南さん
紫鳥コウ
南さん
知名度も低ければ、研究設備も魅力的とはいえない大学院にいたころの、たったひとりの同期である梁くんには、いろんなことで助けられた。
いまでも鮮明に覚えているのは、連日の徹夜から大学院生専用の研究室で倒れたぼくのために、そこから反対方向にある健康センターまで、走ってくれたことである。
目を覚ますと僕はベッドの上にいて、その
そのとき梁くんの手にしていた文庫本は、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』だった。そんなことまで覚えている。
修士論文を提出し、最終試験も合格し、あとは卒業式を迎えるだけとなったときに、急に梁くんが
なにか悪い病気でも患ったのではないかと思い、病院に行くことを勧めたりもしたが、梁くんは「ありがとうございます」と無理に微笑むだけだった。
もしかしたら、祖国へ帰ることと関係しているのかと思い、卒業しても連絡を取り合えるとか、また一緒に食事をしにいこうとか言ってみたものの、「そうですね。南さんと一緒に三人で……」などと、やっぱり、どこか上の空で
南さんというのは、僕たちが修士論文を提出する年に、他大学からやってきた、たったひとりの新入生だった。彼女が研究室にいるだけで、爽やかな春の陽気が訪れてくるように思えた。
夏前あたりに髪をばっさりと切り、一気にボーイッシュな雰囲気になったときの驚きも、忘れがたい。
* * *
海外出張から戻り三日が経ったころ、久しぶりに梁くんから電話があった。いま日本にいるから食事をしようということだった。
Y市にある居酒屋で待ち合わせることにしたのだが、直前になって、少し遅れると言ってきた。
もう予約をしてしまっている手前、予定をずらすことはできず、ひとり
相変わらず、太い眉を筆頭に腕っ節の強そうな顔をしているが、すぐに柔らかい微笑みをみせてくれた。がっちり握手を交わすと、二杯目のビールを持って乾杯をした。
母国の大学で日本語を教えているという梁くんは、この日はとても機嫌がよかった。なんでも、近々良い報告ができるだろうとのことだったが、呑んでから一時間も経つころには、「いや、いま言ってもいいかもしれません」と、妙にニヤニヤとしながら言い出した。
そして、一枚の写真を見せてきた。
おそらく梁くんの家であろうところの前で、ふたりの男女が肩を並べて立っている構図だった。片方は間違いなく梁くんだ。しかしもう片方の、ロングストレートの黒髪の女性が誰であるのかは分からなかった。
「おめでとう。ぜんぜん知らなかったよ。水くさいなあ。すぐに言ってくれればいいのに」
この写真から漂ってくる雰囲気が、すぐにそれと察してみせていたが、口にしてみてから、もしかしたら早合点ではなかっただろうかと焦ってしまった。
しかしその推測は当たっていたらしく、梁くんは近いうちに結婚をひかえていると告白した。
「来てくれますか?」
「時間が合えばもちろん。いつくらいになるんだい?」
「具体的な日付は、まだ決まっていないんです。というのもですね……彼女の母親がまだ少し渋っているみたいで」
「しかし、彼女は……」
「ええ。もちろん愛し合っています」
先ほどとは違い、少し元気がなくなった梁くんは、スマホをしまうと、ビールを一杯注文した。そしてため息をひとつ
「ごめんなさい。酔っていると、感情の起伏がたいへんになってしまいます」
なぜ、めでたい報告のあとに
梁くんは気を取り直して、出し抜けにこう訊ねてきた。
「彼女に見覚えはありませんでしたか?」
しかし、あのロングストレートの女性のことは――まだ目に残っている姿は、記憶のどこからも引っ張りだすことができなかった。
「では、もう南さんとは連絡を取っていないってことですね」
「これは驚いたよ。あの女性は南さんだったんだね。あの頃は髪が短かったから……」
そう答えると、梁くんは、鋭い眼光を投げかけてきた。それは、いままで一度も見たことのない、
「うそはいけません、うそは」
今度は、涙が
その後、梁くんと南さんの結婚式が行なわれたのかどうかは、しらされていない。
〈了〉
南さん 紫鳥コウ @Smilitary
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