シアハニー・トラジェディ(後編)

※注意書き※


 性暴力を示唆する発言、不同意性交をかなり直接的に示唆する行動(言動)、それに伴うトラウマのフラッシュバック、殺人の描写が含まれます。苦手な要素が少しでも含まれると思われる場合は読まれないことを強く強くおすすめいたします。

 性被害を軽視、また、賛美するものではございません。また、この作品はフィクションであり、殺人や不同意性交を礼賛するものでもございません。今回以降の展開はおそらく多くの方をご不快にさせてしまうと思います。申し訳ございません。(作者)


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 〝地獄ヘル〟の中でも比較的治安がマシで、他にも家族連れが暮らしているような区域の集合住宅の一室。

 壁に穴が空いていない、床が腐っていない、雨漏りのしない、清潔で静謐な部屋。そこに、デュランは母を連れて居を移した。

  

 住処を移してまずしたことは、手切れ金を元手にして母を医者にかからせることだった。精神的な症状は今の医学では如何いかんともしがたいと言われたが、安くはない報酬を支払ったおかげで身体的な病の治療が行われた。

 結果、爛れて腫れていた彼女の顔も随分ときれいになった。

 病の後遺症である痛々しい痣や傷は残り、すべてを魅了するようなかつての美しさを取り戻したわけではなかった。

 それでも見目が良くなったことで母の精神も僅かに安定し、たまに笑顔を向けてくれるようにもなった。

 彼女は決してデュランの名前を呼んではくれないが、それでも〝危害を加えない同居人〟程度には、デュランを信頼してくれたようであった。狂乱することや、デュランに物を投げつけてくることもごく少なくなった。

 

 わずかながらも穏やかな日々が、デュランの人生に訪れた。


 デュラン自身も、金を元手に書物を手に入れ、勉学に励み、文字の読み書き並びに機械工学の専門知識を身に着け始めていた。

 〝地獄〟では、文字が読めて書ける人間すらほとんどいない。そんな中で複雑な機械修理が行えれば、パン屋であくせく働くよりも楽に短時間で金が稼げる。

 転がっているガラクタを分解したり組み立て直したりするという金のかからない趣味を持っていたのだが、専門知識を得たことでそれを転用して金儲けができるようになった。今のデュランの肩書きは、〝修理屋リペアマン〟ということになるのだろうか。

 

 順風満帆スムーズ・セイリングだ。すべてが。

 デュランは今、人生で一番幸せなだった。


「……遠い、夜の、果ての、小さな、波止場はとば……うねる、海の、中で、光る、夜の月……人魚は……泡に成り果てて……」


 デュランは、壊れた機械の修理を行う際、子守唄ララバイを口ずさむことが癖になっていた。いつかアネモネにも聴かせてやろうと思っていた柔らかな旋律の歌。聴かせる機会など来ないというのに、惨めったらしく囁くことをやめられない。

 今日の分の作業を終えたデュランは、箱に詰め込まれた固形栄養食を鷲掴みする。開封して適当に咀嚼し、コップに入れた水で流し込む。この栄養食は、栄養価はあるが味がまずいらしく、安値で叩き売りされている。デュランにとっては好都合だった。

 何を食べてもざらついた砂の味しかしない。

 アネモネと二度と会えなくなったあの日から。


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「はっ……はっ……はっ……!」


 名門校の制服を着た少女は、必死に道なき道を走っていた。監獄のような寄宿舎の生活に疲れたわけではない。両親に会いたいと里心を出したわけでもない。

 ただ、愛しい人に会うためだけに、彼女は駆け出していた。


「いたっ……!」

  

 石に躓き転んだ。膝から血が滲むのがわかった。じんわりと痛みが響き、うまく走れない。足がもつれる。それでも必死に動き続ける。きっと追手が迫っている。

 名門校に入学させられてからずっと、おとなしい生徒のふりをして警備の手が緩む瞬間を狙っていた。

 見様見真似でロープ状に編んだシーツを部屋の頑丈な柱に結んで、窓から脱出を図った。握力のないアネモネでは、無様に滑り降りるのが精一杯だったが、それでも大きな怪我をせず降り立つことができた。目的地を目指して、彼女は走り出した。

 

 少しずつ、少しずつ時間を掛けて学校の庭園に作った抜け穴。

 園芸が好きな女学生のふりをして、土まみれになりながら穴を掘った。手や爪は傷だらけになって、ボロボロになったが、そんなことは気にならなかった。デュランの手も、豆ができていたり、傷だらけだったけれど、温かくて綺麗だったから。

  

 授業で使った工具の一部、デュランの真似をしてくすねていた食料や缶詰など使えそうなものや、当座の生活資金にするためのアネモネのお金を、こっそり持ち込んでいたリュックサックに詰めて背負っている。

 アネモネの狭い了見で、思いつくだけの準備はした。

 少女は、夜の寒さに身を震わせながら、それでもひた走る。


▬ ▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬ ▬

 

 デュランと出会った日を、鮮明に覚えている。

 ほんの好奇心からシアハニー大通りを抜けて、見たこともない場所を見てみたかっただけだった。でも、一歩踏み入った瞬間、音も匂いも何もかもが違った。何対なんついもの恐ろしい眼差しがアネモネに牙を剥こうとしていた。生まれて初めて感じる死の恐怖が、アネモネを包む。アネモネは、視線から逃れるように闇雲に走り出した。


「はっ……! はっ、はっ……!」


 走って、走って、逃げて、転んで、心細くて、愚かな彼女はぼろぼろと涙をこぼして泣きじゃくる。ぶつけた膝が痛くてたまらなかった。幼いアネモネは周囲を見渡して、見知らぬ路地におののき、ここがどこだか分からなくなっていることに気がついた。アネモネは混乱と恐怖を抑えきれず大きな声で泣いた。


 ――助けて。助けて。助けて。誰か。

 

 泣いたって何も解決しないことくらい、アネモネはわかっていないといけないはずだった。それでも誰かに助けてもらえることを無意識に期待していた。優しい両親が駆けつけて涙をぬぐってくれることを、アネモネは当たり前だと思っていた。


「おい。うるさいぞ。泣き止め」


 それは、アネモネと同じくらいの年頃の男の子だった。初めてデュランを見たとき、なんてきれいな男の子なんだろうと思った。

 切れ長の美しいお月さまのような瞳に、長いまつ毛。どこかエキゾチックな魅力のある、彫像みたいに端正な顔立ち。ウェーブがかった黒い髪の毛も艶っぽく、格好良くて、アネモネは見惚れて一瞬涙を止めた。


「た、助けて……。迷子になっちゃったの……」

「知らねえよ」

「連れてって……」

「何処にだよ」

「大通り……。迷ったら大通りに行きなさいって、ママが……」 

 

 彼は不機嫌そうな表情をしていたけれど怖くはなかった。アネモネを傷つけるために近づいてきたのではないとすぐにわかったから。デュランの瞳には、悪意や敵意がなく、狩りをするような恐ろしい眼差しではない。 

 ただ、彼はアネモネを迷惑そうに見て、舌打ちした。本来なら関わりたくはなかったのだろう。助けるメリットが、彼にはないから。

 

「大通りはこっちだ。ついてこい」

 

 それでも彼は、段差の激しい路地を歩くのが覚束ないアネモネのために手を差し伸べてくれた。彼の手は傷だらけで豆だらけで、彼自身バツが悪そうな顔をしていたが、それでもアネモネはためらいなく彼の手を取った。その手の温かさと優しさは、怯えるアネモネの心を溶かしてくれた。アネモネが微笑みかけると、デュランは不機嫌そうに顔をそらして言った。


「気を許すな。おれが、お前をどこかに売り飛ばそうとしてるやつかもしれないだろ」

「……売り飛ばそうとする人は、わざわざそんなこと言わないわ」

「うるさい。足を動かせ」


 アネモネは笑った。彼と繋いだ手のぬくもりが心地よくて。声の優しさが、思ってもいないような脅し──心配の言葉が、軽やかで。

 安心してお腹が空いて、お腹をくうくうと鳴らしたアネモネのために、貴重な食べ物を分けてくれる。

 彼は紙袋の中から取り出したパンをアネモネの手に半ば無理やり押し付けて、ぶっきらぼうに告げる。


「取り上げられたくなかったら、さっさと食え」

 

 明らかに彼のほうがお腹をすかせていたのに、飢えていたアネモネは慌ててそのパンを食べた。

 そのパンはとても固くて、嗅いだことのないえた匂いがしたのに、不思議と今まで食べたどんなものよりも美味しく感じた。


 彼はとても顔色が悪く、とても痩せていて、目の下には隈があり、疲れていた。世間知らずなアネモネから見ても辛そうだった。それでもデュランは、見ず知らずのアネモネの手を引いて道案内をしてくれている。

 アネモネは精一杯の感謝を込めて、笑顔を浮かべた。


「美味しかった。お腹いっぱいよ。ありがとう、デュラン」

「……腹の虫、もう鳴らすなよ」

「がんばる!」


 アネモネは、真剣に頷くと、お腹に圧を掛けて鳴らないように必死に力を入れた。そんな滑稽な彼女の姿を見て、デュランはほんの少し息を漏らすように笑った。

 デュランのきれいな唇が彼女を見て動いた。それがまたとても艶めいていて、アネモネは心臓が高鳴る気持ちを止められなかった。デュランの笑顔が、彼女の心に焼きついた。

 

 ▬ ▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬ ▬ 


 デュランが、優しく目を細める仕草が、少しいじわるな性格が、素直じゃないところも、好きだった。からかってくるところも。デュランの夜の満月色をした瞳が、優しくアネモネを見つめるところも、愛おしかった。

 

 彼の振る舞いは、日を追うごとに少しずつ優しく甘くなっていった。彼自身気づいているかどうかわからないけれど、彼の仕草は、どんどん穏やかさを増していた。刺々しく周囲を警戒してばかりいたデュランが変わっていっているのは、アネモネの影響だった。蕩けるような綺麗な色の眼差しが、アネモネだけを見ている。

 

「わたし、あなたのことが好き。初めて会った日から、ずっと」


 アネモネが想いを告白した時、彼は驚いていた。お月さまみたいにきれいな瞳が揺れて、細められて、唇が動いた。だけどすぐに言葉を詰まらせた。デュランは泣きそうな顔で、自分の現状を語る。


「おれは〝地獄〟生まれの……シアハニーの正式な市民でもない、どこの馬の骨ともしれねえスラムのガキなんだぞ」

「聞いたから、知ってるわ。わかってる」

「わかってねえだろ、何もかも。お前が、お前の持っているものが……どれだけ貴重で、どれだけ大切で、それがなくなったらどうなるか――」


 デュランは目を細めて、苦しそうに唇を歪めて、項垂れた。デュランの背後には、〝地獄〟の汚れた街並みがあった。彼の人生が、どれほど辛いものだったのか、アネモネにはわからない。デュランが、その痛みを背負いながらも、アネモネに優しくしてくれることが、どれだけ尊く、難しいことなのかも、きっとわかっていない。

 

「今、おれなんかと一緒にいるだけでも、本当は……」


 デュランがアネモネを突き放そうとしたのがわかった。デュランは、綺麗な瞳を震わせて、目を見開いて、彼女を見ていた。アネモネとお別れになるのを覚悟して、彼女の姿を、最後に瞼に焼き付けようとしているのがわかった。


「わたしは、あなたが好き」

「……おれは、お前のことなんか――」 

 

 デュランは聡くて、いつも正しい。間違っているのはアネモネの方だ。それでも彼女は、勢いよく彼の胸に飛び込んだ。彼は、アネモネを受け止めてくれて、支えてくれた。

 摂理や常識や彼の思いやりすらも捻じ曲げて、それでもアネモネはデュランが欲しかった。デュランの眼差しを、声を唇を、優しい手を、アネモネだけのものにしたかった。彼の手の温もりを、彼の眼差しを、彼の笑った顔を。


 アネモネは、もっと見て触れて感じていたかった。

 そのためなら、と、思ってしまっていた。アネモネは、デュランの背中に手を回して彼を抱きしめる。

 愛してほしいという気持ちを精一杯込めて。受け入れてほしいという懇願を込めて。これは賭けだった。

 アネモネは、一世一代の勇気を振り絞って、デュランを欲した。


「おれは、お前のことなんか……好きじゃ……ない…………」


 嘘だった。それは、デュランの精一杯の思いやり。アネモネは、聞こえなかったふりをして、ぎゅっと彼を抱きしめる。デュランは、苦しそうに息を吐きながら、それでもアネモネを突き放すことはなかった。しばらくふたりは寄り添っていた。間近で互いの体温を感じる瞬間に、アネモネの心臓は高鳴っていた。


「わたしは、好きよ。愛してるの……あなたのことを……」


 デュランが、震える手で抱きしめ返してくれたとき、彼の温かな心臓の音を間近で感じたとき。どれほど嬉しかったか、幸せだったか、彼にはきっとわからない。


「アネモネ……」


 彼女を抱きしめて、デュランは泣いていた。

 アネモネも、溢れる気持ちを抑えきれずに、泣いていた。

 涙が出るほどに、うれしくて、幸せだった。


▬ ▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬ ▬


「くっ……はっ……はっ……!」


 アネモネは走りながら、浅くなった呼吸でくらくらしながらも、さらに追想する。『デュランの最後の言伝』を、護衛のカルラから聞いたときのことを。

 アネモネは、彼からの〝最後〟の言伝を呟いて、泣き笑いのような表情を浮かべた。彼の言葉がショックだったからではない。

 


「『アネモネのことを愛していない』、『ずっと嫌いだった』なんて……」


 アネモネは、そんなことを言わざるを得なかった彼の気持ちを想った。自然と涙がこぼれてくる。彼の優しい眼差しを思い出せば、それが嘘であることくらいすぐにわかる。アネモネが、それに気が付かないと思ったのだろうか。聡い彼が、その可能性を無意識下で見ないふりをするほど、取り乱してくれていたのだろうか。

  

『アネモネのことを愛している』『ずっと大好きだった』。


 

 彼の不器用な愛が、その言葉に全部詰まっていた。 

 デュランは、飄々としているようで、実は不器用で、照れ屋で、素直じゃなくて、『愛している』だなんて一度も言ってくれたことはない。

 それでも、アネモネを見て細められる眼差しや、抱きしめてくれる腕の温もりや、優しいキスから、彼の気持ちを感じ取らないはずがなかった。

 。優しくアネモネの輪郭を撫でて、せつなそうに微笑む顔を見れば、そんなことはすぐにわかった。アネモネは幸せだった。ずっと彼のそばにいたかった。


「どうして、あなたは、いつも……」


 ▬ ▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬ ▬


 デュランは、すぐバレる嘘をつく。

 

 痛くない。辛くない。悲しくない。

 お腹なんて空いてない。苦しくない。平気だ。

 

 彼の精一杯の強がりが詰まったその言葉は、いつも健気だった。

 病に倒れた母親のために幼くして働きに出て、もらってくるパンも最低限しか食べず、母のためにとっておくような男の子の言葉を、額面通りに受け止めるはずがない。

 献身的で自己犠牲的な愛しか、彼は知らない。

 それを感じ取らないと、本気で思っていたのだろうか。


「わたしは貧しくても良い。苦しくても良い。どんなつらい思いをしてもいい。あなたがいてくれれば……」


 アネモネは、今自分が持っているすべてを捨ててでも、デュランの元に走る覚悟があった。その覚悟が悲劇トラジェディの引き金になることも知らずに、彼女は走る。走り続けた。


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 風に揺れる赤毛の三つ編み。白い帽子とワンピース。汚穢な町並みの中であっても、彼女だけは輝いて見えた。デュランだけを見て微笑んでくれる少女を、デュランは今も待っている。

 二度と来ることがないとわかっていても、なお、思い出に縋って浸っている。そうすることでしか、精神の安定を保てない。


 デュランは毎週金曜日の夕方になるとあの路地に行く。赤毛の少女が来ないことをわかっていながら、それでも追想に浸っていた。デュランは酒も煙草もやらないが、これだけはやめられなかった。


 座り込むデュランに目をつけた不潔な男がひとり、ヒュウと不快な口笛を吹き、近寄ろうとしてくる。しかしデュランの腰に提げられた拳銃を見ると、チッと舌打ちをして去っていった。デュランはその男が遠くに消えていくまで睨みつけた。

 

 最近デュランは、護身用の拳銃を持ち歩くようになっていた。幼少期からの栄養失調が響いているデュランは決して大柄ではなく、格闘術を身につけたとしても不利であることに変わりない。デュランは射撃の練習もしていた。いざというときに使えない武器など、持っていてもなんの意味もないから。


「……アネモネ……」


 夕陽に照らされて、〝地獄〟ロザー・シェレフ地区が、橙色に染まる。汚く穢れたこの町が、唯一きれいに見える瞬間。アネモネの髪の色と同じ赤毛の色を、思い返しながら、デュランは目を閉じた。

 

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「――デュラン!」


 その瞬間、待ち焦がれた、誰よりも恋い焦がれた少女の声がした。とうとう気が狂って幻聴が聴こえたのかと思った。デュランが目を開けると、そこには――そこには、制服に身を包んだ、泥だらけでぼろぼろの少女がいた。デュランはこぼれ落ちそうなほどに目を見開く。


 

 元は綺麗に編まれていたであろう三つ編みはほどけ、葉っぱや砂埃も付いている。どこかで転んだのか、頬や手に擦り傷があって、汚れている。それでも、それでも、それでも、それでも、彼女は誰よりも美しかった。彼女のいる場所は、それがどんなに汚穢な場所であったとしても、眩しかった。

 彼女は涙を浮かべてデュランの胸に飛び込んできた。泣きじゃくり、嗚咽して、それでも彼女は叫んだ。


「デュラン! 会いたかった……会いたかった……!」


 デュランは咄嗟に彼女を受け止めた。アネモネは、その手をデュランの背中側に回して、精一杯の力で彼を抱きしめた。


「どうして……ここに来たんだよ……」

 

 デュランが待ち合わせ場所にいてくれるかどうかはアネモネにとって大きな賭けだった。二度と会えず、〝地獄〟の住民に殺される可能性すらも覚悟していた。

 

 しかしデュランは、アネモネと縁を切ることを半ば強制されてもなお、金曜日の夕方に、同じ場所、同じ時間にいてくれて、アネモネを待ち続けてくれていた。それが未練でなくて、愛でなくて、なんだというのか。アネモネは涙をこぼした。


「デュランこそ。デュランだって…………」


 その言葉に、デュランは虚を突かれたように固まった。彼もまた、アネモネを深く愛してくれていたことを確信して、アネモネは微笑んだ。


「あなたのことが好きなの。他の誰よりも、何よりも、愛しているの。あなた以外は、何もいらないの……」


 アネモネは泣いていた。泣いていたが笑っていた。幸せそうに、デュランの大好きな笑顔を浮かべていた。デュランが言われたかった言葉を、アネモネは口にしてくれる。

 デュランも止め処無い涙をこぼす。

 誰からも言われたことのない言葉が、デュランの心を満たしていく。デュランは、アネモネを強い力で抱きしめ返した。


 このときデュランは、『愛している』と伝えるつもりだった。

 その機会が、ほどなく永遠に失われてしまうことなど、知るよしもないまま、ふたりは限られた幸福を抱きしめていた。

 

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 ふたりの逢瀬を引き裂いたのは、脂ぎった男の汚い声だった。


「〝黒猫プッシーキャット〟じゃねえか。女連れで何してんだよ」

 

 そう、耳障りな声をかけてきた男の醜い容貌に、デュランは見覚えがあった。今よりもずっと幼い頃のデュランを路地裏に連れ込み、慰み者にした狼藉者。醜くて汚くて、だらしなく太っていて、それでもずっとデュランより強い力で抑え込んできた。デュランは頭を殴られたような嘔吐感を覚えてその場にうずくまりそうになった。ボロ布になった服をかろうじてまとって、涙も枯れ果てたあの日。

 あのときにデュランは、自分が何よりも穢らわしくて、価値のないものだと刷り込まれた。デュランは硬直して荒い息を吐きながらも、咄嗟にアネモネを背にかばった。


「かわいい女じゃねえか、、なあ」


 にやにやと醜く笑う暴漢の手が、この世で最も穢らわしい指が、きれいなアネモネに触れようとしている。腕を掴まれそうになったアネモネは悲鳴を上げる。その悲鳴が、幼かったデュランに重なった。その瞬間、デュランの頭に火花が弾けた。デュランは腰の拳銃を取り出して、かたかたと震える手で暴漢に向ける。


動くなフリーズ

 

 暴漢は拳銃を見て醜く歪んだ喘鳴を上げたが、そんなことはデュランにとってどうでもよかった。

 デュランは、息を吐きながら暴漢に近づくと、暴漢の頭に銃口を押し当てた。涙を流して怯えるその姿は、やはりみっともなくきたならしかった。跳弾してもアネモネが傷つかないように背後に庇い、荒い息をついてゆっくりと引き金に指をかける。


「はっ……はっ……」

 

 視界がぼやけて、心臓が痛い。それでも狙うべき敵を見定めて、デュランは手の震えを抑えながら狙いをつけた。幼いあの日、デュランを壊した男が目の前にいる事実に耐えられず、体が震え、吐き気がこみ上げた。それでもなお、手を離すわけにはいかなかった。背後には、アネモネがいる。デュランの大切な、大切な、何より大事な宝物を守らなくてはならない。

 暴漢は、涙でぐちゃぐちゃの顔で地面に手をつき、媚びるような眼差しでデュランを見上げた。


「なあ、殺さねえでくれ、殺さねえでくれよ、悪かったよ! 手を引くから!」


 一瞬、デュランの手が止まった。襲おうとしておきながらみっともなく命乞いをする相手に対して、慈悲の気持ちが働いたわけではない。嗚咽に、母の泣き声が重なって、まるで母を殺そうとしているような気分になって、嫌な気持ちになっただけだ。

 一瞬固まったデュランの反応に気を良くしたのか、暴漢はにたりと気色の悪い笑顔を浮かべて囀った。

 

「なあ……なあ……を一緒にした仲じゃねえか、なあ、、なあ、もう一回良くしてやるから、なあ、そんな物騒なもん――」


 デュランの脳裏に、あの日の光景が激しくフラッシュバックする。


 ――殺さないで。助けて。許して。。そう哀れに懇願するしかなかった、幼いデュランの声が脳裏に反響する。吐き気がする。頭痛がする。

 

「……デュランに……デュランに何を……」

 

 背後にいるアネモネが、全てを察して凍りつくのがわかった。可憐で無垢なアネモネの声が、震えている。

 彼女にだけは知られたくなかった。彼女にだけは何も知らないままでいてほしかった。穢らわしいデュランの過去を、何も知らせていなかった。知られたら、耐えられない。そう思って。だから。

 アネモネというきれいな少女が手に入らなくてもいいからせめて、少しでも美しい記憶として残れたらそれでいい。そう思っていたのに。

 デュランがこんなにも穢れて、価値のないものだと知ったら、きっと彼女は、もう、笑いかけてくれなくなる。思い出してくれなくなる。きっと、穢らわしい記憶として、デュランのことを忘れ去る。


 ――……とおい……よるの……はての……。

 

 デュランの脳裏に、まだ精神を患っていなかった頃、デュランの母がデュランを抱きしめて泣き崩れた日のことが思い出される。デュランの母もまた、幼い頃からずっと被害にあってきたひとりだった。

 デュランの母は泣いていた。デュランの痛みを思って、泣いていた。

 

 ――……ちいさな……はとば……。

 

 デュランは、呼吸がうまくできないことに気がついた。手が震えている。嘔吐感を抑えられない。それでも今、決して、拳銃を手放すわけにはいかなかった。

 アネモネの嗚咽と、涙がこぼれ落ちる音が聞こえる。デュランの頬にも、熱くにじむ何かが伝っている。


「デュラン……やめて……だめ……!」


 。 

 薬莢が転がり落ちて、路面に真っ赤な血が滲んだ。

 人の皮を被った悪魔でも、血は赤いのだなと、そう、他人事のように思っていた。

 

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シアハニー・ランデヴ ジャック(JTW) @JackTheWriter

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