龍の王妃

入江 涼子

第1話

  これは太古の昔の話だ。


 まだ、古代といえる時代に天竺――インドの地にて双子の姉弟が誕生した。産み落としたのはまだ若い女神だ。名をイリーシュナと言った。が、彼女はやっと産まれた我が子を見ても恐怖と罪悪感に苛まれていた。それもそのはずでこの赤子達は実の兄との間にもうけたのだ。産婆役となった女神が双子の姉――半陰陽の子を腕に抱いている。


(……憎しや。インフェン。あの兄め。嫌がるわらわに無理に迫り子まで成すとは。大馬鹿も良いところじゃ)


 イリーシュナは憎々しさを堪えるために唇を噛んだ。血の味がしたが。産婆役の女神達には礼を言わねばならない。


「……よう助けてくださった。わらわも無事に子らを生めた。有難い限りじゃ」


「……イリーシュナ様。姉姫は無事にお生まれになりましたが。弟君はお隠れになりました。お悔やみ申し上げます」


「そうか。確か、ライラ神とおっしゃったか。男の子の方は仕方ないの。姉姫はわらわでは育てられぬ。せめて可愛がってくれる方の元に送ってやってほしいのじゃ」


「わかりました。でしたらチベットという土地に龍神がお住まいになられていたはず。そちらに姉姫を縁組していただきます」


「お願いじゃぞえ」


 イリーシュナはそう言うと姉姫を一瞥した。もう早く離してほしいが。けれどせっかく生まれてきた赤子じゃ。最後に別れくらいは言ってやらねばの。そう思いながらイリーシュナはライラといった女神に声をかけた。


「……その子を抱かせておくれ」


「……はい。では」


 ライラから赤子を受け取る。ふにゃふにゃとした柔らかな頼りなげな感触に腕にかかる確かな重み。あばばといとけなく言う様子に不意に可愛く思えてくる。気がついたら泣きながら笑っていた。


「……吾子よ。すまぬの。わらわが未熟な母で。せめて名くらいはつけようかや」


「……イリーシュナ様」


「そなたは今日からシャンティじゃ。龍神の元に行ったら別の名で呼ばれるじゃろうが」


 イリーシュナはぎこちないながらも腕に抱えながら赤子――シャンティの頭を撫でてやった。泣き笑いの表情のままで。こうしてシャンティは生後間もなくして実母と離れ離れになった。


 シャンティはチベット――チョモランマの麓に住むらしい龍神の元に引き取られた。

 義父となった龍神は彼女にシャンイェンという名を与える。義母も彼女が訳あって引き取られた事を知っていた。

 義父母は赤子であるシャンイェンを蔑む事なく自身の子らと同じように育てた。時には厳しくも優しく接していく中、シャンイェンはすくすくと成長していったのだった。


 彼女は人間でいうと六歳になっていた。傍らには龍神の孫で初代海龍王の息子が遊んでいる。シャンイェンにとっては義理の甥っ子だ。まだ三歳くらいらしいが利発な子でシャンイェンにも懐いている。名をユンイェと言う。実は双子の弟の生まれ変わりだと彼女はわかっていた。


「……おばたま」


「ユン。今日も元気そうだな」


「うん!おとうたまがおばたまにあいさつしなさいっていってたから。それできたの」


 まだ、たどたどしいがにっこりと笑いながら言う甥っ子はかなり可愛らしい。もちろん、他にも兄弟がいるが。ユンイェ以外はちょっと余所余所しかった。それも仕方なかった。自身はもらわれっ子だ。兄弟達が気に入らないと思うのは当然だとシャンイェンは諦めていたのだった。


 そんなシャンイェンの元に義兄である海龍王が妻を伴い、やってきた。


「シャンイェン。久しぶりだな」


「はい。義兄上におかれましてはお久しぶりです」


「……そなたも六歳になったと聞いた。もしよかったら我が息子と婚約をしないか?」


 意外な言葉にシャンイェンは目を見開いた。……婚約か。不意にため息をつく。


「義兄上。私はまだ子供ですよ。婚約者を決めるのは早いように思うのですが」


「まあ。そう言うな。相手はユンイェだ。将来はあれも龍王になる。そなたも晴れて妃になれるのだぞ」


「……私は静かに暮らせたらそれで構いません。ユンイェも私みたいな年上の者は嫌でしょう」


 シャンイェンが言い返すと龍王は苦笑いをする。ちなみに龍王は人の姿をとっていた。側にいる妻も同様だ。


「シャンイェン。すまないがこれは決定事項だ。ユンイェをよろしく頼む」


「仕方ないですね。わかりました」


「では決まりだな。私はこれにて帰る。カーセラ。行くぞ」


「……わかりました。あなた」


「……カーセラ様。義兄上。ご足労いただき、ありがとうございます。お元気で」


「ええ。シャンイェン様も」


 妻のカーセラが頷くと二柱の龍神は本来の姿に戻り上空へと豪風を巻き上げながら飛び去っていく。シャンイェンはそれを見送った。


 あれから、ユンイェが龍王と共に時折遊びに来るようになる。大体、三日に1度くらいは来ていた。今日もユンイェはシャンイェンの傍らで勉学に励む。


「イェン姉様。僕は大きくなったら龍王になると父上から聞きました」


「らしいな。私はお前の許嫁だが。はっきり言って嫌だろう?」


「そんな事はありません。姉様はこんなひ弱な僕でもちゃんと接してくれます。むしろ、姉様の方が僕を嫌わないか心配ですね」


 ユンイェは真面目に言うとシャンイェンの近くまでやってきた。彼もこの時には成長していて五歳になっている。シャンイェンも八歳になっていた。彼は両手をおもむろに握る。ひんやりとした体温がシャンイェンに伝わった。


「姉様。いえ。シャンイェン。いつかは僕が成人したら結婚してください。その時はあなたを正妃として迎える事を約束します」


「……わかった。ユンイェ。お前の妃になるよ」


「ありがとうございます。シャンイェン」


 ユンイェはそう言うとシャンイェンに抱きついた。頭を撫でてやると「せめて子供扱いはやめてください」と怒られた。仕方ないので好きなようにやらせてやるのだった。


 ゆっくりと時間は流れていく。あれから五百年近くは経っただろうか。人間の時間に換算すると十年の月日が経過している。シャンイェンは十八歳、ユンイェが十五歳くらいになっていた。この年にユンイェは成人の儀を済ませ、海龍王に正式に即位する。シャンイェンを幼き日の約束通り、正妃に迎えた。だが、シャンイェンは純粋な龍族ではない。周りはそれを理由に反対する者も少なくなかった。そこでユンイェはシャンイェンに新たな位を賜る。「龍王妃」という位をだ。

 実はシャンイェンは鳳凰族の出身だった。ユンイェの計らいにより周囲はあまり反対意見を言わなくなる。龍王妃には一つ免除されている事があった。後継者を生む事を強要されないと言う事がだ。シャンイェンは半陰陽――両性具有であるがために子は望めない。ユンイェはそれをわかっていたがために龍王妃に彼女を据えた。代わりに王太子にはすぐ下の弟を選んだのだった。


 龍王妃になってからシャンイェンはチョモランマの麓に屋敷を建ててもらい、住まうようになった。ユンイェは朝から昼間まで職務を勤めて夕刻になるとシャンイェンの屋敷に帰るという暮らしを送るようになる。二人は大変に仲が良く水も洩らさぬ程だ。年の差を感じさせない。


「只今、帰った。シャンイェン」


「ああ。お帰り。ユンイェ」


 シャンイェンにユンイェは帰宅の挨拶を述べる。にこやかに彼女は応じた。


「シャンイェン。疲れた」


「……確かに龍王の仕事は多岐に渡るからな。お疲れさん」


「ああ。按摩あんまを頼む」


 シャンイェンは頷くと按摩もとい、肩揉みを夫に施す。まだ若いが肩こりが最近は酷いとユンイェは溢していた。なのでシャンイェンは世話役の女龍めりゅう達に頼み、肩揉みの練習をさせてもらっていたのだ。そのおかげで少しは上達したはずだが。肩の凝っている所を重点的に解すのだった。


 結婚してからまた百年近くが経った。相変わらず、シャンイェンは麓の屋敷にて暮らしている。最近は肩揉みも上達してユンイェからよく褒められていた。趣味として機織りやお裁縫をやっている。樹木や草から繊維を取り出し糸車で糸を紡ぐ。織り機で糸から布を作り出す。それらを一人でやれるまでに十年は掛かった。大変だがやり甲斐がある。

 今日も機織りを一通りした後、完成した布で女物の衣装をちくちくと縫っていた。実はユンイェの母――前龍王の妃であるカーセラに贈るために一月前から作成している。今は下に着るオンジュを縫っていたが。


「シャンイェン様。無理はなさいませんように」


「……あ。サラサさん。そうだね。休憩をそろそろ取るよ」


「そうしてください。では。お茶の用意をしますね」


 サラサは人だと中年といえる年齢で日焼けした顔にいつもにこやかな笑みを浮かべた朗らかな性格の女龍だ。本性は中級の龍神ではあるが。いつもシャンイェンの裁縫の腕には歓心している。かちゃかちゃと音を立てながらも茶葉を器に入れ、小さなかまどで沸かしたお湯を注いだ。部屋に湯気が揺蕩う。もともと、甘みがある珍しい茶葉で淹れたらしく、ふんわりと蜂蜜に似た感じの香りが鼻腔をくすぐる。


「良い香りだな。これは甘味茶かい?」


「ええ。シャンイェン様はこのお茶が昔からお好きでしたね」


「ああ。幼い頃から義父上がどういう訳か好きでな。よく一緒に飲んだよ」


 サラサが机の上に置くとシャンイェンは茶器を手に取る。口元にまで持っていき、飲んだ。甘やかな香りが鼻腔を抜けていく。ほのかな甘みがまた美味だ。そして体がじんわりと温まっていった。


「やはりサラサの淹れる茶はうまい。ユンイェが来たらまた淹れてやってくれないか」


「もちろん。シャンイェン様がそうおっしゃるならいつでもお淹れしますよ」


「頼むよ」


 そう言うとサラサはにこやかに笑いながら頷いた。シャンイェンは甘味茶をまた口に含んだ。


 そうしてシャンイェンはユンイェと夫婦になってから三百年が経った。二人とも二十四歳、二十一歳となっている。シャンイェンは黒い髪に黒い瞳という有りがちな外見だが。肌はよく日に焼けて小麦色といえる。そんなに目立つ容貌ではないが健康的で溌剌とした雰囲気が見る人に快い印象を与えていた。

 ユンイェは青銀に輝く髪に群青色の瞳で美しい外見をしていた。肌は白く透き通るようだ。顔立ちも秀麗で怜悧な雰囲気はシャンイェンと違い、見る人に緊張感を与える。

 しかも二十一歳になった彼は美貌に昔よりも磨きがかかっていた。シャンイェンはそんな彼に複雑な思いを抱いていた。


(私はいつになっても中途半端なままだ。半陰陽とはまた忌々しい。ユンイェが羨ましくはあるな)


 そう考えては首を横に振る。今は考えては駄目だ。どんどん、ユンイェに醜い感情を抱いてしまう。けれど男としての自身はユンイェに嫉妬していた。すらりと背が高く力も強い。そんな彼に比べたら背も小柄で華奢で。弱々しい腕力しか持っていない自身のなんと無力な事か。女としては子も成せないのが申し訳なかった。鳳凰族で霊力も非常に高いと言われてはいるが。半陰陽のこの身が本当に厭わしい。ぎゅっと唇を噛みしめながら黙って泣くのだった。


 ある日、ユンイェが屋敷に

 やってくるとシャンイェンが一人、部屋でぼんやりとしていた。その目には一筋の涙が流れている。どうしたのかと思う。いつもは快活でさばさばした彼女がこの時はひどく弱々しく見えた。ユンイェはそっと近づく。今はまだ夕暮れ時だ。薄紅色にシャンイェンの髪や瞳は染まっていた。


「……シャンイェン。泣いたりなんかして。どうしたんだ?」


「……すまない。私は半端者だ」


「そんな事はない。シャンイェンはいつだって私を支えてくれている。何をそんなに悩んでいるのか教えてくれ」


 そう言ってユンイェはシャンイェンのすぐ側に立つ。肩に腕を回すとそうっと抱きしめた。男よりはほっそりした華奢な身体がいっそ痛々しい。力を込めたら折れてしまいそうだ。


「……私は半陰陽の身体だから男にも女にもなりきれない。男としてはお前に嫉妬をしてしまう。女としては子を成せないから申し訳ないし。どちらつかずなのが本当に厭わしい」


「そうか。だが、気にしなくていい。龍族にも半陰陽の者はいる。彼らはそんな自身であっても受け入れているよ。私は君を半陰陽だから結婚したわけじゃない。君だから妃にしようと思ったんだ」


「……ユンイェ」


 シャンイェンはしゃくり上げた。ひっくと嗚咽の声が洩れる。大きな声をあげて彼女は泣き出す。ユンイェは背中をさすりながら静かに妻を抱きしめたのだった。


 この日からユンイェはシャンイェンが悩まぬようにと子の事はなるべく話題に出さないでほしいと屋敷に仕える女龍達に頼んだ。女龍達は快く頷いてくれた。シャンイェンは普段通りに過ごすようになりその表情はどことなくすっきりしたように見える。サラサはやはり子が成せぬ事で知らず知らずの間に彼女が酷く気にしていた事に胸を傷めた。


「……シャンイェン様。今日は甘い物をお持ちしましたよ」


「サラサさん。何を持って来たんだ?」


「異国から取り寄せた揚げ菓子と蒸し菓子です。胡麻団子と桃饅頭ですね」


 サラサはお皿に盛りつけた菓子をよく見えるように掲げてみせた。芳しい香りが鼻腔をくすぐる。シャンイェンは微笑んだ。


「そうか。珍しい菓子だな。サラサさんも一緒に食べようか」


「はい。ではお茶を淹れますね」


「ああ。桃饅頭か。可愛らしいな」


 シャンイェンが不意に呟いた言葉にサラサはあらまと驚く。意外とシャンイェンは可愛らしい物が好きだ。これは主人のお眼鏡にかなったらしい。秘かに笑いながらお茶を淹れる準備をしたのだった。


 一年、二年とゆっくりと時間は流れていく。シャンイェンは二十七歳、ユンイェが二十四歳になった年だった。ある日、シャンイェンは珍しく外に出ていたが。寒い真冬の昼下がりにサラサや若い女龍との三名で屋敷の周りをゆっくりと散策していた。


「雪がすっかり降り積もったな」


「はい。シャンイェン様、足元には気をつけてください」


「わかった。小股で歩くようにするよ」


 シャンイェンはサラサに注意されて頷く。さらさらとした粉雪を踏みしめながら歩いた。真っ青な空を眺める。不意に彼女の脳裏に朧げな記憶が浮上してきた。


『……今日からそなたはシャンティじゃ』


 覚えているはずがないのに。高らかながらも優しげな声が頭の中で響く。……母上?

 シャンイェンは不思議に思いながらも足は止めない。先程、思い出したぼんやりとした顔と声の主は。自身の実母だ。ゆっくりと記憶を手繰り寄せる内にふと気がついた。確か、義母が言っていたな。実母は自身を育てられなくて龍神であった義父母に里子として引き取ってもらったとか。また、ユンイェに頼んで義父を呼んでもらおう。そう決めたのだった。


 数日後にシャンイェンはユンイェに義父を屋敷に呼んでくれないかと頼んでみた。最初こそ戸惑いがちな彼だったが。簡単に散策をしていた際の事を説明したら承諾してくれた。こうして義父は少し経ってから屋敷にユンイェと一緒に訪れる。人の姿になりシャンイェンに声をかけた。


「……おお。シャンイェン。久しいな。息災であったか?」


「……はい。お久しぶりです。義父上」


「ユンイェから話は聞いた。何でも実の母君の事を思い出したらしいな」


 義父が言うとシャンイェンは頷いた。


「はい。ぼんやりとではありますが」


「ふむ。ならば、儂の知っている限りの事を話そう。お前やユンイェも大人だしな」


「わかりました。中にお入りください」


「では。そうさせてもらおうかの」


「お祖父様。私も同席していいですか?」


「構わぬよ。ユンイェにも関わりがある事柄だからな」


 義父――龍神が頷いたので孫で義息子のユンイェはほっと息をつく。シャンイェンや先代龍王の後に続いた。


 その後、龍神は訥々と話し出す。実の両親の事やシャンイェンが引き取られた本当の理由、死別した双子の弟の事を。


「……実はな。シャンイェンの実の両親は兄妹だったのじゃ。ところが兄の方が妹君に横恋慕をしおっての。その結果、生まれたのがお前と弟君じゃな。弟君は生まれてすぐに亡くなったと聞くが」


「そうだったのですか。なら私が里子に出されたのも致し方ないですね」


「じゃな。インドでも兄弟同士での色恋沙汰は禁忌じゃ。だというのにお前や弟君を無理に生ませた兄のインフェン殿はとんだ馬鹿者ではあるの」


 龍神は苦笑いしながら辛口な言葉で実父を批難した。シャンイェンもそれには同意見だ。ユンイェもしきりに頷く。


「……まあ。そういう訳じゃ。双子の弟君は名をユエンと言ったかの。ユンイェ、お前の前世のお方じゃな」


「ええ。私も父からは聞き及んでいます。お可哀想にとは昔から思っていました」


「うむ。ユエン殿の墓参りにでもいつか行って差し上げなさい」


「そうします」


「シャンイェン。実の母君はお前にシャンティという名を与えた。それは覚えておいておくれ」


 シャンイェンは強く頷いた。ユンイェも。龍神は嬉しそうに笑ったのだった。


 あれからさらに五十年程が経った。ある日、シャンイェンは身体のだるさを感じた。最初は軽い風邪かと思ったが。朝方はそうでもなかったのに。夕刻近くになると目眩の症状が出て絨毯を敷き詰めた石床にうずくまってしまう。すぐに異変に気づいたのはサラサだった。


「……シャンイェン様。いかがなさいましたか!?」


「……サラサ。目眩がして」


「目眩ですか。他に症状はありましたか?」


 シャンイェンは朝方から身体がだるかった事も言った。サラサは眉をしかめる。考え込んでいるようだ。


「歩けますか。今は寝台に横になった方がいいですね」


「わかった」


「私めは薬師を呼んできます。それまではゆっくりと休んでください」


 サラサはシャンイェンの腕を引っ張り立ち上がるのを手伝う。肩を貸してもらいながら寝台に向かった。そのまま横になる。薬師が来るまでは休んだのだった。


 半刻くらいになるとサラサに伴われて中年男性らしき薬師がやってきた。白いものが混じった髪を後ろに一つに束ねてこの土地特有の衣装を着ている。顔立ちはいかにも穏やかそうで好々爺に近い雰囲気だ。


「……龍王妃様でいらっしゃいましたか。今日はいかがなさいました?」


「薬師殿。龍王妃様は朝方から身体のだるさや目眩を訴えておられまして。それでお呼びしたのです」


「ふむ。なる程。でしたら早速、診てもよろしいですか?」


「……お願いしたい」


「わかりました。でしたら失礼します」


 薬師は手に持っていた麻袋を机に置く。そして中から診察用の道具類を取り出す。サラサは素早く水を張った桶と麻布を机に置いた。若い女龍が前もって用意していたらしい。薬師はそれで両手を洗うと麻布で水気を拭う。


「……では。診察を始めます」


「……はい」


 薬師が寝台の側にあった椅子に座る。シャンイェンは頷く。診察が始まるのだった。


 一通り終わると薬師は顔を曇らせた。そしてこう告げる。


「……真に申し上げにくいのですが。龍王妃様は呪いをかけられています」


「えっ。呪いですか?」


「はい。かなり強力な呪いです。解くのは無理だと思われます」


 薬師の言葉に若い女龍やサラサは顔を青ざめさせる。シャンイェンも動揺を隠せない。


「……龍王妃様。心してお聞きください」


「はい」


「あなたは異国の高位の女神から強く呪われています。この周辺で解呪ができる神はいないと思っていいでしょう。余命は。もって後四十年程です」


 薬師の告げた余命宣告にサラサ達はその場に崩折れた。サラサはわあっと泣き声をあげる。シャンイェンも茫然自失の体で言葉を失う。部屋にはサラサ達の嗚咽だけが響いていた。


 シャンイェンが呪いを受けて倒れたという情報はすぐにユンイェにも届いた。居ても立っても居られずに彼女の屋敷へ急いで飛んだ。人の姿に変ずると走って屋敷の中に入る。廊下には泣きはらしたらしい女龍達が佇む。ユンイェは焦る気持ちを抑えながらも扉を開けた。部屋を突っ切ると寝台に横たわった妻に近寄る。


「……シャンイェ。いや。シャンティ」


 名を呼ぶが意識がないらしいシャンイェンからは答えはない。ユンイェは薬師が使っていた椅子に腰掛けると彼女の投げ出されていた手を両手で握る。きゅっと強く握って額に押しあてた。


「シャンティ。遅くなってすまない。どれだけ辛かったか。これからは側にいるから」


 そう言ってユンイェは瞼を閉じた。サラサはそれを涙ぐみながら見守っていた。


 ユンイェはシャンイェンが床に臥せるようになると屋敷に滞在して側から離れようとしなかった。何かと看病をしたがる。サラサは最初こそ困ったような顔をしていたが。次第に好きなようにやらせる事にしたらしい。何も言わずにユンイェに任せるようになった。

 シャンイェンの病状は徐々に重くなっていく。ユンイェは今まで離れていた分を埋めるように彼女の傍らに居続けた。


「……すまないな。もう終わりが来たようだ」


「シャンティ。今日は雪が降っているよ。昔はよく遊んだな」


「そうだな。あの頃はユンも小さくて。私の後を「姉様!」と言ってよく付いて歩いていた」


 シャンイェン――シャンティはか細い声で答えた。ユンイェは自身の身体に寄りかからせながらやせ細ってしまった彼女の髪を撫でる。かつては小麦色をしていた肌は白くなり快活な雰囲気は鳴りを潜めていたが。代わりに儚げで透明感のある雰囲気をシャンティは纏っていた。


「……私は。お前と会えて良かったよ。ありがとう。ユエン」


「……シャンティ。俺はユンイェだ。ユエンではないよ」


「すまない。ユンイェ。私があの世に行ったら。新しい妃を迎えてくれ」


 シャンティの遺言とも言える事を呟いた。ユンイェは涙ぐむ。


「……悲しい事は言わないでくれ。俺は新しい妃なんて迎えない。妃はシャンティ一人だけだ。お前を喪ったら俺は生きていけないよ」


「ユン。なら。私に何かあったら実の母上に髪に挿していた簪を届けてくれないか。最後のお願いだ」


「わかった。必ず届けるよ」


 ユンイェが頷くとシャンティは弱々しく笑った。瞼が静かに閉じられる。


「……おおきくなったな。ユン」


「……姉様。そうだな」


「……わたしはずっとユンといっしょだよ」


 シャンティはゆっくりとユンイェの背中に腕を回す。ふわりと抱きしめられた。そのまま、シャンティは動かなくなる。ユンイェは静かに涙を流しながらシャンティの冷たくなっていく身体を抱きしめ返した。こうして龍王妃は息を引き取る。雪が静かに降る真冬の夜だった……。


 シャンティが亡くなりユンイェは葬儀をごく近しい身内だけで行う。亡骸は土葬された。白い草花をユンイェは妻に捧げる。鎮魂の祈りをしながら冥福を願った。


 享年は人間でいえば、二十八歳。あまりに早い終焉をシャンティは迎えた。龍神達は彼女の事を言い伝えたという。ユンイェはシャンティが亡くなるとすぐに龍王の位を弟に譲りインドに旅立つ。実母であるイリーシュナ神に会い、遺品である簪を手渡した。イリーシュナ神は若くして世を去った娘の話を聞き、涙を流したという。

 インドから帰るとユンイェはシャンティの生まれ変わりを探したいと言い、果てのない旅に再び出る。龍神達は仕方ないと思ったとか。彼が妻の生まれ変わりに出会えたかは定かでない。シャンティは遠い異国にいたが。これはまた別の話となる。


 シャンティの事をある時に島国に住む少女が龍神から聞いた。あまりに悲しく哀れな女神に彼女は涙を禁じ得なかった。少女は龍神に礼を告げる。龍神はそのまま空に翔り去った。

 それを見送りながら少女はシャンティに思いを馳せた。空には一番星が輝く。そっと少女は両手を合わせてシャンティに祈りを捧げた――。


 ――完―― 

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