シアハニー・ボーイミーツガール(後編)
※ヤングケアラー、介護の要素を含んだ描写があります。ご注意ください。(作者)
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シアハニー市のロザー・シェレフ地区、シアハニー大通りに近いパン屋。パン屋の店名はグレーテルのかまど。名物は魔女煮込みのポットパイ。
パン屋がある区画は〝
焼き立てのパンの香りが漂う店内で、店番の少年デュランはうんざりとした表情で頬杖をついた。
「……お前、また来たのかよ」
「えへへ」
赤毛の三つ編みを下げた少女、アネモネが、気の抜けた笑みを浮かべている。
彼女は度々〝
迷子になった日からほどなく、呑気なツラを下げて訪ねてきた時は、開いた口が塞がらない思いになった。いくらなんでも警戒心が薄すぎると、デュランがアネモネを叱る真似をする羽目になったほどだ。
しかし呑気すぎる娘を持つアネモネの親も対策しなかったわけではないらしく、アネモネに
アネモネの護衛は細身で理知的な女性で、アネモネの様子を確認しつつ周囲の警戒を行っている。護衛はふたりの会話に介入してくる素振りはない。まるで背景のように、周囲に溶け込んでいる。それでいて、近づいて来ようとする怪しい人間を事前に牽制している。
この護衛がどこ出身なのかはわからないが、少なくとも〝
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いつもの店番が終わったあと、デュランとアネモネは、短い時間だけ、他愛のない会話をして過ごした。デュランは路地の階段に座り込んで頰に手を当て、すっかり癖になった悪態をつく。
「お前、わざわざおれのところに来るなんて、馬鹿だな。〝天国〟に友達いねえのかよ」
デュランは片方の唇を吊り上げていたずらっぽく笑う。
彼のからかうようなその言葉にむきになって、アネモネは頬を膨らませつつ叫んだ。
「いるもん! でも、デュランが一番仲良しのお友達だから!」
デュランは、彼女の言葉を聞いて嫌な思いにはならなかった。それでもつい、皮肉めいた言葉を返してしまう。〝天国〟育ちのまっさらな女の子を、そうしたくないのにからかってしまうのは、デュランも自覚している悪い癖だった。
「……おれみたいな地獄育ちのガキが、『お友達』ねえ」
その言葉を聞いたアネモネは、唇を少し曲げて、控えめに言葉を口にした。
「ねえデュラン……、わたし、その、〝
「……『同じ』じゃねえよ。何もかも。そもそもおれは、
デュランの母は、シアハニーの外から流れ着いた不法移民だった。かつて、蝶よ花よと愛された傾国の美女。娼婦を実質的に引退してなお、ありふれた本名よりも、派手な源氏名のほうが知れ渡っている女だ。
生まれ持った美貌一つで世渡りをし高級娼婦にまで成り上がった。しかしシアハニーの〝
デュランは本名も知らぬ
母は、自らの生活が苦しくなるとわかっていながらデュランを産んだ。彼女のその決定と葛藤に何が介在したのか、今のデュランに知るすべはない。
「…………えっ、あっ、そ、そうなの!?」
アネモネは、驚いたように口を押さえる。彼女にとって、『市民ではないのにシアハニーで生きている人間』というのは理解の
「……どうにか……ならないのかな。デュラン、賢いし、頭良さそうだから、学校にとか……」
「『学校』なんぞに行ってる間、おふくろの面倒は誰が見んだよ。食うや食わずの生活してんだ。未来のことなんかより、今のことだ。今日食うもんも足りねえんだぞ」
デュランは、いつものようにちょろまかした廃棄品の硬いパンを齧りながら告げた。ただでさえシアハニー市の上流階級にとって、〝地獄〟ロザー・シェレフ地区は文字通りの足手まといだ。
ありとあらゆる援助も支援も打ち切られ、あるのは規制と締付けと差別だけ。薄汚れた〝地獄〟の住民が〝天国〟に立ち入ろうものなら、適当な罪をでっち上げられて臭い飯を食わされる羽目になる。
〝
シアハニーの〝天国〟に住む奴らは本気でそう思っている。
例外は、目の前の少女、アネモネくらいだろう。
スラムではきっと生きていけないほどに美しく澄みきった青い瞳を、デュランはずっと眺めていたいと心の何処かで思っていた。
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夕陽が差し込み、ロザー・シェレフ地区に夕闇が訪れる。デュランは寝床に戻るまでのわずかな休憩時間が終わったことを悟り、息を吐く。これ以上ここに留まっては、デュランの母が渇いて死んでしまう。
立ち去ろうとしたデュランの目の前に、アネモネが飴玉のたくさん入った袋を差し出す。
「ねえ、デュラン。これあげる」
「お」
いつも腹をすかせているデュランのために、アネモネは会いに来るたびに〝天国〟で作られた甘い飴を持ってきていた。デュランは、袋ごと受け取って、包みを開けた。
綺麗な包み紙の中にある、きらきら輝く極上の甘露。夕陽に似た色の包みを開けて、ひと粒だけデュランは味わう。デュランの舌の上で、ゆっくりと飴が溶けていく。
たった一つ、デュランが食べているのは好物の林檎味。
他の飴は、弱っているデュランの母に与えるために取っておく。
甘い飴を味わう時、ほんの少しだけデュランの表情は年相応に緩む。その表情が見たくて、アネモネは飴を持ってきている。彼女は自分は飴を食べずに、デュランの横顔をにこにこしながら見守っている。
「悪ぃな。助かる。ありがとう」
「ううん。わたし、デュランに助けてもらったから。せめてものお礼。受け取って」
デュランは、アネモネの前で少しだけ笑顔を浮かべた。デュランにとって笑顔というものは、牽制や交渉の為に作るものだった。
或いは、圧倒的に強い相手にへつらい媚びるためのもの。優しくしてくださいと頼みながら。
しかし、アネモネという少女の前では、そのどれでもない自然な笑みが浮かんでしまう。彼女の前だと気が緩んでしまうのを、デュラン自身も感じていた。
これは危険な兆候だった。〝地獄〟での暮らしでは、一瞬たりとも気を抜いてはいけない。暴行、殺人、誘拐、危険な薬物までが蔓延している地帯だ。簡単に殺されて、路地裏の汚れになってしまう。
デュランが働いているパン屋の気弱そうに見える店主でさえも、
暴力と恐喝、搾取は、〝地獄〟の全てに染み付いている。弱いものを虐げること、それが食うのに手っ取り早いから。
まだ幼く弱いデュランにとって、油断して良い相手など、〝地獄〟のどこにも存在しない。
それでも何故か、アネモネと話している間だけは、そんなことを全て忘れて、ただの子どものように笑ってしまっていた。
「ねえ、デュラン。デュランって、好きな人いる?」
「…………いねえけど」
「ふーん、いるんだ……」
〝天国生まれ天国育ち〟の少女、アネモネには、嘘や隠し事を見抜く力がある。綺麗な空のような色をした青い瞳に見つめられていると、何もかも見透かされるような落ち着かない心地になる。これは別に〝天国育ち〟特有の能力というわけではなく、おそらくアネモネ個人の生来の資質だろう。デュランは、彼女に対して嘘を吐き通せたことがない。つまらない嘘や誤魔化しを用いれば、たいていすぐにバレて訂正させられる羽目になる。
対抗策は、沈黙することくらいだった。それでも彼女は、デュランの微妙な仕草や表情からいともたやすく真実を読み取ってしまう。
「ねえ〜。デュランの好きな人って、どんな人〜?」
「そんなやつ、いねえって言ってんだろうが」
「髪の色は金髪? 黒髪? それとももしかして赤毛?」
「っ……赤毛なわけねえだろうが!」
デュランは反射的にむきになって怒り、嘘をついたが、これは間違いなく悪手だった。綺麗な赤毛を三つ編みにした少女であるアネモネの表情がじわじわと染まっていき、耳まで鮮やかな赤になりつつある。
デュランも釣られて顔に血が集まりだしているのを感じた。
長い長い沈黙の果てに、アネモネのきれいな青い瞳に見つめられるのが耐えられなくなって、デュランはふいと顔を逸らした。
「じろじろ見んな」
「ご、ごめんね」
アネモネは、頬を赤くしてうつむいたかと思うと、すぐに顔を上げた。
「……わたしばっかり、デュランに質問してちゃだめよね。デュラン、何かわたしに聞きたいことある?」
「お前の両親は、地……ロザー・シェレフ地区に娘が遊びに来てることについて何か言ってねえのかよ」
アネモネは神妙な顔で記憶を探るように左上を見つめた。
「すごく怒られたし、すごく叱られたわ。でもわたし、どうしても会いたい人がいるからって説得してゴリ押してきたの」
「……お前の両親の困った顔が目に浮かぶよ、マジで」
デュランは少し呆れた顔をしながら肩をすくめた。デュランはアネモネの両親について何も知らないが、アネモネと似て、お人好しなのかもしれないと思った。
アネモネの青い瞳はどちらの親に似たのだろう。そう思いながら見つめていると、アネモネも、その青い瞳でじっとデュランの金色の目を見ている。
二人は、顔を見合わせて吹き出し、笑い合った。
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古ぼけた廃墟にしか見えない集合住宅の片隅、辛うじて雨風がしのげるだけの狭い一室。そこがデュランとその母の住処であった。デュランは、横たわる母親に小さくちぎって水でふやかしたパンを食べさせてやり、口元からだらしなくこぼれたよだれを拭き取ってやった。
「おふくろ」
デュランが声をかけると母親は鬼のような形相でデュランを睨みつける。そして、言葉にならない奇声を上げながら拳を振りかざした。彼は錯乱した母の暴行を慣れた仕草で避けた。
母親はデュランに苛立ちをぶつけられないことに腹を立てたのか、自由になる腕の力で壁を殴り、言葉にならない金切り声を上げて延々と騒いでいる。隣の部屋にも住民がいるはずだが、毎日の騒音に対して諦めたのか抗議の言葉はもはやない。
デュランは痛いのも嫌いだが、うるさいのはもっと嫌いだ。毎日耳をつんざくような
病を得て寝たきりになってから、母親は日を追うごとに精神的にもおかしくなっていった。
「嗚呼、嗚呼、あたしの人生、こんなはずじゃない、こんなはずじゃなかった……」
そう呪いの言葉を吐きながら、惨めに泣いて呻きながら夜な夜な歯をガチガチと打ち鳴らして獣のように睨めつける姿は、まるで山姥のようだ。豊かだった黒髪は抜け落ちたばかりか白髪が混じり、顔は病のせいで爛れて見る影もない。
高級娼婦だったという美しい女の面影は最早ない。暗がりの中でも爛々と光る金色の瞳だけが、デュランと母親の唯一の共通項になってしまっている。
それでもデュランにとっては母親だ。少なくとも病を得るまでは、デュランにとって悪い母親ではなかった。春をひさいででも、幼いデュランを食わせてくれていた。だから。
「おふくろ。飲むだろ、飴」
デュランは、飴を溶かした甘い水を布に含ませて、ゆっくりと母親に吸わせてやった。
そうしている間だけは、母親の
この時間だけは、まるで嘘のように静かだ。
貴重な静寂を噛みしめるように、デュランは目を閉じる。
この瞬間だけが、デュランと母の安息だ。
ほとんど寝床に寝たきりになってしまっている母親にとって、この飴を溶かした甘い水だけが唯一の娯楽で
なあおふくろ、おれを産んでよかったと思っているか?
その言葉を、デュランは口に出せないでいた。
問いかけたとしても、意味がないとわかっているから。
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早々にパンが売り切れてしまったので、グレーテルのかまどは早仕舞いした。デュランは手持ち無沙汰になり、退屈そうに空を眺めていた。違法建築が立ち並ぶロザー・シェレフ地区の街並みからは、どんなに天気が良くとも青空がほとんど見えない。
デュランの数少ない趣味は、空の色を眺めることだった。
デュランは青が一番好きだった。
建物の隙間から見える雲の形、風の流れ方、雲の大きさを見れば、だいたい次の天気がどうなるかは予測がつく。今日は雨が降らないと判断したデュランは、洗濯をするために立ち上がった。
その時、白いワンピースの少女アネモネが現れた。彼女は後ろに護衛を引き連れて、いつもの笑顔を浮かべて大きく手を振る。デュランは小さく手を振り返してそれに応えた。
きらきらと輝く彼女の青い瞳は、温かな親愛と好意に満ちている。それに気づかないデュランではなかったが、それでも気づかないふりをしていた。明確に言葉にしてしまったら、きっとこの関係は壊れる。
〝天国〟のお嬢さんの気まぐれで続いている関係は、同じく彼女の気分一つで崩壊してしまうのだ。その日がそう遠くないことを感じ取りながらも、デュランは彼女のきれいな瞳を一日でも多く眺めていたいと思った。
「デュラン、今日はお仕事終わったの?」
「ああ、まあな」
路地の階段に腰掛けて、わずかばかりの昼の日差しを浴びながら、デュランは事前にくすねておいた落ちた廃棄品のパンをちびちびかじっていた。今日のパンの売れ行きはよく、廃棄品はほとんどでなかった。唯一と言って良いそれを、デュランは拾っておいたのだ。半分だけちぎり取って、それをデュランの分にした。残りはデュランの母に、残してやらなければならなかった。
デュランがパンを取り分けていると、そわそわとしながらアネモネが自分の両手を絡めていた。今日の腹の虫は鳴っていないが、腹をすかせているのだろうか。
「悪いが、今日は分けてやるぶんがねえからな」
「ちが、ちがうの! おなかすいてないもん!」
彼女はむきになりながらも、様子がどこかおかしい。やたら髪型を気にして、スカートのシワがないように身だしなみを過剰に整えようとしている。今日は三つ編みをほどいて、おろしている。普段の三つ編みも悪くないが、雰囲気が変わって良いとも思った。
「何してるんだ」
「緊張してるの! 今日は特別な日なんだから!」
「はあ? なんでもない、ただの金曜日だろ」
「なんでもないことないわ。だって……」
「なんだよ、前置きがなげえな」
顔を赤くした少女は、深呼吸して、息を整える。彼女の姿勢は美しく凛としていた。
まるでカメラの前でスポットライトを浴びる演者のようだと、デュランは思った。
「わたし、あなたのことが好き。初めて会った日から、ずっと」
まるで林檎のように赤らんだ頬。
彼女の美しく整えられた赤毛が、柔らかく吹いた風に揺れた。
二人が立っているのは薄汚れたスラムの片隅だというのに、彼女がいる場所だけは光が差していて、眩しく見えた。アネモネの青く美しい宝石のような瞳は、今はデュランだけを映している。
デュランは、この日の事を一生忘れないでいようと思った。
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シアハニー・トラジェディ(前編)に続く
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