながら、必死に涙を溜めて叫んだ。


「だ、……!」


 デュランの母親に良く似た面差しから、デュランが〝誰〟で、〝何のため〟に現れたのかを察したようだった。

 だが、しかし、ダイアナというのは、デュランの母が使っていた源氏名であり、本名ではない。

 この時点でデュランは静かに■■■を見限った。


「……まあ、正解ってことにしといてやるよ」


 デュランは約束した通り、■■■の腿に突き刺さった鋭利な棘のネジを外して、一本取り外してやった。棘を取り外す際に出血をして、やつは悶絶するように痛がっていたが、デュランの知ったことではない。デュランが無表情で見下ろす中、■■■は必死に頭を回転させて喚く。


「何か誤解があるみたいだ。冷静に話し合おう」

「……」

……」


 

 デュランの母が、デュランを懐妊していると明らかにわかる状態で、■■■と寄り添いながら撮った写真が残っている。デュランの母が、最期の最後まで握りしめていたくしゃくしゃの写真。

 白々しいにも程があった。デュランは、凍りついたような笑みを浮かべながら、話を合わせてやった。


「そうか。そうか。お前は本当に、何も知らなかったのか。おふくろとも合意の上で別れたんだな。そうかそうか。それなら、何もかも、しょうがないよなあ……」


 デュランは演技をしつつ、稀代の詐欺師だと思っていた男のあまりに愚かしく滑稽な振る舞いに、思わず鼻で笑ってしまった。その彼の態度を好機と見たのか、■■■は必死に畳み掛けてくる。


「君のこと、ずっと放ったらかしにして済まなかった。まだ幼いのに心細かっただろう。。……僕は、とある女性と結婚して、子どもがいるんだ。きっと仲良くなれる。その子は君の母親違いの弟に当たる。名前は――」

「ネイサンだろ。知ってる。妻の名前はエリザベス」


 デュランが静かに述べたその言葉に、■■■は虚を突かれたように押し黙る。ネイサンとエリザベスと■■■が仲睦まじく写っている写真を見せて、目の前で■■■の写る部分を破り取り、微笑んでみせた。


「何も調べずにこんなことをしてると本気で思ってるなら、詐欺師としては、随分と耄碌もうろくしたんだな、お前……」


 デュランは、可笑しくて可笑しくて、笑みがこぼれそうだった。こんな男に、こんな低俗で愚かな男のせいで、デュランの母とデュランの人生は大きく狂い、壊れて、何もかも失ってしまったのだ。


「おれが何のために来たかわかるだろ? 何のために猿轡を外してやったかわかるだろ? 。面白いこと言えたら延期してやるよ、ほら」


 デュランは錆びついた鋏を目線で示しながら、拷問器具の椅子を強く蹴飛ばした。この鋏は、デュランの母が持っていたものだ。蹴飛ばされたはずみに■■■の体に無数の棘と針が食い込み、悲鳴が上がる。嘘つきは死を以て償うべきだが、それでは足りなかった。苦しませなければならない。デュランの母と同じ苦しみを。

 脂汗を浮かべて悶絶する男の滑稽さに再び笑おうとしたが、なぜか今度は笑えなかった。つまらない映画を見せられているような気分になった。

 ■■■は、荒い息の合間に、必死で言葉を紡ぎ出した。


「だ、ダイアナは今、どうしてるんだ……?」

「死んだよ。ほら。でも、。焼いてもらったんだ。白くて、きれいだろ」

「そんな……」 


 デュランは、小さな壺に入った母の遺骨を見せた。壺を振ると、カラカラと音が鳴る。デュランは、この軽やかな音が好きだった。現世のしがらみを全て燃やして、ようやく楽になれたのだから。


「おふくろは病気になって心を病んで死んだよ。ずっとお前の名前を呼んでた。。『離れていてもずっと愛しているよ』って、お前の言葉を信じてずっと待ってたんだよ」


 デュランは静かに見下ろした。拷問器具に縛られながら、■■■は必死に叫ぶ。滂沱の涙を流して、悲劇の主人公のように啜り泣きながら。

 

「捨ててなんかいない! 僕は、本気でダイアナを愛していた! ダイアナから別れを切り出されなかったら、僕は本気で彼女と添い遂げるつもりだった! むしろ、!」


 その何から何まで虚構で構成された大嘘を受けて、デュランはとうとうこらえきれず大声で笑った。暗くじめじめした地下室の中に声が反響して、悪魔の笑い声のように聞こえた。

 

「お前がおふくろと同時期に複数の女と付き合って、その全員から金を巻き上げて捨てたの知らねえとでも思ってんのか」


 デュランは、■■■が女性と写っている複数の写真を、一つ一つ見せて時系列を説明してやった。中にはかなり際どい写真も含まれている。これで肉体関係がないというのは無理があった。デュランはこれを調べるために少なくない額の金を注ぎ込んでいた。

 それでもなお往生際が悪く、■■■は都合の悪いことを拒否するように首を横に振る。


「違う、違う、〝誤解〟だ。そんなことしていない……」


 デュランは、目の前にひらひらと、■■■が経営する会社のチラシを揺らめかせて見せてやった。

 

「なら、お前が起こした会社の元手になった金がどこから来たか全部説明してみろよ。せめて正直に言えよ、もう全部バレてんだから」

「皆、僕の夢を心から応援してくれていたんだ。それが彼女達の悲劇トラジェディに繋がっていたなんて、僕は思ってもみなかった……」


 ■■■は、大きく頭を振り、声を限りに叫んだ。■■■のスカイブルーの瞳は全く濁っておらず、自分が嘘をついているとは全く思っていないように澄み切っていた。といったツラを下げて平然と嘘をつける胆力に、呆れながらも感心してしまった。

 老けてなお■■■の声には張りがあり艶があり、この声にデュランの母は騙されたのかもしれないと思うと、吐き気がした。


「エレーヌとはすれ違いが多くて自然消滅して。こっちのアビゲイルとはそもそも付き合ってない。ミヤとは仲の良い女友達だった。サマンサは、僕といわゆる合意の上での体の関係があったよ。ニコラとは酒場での飲み友達だった。ベアトリクスとは無理やりセッティングされたお見合いで出会って円満に別れた。ロザンナとは健全な仕事仲間だった。……」 


 今名前が出た女性達は、全員■■■が金や財産を騙し取って、場合によっては体や内臓すら売らせ、挙げ句にこっぴどく捨てた人物達だ。■■■の脳みそのなかでは嘘まみれの整合性インテグリティが取れているのかもしれないが、真相は揺るがない。


 エレーヌという女性は資産家の娘だったのに家業の資産を奪い取られてボロ家暮らしを強いられていたし、アビゲイルと付き合っていないというのも嘘で彼女は結婚披露宴の手筈を整えていたが直前に資産を持ち逃げした新郎に逃げられて深く傷つき心を病んだ。

 

 ミヤという異国から渡ってきた女性が言語に不慣れなことを利用して搾取し、彼女は自殺寸前まで追い詰められた。サマンサは確かに体だけの関係だったようだが、それでも堕胎を強いられている。

 

 ニコラは酒場で出会った■■■に騙されて身柄をマフィアに売り飛ばされて内臓を失った。お見合いで出会ったベアトリクス、その経緯も嘘まみれで、■■■が結婚相談所に申し込んで彼女に迫り、嘘をついて保険に加入させ財産を搾り取った。仕事仲間だったロザンナとは将来を誓い合って、彼女の母のたったひとつの形見である高価な指輪を奪い取って質屋に入れた。


 このに関わった人間のほとんどは苦しみ、心を病み、消えない傷を抱えて生きている。

 それを知らないはずがないのに、自分に都合の良い虚構をこねくり回して正当化しようとする人間性に反吐が出そうだった。しかも、デュランは、こんな男の血を引いてしまっているのだ。


「……嘘つきだよな、おれも、お前も」


 ■■■は、人間を殺さなければ何をしてもいいと思っているのかもしれない。すべてを〝誤解〟や〝すれ違い〟で捻じ曲げながら。 

 しかし、■■■が騙した彼女達はこいつが作った〝生き地獄リビング・ヘル〟のまま死ぬまで生きていないといけないのだ。デュランの母と同じように。

 

 ペラペラとよく回る舌をどう切ってやろうかと思いながら、デュランは睥睨していた。■■■のスカイブルーの眼差しは澄み切っているように見える。詐欺師だと知らなければきっとこの見せかけの美しさに騙されてしまうだろう。

 しかしデュランは本物の澄んだ瞳を知っている。アネモネの瞳の輝きとは比べ物にならないチープさに、思わずくっくっとこぼすように笑ってしまった。ガラス玉と宝石を比べるようなものだった。


「当時、僕が本気で愛していたのは、ダイアナだけだ。信じてくれ。ダイアナさえ受け入れてくれるなら、一生、一緒に、添い遂げるつもりだったんだ!」


 ■■■の熱弁を聞き終わって、デュランはパチパチと拍手してやった。あまりにくだらない舞台だったが、一応、演者には敬意を払うべきだろうから。

 デュランはクックッと笑いながら、母の形見になってしまった錆びついた鋏を一瞬だけちらりと見た。かつては美しかったのだろうが、錆びて固まり、本来の用途を果たせなくなった品物を。

 

「……そもそもおふくろが不法移民だってこと知ってて、おふくろの金目当てで近づいておいて、添い遂げるつもりも何もねえだろ。本気でおふくろのこと愛してるってんなら、せめて正式な移民になれるよう手続きくらいやれよ。浅いよな、お前の愛ってやつ……」


 ■■■はうなだれて、自らの唇を噛むような仕草すらしてみせた。実際には力を入れて噛んでなどおらず、唇の皮膚すら貫通していない。この男の目的は命乞い。この状況を乗り越えるためならどんな嘘でも平気で吐くだろうし、哀れっぽく泣き叫ぶこともしてみせるだろう。

 デュランが演技に絆されて解放でもしようものなら、さっさとデュランを警察に突き出すだろう。と言ったことすらも無かったことにして。

 それくらいのことが、わからないとでも思っていたのだろうか。何もかもが、それらしく見せるための演技でしかない。ゴムよりも薄っぺらな男。

 

「当時の僕は、若かった。知識不足で、力不足だった……」

「……お前の前職、役所の職員だろ。馬鹿にするのもいい加減にしたらどうだ」

 

 デュランはため息をついて、■■■に見せつけるように固形の栄養食をボリボリと齧っていた。■■■の生活スケジュール的に、まだ夕食は取っておらず腹を空かしているはずだということがわかっていながら。デュランの脳裏に、腹を空かして泣いていたデュランの母の姿が浮かんで泡のように消えた。

 

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「……聞くだけ時間の無駄だった。早くにしてやらねえと、おふくろが可哀想だ」

  

 デュランはわざと大きな足音を立てて■■■を威嚇した。■■■は涙をこぼして必死に喚いているが、その醜い鳴き声は、デュランにはもうよく聞こえなくなってきていた。あまりにもどうでもいい内容を耳にしすぎると、聴覚が麻痺するのかもしれない。子どもマイ・サンが、マイ・ワイフが、そんな風に聞こえた気がしたが、デュランにとっては最早どうでもよかった。


 デュランは、持ち込んだリュックサックの中から、餌皿を取り出して、そこに溝水どぶみずを注いだ。それはかつてデュランとデュランの母が仕方無く飲んでいた、汚染された用水路から汲んできたものだ。汚水の臭いに、■■■は顔を背けた。


「夕食前だったもんな。腹が減っただろ。ほら、メシを用意してやったから、食えよ」


 デュランが微笑んで差し出した餌皿の中には、溝水の他に、砕かれた白い骨がまばらに入っていた。■■■は、拒絶するように首を振った。それは、火葬された後の骨の中の、食べやすい大きさの部位を厳選してやったものだった。喉に詰まらせて死ぬだなんて、退屈な死に方をさせないために。


「食えよ。お前を愛して死んだ女の骨だよ。添い遂げたいくらい愛してたんなら、食えよ、今すぐに」


 顎をつかみ、口をこじ開け、喉の奥に突っ込む勢いで餌皿を傾けた。溝水と一緒に白い骨を無理やり咀嚼させ、飲み下すのを確認する。■■■が吐きそうな仕草をすると拳銃をちらつかせた。デュランの母は、■■■と一つになりたいとよく言っていたから、そうしてやりたかった。デュランは、骨になってしまった母を慈しむように穏やかに語りかける。


「なあ、おふくろ。満足か? うれしいか? 幸せか?」


 と聞こえる鳴き声が聞こえた。デュランは可笑しそうに、腹を抱えて笑った。この嘘だらけの男が償えることなど何も無い。何も。何もかも終わった後に、自分の命惜しさだけに喚く男の鳴き声など、何を信じれば良いというのか。


「馬鹿いうなよ。今更金なんかあったって、どうにもならねえよ。何もかも終わってるんだよ。もう、全部」

 

 こいつのせいで、何もかもが狂った。何もかもが壊れた。

 デュランの母は哀れで孤独なまま死んで、デュランの手は血に染まって、辛うじてあったかもしれないささやかな未来すらもなくなった。

 取り返しなどもうとっくにつかなかった。

 ただ、今は、出来うる限り、デュランの母と■■■を、同じ質の不幸に落とし込んでやるために努力しているだけだ。

 そう、

 愛する人とになれるというのは幸せなことだろうし、そうすれば、少しはデュランの母もあの世で笑ってくれるだろう。


「……とおい……よるの……はての……」

 

 デュランは、かすかに子守唄ララバイをささやきながら、■■■の顔に焼けた鉄を押し付けた。不愉快な臭いがした。デュランの母に残った病の痣と同じ位置に、丹念に焼印をつけていった。人の皮を被った紛い物の肉でも、焼けるときの臭いは人間と同じなのだろうか。


「ちいさな……はとば……」


 ■■■は泣き叫んだが、デュランの耳には何を言っているのかもうわからなかった。薄汚い溝鼠どぶねずみの鳴き声の意味するところが何であっても、耳には届かないのと同じだった。


「うねる、うみの、なかで、ひかる、よるのつき……」


 長い時間監禁しつつ、溝水や最低限の栄養素だけを与え続け痩せこけさせる。苦しむ姿を、ずっとデュランは微笑んで見ていた。嗚咽を漏らす姿を憐れんで、慈しむように背中をさすることすらしてやった。

 デュランの歌が聞こえるたびに、デュランが微笑みかけるたびに、なぜか■■■は身をすくませる。一体、この子守唄ララバイの何がそんなに恐ろしいというのか。かつて愛した女が好んだ歌を、聴かせてやっているだけだというのに。


 デュランの母の歯は、長年激しく嘔吐を繰り返した影響で溶け崩れ、最後にはほぼすべてがなくなっていた。それとお揃いにしてやるために、デュランは歌いながらペンチに力を込めて、最後の奥歯を抜き終えた。かなりの重労働で、手が痺れた。


「……にんぎょは、あわに、なりはてて……」


 一瞬だけ、赤毛の少女の笑顔が脳裏に浮かんで、涙とともに滲んで消えた。彼女と過ごした時間は夢のようだった。否、最初から幻想だったのだ、きっと。あんなに心根の美しい少女が、腐って壊れ果てたデュランとともにいてくれたはずがない。


「――……この歌詞の続き、なんだったかな。お前は知ってるか?」


 ■■■はよだれを垂らしながらも、力なく首を横に振った。こいつは詐欺師ウソつきだがこれは本当だろう。嘘を付く気力も体力も精神力も奪うために、デュランは全力を尽くした。

 すべての歯を失ってすでに弱りきった■■■は、思考能力も戯言をほざく胆力も失い、茫洋とした眼差しで虚空を観ている。その眼差しが、今は亡き母とそっくりで、デュランは満足そうに微笑んだ。


「なあ、お前も歌ってやれよ。おふくろの冥福を祈ってさ」


 デュランは歌う。壊れたラジオのように同じフレーズを繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し歌った。誘拐直後は太っていたはずの男が骨と皮のような姿に痩せ細るまで、ずっと、ささやき続けた。

 デュランの母は、自分の爪を噛む癖をやめられずに、最終的にはほぼすべての爪がはがれ落ちていた。おんなじにしてやるために、ひとつひとつ丁寧に剥がした爪は、勿体ないので■■■本人に食べさせておいた。貴重なタンパク源を摂取できて嬉しそうだった。

 錆びた鋏で切り落とした舌も食わせてやったら、■■■はスカイブルーの瞳に涙を溜めてとてもとても喜んでいた。

 なんて幸せそうなんだろうと感じながら、デュランは、微笑みながらそれを見ていた。舌がなくなればこれでもう、この男の嘘に惑わされる人間はいなくなる。


 デュランは歌った。鎮魂の為に子守唄ララバイを歌った。

  

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「おふくろは、精神病院に入院してから、起き上がれもしないで死んだんだってよ。元から足が弱ってて、自分で歩けなかったけどさ。ずっとずっと、代わり映えのしない景色で、寝返りを打つのにも人の力を借りなくちゃいけなくて、排泄すらも頼らなきゃいけなくて。まだ、おふくろ、若くて、そんな年齢トシでもなかったのにさ。本当なら、きれいで、幸せで、満たされて、少なくとも今よりもっとマシな人生を送れたはずだったのに。あんたさえいなければ、あんたさえ愛さなければ。あんたと出会っておれを産みさえしなければ……もっと……楽で、幸せな……」

  

 ■■■の両脚と両腕の腱には深い深い深い傷があった。わざわざ買った医療用のメスを用いて、壊死しないように気を配りながら、きちんと研究してから切り開いたものだ。実際にやるのは初めてだったが、上手くいったようで、デュランは満足だった。


「あんた、おふくろを愛してたって言ったよな。なら、絶対にになりてえよな。添い遂げたいくらい愛してたらしいもんな。おれも好きな人がいるんだよ。もう会えねえけど」


 ■■■の目の前に、とある日付に花丸を付けたカレンダーを差し出す。今日が何月何日なのかを丁寧に教えてやる。今日は、■■■の生まれた日。生まれたことを祝福される、年に一度の大切な記念日。

 本来なら、■■■が優しい妻と息子に囲まれて平和に過ごせていたであろう日。デュランの母や、他の女性達を踏みにじっておいて、自分だけは安全圏にいた男の生まれた日。


「ハッピーバースデイ。今日は、おれからもお祝いがあるんだよ。ずっとずっと帰りたがってたあんたのお家に連れて帰ってやるよ。喜べよ、ほら、して。……ああ、もうできねえか」

 

 ■■■の動かせなくなった四肢を優しく折り曲げて、傷つけないように緩衝材を敷いた大きな箱の中に座らせ、蓋を閉める。きちんと呼吸ができるように、穴を開けておいてやる親切さもデュランにはある。

 

 とびきり可愛らしくて大きなリボンの付いたプレゼントの箱に、を詰めて梱包すると、車に乗せる。宅配サービスのふりをして、■■■の自宅の玄関の前に置いてやった。


とっても素敵なお届け物ですスペシャル・デリバリー・フォー・ユー!」

 

 プレゼントボックスのタグには、デュランの直筆で『お誕生日おめでとう』と書いてある。

 デュランは、誕生日を祝ったことも、祝われたこともないが、精一杯それらしいものを取り揃えて整えてやった。


 ――今日は、きっと世界で一番幸せな、ハッピー・ハッピー・ハッピー・バースデイ!


 このプレゼントを開ける■■■の〝幸せな家族〟、ネイサンあいするむすこや、エリザベスあいするつまは、涙を流して喜んでくれるだろう。きっと。

 意図していなかったこととはいえ、デュランの母の屍から養分を吸い取り、結果的に幸せを享受していた彼等への、デュランなりの最高のプレゼントだった。

 

 デュランの母と違って、この男はまだ息をしているのだから。


「きっと最高で幸せな一日になるよな。あんたも生まれてきてよかったって思ってるだろ、……」


 ■■■はなぜか、最早まともな言葉も出せなくなっていた。猿轡を外してやっているのに、どうして喋ってもくれないのだろうか?

 デュランはボックスを蹴ったが、うめき声が聞こえただけだった。


 爪も歯も舌もなくして両手足の腱を切り、顔や体全体に焼印を施して、骨と皮だけのガリガリになるまで痩せ細らせて。

 それでようやく、デュランの母の死に顔とそっくりになった。


 少年院に入っていた際、年の近い猟奇殺人犯と知り合って、さばくコツや弱らせるコツを聞いていたのがとても役に立った。間違ってもは取らないように医学書も読み漁り、研究して整えた成果が出たことに喜んだ。


 これはデュランの慈悲だった。

 これからも幸せな家族と一緒に過ごすと良い。弱って、そう長くは生きられない生を、〝生き地獄リビング・ヘル〟のまま暮らすが良い。暗く惨めで汚い場所に押し込められて生きるしかなかったデュランの母の苦悩の、一端だけでも味わいながら。

 

「ハッピー・バースデイ・トゥ・ユー……」


 デュランは、歌を歌った。歳を重ねて、お誕生日おめでとうハッピー・バースデイと言われるたびに、デュランの加えた苦しみを思い出してもらえるように。刷り込むように歌い続けた。

 母の嘆きを何度でも味わってもらえるように。

 いつまでも絶えることなく、生きる限り痛みは続く。そんな生でも、生きているって素晴らしいだろう。


「ハッピー・バースデイ・トゥ・ユー……ハッピー・バースデイ・ディア……」

 

 お届け物を終えたあと、デュランは自ら出頭して逮捕されたが、彼がまだ若年者フォーティーンであったこと、情状酌量の余地があったこと、〝殺人〟ではなかったので、それほど多くの時間は喰わなかった。

 デュランは刑務所の中で、器用さを買われ、マフィアの男達から〝仕事ビジネス〟の斡旋を受けた。を処分したり、解体したり、壊したりする作業だそうだ。

 

 デュランは自分の人生が転がり落ちていく音を聴きながら、最早全てがどうでもよかった。


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