傘をあげた日

@tsumugi_naru

傘をあげた日

彼女と初めて出会った日のことはよく覚えている。雲一つない澄み切った青空が広がっていて、雨が降るなんて誰一人思わないような日差しが眩しい日だった。当時の私は二十七にもなるのにファッションの知識がまるでなかった。でも、インターネットを介して知り合った素敵な女性に会うというとても楽しみな日だったから、自分が持っているなかで一番格好良いと思う濃紺の生地に白ボタンのシャツを着て、赤茶の革ベルトを通したベージュのチノパンにベルトと同じ色の革靴を履いた。今もそうかもしれないが当時のファッション雑誌にはよく、垢抜けるなら眼鏡を外せ!というような記事があった。当時の私はまんまとその記事に乗せられてコンタクトを買い、二十分苦労してようやく装着した。

「この服、ダサいって思われたらどうしよう。」

玄関の靴入れに備えるけられた姿見を見ながら心の声が漏れる。いやいや、ファッションがちょっとダサいからという理由で縁が切れてしまうようならそれは仕方ない。そう思って勢いよく外に出たが、日差しが強すぎてシャツを着たことを一瞬にして後悔した。だが、一番最初に彼女に会うときは一番格好良い自分でいたかったからそのまま鍵を閉めて駅に急いだ。

確か、あの時私は直接彼女に会うまで彼女の顔を知らなかった。彼女とやりとりをしている上で、彼女の持つ価値観や感性、文章が既にとても優しく、魅力的だったから外見などどうでもよかったし、外見によって印象が変わるようにも思わなかったので特に送ったりしてもらわなかったのだ。

汗をかかないようにタクシーで駅まで向かい、待ち合わせの十分前に改札前に着いた。初対面の男性に女性が一人で会うというのは女性側からしてみればすごく勇気がいるし、リスクが高いことだ。だから彼女には私の容姿と当日の格好は教えてあった。今にして思えば、さぁ!僕を見つけて!という他力本願な感じがして申し訳なくなってくる。

しかし彼女はすぐ私に気付き、声をかけてくれた。

「康さん、ですか?」

彼女の柔らかく優しい声と、可愛らしさと大人の落ち着きある雰囲気とその容姿に見惚れてしまった私は一瞬固まったのをよく覚えている。

「あ!はい!そうです!」

人でごった返す駅の構内に私のバカでかい返事は彼女と、近くにいた数人を驚かせてしまった。彼女は少し驚いてからクスクスと笑い、小さな会釈をしてくれた。

「初めまして、結菜です。」

その自己紹介に、私は改めて驚いてしまった。自分の想像していた通りの人だとはいたが、自分は今までこんなに素敵な雰囲気の女性とやりとりをしていたことに。

一目惚れとか、この後お付き合いをしたいというような恋愛感情ではない、この人と出会えて嬉しいという温かい心持ちでいっぱいになっていた。

「初めまして!来てくれてありがとうございます!」

私は確か緊張して自分の康太という名前言わずに挨拶だけ返してしまったのだ。本当にこの日の自分を思い出しては恥ずかしくなる。

インターネット上で話しているときには打ち解けて敬語が取れていたが、あの時の私は彼女に会えた嬉しさと緊張で最初敬語が抜けなかった。それに気付いていただろうけれど、彼女が普段通り接してくれたおかげですぐに私の緊張もほどけていた。彼女もあの日私に相当気を遣ってくれていたのだろう。彼女には出会ってから今まで本当に頭が上がらない。

あの日、無事に待ち合わせた私たちはそのまま私が当時一人で暮らしていたマンションに向かった。今まで自分の家に女性を呼んだことなど片手で足りるほどしかなかった私の心臓は普段より早く脈打っていた。その人が普段生活している住居というのは家主やそこに暮らす人たちの人柄や生活を映し出す。どんなに取り繕っても滲み出てしまうものだ。だからこそ私の心臓はやけにうるさかったが、初めて会うのにも関わらず家に泊めても良いなと思える人はそういないなと思うと、心臓の鼓動は落ち着いた。

今にして思えばなんと大胆な提案をしたものだろう。私は彼女に宿代を払わせるのが嫌だという理由で自分の家に泊まってもらうことと手料理を振る舞うことを計画したのだから。手料理と言っても私が夏場によく作るほうれん草のグリーンカレーだった。年を取った今も彼女とは離れていてほぼ一人暮らしなので夏場と言わず年中作っているが、初対面の異性に手料理を振る舞うのはこの日が人生初で人生最後の経験だったから鮮明に覚えている。

事前に味見もしていたし、いつも通りの味だったのだが、私のいつも通りを彼女は初体験であること考えると私はやっぱり緊張していたのだろう。食器を用意するときにやけにドタバタしていたことを思い出す。

彼女は私と同じく小食であることは事前に知っていたから、自分で盛り付けてもらったのだが、それがあまりに可愛らしい小盛のカレーライスだった。まるで童話に出てくる小人や妖精の食事のようで、彼女は私の家に遊びに来た妖精さんなのだなと勝手に考え勝手に納得していた。

そんな妖精のような可憐な彼女がきちんといただきますを言ってからゆっくりとカレーライスを口にした。小さくゆっくりと味を確かめるようにしてから小さく2度頷いた後、彼女は私を見た。

「美味しい」

彼女はそう言ってくれた。お世辞だったかも知れないし、本当は何か思うことがあったかも知れないけれど、昔も今も私は単純だし馬鹿正直だから、彼女からその言葉を言われるとただ嬉しくてたまらなかった。彼女の優しさもあの時から変わっていないから、久々に帰ってきた時に作る料理を食べてもらう時は毎度緊張する。でも、いくつ年を重ねても可憐で可愛らしく優しい彼女の一口目、その後の美味しいを聞くたびに嬉しくて嬉しくて心の中で小躍りをしている。

 でも、やっぱりあの時は一番緊張していたし、ほっとしたなとしみじみしながら誰もいなくなったバーで珈琲を飲む。そう、あの日妖精盛りのカレーライスを完食してくれた彼女に私は珈琲を淹れた。今飲んでいるのと同じ、深煎りのブラジルだった。

社会人になった22の時から毎朝欠かさず豆を挽いて淹れているが十年経った今でもまだ味にムラがあるから困ったものだ。全自動で均一の粗さに豆を挽く電動ミルや、確実に設定した温度で保温してくれる電気ケトルは昔からあったけれど、なんだか味気ないし、ゴツゴツとした鉄製の手動ミルをしっかり押さえてゴリゴリという音を響かせながら豆を挽き、ステンレス製のコーヒーポットがガスコンロで沸騰の前にボコボコという音を一瞬消して静かになる瞬間に火を止めて、自分の一番好きな珈琲を淹れる楽しさを知ってからはずっと電動の物は使っていない。

その上で彼女には、自分が百点満点だと言える珈琲を淹れて、美味しいと言ってもらいたいと思うから、彼女が隣にいない時もずっと欠かさず毎日珈琲を淹れている。

 彼女に最初に珈琲を淹れた時は少し豆の量に対してお湯の量が少し多く、しかも彼女のマグカップに一度に注いでしまったから本来の味より僅かに薄く、酸味が通常より強くなってしまったのだが、やはり彼女はきちんといただきますを言ってから、美味しいと伝えてくれた。

あの日の珈琲が七十点だとして、今日の珈琲も精々八十点といったところだろう。次に彼女が帰宅した時、百点満点の珈琲を淹れたいが、もう既に彼女の方が珈琲を淹れるのが上手いかも知れない。

 そう思うと明日からもまた楽しく珈琲を淹れられる。きっと本当に大切でいい影響を与え合える人と言うのは、頻繁に連絡を取らずとも、会えずにいても、どこかで元気で幸せに笑ってくれていることが分かればそれ以上に望むものは何もない。

「本当に好きな人だったら会えなかったら寂しいし、自分が一番近くにいて一番相手から好かれていたいと思うのが普通だよ」

彼女と出会った後にこの価値観を仲の良い友人たちに話すとよく言われる言葉だった。彼らの言うこともその通りだとは思うが、私は幼い時から人の幸せは自分の幸せという考え方が自分という人間の根本だと思っている。大切な人たちが心の底から楽しく笑っていれば、自分がそのためにどれだけ苦労しようが、裏切られようが小さなことに思えてくる。

「それじゃ、いつまでたっても幸せになれないよ」

 友人たちは私の行く末を案じてそう言ってくれる。本当にありがたいが、私が幸せを感じるためにも君たちが幸せでいて、沢山笑顔を見せてほしいと思う。

 そう言えば彼女も似た価値観を持っているということを知ったのは、最初に出会ったあの日だった。昼食を食べ終えた私たちは映画をみてのんびりと時間を過ごしてから街に繰り出した。

 彼女のために作られたのではないかと思えるほど似合っているアクセサリーに巡り合ったり、大正レトロな雰囲気のカフェで食事をしたり。とても楽しい時間を過ごしたのだが、そこまで詳細に書くとただの惚気話になって彼女に呆れられてしまう気がするので彼女が帰ってきた時その部分はゆっくり話すこととする。

 彼女の価値観、恋愛観を知ることが出来たのは今の私が営むような小さな隠れ家的バーに入った時だった。様々な形と大きさの間接照明が優しいオレンジ色に光る幻想的な空間が広がっていた。

「いらっしゃい」

 店に入ると白髪交じりの短髪に無精ひげを生やしたマスターが柔らかな声色で迎えてくれた。

店の幻想的な雰囲気に浸っていると、マスターが分厚いメニュー表とお水を持ってきてくれた。そこからは、今思い出しても笑いが止まらない。まるで全自動AIのように季節のメニューからおすすめデザートに至るまで何十ものメニューについての説明を一切噛むことなくしてくれたのだ。思い出としては笑えるが、同職をしている今では尊敬の一言に尽きる。

 当時の私たちが圧巻のメニュー説明を聞いてからビールで乾杯をして飲み始め、何倍か飲んで程よく酔いが回った時、彼女の口から好きな人はいるけどいないという不思議な言葉が出た。

「好きな人がいるけど、いないの?」

頭がこんがらがってしまった馬鹿な私は彼女にオウム返しで聞いた。

「うん、そうなの。その人から連絡が来るとものすごく嬉しくて、胸が高鳴って幸せでいっぱいになるけれど、付き合ってはないの」

こんなに素敵な彼女に思われていながら付き合わないなんて、とんでもなく勿体無い人だなと思いながら私は彼女の話を聞いていた。

「誰よりも大切だし、本当に好きだけれど私が隣に居なくても元気で、幸せでいてくれたらいいの」

お酒のせいもあってか、心から大切な人について語る彼女の頬は赤くなり照れ笑いを浮かべていた。多くは語らないがその人との関係を築く中でその考えに至ったのだろう。可憐な妖精のような彼女の瞳の奥に見える芯の強さには心から大切な彼への想いもあるのかも知れないとあの時から私は考えている。

私にも、過去に想いを寄せ、一時は一緒にいても離れてしまった、人としても異性としても魅力的で好きだなと思うけれど、隣に居なくても良い。ただ、元気で幸せでいてくれたらと願う、そんな人がいたことがあったから。

 きっとこの話を私や彼女の友人、その他大勢の人が聞いたら「なんでそんなに好きなのに付き合わないの?」やら「大切にしてくれてる人が可哀想」というような言葉が出るだろう。

しかし、事情があろうと無かろうと想いを寄せる当人が想い人に対する接し方を決めるにはそれ相応の時間と決意と覚悟がいる。

 彼女にここまで言わせる彼は本当に素敵なんだろうなと聞いている私の心も温かくなった。

「分かる気がする。僕も自分が大切な人の隣に居なくても、元気で幸せにいてくれるだけでいいと思う。」

私はこの価値観を彼女との思い出の中で何度も綴っているが、この時はまだ人に直接この価値観について話したのは大学時代の親友と、異性では彼女が初めてだった。

まさかその日初めて会った人に今まで親友以外に話したことがないことを共有するとはおもっていなかったけれど、私はこの時改めて彼女との縁に深く感謝した。

「でも、この価値観を話して、それでもいいよって真に受け止めて隣にいてくれる人なんていないよね」

私はあの時、普段から思っていて恋愛や結婚を諦めている要因の一つにこの価値観があることを彼女に打ち明けた。

「ううん、きっといると思う」

彼女は即答した。この答えを聞いた時の自分の馬鹿さに笑ってしまうが、僕みたいなやつもいるしな。と納得していた。自分の隣にいてくれる人は別に大切な人がいたとしてもそこに格差や順位などはない。それぞれ違う想いなのだ。それは心からよく分かる。

「よく分かるけれど仮に僕が結菜さんとお付き合いをしたら。ライバル心を燃やして負けじと自分を磨いちゃうよ」

本当に子どもだなと後から思うが、その瞬間、今その時を全力で大切にしている私がその時感じた共感と理解とは別の純粋な気持ちが声に出てしまった。というより彼女に対しては自分の心に素直にいたかったのだ。彼女はそれを聞いてクスクスと笑っていたが、私は急に恥ずかしくなって追加でお酒を注文したのを覚えている。熱く語っていたのでマスターにも漏れ聞こえていたのかも知れない。マスターはすぐに注文を聞きに来てくれた。

お互いの大切にしていることを話した後私たちは、これからやりたいことや将来の自分の姿について話をした。彼女はこれまでの人生で経営や商業関係の知識を深め、いつになるかは分からないがキッチンカーで様々な味と種類のドリンクを用意して、気軽にほっと一息つくことが出来る場所を創りたいと話してくれた。彼女の家族は車屋さんをしており、設備や整備に関しては最早完璧だろう。それに今まで彼女が得てきた知識と意志の強さがあれば彼女の将来は彼女が在りたい姿になっていくだろう。うんうんと楽しく聞いているだけでいいのに当時の私にはそれが出来なかった。

「全力で応援するし支えるから何でも言ってね」

無意識に口からそう言葉が出ていたのだ。今にして思えばあの素直さと純粋さが今も彼女との縁を繋いでいるのだと思うが、自分で淹れた珈琲が実はアイリッシュ・コーヒーだったのかと思うほど、思い出すと笑ってしまう。

「ありがとう。康さんは?」

 彼女が聞いてくれたので私も当時から興味のあったキャリアコンサルタントの資格取得をして大学などでとことん相手に寄り添って人を支える仕事をしたい。ということや彼女と同じように珈琲や紅茶を提供してほっと一息つけるカフェをやってみたい。という現実的なものと純粋な夢の二つを話した。

「カウンセラー向いていると思う!」

ここまで読んでくれた方がいたらもう分かるだろうが、私は彼女の言葉で俄然無敵な気持ちになり、次の日からキャリアコンサルタントの資格取得に向け動き始めるのだが、それはまた別の話だ。

 当時の私の明日からの決意と行動が決まったタイミングで、マスターがラストオーダーの時間だよと教えてくれた。私たちは、もう結構ですとお会計を済ませて店の外に出ようとした。

「あ!結構雨降ってきたよ」

ドアを開けてくれていたマスターが空を見上げながら教えてくれた。

「ちょっと待ってて」

そう言うとマスターは一度店の奥へ入り、大きなビニール傘を持って戻ってきた。

「これ、お客さんの忘れ物だから良かったら使って!返さなくていいからね!」

マスターは傘を私に渡すと足早にお店の中に戻っていく。戸が閉まる前に二人でお礼を言い、傘を差してタクシーを待った。

「あのマスター、優しいね」

「本当にね、まるで小説の物語みたい」

ビニール傘が雨を弾く音を聞きながら二人して笑っているとタクシーが来たのでそのまま私の家に帰り、お風呂に入ってすぐに眠りについた。

 彼女と初めて会ってからちょうど一年後、私はキャリアコンサルタント資格を取得し、就職活動に励んでいた。彼女もその時期は確かまだ実家の車屋さんで働いていたと思う。

ビニール傘をくれたバーには二ヶ月に一度ほど通っていた。ビニール傘をもらってから二ヶ月して再びバーを訪れた時傘のお礼を改めて伝えた。

「え?何の話?忘れ物の事なんていちいち覚えてないかな」

返ってきたのはその言葉だった。本当なのか嘘なのか分からないことを言えるところが流石バーのマスターという感じだったなと今でも思う。

その一年後、私は彼女が元々住んでいた家の近くに3LDKの間取りで家を借り一緒に暮らし始めた。

 それからさらに二年後、彼女は今までの社会人生活で貯まったお金を使いキッチンカーを購入し、綺麗で美味しいノンアルコールカクテルと温かいコーヒーを提供するお店として、月夜のおとも。を開業した。今ではSNSを通じて人気沸騰し、全国のイベントに引っ張りだこのため、それからというもの三か月に一度ほどしか帰宅しないような生活になっている。

 私はと言えば家の近くの大学でキャリアコンサルタントとして働きながら、裏手にあるバーのマスターの手伝いを呼ばれたらやっている。半年後にお店を閉めるけどマスターをやらないかと打診をされているが、パートナーと相談して決めますと言ってある。

 彼女は赴く場所によって忙しさが変わるため、暇なときは二日に一回電話で、今日こんな素敵な出会いがあったとか、この場所ではこれが売れるとか元気に近況報告をしてくれる。忙しい時には二週間連絡がない時があるが、ただ忙しいのか連絡をする気にならないのかは毎月の予定表を見て推測し、どうしても心配な時だけ電話を掛けて連絡をするような形にしている。

この生活のことを友人たちに話すとやはり「変わってるよね。不安じゃないの?」と聞かれるが私は一切不安ではない。今まで再三綴ってきたお互いの価値観と信頼があるからだ。もし仮に彼女と彼女の最も大切な彼が恋愛関係に発展していることも可能性の一つには挙げられるかもしれないが、それはそれで彼女の心からの笑顔がそこに在ると思えば嬉しいと悲しいの半々にはなるかもしれないが怒ったり離れたりすることではない。私が浮気をする可能性は自他ともに万に一つもないと思っている。仮にしたとしても嘘をついたり隠している自分が嫌になって正直に話すだろう。それはきっと彼女も同じだ。

周囲の大勢が定義する普通や常識と離れたところに自分の考えがあっても。本人や近しい人が納得していれば良いことで、流されたり自分を殺す必要はないと私は思う。

それに素敵な私たちの友人は、もう私たち二人の価値観や距離感に段々慣れて、最近は私の惚気話を笑顔で聞いてくれている。

「あの~、すみません」

珈琲も飲み終えて彼女への手紙のような手記を書き終えそうな時、雨に濡れた若い男女のカップルがお店の戸を叩いた。

「まだ、やってたりしますか?」

時計を見ると午前一時半だった。普段ならもう閉めている時間だが、今日珈琲を淹れてそれなりの長さの手記を書けるほど人が来なかったため、通すことにした。

「一杯だけでしたら」

私がそう言うと二人は嬉しそうな顔でお礼を言って中に入ってきた。年の頃も私と彼女が出会って、思い出のバーに初めて行った二十五から二十七くらいに見えたから懐かしい気持ちになった。

「何にされますか?大体の物は作れますよ」

通常であれば、お客様が席に着いたタイミングでお水と共にメニュー表をお出しして説明をするが、あの時のマスターのように噛まずに言えたことがない。それどころか必ずメニューを読むとき噛むバーテンダーとしてSNS上で拡散され人が来てしまうほどだ。一杯だけのために恥ずかしいところを若者に見せず、クールで素敵なバーテンダーを装いたくなった。

「強めで、綺麗な色のカクテルを、おすすめでお願いします」

小さな声で彼氏であろう男性が言った。

「かしこまりました。かなり濡れてしまっていらっしゃるので小さなタオルでよければお貸しします。少々お待ちを。」

私はそう言って裏にタオルを取りに下がった。備え付けの小さな明かりをつけタオルを数枚とって戻ろうとした時、電源スイッチの横に思い出のビニール傘がたてかけてあることに気付いた。

「この傘の思い出は素敵だけれど、あの日の私たちと同じように急な雨に困った人にあげても素敵だよね。あの日のマスターみたいにさ。」

 この前彼女が帰宅した時、そう言っていた。それを聞いた私はすぐにバーに傘を置きに行ったのを思い出す。今がまさに、その時じゃないか。

 私はひとまずタオルを持ってカウンターに戻った。

「お待たせしました。こちらで水分を拭いて待っていてください。」

私がタオルを渡すと同時に今度は女性が声をかけてきた。

「ありがとうございます。あの、何かいいことあったんですか?」

「え、どうしてですか?」

私はあまりに驚いて少し大きめの声で返してしまった。

「お店に入った時とは違って、すごく幸せそうな笑顔なので」

女性がそういうのに合わせて男性もうんうんと小さく頷いた。

「あ、いや失礼。店を閉めようとしていたところに素敵なお二人が入って来てくださったのが嬉しかったんです。」

なるほど、顔に出ていたのだ。私は嘘もサプライズも、隠し事が絶対にできないのだ。危ない危ない。最後までクールで素敵なバーテンダーでいなくては。

「そんな、素敵だなんて…」

二人とも頬を赤くする。見ているこちらも照れてしまうほど初々しい。

「はっ、初デートだったんです今日」

男性の言葉を聞いて私の胸は高鳴った。私の彼女が傘をもらったあの日がデートと言えるかは分からないが、それにしても、こんなにシチュエーションが似ることが起こるものだろうだろうか。

「あ、また幸せそう」

二人の声が揃う。

「それはもうお二人の幸せな日にこの店を選んでいただけて幸せです。さ、どうぞ。抹茶のマティーニです」

私はそう言って、二人の前に深いエメラルドグリーンのカクテルを置いた。

このカクテルは、私があの日店を出る前に飲んでいたカクテルだった。マティーニとは思えないほどの抹茶の甘みとお酒の色合いが楽しい一杯だ。

二人があの日の私たちと同じようにゆっくりとお酒を楽しんでいた。初デートだからなのか、慣れないバーだからなのか会話はあまりなかったが幸せが滲んでいて私もとても幸せな気持ちになれた時間だった。

「本日のお代はお店からのサービスです。それと、これ。お客様どなたかの忘れ物なのでよろしければお使いください。返さなくて大丈夫です。」

私は、二人がお酒を飲んでいるタイミングで裏から持ってきておいた傘を渡した。

「え、お代もなのに傘まで、いいんですか?」

「もちろんです。大きめなのでお二人で入っても余裕がありますよ」

私は心からの笑顔で二人を見送り、大きなビニール傘がゆっくりとバーから離れていくのを少しの間眺めてから彼女にメッセージを送った。

「明日の朝、話したいことあるから電話しよう!」

すぐに既読が付いた。まだ起きていたのか。お疲れ様。私は心の中でそう呟いてから店を閉め、帰路に就いた。

翌朝九時に彼女からの電話がなった。

「もしもし、お疲れ様。なにかあったの?」

「あのね、結菜さん!聞いて欲しい!」

久々の朝の電話とこれから話す内容への彼女の反応が楽しみでつい声が大きくなる。

「素敵な人たちに思い出の傘あげたんでしょう、昨日の夜」

「え?何の話?忘れ物の事なんていちいち覚えてないかな」

私はまさかの反応に昨日のカップルがまた来てくれた時のための台詞を言ってしまった。

「それ言う相手とタイミング間違えてるよ」

彼女がクスクスと笑っているのが聞こえてくる。

「え、でもどうして分かったの?!」

「昨日、今日?康さんから連絡があった直後にいとこからも連絡があったんだよ。初デートで雨のハプニングあったけど面白いバーのマスターが傘くれて相合傘成功!って」

「わあお」

あのカップルのどちらかが彼女のいとこだったとは。素敵な縁は繋がるものなのかも知れない。でも深夜までの初デートは良くないかもね、と言いかけて飲み込んだ。私たちもあの日、家に着いたのは午前零時くらいだった。今更ながら少し反省する。

「それより私も今日の夜帰るから、温かいご飯食べたいんだけどな」

「グリーンカレーでいい?」

「美味しい」

「言うタイミング間違えてるけど、ありがとう。美味しく作るね」

「うん。じゃあまた後でね」

そうして電話を終えた私は急いでスーパーに向かうのだった。

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