シアハニー・ランデヴ

ジャック(JTW)

シアハニー・ボーイミーツガール(前編)

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 昼は静謐せいひつなビジネス・タウン、夜は歓楽街と摩天楼。

 昼夜で異なる姿を見せる大規模な都市、シアハニー市のロザー・シェレフ地区。俗にスラム地区と呼ばれているそこでデュランは生を受けた。堕ろし方を知らない愚かな娼婦の息子として。

 愚かさ故に男に騙され落ちぶれたものの、元は高級娼婦だったという美貌の母。

 母に似て、彼は整った顔立ちにウェーブがかった艶のある黒髪、鮮やかな月のような金色の瞳をしていた。

 女に生まれていれば、まだ何かと売り物になったかもしれないが、デュランは生憎男だった。そういう趣向の店も無くはないが、女と比べて扱いも実入りも悪いため、デュランがわざわざその仕事を選ぶ理由がなかった。

 

 母子二人の貧しい暮らしだったが、娼婦の母とデュランの仲はさほど悪くなかった。母は、案外子供好きだったらしく、それなりにデュランを可愛がり、飢えることの無い程度には養育した。しかし母がタチの悪い病を得て倒れてからは頼る宛のない母子二人の生活はますます困窮した。

 しかしデュランは要領のいい子供だったので、近所のパン屋で手伝いの職を見つけて食いつないでいた。

 パン屋の店主は昔デュランの母の客だったらしい。パン屋の清楚な奥方にバラすことをチラつかせてやれば、子供にしてはで雇ってもらえた。


 シアハニー市は、中央の大通りで分断されている。実際に塀や遮蔽物があるわけではないが、目に見えないそれが確かに存在している。まるで天国と地獄のように、繋がりながらも分かたれている。

 

 片や〝天国ヘヴン〟アイベリー地区という富裕層のための区画。

 片や〝地獄ヘル〟ロザー・シェレフ地区という貧民街。


 目に見える距離にありながらも、アイベリー地区とロザー・シェレフ地区では――富裕層とスラムの住民との間では――厳格な社会的な隔たりがあり、機会の平等がない。教育や医療などの社会サービスも、富裕層とスラムの住民とで大きな格差がある。


 言ってしまえばデュランは、生まれながらに地獄の住民なのだ。地獄といっても、住み慣れてしまえば悪くはない。デュランは、薄汚れたスラムの子供であるからこそ、したたかに生き延びる逞しさを持っていた。

 手伝い終わりにちょろまかした売れ残りの硬いパンを食い千切りながら、デュランは悪びれずに呟いた。

 

「今日のはまあまあだな」


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 売れ残りのパンを抱えたデュランは、母が住むしみったれた集合住宅に戻ろうとした。不衛生なボロ家だが、最低限雨風は凌げる。

 母にも水で浸して柔らかくしたパンを食わせてやらなければならない。


 ――うわああん! わあああん! うわあああん!

 

 しかし、今にもそのボロ家が軋みを上げるような、子どもの大きな泣き声が響き渡っている。

 デュランが耳を覆いたくなるほど大きなそのわめき声の主である子どもは、よりにもよってデュランと母が住む集合住宅の目の前で――とやかましく泣いている。

 デュランは体調が悪くて寝ている母が起きてしまうと思い、苛立ちながら声を荒げた。


「おい、うるさいぞ。泣き止め」


 泣き声の主は、清楚で白いワンピースを着て、白い帽子を被った女の子だった。彼女は長く伸ばされた赤毛を三つ編みにして束ね、青い目をしている。

 澄んだ青空みたいにきれいな瞳だと、一瞬だけ思った。

 歳の頃はデュランと左程変わらない、十歳にも満たないくらいの小柄な子供。明らかに〝天国ヘヴン育ち〟の良い身なりだ。しかし、せっかくの仕立てのいい上等な服を、どこぞで転んだのか泥だらけにしてしまっている。 

 デュランが怒鳴ったのに怯んだのか、その女の子は、ぴたりと泣きやんだ。デュランとしては、明らかに厄介事を持ってきそうなこの女の子に関わり合いになりたくなく、手っ取り早く追っ払ってしまいたかったのだが、その目論見は外れた。

 彼女は、縋り付くようにデュランの服の裾を掴む。


「た、助けて……。迷子になっちゃったの……」

「知らねえよ」

「連れてって……」

「何処にだよ」


 彼女は、震える声で目的地を口にした。


「大通り……。迷ったら大通りに行きなさいって、ママが……」


 デュランは、チッと舌打ちした。母の看病があるというのに、こんなガキなどわざわざ大通りまで送ってやる義理などなかった。断ろうとした刹那――しかし、ビルの隅から、じっと女の子を見つめる不穏な眼差しを感じた。

 ロザー・シェレフ(スラム)地区は、地獄ヘルと呼ばれるだけはあり、治安が最悪だ。身なりのいい子供が一人でうろついているなんて、誘拐してくださいとアピールしているようなものだった。

 ここでデュランが見捨てれば、彼女は見るも無残な死ぬよりおぞましい目に遭うであろうことは、想像がついた。 

 彼女は、救いの神を見上げるような眼差しで、デュランに縋る。

 彼女のその弱々しい眼差しが、病弱な母の眼差しと重なった。

 デュランはチッと舌打ちをして、「大通りはこっちだ。ついてこい」と言った。


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 デュランの後ろを、おっかなびっくり女の子がついてくる。女の子は、舗装された道しか歩いたことがないのか、路地裏の缶や岩やゴミにいちいち蹴躓けつまずいて危なっかしかった。


「……」


 デュランは、無意識に手を差し出した。歩くのすら覚束無くなった母の歩行を支えるときの癖が、咄嗟に出てしまったのだ。女の子は、差し伸べられた手を見て笑顔を浮かべ、デュランの手を取った。女の子の手は温かく柔らかかった。

 ──傷一つない、働いたことのない手をしていた。


「ありがとう。あなた、お名前は?」

「デュラン」

「わたし、アネモネっていうの。デュラン、よろしくね」


 アネモネは繋いだ手に少し力を込めて、嬉しそうに笑う。気の抜けた、安心しきったその笑顔が癪に障って、デュランは思ってもいない言葉をぶつけた。


「気を許すな。おれが、お前をどこかに売り飛ばそうとしてるやつかもしれないだろ」

「……売り飛ばそうとする人は、わざわざそんなこと言わないわ」

「うるさい。足を動かせ」


 浅はかな脅しを見透かされて、デュランは憎まれ口を叩いた。アネモネの青い瞳の前では、しかしそれも見透かされている気がした。

 大通りまでは遠くないものの、入り組んだ道を歩かなければならない。体力のないアネモネに歩幅を合わせると、あまり速くは歩けない。やがて、アネモネのお腹が小さく音を立てた。アネモネは、デュランが片手に持ったままの売れ残りのパンを、物欲しそうにじーっと見つめた。

 

「やらないぞ。これは、おれとおふくろの分だ」

「……うん。我慢する」


 アネモネは、こくんと頷くと、殊勝に歩き始めた。その間も、アネモネのお腹はくうくうと音を立て続ける。デュランは、その音を聞いていると、無性にいらいらした。

 デュランは舌打ちすると、袋の中から一番マシなパンを取り出して、アネモネの手に押し付ける。


「……おれはうるさいのが嫌いなんだ。これで抑えろ」

「……いいの?」

「取り上げられたくなかったら、さっさと食え」


 アネモネは、慌ててパンに齧り付いた。アネモネのような〝天国育ち〟なら、普段からもっといい柔らかい上質なパンを食い慣れているだろうに、それでもアネモネは文句一つ言わず食べ終えた。


「美味しかった。お腹いっぱいよ。ありがとう、デュラン」

「……腹の虫、もう鳴らすなよ」

「がんばる!」


 アネモネは、真剣にお腹に圧を掛けて、腹の虫が鳴らないように気合を入れているようだった。ちょっと滑稽な彼女の姿を見て、デュランはほんの少し息を漏らすように笑った。


「あ。笑った」

「笑ったら悪いのか」

「デュラン、しかめっ面より、笑った顔のほうが素敵よ」


 アネモネも呼応するように笑顔を浮かべた。〝天国育ち〟の彼女の屈託のない笑顔は、スラム育ちのデュランには少し、眩しかった。

 ぶっきらぼうな少年に手を引かれて、アネモネは歩く。 

 彼が、歩きやすい道を選んで進んでくれていることに、アネモネは気づいていた。


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 やがて、ロザー・シェレフ地区の雑多で込み入った街並みを抜けて、シアハニー大通りの姿が見えてきた。天国と地獄を分断する、残酷なまでに広い道。大通りが見えてきたことで安心したのか、アネモネの足取りが軽くなる。デュランはもう補助はいらないだろうと判断して繋いだ手を離そうとしたが、アネモネがしっかり手を掴んでいるので、振りほどけなかった。


「……おい」

「まだ大通りじゃないわ」

「もう目の前だろ」

「……だって」


 アネモネは、デュランと繋いだ手をぎゅっと握りしめた。


「……この手を離したら、もうお別れになっちゃうんでしょ」

「……」


 デュランは、そこまで見透かされていることに驚いた。アネモネが手を離したら、走って逃げようとしていた。デュランがアネモネを誘拐したなどと、妙な嫌疑を掛けられても困るためだ。

 アネモネは、どうやら人並外れた観察眼があるらしく、デュランが隠した本心やこれからの行動を見透かしたような言動をする。そんな観察眼があるなら迷子にならないように使えと思うのだが、対人専門の観察眼なのかもしれない。


「お別れになって、何が悪い。おれは〝地獄育ち〟、お前は〝天国育ち〟だ。生まれた場所が違うなら、生きていく場所も違うんだよ」

「……」


 アネモネはぐっと唇を噛んで、立ち止まった。


「わたし、おうちに帰るのやめる」

「は?」

「デュランにもう会えなくなっちゃうの、やだ……」

「……は?」


 アネモネは泣きそうな顔で立ち尽くしている。そんな彼女を見て、デュランはどうしたらいいのかわからなくなった。彼は顎で〝天国〟側を示して、指示を出す。


「アイベリー地区は目の前だろ。さっさと行け」

「デュランは、わたしともう会えなくてもいいの!?」

「……さっき会ったばっかのやつに、会うも会わねえもあるかよ。お前の思い入れの強さの方がおかしいぞ」

「……だって……」


 アネモネは、泣きそうな声でうつむいた。アネモネの泣き声の声量のデカさは、先程味わったばかりだ。二度とあんな騒音はごめんだと思ったデュランは、パン屋の袋を一部ちぎって、店名がわかる部分を示してアネモネに渡した。


「おれは、このパン屋で働いてる。用があったら来い」

「……!」


 アネモネは、パン屋の包装紙という紙屑でしかないものを、何よりも大切な宝物のように胸に抱きしめた。


「うん! うん! ありがとう!」


 アネモネは、目を幸せそうに細めて、満面の笑顔を浮かべた。彼女の眼差しには、信頼と親愛、幸福が滲んできれいだった。そんな表情を向けてくる人間を、デュランは生まれて初めて見た。

 彼女の澄んだ青空のように美しい青い瞳が、少年の眼に焼きついた。太陽に焦がれるイカロスのように、この時デュランは彼女に淡い想いを抱きはじめていた。


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