シアハニー・トラジェディ(前編)

 ※直接的ではありませんが、性暴力や虐待などを示唆する描写がございます。ご注意ください。(作者)


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 シアハニー市の〝地獄〟、ロザー・シェレフ地区。

 雑多で汚穢おわいな看板や張り紙が道路の壁に張り巡らされている。垂れ下がった電線と違法建築が立ち並ぶ汚れた路地の片隅で、アネモネとデュランの影は重なっていた。

 ふたりは顔を寄せ合い、お互いに目を閉じてキスをした。互いの唇を少し重ね合わせるだけの幼い口づけ。

 デュランが吐息をこぼして彼女の輪郭を右手の指でなぞり、唇の中に舌を入れようとすると、アネモネは赤面して唇を離した。

 細腕で彼の胸板を両手で押して離れ、彼女は顔を背ける。


「やだ……、そういうの、まだ、恥ずかしい」

「キスくらい、いい加減慣れろよ。今まで、何度もしてきてるだろ」

「慣れないわ! だって、カルラが見てる……」


 アネモネは顔を赤くしながらちらりと護衛ガードの女性を横目で見た。アネモネの護衛として付かず離れず顔色も変えずにそばにいる彼女の名はカルラといった。

 デュランも最初こそ彼女の視線が気になったが、今はもう何も気にならない。プロ意識を持つ彼女は出歯亀でばがめをすることなく気配を消して護衛に徹し、アネモネとデュランの関係に口を出してこない。護衛がいるからこそアネモネの安全が保たれているのであって、専門の訓練を受けた護衛を遠ざけることは損にしかならない。

 唇についた淡い色のルージュを親指で拭いながら彼は笑った。


だから、仕方ねえだろ。おれは慣れた」

「ばか! デュランのばか!」


 アネモネは耳まで赤くして、両手の拳を握りしめ、そっぽを向いてしまった。しかしこれは本気で怒っているのではない。デュランはアネモネのそういう初心うぶなところが好きだった。

 デュランは薄く笑ったまま、アネモネの背と、綺麗な彼女の赤毛が風に揺れるのを目を細めて見つめていた。

 

 デュランがアネモネの告白を受け入れてから半年が経っていた。

 〝地獄ヘル〟の街並みは〝地獄〟のまま、汚濁と混沌に満ちている。それでもなお、アネモネだけは、きれいだった。


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 しばらくそっぽを向いていたアネモネは、時間の経過とともに機嫌を直して、デュランの腕の中に戻ってきた。

 彼女は、デュランの胸板に頭を押し付けるように預けて、軽く抱きついてくる。

 

「……デュランがちょっといじわるなのは、今に始まったことじゃないもん。そんなことでだいじな時間を無駄にするの、やめたわ」


 デュランは謝る代わりに手を伸ばして、かすり傷一つ無くきめの細かいアネモネの頬を優しく指の腹で撫でる。流れるように後頭部に手を伸ばし、つやつやに手入れされた綺麗な赤毛を、指で梳く。


 良質な香油の匂いがする。アネモネは最近、花の香りを好むようになって、いつも淡く甘い匂いを漂わせていた。アネモネは、デュランの指の感触を感じながら目を細めている。

 子どもっぽくキスしている瞬間よりも、彼女の体温と香りを感じられるこの時間が、デュランは好きだった。

 左腕で彼女を抱き寄せると、アネモネはデュランを両腕でぎゅっと抱きしめて、胸板に耳を押し付ける。

  

「わたし、デュランの心臓の音が好き。とくん、とくんって動いて……生きてる感じがするから……」

「心臓なんて、誰にでもあんだろ」 

「デュランの心臓は特別よ。大好きな人の音だもん」


 アネモネは、デュランの心音を聴きながら微笑を浮かべる。頭も胸板に預けて、唇を綻ばせて語りだす。


「ねえ、デュラン。わたしたち、大人になったら結婚しましょうね。小さな家で一緒に住むの。こぢんまりとしているけれど、ちゃんとしたお庭があって。季節ごとに、綺麗な花を植えようと思うの。デュランはどんな花が好き? デュランのお母様も、喜んでくださるかしら」


 デュランは肯定も否定もせず、ただ薄く微笑んで、彼女の輪郭を慈しむように指の腹で撫でる。アネモネはくすぐったそうに笑った。

 アネモネが語る『小さな家』というのは、デュランが空想することすらないほど美しい住まいなのだろう。綺麗な花や庭という概念も、デュランには想像がつかない。スラムにそんな価値あるものがあれば、根こそぎ掘り返されて売り飛ばされてしまう。


 あまりに儚く美しい幻想ゆめの中に、デュランだけでなく、デュランの母まで組み込まれていることが、可笑おかしいやら微笑ましいやらで、思わず声に出して笑みをこぼしてしまう。そのせいで、アネモネは頬を膨らませて拗ねてしまった。


「デュラン。どうして笑うの? わたし、真剣なのよ」

「……ごめん。悪かった」

「わたしと結婚するの、イヤ?」

「イヤじゃない」


 デュランは、金色の瞳を細めてじっとアネモネを見遣る。アネモネも、青く美しい瞳で見つめ返した。審議の末に、彼の言葉が嘘ではないとわかったらしく、アネモネは、にこっと笑った。彼女の笑顔は見ていて心地が良く、デュランも釣られて微笑む。

 

「わたしたち、大人になったら、結婚しましょうね」

「じゃあ……〝指切り〟するか?」


 デュランが問うと、アネモネはこくこくと何度もうなずき、幸せそうに笑う。

 〝指切り〟とは、デュランの母の故郷で交わされているという約束。呪文を交わしながら互いの小指を絡め合う誓いの儀式だった。

 付き合い始めてから少しした頃、デュランが雑談ついでに戯れで話したところ、アネモネがそれをいたく気に入ったのだ。それからふたりは大事な約束を交わすたびに〝指切り〟をしていた。


 とわかっていながら、それでもデュランは右手の小指を立てた。アネモネも笑ってそれに応じて、白く可愛らしい小指を立てる。そしてふたりは、ゆっくりと小指を絡め合う。 


「指切りげんまん。嘘ついたら針千本飲ます、指切った……」


 アネモネの可憐な唇が、空恐ろしくもある約束の言葉を紡ぐ。デュランの母の故郷では、昔本当に針を千本飲ませたり、指を切ったりしたそうだ。指はともかく、針千本など飲ませたら死ぬと思うが、まあ、そういうことだろう。と。


「怖くねえのか。『嘘ついたら針千本飲ます』なんて……」


 その言葉に、アネモネは得意げに胸を張る。彼女は親愛に満ちた眼差しでデュランを見る。アネモネが心の底からこの約束が果たされると信じていることが伺えた。

 

「怖くないわ。わたし、嘘はつかないから大丈夫」

「本当にそうか?」

「デュランはすぐバレる嘘つきだから、気をつけないと」

「うるせえ」


 視線を交わして笑い合う。日が落ちるまでのほんのわずかの間、ふたりは寄り添い、抱きしめ合って過ごした。互いの体温を、互いの記憶に刻み込むように。


 いつか、嘘つきとして処断されて、死んでもいい。指を切り落とされたって良い。

 だから今は、もう少しだけ、あと少しだけ、この時間を味わわせてほしい。デュランにとっての甘露ペインキラーを。


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 デュランがねぐらに戻ると、珍しくデュランの母がボロい壁にもたれて上体を起こしていた。微かに子守唄を囁きながら、赤ん坊のような大きさの丸めた布を抱きしめて微かに揺すっている。


「いいこ、いいこ、あたしのいいこ……かわいいこ……」 


 壊れた窓から僅かに覗く月明かりに照らされたその姿に、一瞬だけ、美しかった頃の母の面影が重なった。

 デュランは、しばらくそのかすれた歌を聴いていた。デュランの母は、最近、丸めた布の塊を赤子の頃のデュランだと思い込んで過ごすようになっていた。子守唄を歌っている間は、奇声を上げたり喚いたりしないので、デュランも彼女をそっとしている。


「……とおい、よるの、はての、ちいさな、はとば……」


 デュランの母は、ぼろぼろの布を愛おしそうに両手で撫でて、哀れなほど小さな声で歌う。デュランは、その布の塊が、彼がまだ幼い頃に使っていたシーツの成れの果てだと気づいて、喉の奥が詰まる思いになった。


「うねる、うみの、なかで、ひかる、よるのつき……」


 デュランの母は精神を病んでから、彼女の中だけの世界や時系列で生きている。今は、デュランを産んだ直後、まだ彼女が健康だった頃の時間を過ごしているのだ。幸せそうにハミングを混ぜて、ゆっくりと歌を唱えていた。デュラン自身の記憶の奥底にもある子守唄ララバイを。


「……にんぎょは、あわに、なりはてて……」


 弱った体で布の塊を揺すっているうちに、デュランの母の腕から転がり落ちそうになり、彼女はか細い悲鳴を上げた。デュランは咄嗟にその〝赤子ベイビー〟を支え、そっと母の腕の中に戻してやった。


「さわらないで! あたしのあかちゃん!」

 

 しかしデュランが〝赤子〟に触れたことが許せなかったのか、デュランの母は、狂乱して金切り声をあげた。デュランの右手を強い力で平手打ちし、〝赤子〟を守るように抱きしめて後ずさった。


 じんじんと痛む手を後ろに引きながら、デュランも狭い一室の中で可能な限り距離を取る。部屋の隅まで離れたあとでさえも、暗闇でも爛々と光る彼女の金色の瞳が、殺気を孕んでデュランを睨む。

 しかし、焦点が合っていない。彼女は現実いまていない。


「おふくろ……」

 

 子を守る母猫のように、彼女はデュランを睨む。デュランは、彼女にとって、彼女とその〝赤子〟を脅かす敵だと思われてしまった。

 彼女の腕に抱かれた〝赤子〟を捉えてデュランはわずかに目を細めた。かつてはデュランこそが、その腕の中にいたのに、今はしわくちゃの汚れた布切れに取って代わられている。


「触らないよ、おれはあんたの敵じゃない。おれは、あんたの……」


 デュランは、静かに語りかけようとするが、今の彼女にとって自分が一体何なのか分からずに言葉を続けられなくなった。やがてふたりの間には緊張感のある沈黙が降りて、膠着状態が訪れた。デュランは、母と距離を取りながら、静かに語りかける。


「続き、歌ってやってくれよ。あんたの〝子〟なんだろう、それ……」


 デュランはそうつぶやき、精一杯の柔らかい微笑みを向けてやった。この笑い方は、アネモネと接しているうちに身に着けたものだ。対面している相手を安心させるためだけの笑い方。

 

 デュランの母は、微笑みに反応して大きく目を見開くと、唇を綻ばせて名前を呼んだ。決して、デュランのものではない呼び名を。


「……■■■さん?」


 デュランは思わず力を込めて歯を食いしばる。奥歯が軋んだ。

 デュランの面差しはほとんど母から受け継いだものだが、母に似ていない部分もわずかにあった。それが誰に由来したものか、考えなくてもわかった。デュランは、自分の身に流れている半分を削ぎ落としたい気分に駆られることがある。今がその時だった。


 何度も男の名をつぶやいているうちに、彼女の記憶はさらに過去へ遡り、かつての輝かしい愛を追想し始めたようだ。愛おしむように、男の名前を囁いた。デュランの母と身籠った赤子を捨てた、デュランと母が困窮する原因を作った、この世で最も憎らしい男の名を。

 幸せそうな笑顔を浮かべながら。


「んふふ……■■■さん……あたしね……あかちゃんができたのよ。■■■さんとあたしの、あかちゃん……」


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「――デュラン? デュラン、大丈夫……?」


 パン屋、グレーテルのかまどでの店番を終えたデュランは、いつもの路地の隅に座り込み、一瞬意識を飛ばしていた。今日の客は多くて、しかも厄介な迷惑客の応対に追われていた。ようやく追い返して、今日の仕事が終わったところだった。疲労が蓄積して、睡魔に襲われていたらしい。こんなところで無防備に寝ていれば、拐われて内臓を根こそぎ売り飛ばされた挙げ句に苦しんで死ぬところだった。

 アネモネが、心配そうに覗き込んできている。


「……助かった。ありがとな」


 デュランはそう告げて、自分の両頬を叩く。そうしていないと、睡魔に負けてしまいそうだった。そんなデュランを気遣うように、アネモネはそっと彼の背を撫でる。アネモネの手は、あたたかい。しばらくデュランは、何も喋らずに目を瞑り、彼女の指のやさしさを感じていた。

 やがてアネモネは憶せずに汚い路地の階段に座ると、自らの膝をとんとんと叩いて示した。デュランが反応できずにいると、アネモネは優しく手招きする。


「デュラン。ここきて。膝枕してあげる」

「……こんなところで寝てたら、何が起こるかわからねえだろ」

「大丈夫。カルラが見ててくれるわ」


 デュランがちらりと護衛の女性に目をやると、彼女はいつも通り冷静な眼差しで周囲を確認していた。この半年で、デュランは彼女の戦いぶりをみたこともある。彼女に任せておけば、アネモネのそばにいる間くらいは、アネモネのついでに護衛してくれるだろう。

 

 デュランは、ゆっくりとアネモネの膝に頭を乗せた。柔らかかった。どんな高級な宿屋の寝具もかなわないだろうというほどに。デュランは、しばらく膝の感触や体温を楽しんでいたかったが、ほどなく強烈な睡魔がやってきた。うとうとと瞼を閉じて、眠りに落ちた。


「おやすみ、デュラン」

 

 眠りの世界に誘われる刹那、アネモネの優しい声がした。彼女の柔らかい手が、そっとデュランの髪を撫でてくれる。幸せだった。ずっと、ずっと、こうしていられたら、他には何もいらない。

 デュランは、夢の中でもアネモネに抱きしめられていた。


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 心地よい眠りの後、デュランが目を覚ますと、陽がほとんど落ちていた。太陽の位置から察するに、凡そ一時間ほど眠っていたらしい。デュランが目覚めたことに気づいたアネモネは、愛おしそうに微笑んで、目を細めて穏やかに見つめてくれていた。


「おはよう、デュラン。よく眠れた?」

  

 深い青空のような眼差しと優しい表情があまりにもきれいで、彼は、一瞬自分がいる場所が〝天国〟かと錯覚した。 

 デュランが短く頷くと、彼女はほんのわずかだけいたずらっぽく笑って、人差し指で軽くデュランの頰をつついた。その仕草すらも愛らしく、アネモネの魅力を引き立てていた。


「デュランの寝顔、かわいかった」 

「……うるせえ」


 アネモネに頰をつつかれながら、デュランの声には覇気も勢いもない。なにせ、寝起きに見たアネモネの笑顔に骨抜きにされかかっている男だ。デュランはなけなしのプライドを取り戻すべく、身を起こして姿勢を立て直し、路地の階段に座り直した。そして、主導権を握るべく口を開く。


「……キスしていいか」


 しかし、デュランの口から出たのは、情けなく愛を乞う声だった。彼女から嫌われたくないという保身から出た、赦しを乞う言葉。

 思った以上に、デュランはとっくにアネモネの虜にされていた。アネモネは、恥ずかしそうにはにかみながらも頷く。


「愛してるわ、デュラン」


 彼女の唇が触れる。柔らかく、花の香りがする少女の唇を、デュランは目を閉じて感じていた。

 どうか嫌わないで。どうか離れないで。どうか捨てないで。

 そうみっともなく縋りついた者の末路がどうなるか、誰よりもよくわかっているのに、デュランはアネモネのことを愛してしまっていた。


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 デュランの母は暴れ狂っていた。言葉にならない奇声を発しながら、手近な物を投げつけてデュランを傷つけようとする。弱った病人の投擲力などたかが知れていて、当たったところでさほど痛くはないが、金切り声が耳をつんざく。


「あなた、あたし以外に女ができたんでしょう。香水の匂いがする……」


 ガリガリと爪を噛みながら、デュランの母は涙をこぼす。〝赤子〟だったはずの布切れは引き裂かれずたずたになっており、彼女の中の時系列がまた変わってしまったことを示唆している。一通り叫び終わった後、彼女は肩を震わせて泣いていて、嗚咽を漏らした。

 

「……なんでもする、なんでもするから、いなくならないで……あたしを愛して……」


 哀れな女のすすり泣く声が響く。粗末な寝床に伏せたまま、項垂れて愛を乞う。どうやら今は、破局寸前の時系列らしい。男に捨てられる間際の愁嘆場しゅうたんばの再現だ。

 彼女が愛した男との蜜月は、きっとデュランの母にとって最も幸せな時間だった。何もかも全て委ねてしまっても構わないと思うほどに虜にされていた。

 その結果、彼女は完膚なきまでに破滅した。

 手の中にあったものを全て失って、頼みの綱の美貌すら失くし、冷え切った壊れかけの集合住宅で涙をこぼす羽目になる。


 デュランの母は高級娼婦だった。上流階級の接待も行う、頭の回転が悪くてはできやしない仕事。

 

 だから本当は、愛した詐欺師おとこがデュランの母を利用しているだけだと心の何処かで気がついていたのではないかと思う。

 母は、迫りくる破滅に気づいていながら、それでも自分から手を離せなかったのではないか。


「……おれはあんたに似たんだ、おふくろ」


 デュランが手を開いて近づけると、母が小さい悲鳴を上げて身を竦ませた。デュランが母に手を上げたことは一度もない。それなのに、彼女は手を目線より高く上げると怯える。デュランの〝半分〟か。それとも、彼女の両親か。それともまた別の誰かだろうか。

 誰であったとしても、母を傷つけるだけ傷つけて、そのツケを払うこともなく、のうのうと生きているのだろう。


 かつて美貌一つで世渡りをしたといっても、決して彼女は強くはない。虐げられ、搾取され、怯えるただの女だ。

 ほんの一時、どれだけ輝いて見えようとも、その本質を拭い去ることができないまま、彼女は成れの果てになった今も震えて怯えている。


「……おれは、捨てる方じゃない。だよ。あんたと同じ。だから……」


 デュランは母のギザギザになった爪に触れて、慈しむように指の腹で撫でた。母は一瞬虚を突かれたように固まったが、デュランの手をはねのけることはしなかった。


「おれは、あんたのそばにいるよ……あんたが死ぬまで……」


 たとえ今は、壁を引っ掻くだけのボロボロの爪と皮膚に成り果てていても、それは昔、デュランの頭を優しく撫でてくれた指だった。

 誰よりも美しく生まれついた女が、になるまでの、母の痛みを想った。小さく縮こまる母の悲しみを想った。こんな狭くて汚い部屋に押し込められるしか無くなった母の人生を想った。


「……とおい、……よるの、はての、ちいさな、はとば……うねる、うみの、なかで、ひかる……よるのつき……にんぎょは……あわになりはてて……」


 母のまばらになった髪を撫で、静かな声で子守唄ララバイを歌ってやった。彼女が寝付くまで、ずっと。 

 

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 ある日、デュランはパン屋の店番を終えて、いつもの路地でアネモネを待っていた。白く見える服を着た女性を見ると、つい目で追ってしまう。誰も彼も、可憐なアネモネとは比べるべくもないのに。

 アネモネが立っている場所は、そこが何処であろうと輝いて見える。アネモネの笑顔があれば、どんな苦しさでも屈辱でも汚辱でも飲み込んで生きていける。

 一週間に一度だけ、アネモネのそばにいることが許されているデュランも、少しだけマシな人間になれたような錯覚ができる。


「……とおい……よるの……はての……」


 アネモネにも聴かせてやろうとして練習していた子守唄のフレーズを、デュランは機嫌よく口ずさんだ。


「ちいさな……はとば……」


 アネモネは、『はとば』を見たことがあるのだろうか。ずっと狭く汚い〝地獄〟暮らしをしているデュランは、海を知らない。『はとば』も当然、見たことがない。いつか――いつか、アネモネと共に、海を見に行きたい。そして、二人で『はとば』を見て笑い合うのだ。

 いつしかデュランは、アネモネと過ごす時間が当たり前にあるものだと思い始めていた。二人の関係にいつか終わりが来るのだとしても、それは今ではない。もっと先のことだ。そう、思っていた。


 待ち人を探すデュランの前に、見知った人影が現れる。デュランは笑顔を浮かべて声をかけようとしたが、そこにはアネモネはいない。いるのは護衛の女性カルラだけだった。彼女は黒いスーツに身を包んで、デュランに近づいてくる。

 護衛の彼女とはほとんど会話したことがないとはいえ、半年の付き合いになる。〝天国〟勤めの護衛が、貧しいデュランを狙う意味も理由もない。そのため、護衛のカルラに対する警戒心はほぼなかった。デュランは、彼女に気さくに声を掛ける。


「おう。今日はあんただけなのか。アネモネは? 風邪でも引いたのか?」 

「お嬢様は、お元気です」

「ならなんでいねえんだよ」

「……」


 カルラは一瞬沈黙すると、懐から封筒を取り出した。

 

「雇い主……アネモネお嬢様のご両親からこちらを渡すように、言付かっております」

「なんだこれ」


 デュランは封筒を破り取り、中の物を見る。封筒はかなりの厚みがあり、何かの紙が複数入っていることを伺わせた。何かの手紙かもしれないとデュランは思った。だが、文字を独学で学んでおり、知識が不十分なデュランには読めない部分がある可能性がある。最悪、分からない部分があれば護衛のカルラに読ませればいいかと思いつつ、取り出してみると、その中身は予想外のものだった。

 

「は……?」 


 それは、デュランが見たこともないほど大きな桁の、ぎっしりと詰まった札束だった。デュランがパン屋の店番で稼げる額など比較にならない。これだけあれば、〝天国〟への移住は叶わなくとも、もっとマシな住処に移動することができる。母の身体的な病の治療すらも叶うだろう。

 しかしデュランは、何の理由もなく金を受け取るような不用心な真似ができる性分でもなかった。警戒心を高めて目を細め、護衛のカルラを睨んだ。


「……何が目的だ? まさかおれの内臓を売れってんじゃねえよな」

「臓器は必要ありません。これは、口止め料であり、手切れ金です」 


 息を呑んだ。

 呼吸が、上手くできない。デュランは無学なスラムの子どもだが、ぶつけられた言葉の意味を理解できないほど愚かではない。しかし心がそれを飲み込むのを拒否して、デュランに呆然と呟かせた。


「……手切れ金……だと?」 

「お嬢様は、来月から名門校に入学なさいます。〝天国〟のなかでも最もセキュリティが高く、外から入ることも、中から出ることもできない、〝楽園〟のような場所です」

「……そんな場所、まるで、監獄じゃねえか」

「〝鳥籠バードケージ〟と述べたほうが適切かと。お嬢様は、〝地獄〟では生きられません。それは、あなたも分かっておられるでしょう」


 デュランは何の言葉も吐けずに唇を噛んだ。現状、病床の母とともに辛うじて食っていくだけで精一杯の痩せこけたスラムのガキに、無力でか弱いアネモネを養い守る力はない。デュランが〝客〟を取ったとしても、稼げる金額などたかが知れていて、アネモネが病に倒れた時、彼女を助ける術は、なくなってしまう。


「お嬢様は、泣いておられました。あなたに会いたいと、ずっと」

「アネモネ……」

「しかし、あなたとお嬢様の関係は誰も幸せにしません。あなたとお嬢様、当事者ふたりだけでなく、更に多くの人を不幸にしてしまう」

「…………」


 彼の脳裏に、恋で身を持ち崩した哀れな女の姿が過ぎる。

 もし――もし、アネモネが、母と同じ目に遭ったら……?

 病を得て、貧困に苦しみ、世の中すべてを恨んで、汚い部屋の隅で呪いの言葉を吐くようになってしまったら。

 

 デュランが〝地獄〟にひきずりこんだせいで、あの綺麗な青い瞳が濁って腐ってしまったら。

 この世界にきれいなものは何一つなくなってしまう。

 何より、何より、アネモネを、この世でたった一つのデュランの宝物を、そんな苦しい目に遭わせたいわけがなかった。

 彼女が笑っていてくれるから、デュランは辛うじてこんな腐った世の中でも生きようと思えているのに。

 

「あなたは聡い。そのお金をどう使うべきかわかっているはずです。それだけあれば、あなただけではなく、あなたの母君ははぎみの人生も、立て直すことができる」


 デュランの眉が、ぴくりと動いた。

 あの、哀れな母の人生を、立て直すことができる……?

 いつも惨めに泣いて、世の中全てを恨んでいる母。彼女を、再び昔のように笑わせることができるのだとしたら……?


 そんな手段があるのだとしたら、迷うことなどない。

 そのはずなのに、体も指も、動かせない。

 デュランの心中を察したように、カルラは問いかけた。


「――お嬢様に、何か伝えたいことはありますか」


 これは最後通牒だと、明確に語られなくてもわかった。この言葉にデュランが頷き、言付けをすれば、手切れ金と引き換えに、アネモネとの縁を切ることに了承したことになる。

 荒く呼吸をする。抑えきれない吐き気がした。デュランは手を口で押さえるが間に合わず、胃の中のものを全て路上に吐いて、吐いて、吐き尽くした。

 光のないデュランの人生に、たったひとつ、たったひとり、得難く眩しいうつくしい少女。それを奪われて、正気ではいられなかった。詐欺師に捨てられた母も、きっとこんな気持ちだったのだろうか。

 心做しか哀れむような眼差しで、護衛のカルラが告げる。


「……これは、護衛としてではなく、個人としての言葉です。あなたの人生は、ここで終わりではない。どんなことがあっても、生きていかなくてはいけない。だから……どんなに理不尽であっても、悔いが残らない方を、選ぶしかないのです」

 

 静かに涙が零れ落ちた。大きな声は出なかった。

 叫ぶことはできなかった。

 デュランは、うるさいのが嫌いだ。

 それが自分の泣き声であっても。


 デュランは、必死に正気をかき集めて、奥歯を噛み締めながら顔を上げ、呼吸の合間に言葉を告げた。


「……アネモネに……伝えてくれ」

「承ります」

「『おれは』」


 護衛のカルラは、耳を傾けていた。


「『』……」


 護衛のカルラは、ほんのわずかだけ目を見開いていた。そんなことはデュランにはどうでもよかった。

 耳鳴りがする。頭が割れそうに痛い。吐き気も止まらない。

 それでも伝えるべきことが何なのか、デュランにはわかってしまっている。何を言わなければならないのか。アネモネのために。


 デュランの脳裏には、愛おしいアネモネの笑顔が浮かんでいた。彼女に出会ってからいつも世界が鮮やかだった。どんなに不条理で、どんなに苦しくてどんなに辛くて惨めでも、殴られても犯されても這いつくばって床を舐め許しを乞わなくてはならなくても、金曜日にアネモネに会えることを思えば何もかも耐えられた。

 アネモネの笑顔と、優しい手の温もりを感じていられる幸せがあれば、どんな苦界でも生き抜けると思っていた。


 でももう、二度と、彼女には会えない。

 アネモネの手に触れることすらも、叶わない。

 あのうつくしい笑顔を間近で見て、ひとり占めする時間は、もう。

 

「『お前のことが、ずっと、ずっと』……」


 デュランの瞳からは、止め処無く涙がこぼれていた。

 とめようにも、とめられなかった。


「『ずっと』……『嫌いだった』……」


 路地に、涙の粒がこぼれ落ち、染みを作った。

 デュランの母が愛した男。奴が最後に残した言葉は、『離れていても、ずっと愛しているよ』だったという。あの憎らしい男は、最後の最後まで、偽りの愛を囁いて身勝手に行方をくらました。

 母は、詐欺師からの愛を信じようとしたまま待ち続けた。少しずつ少しずつ歪んで狂ってゆき、やがて見る影もなく壊れてしまった。


 だから。

 だから……。

 デュランのことなど、忘れてしまっていい。

 手切れ金目当てに縁を切った、嘘つきの裏切り者となじってくれていい。デュランを恨むなら、いっそ、本当に針千本飲ませて、殺してくれ。


 だから、どうか。

 アネモネだけは、幸せに生きて欲しい。


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 デュランの嘘や誤魔化しは、いつも彼女に見抜かれる。

 しかし、今回の言付けは、護衛を通して伝えられる。

 護衛の冷徹な口から告げられる伝言ならば、そこに嘘偽りが介在する余地はない。

 涙をこぼすデュランの姿を見ながら、護衛のカルラは静かに尋ねた。

 

「本当に良いのですか」

「いい……わかってる……」

「本当に、このままお伝えしますが」 

「いいって言ってんだろ!」


 デュランは荒く呼吸をしながら強く叫んだ。涙も鼻水も垂れ流して、みっともなく怒鳴ってしゃがみこみ、ほとんど言葉にならなかった。汚れた路地に似合いのその惨めったらしい姿が、哀れな母に似ていることも、理解していた。

 それでも何もかも止めることができなかった。

 こうなることは最初からわかっていた。 

 それでも、求めずにはいられなかった。

 

 生まれて初めて真摯な愛を告げてくれたアネモネの笑顔が、あまりにもうつくしくて。 


 だから、勘違いしてしまった。

 いつか本当に、アネモネと一緒に暮らせるんじゃないかと。

 きれいな家で、彼女と、母とともに……。

 

 

 それだけのことだ。

 それだけのことなのに。


「承知いたしました。それでは、……どうか、お元気で」

 

 デュランは、去っていく護衛の後ろ姿を呆然と見ていた。足音が路地に響き、やがて、聞こえなくなる。

 

 白いワンピースの少女はもういない。


 夕焼けが照らす中、アネモネの赤毛の色を思い出す。

 風に揺れる三つ編み。清潔な白いワンピースに身を包んだ、誰よりも可愛い笑顔の少女がこちらに笑いかける。記憶の中のアネモネは、鮮やかで、眩しくて、愛おしくて、何よりも大切だった。


 もう二度と、もう二度と、あの笑顔を見られなくなるのならば。

 もう一度だけ、抱きしめればよかった。


 デュランは涙を抑えられないまま、アネモネからもらった最後の飴を口に入れた。何も味がしなかった。いつもはこれより美味いものは何も無いと思うほどに好きな味なのに、なにも。


 デュランはふらふらと歩きながら、ねぐらに戻っていく。

 痩せこけて病で衰えた母のために。

 

 美しい夢はもう見終わった。これからは現実を見つめて生きなくてはいけない。病床の母とともに。この〝地獄ヘル〟での生を。


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