【完結】冬の線香花火(作品230620)
菊池昭仁
冬の線香花火
第1話 悪夢
アメリカ西海岸から日本への航海は、大圏航路を進むために本船はベーリング海へと近づいていた。
現地時間、午前3時32分。
俺は航海計器の最終チェックを終え、周囲の安全を確認した。
レーダーには25マイルほど先に、日本に向かうであろう一隻の船の輝影が映っていた。
私はチョフサー(一等航海士)の阪井への航海当直の引継ぎの準備をしていた。
Log Book(航海日誌)に必要事項を英語で記入した。
「セカンドオフィサー(二等航海士)、タイフーン、イヤダネ?」
フィリピン人のクォーターマスター(操舵手)、ゴンザレスがスペイン語訛りの英語で言った。
北海道沖で発達した、960hPaの台風並みの低気圧が北上していた。
「モチロン、オレモイヤダヨ」
国際航路の場合、船での公用語は殆どが英語だった。
昔は日本人同士の乗船勤務だったが、今では士官を除く乗組員はすべて、賃金の安い外国船員になっていた。
大型船の運航には莫大な経費が掛かる。真っ先に人件費が削減された。
中国、韓国、フィリピン、バングラデシュ。
彼らの殆どは日本人船員ほどのスキルも経験もなかった。
ただ、法律で決められた頭数さえいればいいというのが会社側の方針だった。
国際為替の中でのビジネスは動くカネも大きい。
「利潤の追求」は船会社にとっても至上命題だった。
二等航海士の航海当直は昼の12時から16時、そして深夜零時から早朝4時までの一日8時間だ。ずっと立ちっぱなしの勤務だった。
この時間帯は一番寛ぎたい時間でもあり、航海士たちはなるべく早く二等航海士を終え、一等航海士に昇格するのが常識となっていた。
そして私もその内の一人だった。
「現在コース237°、4時間の航続距離は64マイル。前方28マイル、1時の方向に同じ航路を進む船舶が認められます。速力約17ノット。気温はポツ3℃減少のマイナス7.8℃、風速は・・・。
それでは願います(船の当直交代時は「願います」という)
「お疲れ様。これから#海化__しけ__#て来るなあ?」
「嫌ですね? 冬の北太平洋航路は」
私はチョフサーと航海当直の引き継ぎを終え、自分のキャビンに戻って妻の#華絵__はなえ__#とスカイプを始めた。
「どうした? 元気がないみたいだけど?」
華絵の顔色が優れないように見えたからだ。
「今日、病院に行ったら検査入院だって言われたの。
でも大丈夫、そんなに大変なものじゃないみたいだから」
「丁度、あと5日で大井埠頭だから、ちょっと寄ってみるよ」
「いいわよ無理しなくても。忙しいんでしょ? どうせ入港してもまた数時間でアメリカだし」
「次の航海で交代だから、キャプテンに相談してみるよ」
「逢えるのは嬉しいけど、本当に大したことないから」
「そうか?」
でもなぜかその時、私は妙な胸騒ぎを感じた。
「ヒロ、愛してるわ」
「俺もだよ、早く華絵に会いたい」
日本に帰港する3日前、45,000トンもある大型コンテナ船でも爆弾低気圧の海では木の葉のように激しく揺れ、マンガンブロンズ製のプロペラは海水から度々露出し、レーシング(空転)を繰り返していた。
私はキャプテンに事情を説明し、大井での下船を申請した。
「日本で良かったじゃないか? 奥さん、大したことがないといいな?」
「すみません、ご迷惑をお掛けして」
「どうせ次の航海で下船だったんだ、気にすることはない」
キャプテンの#丹所__たんどころ__#は私を労わってくれた。
大井のコンテナターミナルに接岸し、税関やイミグレーション、検疫のチェックを終え、私は交代のセコンドオフィサーと引継ぎを行い、クルーに挨拶をして船を降りるとそのまま真っ直ぐ妻の華絵が入院している病院へと向かった。
病室に向かう前にナース・ステーションに寄った。
「お世話になっている、堂免華絵の夫です。
これ、少しですがみなさんでどうぞ」
私はロスで購入したチョコレートチップクッキーの缶をナースに渡した。
「こんなことしないで下さい、仕事ですからお気遣いなく」
「ほんの気持ちですから」
「ありがとうございます。では折角なので頂戴します。
堂免さん、千葉先生からお話があるそうなので、こちらで少しお待ち下さい」
私はナースステーションの隣の部屋に案内された。
5分程してドアが開き、三十代位のショートカットの美しい女医が現れた。
「外科の千葉です」
(外科? 検査入院のはずだが・・・)
「家内がお世話になっています。
いかがですか? 家内の検査結果は?」
私は女医の簡単な返事を期待していた。
すると、その返事は意外なものだった。
「残念ですが、奥様は末期の乳がんでした。
リンパにも転移が見られ、手術は・・・、不可能です」
「妻はそれを・・・」
「告知はさせていただきました。ご本人からのご要望でしたので」
「あと、どのくらい・・・」
私はその先の言葉を飲み込んだ。
「長くて半年でしょうか?」
千葉医師は気の毒そうにそう言った。
私はその事実を受け入れる余裕がなかった。
悪い夢でも見ているような気分だった。
千葉医師の顔も、カウンセリングルームもすべてが涙の海に沈んで行った。
私は憚ることなく、声を殺して泣いた。
第2話 御守
病院の中庭のベンチに座り、私は気持ちを落ち着かせようとした。
晩秋の芝も木々も枯れ、力なくコスモスが風に揺れていた。
午後の陽射しは傾き、皮肉にも空は抜けるように青く、爽やかだった。
久しぶりの日本での休暇は、最悪のものとなってしまった。
華絵と私は25歳で結婚し、今年で結婚13年目を迎える。
華絵とは中学の同級生だった。
華絵は学校のマドンナで、男子の憧れだった。
彼女は地元の女子高に進学し、私は富山にある商船高専へと進んだ。
初めのうちは何度か手紙や電話の遣り取りもあったが、いつの間にかどちらともなく音信は途絶えたままになっていた。
高専での4年半の座学と、運輸省航海訓練所での1年間の乗船実習課程を修了した頃、中学のクラス会の誘いが来た。
そこで華絵と5年半ぶりの再会をした。
「堂免君だよね? 私のこと、覚えてる?」
「当たり前だろう」
華絵は嬉しそうに笑った。
彼女も成人して、より美しくいい女になっていた。
「堂免君はお船の学校に行ったんだよね?」
「ああ、9月に卒業なんだ」
「お船に乗るの?」
「横浜の船会社に就職が決まったんだ、国際航路の三等航海士として」
「じゃあ、外国に行っちゃうんだね?」
「1年乗って、2か月から4か月の休暇だよ」
「日本に帰って来たら、また会ってくれる?」
意外だった。私はすごく嬉しかったが、不安もあった。
華絵は美人で性格も良く、男に人気があったからだ。
「彼氏、いるんだろ?」
「別れちゃった」
悪戯っぽく微笑む華絵に、私は心を奪われた。
「なら、いいよ」
「ありがとう」
「この後、時間あるか?」
「うん、大丈夫だよ」
「前に行ったスナックがあるんだ、カラオケでもしよう」
「うん」
私と華絵はカラオケを楽しみ、薄い水割りを飲んだ。
時計を見ると、既に午前2時を過ぎていた。
「そろそろ帰ろうか?」
「あら、もう2時?」
「親に叱られないか?」
「大丈夫よ、敦子たちと一緒だから、遅くなるって言って来たから」
「そうか、じゃあ家まで送るよ」
私はタクシーで華絵を実家まで送った。
後部座席で私は華絵に言った。
私は少し風邪気味だった。
「華絵、風邪、移してもいいか?」
華絵はコクリと小さく頷き目を閉じた。
男だけの船の世界、それが私のファースト・キスだった。
その日から私たちの付き合いが始まった。
就職して、最初の船はタンカーだった。
私たちは山ほど手紙を書いた。
船に手紙を送るには、船会社に手紙を送る。
「堂免寛之様 旭洋丸 気付」
という具合に。
港に着いて、現地のエージェントが本社からの手紙を持って来てくれる。
華絵の手紙にはいつも、華絵の付けていた香水の香りが沁み込ませてあった。
二度目の乗船の時、華絵が手作りの御守を貰った。
それはとても手の込んだもので、錨の形をした飾りまで付いた、薄い水色のパッチワークで作られていた。
「御守だから、絶対に開けちゃダメよ」
その御守はしっかりと糸で縫い付けられていた。
次の船は冷凍貨物船で、イタリアのナポリからの乗船だった。
成田からのフライトには、華絵の見送りは辞退した。
私は船乗りとしてはクールではなく、華絵との別れが辛かったからだ。
飛行機が離陸して巡航飛行になった時、私は華絵がくれた御守を取出し、それを見詰めていた。
私は中身がどうしても知りたい衝動に駆られ、CAに訊ねた。
「爪切りを借りることは出来ますか?」
「只今お持ちしますね? 少しお待ち下さい」
CAが貸してくれた爪切りで私は縫われた糸を切り、御守を開いてしまった。
中には折られた紙片が納められていた。
私の命と引き換えにしても構いません
神様 どうかこの人をお守り下さい
私は慌ててハンカチを取出し、目頭を押さえた。
「華絵・・・」
私は華絵を抱くように、その御守を強く抱き締めた。
もちろん、中身を開けたことは今も華絵には話してはいない。
そして私たちは5年に渡る超遠距離恋愛を経て結婚した。
それから13年、華絵がもうすぐ死んでしまうという。
私は空を見上げ、何か楽しい事を思い浮かべようとしたが何も浮かんではこなかった。
私はベンチから立ち上がり、華絵の病室へと向かった。
第3話 どうして?
私はトイレの鏡の前で笑顔の練習をした。
そして病室に入る前、一度大きく深呼吸をした。
「よお! 気分はどうだ?」
私は明るくおおらかに華絵に声を掛けた。極めて船乗りらしく。
本を読んでいた華絵の顔が私を見て、花が咲いたようにパッと明るくなった。
「お帰りなさい、少し太った?」
華絵はきちんと化粧をして、髪型を整えていた。
やはり華絵も女だと思った。
久しぶりに会う夫に、やつれた自分を見せたくはなかったのだろう。
そして少しでも元気に振舞いたいと考えているようだった。
それがかえって痛々しく見えた。
(どうして病室は白いんだろう? もっと華やかにすればいいのに)
私はそう思った。
「そうか? 毎日ビールばっかり飲んでいたせいかもな?
身体の方はどうだ?」
「うん、大丈夫」
「そうか? いつ、退院出来るんだ?」
私は何も知らないふりを装った。
「ふふっ、あなたは浮気は出来ないわね? 嘘が下手すぎるわ。
千葉先生から聞いたんでしょ?」
私は何も言わずに華絵を見た。
そして思わず泣いてしまった。
「相変わらずすぐに顔に出るんだから。涙の跡も残っているし・・・。
お顔くらい、洗って来ないと」
「華絵・・・」
「私なら大丈夫、しょうがないもん、なっちゃったんだから」
私はそっと点滴を刺している華絵の手を両手で包んだ。
華絵の目から涙が零れ落ちた。
「俺が、俺がついているから・・・、俺が・・・」
「うん・・・、ありがと・・・、ヒロ」
涙腺のダムは決壊し、私たち夫婦は嗚咽した。
出来ることなら代ってやりたい、「どうして華絵なんだ」と。
私は激しく後悔した。自分が情けなかった。
船長になる夢のために、私は華絵の人生を犠牲にしてしまったのだ。
私たちに子供がいなかったのは、私が原因だった。
華絵は子供が欲しかった。
私なんかと結婚さえしなければ、こんな思いもすることはなかったはずなのに。
「俺が傍にいれば、気付いてあげられたのに・・・」
「そんなことないわ、私の不注意なんだから、自分を責めないで頂戴」
「華絵、ゴメン・・・」
不毛な会話が続いた。
「俺が悪い」「そんなことない」の繰り返し。
華絵は夕暮れの窓の外に視線を移した。
まもなく陽が落ち、辺りには宵闇が近づいていた。
「だんだんクリスマスだね?
去年のクリスマスはオーストラリアのブリスベンだったでしょう?
ひとりぼっちのクリスマス、寂しかったなあ」
「やろう、クリスマス。
ケーキを買って、チキンを焼いて、シャンパンを開けて」
「うん、やろうね、クリスマス」
個室だったので、私は面会時間のギリギリまで華絵の傍にいた。
「せっかくの日本なんだから、お寿司でも食べに行ったら?」
「帰国するとよく、ふたりで寿司を食いに出掛けたな?」
「たくさん食べて、たくさんお酒も飲んだわね?」
「明後日には退院だよな? 退院したら美味しい物を食べに行こう。
何が食べたい?」
「山岸家のチャーシューワンタンメン」
「山岸家かあ、懐かしいな、あの大将のラーメン」
「気を付けて帰ってね?」
「明日、また来るよ、何か欲しい物はあるか?」
「リンゴが食べたい」
「わかった、買って来るよ」
「冷蔵庫にあるからそれを持ってきて頂戴。お願いね?」
「おやすみ華絵」
「おやすみなさい、ヒロ」
私はタクシーに乗り、そのままマンションには帰らず、スーツケースを転がしながら街を彷徨った。
楽しそうに歩く恋人たちや職場の同僚らしき団体が、嬌声をあげてすれ違って行った。
「おい待て! 俺の女房は死ぬんだぞ! ヘラヘラしてんじゃねえ!」
そう叫びたい気分だった。
私は鮨屋に腰を据えた。
食欲は無かった。
刺身の造りを肴に吟醸酒を呷った。
自分がすべきこと、華絵にしてあげることに想いを巡らせた。
だがそれは哀しみに打ち勝つことが出来ず、ただ酒の量だけが増えて行った。
私は未だに華絵に死が近づいていることが信じられなかった。
いや、信じたくはなかった。
最愛の女房が死ぬ? どうして? なぜ?
華絵が何をしたというのだ! あんなにやさしくていい女が!
私は華絵の存在の大きさを、改めて思い知った。
第4話 リンゴの皮を剥くように
「リンゴ、持って来たよ」
「ありがとう」
読んでいた週刊誌を閉じた華絵は、午後の陽射しを浴びて白く透き通るように美しかった。
華絵がそのまま消えてしまいそうで、私は#狼狽__うろた__#えた。
果物ナイフを取出し、私はリンゴの皮を剥き始めた。
なるべく薄くと慎重に。
それは華絵との残された時間を無駄にしたくないという想いと重なっていた。
なるべく多く、甘い思い出を残したいと私は思った。
「相変わらず上手ね? リンゴの皮を剥くの」
「船乗りはシー・ナイフをそれぞれが持っているからな? ナイフの扱いには慣れているよ。
柄が動物の角で出来ている折りたたみナイフが多いかな? アメリカではガン・ショップでも売られている。
俺のシーナイフは500ドルだけど、中には数十万円から100万円を超える物もある」
私は剥いたリンゴを皿に乗せ、爪楊枝を刺して華絵に渡した。
華絵はうれしそうに私の剥いたリンゴを食べた。
「ヒロが剥いてくれたリンゴは格別に美味しい」
私も一緒にリンゴを食べた。
こんな簡単なことすらしてあげられない生活をしていたのかと、胸が締め付けられる思いがした。
カーフェリーの乗船シフトであれば、1カ月程度で交代があり、家族を乗船させることも出来る。
だが、国際航路の船員にはそれは許されない。
外国船では家族を乗せている船長や商船士官もいるが、日本船にはそういう慣習はなかった。
「ヒロがお船で働いているところを見てみたいなあ」
「見たら惚れ直すぞ」
「惚れ直したい」
日本に寄港した時や、下船の時には停泊中の船を案内してあげたことはあったが、華絵に航海中の船を見せたことはなかった。
「旨いなこのリンゴ?」
「この前、お母さんからもらったのよ。青森のリンゴですって」
うれしそうにリンゴを食べる華絵に私は言った。
「退院したら船に乗せてあげるよ」
「ヒロのお船に?」
「俺の船は無理だけど、新日本海フェリーで鈴木がチョフサー(一等航海士)をしているから頼んでみるよ。
新潟から小樽の航路だから、帰りは飛行機で帰ってくればいい」
「結婚式に来てくれた鈴木君? 大きいフェリーって豪華客船みたいなんでしょう?」
「ああ、大きな船だよ、食事も旨いし。
前に言っていたじゃないか? 俺の船での仕事を見て見たいって。
見せてあげるよ、俺たち船乗りのカッコイイところを」
「揺れない?」
「揺れるかもしれないけど大丈夫だ。俺が華絵の傍についているから」
「じゃあ安心だね?」
「鈴木の操船する船だし、横になっていれば酔わないよ」
「小樽で美味しい蟹が食べたいなあ」
私たちは笑った。
それはごくありふれた、他愛のない夫婦の会話だった。
面会時間も終わりに近づき、私は荷物を片付けた。
「明日退院したら、お昼は山岸家でラーメンだったよな?」
「うん、ひとりでラーメン屋さんに入るには抵抗があるし、ヒロが帰って来たら一緒に行きたいと思っていたの」
「じゃあ、明日9時に迎えに来るよ」
「気をつけてね」
堂免が帰った後、ナースの木村が点滴を交換しに華絵の病室にやって来た。
「やさしい旦那さんですね?」
「本当にやさしい人なの。だから辛いわ、こんな病気になって。
もっと嫌な夫なら良かったのに」
「旦那さんはやさしい方がいいに決まってますよ、ウチなんかいつもケンカしてばっかりですもん。
羨ましいなあ、堂免さんは。
私が家にいないと嫌なんですって。子供みたいでしょ?」
「私はご主人のそんな気持ち、わかる気がします。
夫は船乗りさんだから、半年に一度しか帰ってこないでしょう?
傍にいて欲しい時に彼がいない生活は不安になることも多いから」
「私ならそのくらいが丁度いいかも」
「逆だと良かったのにね?」
ナースの木村は気の毒そうに微笑んだ。
「明日で退院ですけど、何かあったらいつでも来て下さいね?」
「ありがとうございます。
今度お船に乗せてもらうんです、北海道行きのカーフェリーに」
「あら素敵。私も若い時に「前の彼」と乗りましたよ。沖縄に」
「揺れませんでした?」
「その時はそんなには揺れませんでしたけどね。
ベッドではすごく揺れました。あはっ」
「その揺れならいいんだけどね?」
「きれいでしたよ、夏の海。
沖でしか見ることの出来ない色でした。まるでブルーのインクみたいな深い青で」
「へえー、そんなブルーなんだあ」
「良かったですね? 小樽は美味しい物がたくさんあるし、エキゾチックな街ですから」
木村は点滴の交換を終えると、横顔に同情の影を落とした。
その横顔にはこう書かれていた。
「なんでこの人が・・・」
華絵はテレビを点けたが、その関西のお笑い芸人のネタに、華絵は笑う気にはなれなかった。
第5話 後悔
私はマンションに帰ると、キャビネットからロイヤルサルートを取出し、ロックアイスを入れたバカラのグラスにそれを注いだ。氷に流れるウイスキーに癒されるひと時。
船乗りの特権は酒とタバコが免税で買えるということだ。
おかげで家のキャビネットにはいつも世界中の珍しい酒が並んでいた。
華絵は酒をあまり飲まない。
酒のコレクションは私の自己満足であり、華絵にはどうでもいいことだった。
そして今、俺はこの酒に救われていた。
結婚して13年、私は華絵に何をしてやれたのだろう?
夫として、私は華絵に何を与えることが出来たのだろう?
華絵は自分の命に替えてでも私を守りたいと、御守まで作ってくれた。
それなのに私は自分の夢ばかりを追い駆け、航海士を続けている。
普通の夫婦なら朝、家を出て仕事に向かい、家に帰って食事をし、お互いに今日あったことを話して頷いたり笑ったり、時には否定したり泣いたり、怒ったりするはずだ。
休日には一緒に出掛け、映画や芝居を観たり、買物をし、美味しい物を食べて「美味しいね」と微笑み合うはずだ。
同じ布団で寝て愛し合い、そして同じ時間の流れの中で愛を深めていく。
だが、私たち夫婦は織姫と彦星のような夫婦だった。
半年離れて生活をし、2か月を共に過ごす生活。
1年で一緒に暮らせるのは僅か6分の1。
それでもまだ、子供がいれば華絵も寂しくはなかったのかもしれない。
娘婿が船乗りだと妻の両親にとっては都合がいいものだ。
生活費は勝手に口座に振り込まれ、かわいい娘と孫と一緒に暮らせるからだ。
「亭主元気で留守がいい」というわけだ。
だが華絵の実家は兄の家族が同居しており、華絵はこのマンションに独りで暮らしていた。
「犬とか猫でも飼ったら?」
「世話が大変だからいらないわ。それに人間よりも先に死んじゃうし」
ペットは飼わなくて良かったのかもしれない。
人間の方が先に死ぬこともあるからだ。
私は結婚などするべきではなかったのだ。
そう後悔をしながらピスタチオを食べた。
自分よりも先に、妻の華絵が死ぬことなど考えもしなかった。
私は今まで何も考えずに好きな船乗りをして生きて来た。
普通、男の俺が先に死ぬのが順序というものではないのか?
そして華絵はまだ30代、あまりにも死ぬには早すぎる。
最愛の妻を見送る心の準備は、私にはまだ出来そうにもなかった。
船乗りは特殊な職業だ。
海の上や海外にいるので、たとえ身内に不幸があってもすぐに駆けつけることは出来ない。
今回、不幸中の幸いだったのは、私が少し早く休暇が取れたことだった。
私はグラスを置いて、そのままソファに横になった。
すべてが夢であればいいと思った。
やがて睡魔が訪れ、私を夢の中に導いてくれた。
第6話 特別扱いはしないでね
「あー、やっぱり家はいいわねー」
マンションに戻ると、華絵は背伸びをした。
「大丈夫か? 体調の方は?」
「平気よ、着替えて来るね? 早く山岸家さんに行かなくっちゃ。もう並んでいるわよね?
チャーシューワンタン煮卵付き!」
私たちは手を繋いでラーメン屋に出掛けた。
休暇中はいつもこうして手を繋いで出掛けた。
店の前には既に10人ほどの客が並んで待っていた。
山岸家はカウンターが10席のラーメン店で、店主の山岸ひとりで切り盛りをしていた。
見事な調理捌きと温かい接客にはファンも多い。
コンピューター並みの記憶力。メモも取らずにすべてのオーダーを完璧に覚えている。
「チャーシューワンタン煮卵付きを2つ下さい」
「帰って来たんですね? 堂免さん。いつ日本に?」
忙しい中でも山岸は、いつも私たちに声を掛けてくれる。
「3日前だよ。帰って来たらまずは山岸家だからね? 航海中、山岸家の「支那そば」が思い浮かんで頭がおかしくなりそうだったよ。
仕方ないからサッポロ一番を食べて我慢してた」
「それはありがとうございます」
山岸が麺の湯切りをしながら笑っていた。
中学を出てすぐ、大阪の老舗料亭で修行をして、二番板までになった男だ。脱サラのにわか人気ラーメン店とは格が違う。
山岸家のラーメンは「ラーメンの懐石料理」だった。
これ以上何を足しても、引いてもいけないという絶妙なバランス。ちょっとでも触れたら崩れてしまいそうな、積木ゲームのようなラーメンだった。
「おいしいー! 小麦のいい香りとこの奥深いスープ、山岸家さんの「支那そば」は日本一だわ」
「ホントに凄いよなあ? 鹿児島の黒豚チャーシュー、絹のように薄く滑らかなワンタン、上品なメンマに九条ネギ」
「山岸家のラーメンを食べると、しあわせな気分になるわね?」
「そうだな?」
「堂免さん、褒め過ぎですよ」
うれしそうに微笑む店主の山岸。
(あと何回、華絵とこの山岸家のラーメンを食べることが出来るのだろう?)
私は思わず泣きそうになってしまった。
「しあわせな気分になるわね? 山岸家さんのラーメンを食べていると」
(しあわせ? この一杯のラーメンを食べることが?
それが余命宣告を受けた人間が言う言葉なのか?)
華絵のためなら「数寄屋橋次郎」だろうと「ジュエル・ロブション」だろうと、満足するまで食べさせてあげたい。
ブランド品の靴やバッグも洋服も、ダイヤの指輪も金のネックレスも華絵が望む物ならすべてを買い与えたい。
だが華絵はそんな物を欲しがる女ではなかった。
「ご馳走さま。また来るね? しつこく」
「あははは お待ちしていますよ。いつもありがとうございます」
「おいしかったね?」
「ああ、やっぱり山岸家は旨いよな? お茶でもして帰るか?」
「うん」
私は華絵と恋人繋ぎをした手を、私のコートのポケットに入れ、冬枯れの並木道を並んで歩いた。
長い間会うことが出来ない私たちは、いつも出会った頃の恋人気分だった。
だが今は、星も月もない暗黒の海を永遠に漂う、『さまよえるオランダ人』のような気分だった。
その店は白とセルリアンブルー、所々を金のモールで縁取られた、明るいお洒落な紅茶専門店だった。
女性客が殆どの店だった。
「なんだか男には場違いなところだな?」
「そんなことないわよ、ヒロはちゃんと似合っているわよ」
「そうか?」
私は少し照れ笑いをした。
華絵はダージリンのミルクティーとレアチーズを、私はアールグレイに和栗のモンブランを楽しんだ。
「そのモンブラン、ちょっともらってもいい?」
「いいよ、じゃあ俺も」
私たちはお互いのケーキの皿を交換した。
「おいしいね?」
私たちは同時にそう言って笑い合った。
穏やかな私たちの午後のひと時を、店内に流れるモーツァルトがやさしく包み込んでくれた。
「ねえ、ヒロ」
「ん?」
「お願いがあるの」
「どんなお願いだ? 何でも聞くよ」
「私にあまり気を遣わないで欲しいの。
特別扱いされると、何だか申し訳なくて・・・」
それは華絵の言う通りだと思った。
私は華絵の死を、あまりにも意識しすぎていた。
「そんな風に思わせていたら、ゴメン」
「ううん、ヒロの気持ちは嬉しいの。
でもね、そうされると死ぬのが怖くなる。死ぬのがイヤになるから」
「ハナは死なないよ、ハナは死なない、絶対に。
俺がついている、この俺が」
「そうだね? ヒロがいるもんね?」
華絵は悲しそうに笑うと、少し温くなったミルクティーを飲んだ。
航海士という仕事は自然が相手だ。命の危険に晒されることもないわけではない。
だが、自分が死に直面するのではなく、私の大切な妻に近づく死を目の当たりにして、私は冷静でいることが出来なかった。
それがかえって華絵を苦しめていることを私は忘れていた。
いつも通り、今まで通りに私は華絵を愛すべきなのだ。
命の#灯火__ともしび__#が消える、その最期の瞬間まで。
第7話 冬の新潟港
今年の新潟は暖冬で雪も少なく、天気は快晴だった。
私たちがこれから乗船する、新日本海フェリー『らべんだあ』はすでにフェリー埠頭に着岸しており、舶用機関の燃焼排気ガスの匂いがしていた。
「大きな船ね?」
「この『らべんだあ』は全長200m、14,000トンもあるからな?
低気圧は行ったから天気はいいが、少しうねりはあるかもしれない」
「揺れるの?」
「大丈夫だよ、フィン・スタビライザー(復原装置)も付いているし、気持ち悪い時は寝ていれば治るから」
「寝ていれば船酔いはしないの?」
「体の接地面積が広ければ、あまり船酔いはしないのさ。
大丈夫、俺が傍にいるから」
「うん、そうだね?」
そこへチョフサー(一等航海士)の鈴木がやって来た。
「おう、堂免、久しぶりだなあ。
こんにちは華絵さん、結婚式以来ですね?」
「ご無沙汰しています。今日はよろしくおねがいしますね?」
「かしこまりました。素敵な船旅を楽しんで下さい。
堂免、チーフ・パーサーの奥村にはお前たちの事は言ってあるから部屋まで案内してもらってくれ。また後でな?」
「スタンバイ(出港準備)で忙しいのに悪いな?」
「それじゃまた」
鈴木はそのまま持ち場へ戻って行った。
「船乗りさんてカッコいいわね?」
「鈴木は同期の中でも優秀な奴だったからな」
「ヒロもでしょう?」
「あはははは」
(こんなに笑う華絵が死ぬというのか?)
私は冬の青く澄んだ空を見上げ、気分を変えようとした。
舷門で奥村チーフ・パーサーが私たち夫婦を出迎えてくれた。
「チョフサーから伺っております。お部屋までご案内いたしますのでどうぞこちらへ」
「出港前で忙しいのにすみません」
「本日は本船で一番良いお部屋をご用意させていただきました」
「ありがとうございます」
「どうぞこちらです」
メインエントランスでは華絵が声をあげた。
「すごーい! テレビで見た豪華客船みたい!」
エントランス・ホールは大きな吹き抜けになっており、その中央には優雅なメイン階段があった。
「この船はまるで動くホテルだな?」
「本船は食事もいいですよ。期待して下さいね?」
「船乗りさんたちは自分の船を「本船」って言うのね?」
「会社でも「本社」って言うだろう? それと同じだよ」
部屋はロイヤルスイートだった。
「この部屋になります。定刻通りの出港になりますのでどうぞごゆっくり。
何かございましたらいつでもお呼び下さい」
「ありがとうございます」
奥村さんは部屋を出て行った。
「お風呂もトイレも付いているのね? それにきれいに毛布が花のようにデコレーションしてあるわ、素敵」
私は華絵を抱き締め、キスをした。
「さあ、船内を散歩して来ようか?」
「うん」
出港時間になり、私たちはデッキに出た。
スターンライン(船尾係船索)がホーサーウインチで巻き上げられ、シングルアップ(船首係船索を1本にすること)になり、バウスラスター(船首推進装置)が動き始め、離岸作業が進められて行った。
ヘッドライン(船首係船索)も放たれ、船はフェリーターミナルを離れ、外洋へとラダー(舵)を切った。
「動いた、動いた! お船が動いた!」
はしゃぐ華絵。
「鈴木は一等航海士だから船首の総責任者なんだ。
俺は二等航海士だから船尾で指揮を執る」
「へえー、そうなんだあ。初めて見た。お船が出港するところ」
フェリーが新潟港を出港して日本海に出ると、少し船が揺れて来た。
「揺れて来たね?」
「これは揺れてるうちには入らないよ」
私は笑ったが、華絵は少し怯えたような表情をしていた。
船はピッチング(縦揺れ)とローリング’(横揺れ)を始めた。
「揺れてる、揺れてる」
「大丈夫だよ、そのうち慣れるから。夕食まで少し部屋で横になるといい」
私たちは部屋に戻った。
私は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、華絵にも勧めた。
「少し飲むか?」
華絵は一口だけビールを飲んで、それを私に返した。
「これでも揺れていない方なの?」
「そうだよ、もっと海が荒れて来ると、パンチングといって、船が波に突っ込んで進むんだ。
そうなると、結構衝撃が船体に伝わる。
でも船はめったなことがない限り、沈むことはないから安心だよ。
飛行機よりもはるかに安全な乗物だからね?
それにこの船は鈴木が操船しているから安心だよ」
私は華絵をやさしく抱き締め、髪を撫でた。
新潟へは飛行機で来たせいか、心地よい船の揺れも相まって、華絵はいつの間にかソファで寝入ってしまった。
私は穏やかな華絵の寝顔をしばらく眺めていた。
ビールの味が少し苦く感じた。
第8話 劇場の海
目が覚めた。いつの間にか私も眠っていたようだった。
華絵は窓辺に立ち、海を見ていた。
「疲れていたのね? 鼾をかいて眠っていたわよ」
「夢を見ていた」
「どんな夢?」
「コンテナ船に乗って、道路を走っている夢」
「なんだか面白そう」
「もう揺れには慣れたかい?」
「ハンモックに揺られているみたい。
ヒロが傍にいるから安心したのかもね? もう慣れたみたい」
「メシ、食えるか?」
「うん。お腹空いた」
レストランに行く途中、私たちは右舷のデッキに出た。
「これが本当の海の色なのね? ブルーというよりも群青色って感じ」
「夏になると夜、夜光虫が見える時があるんだ。船の作る波でお互いにぶつかり合って、蛍光ペンを暗闇に引いたようにライトグリーンに光るんだ」
「見てみたいなあ」
「夏、また乗せてもらおう」
「そうだね・・・」
華絵はそれ以上、何も言わなかった。
おそらくそれは出来ない約束だったからだ。
「左舷に行こう。そろそろ始まる頃だから」
「何が始まるの?」
夕暮れの海、そこは「海の光る劇場」だった。
「黄金の海みたい! まぶしいー!」
「ハナはツイているよ。こんな夕暮れはめったに見られないんだ。
ちょうど鈴木のワッチ(当直)だから、ブリッジ(操舵室)に上がって見よう」
インフォメーションに行き、スタッフにブリッジへの案内を頼んだ。
「鈴木チョフサーと商船高専で同期だった堂免と言います。ブリッジを見学したいのですが」
「堂免様ですね? チョフサーから伺っております。ご案内いたしますのでこちらへどうぞ」
防犯上の問題もあり、ブリッジへ行くには迷路のようになっている。
「チョフサー、堂免様をお連れいたしました」
「おう、ちょっと待っててくれ、今、イヤな漁船を躱すから。
スターボード!(右に15度舵を取れ)」
クウォーター・マスター(操舵手)が命令を復唱し、ステアリングを右に回した。
「スターボード。 スターボード、サー」
「コース、ゼロ・ワン・ツー!(012度に針路を取れ)」
「コース、ゼロ・ワン・ツー。 ゼロ・ワン・ツー、サー」
漁船を避けると、クウォーター・マスターがオートパイロットの設定針路を012度にセットした。
「お船って船長さんが運転してるんじゃないのね?」
「船は大きいからな? ボートとは違うよ。
それに港を出てからの航海はオートパイロット、自動操縦だしな。そのまま船が勝手に走ってくれるんだよ」
「鈴木さん、かっこいいー」
「俺はもっとカッコいいぞ」
「それはどうかな? 顔は俺の方がいいだろう?」
「馬鹿野郎、あははははは」
ブリッジにいるみんなが笑った。
ブリッジには沢山の航海計器やスイッチ類が並んでいる。私たちは鈴木たちの邪魔にならないように、左舷のウイングに出た。
「鈴木、双眼鏡を借りてもいいか?」
「グリーンフラッシュか?」
「見せてやりたいんだ。華絵に」
私は華絵の首に双眼鏡を掛け、ピントを合わせてやった。
「これから日本海に夕陽が沈む。その瞬間に水平線が一瞬だけグリーンに光るんだ。
間もなくだ。よし、これで良く見ていてご覧」
華絵は双眼鏡を構えると、その時を待った。
「一瞬だからな?」
すると華絵が叫んだ。
「見えた! 見えたよグリーンフラッシュ!」
「良かったな? キレイだろう? ハナ」
日が沈むとやがて空がパープルに染まり、ビーナス(金星)が輝き始めた。
「ほら、あの星が「宵の明星」、金星だ。
それじゃあ豪華ディナーに行くか? ありがとう鈴木、クウォーター・マスター」
「後でまたな?」
「あれを見せてやりたいんだ」
「今度はあれか?」
「そう、例のやつだ」
「何それ?」
「食事が終わってからのお楽しみだよ」
レストランは多くの乗客たちで賑わっていた。
「鈴木さん、とっても素敵だったなあ。
ヒロもあんなふうにお仕事しているのね? なんだか惚れ直しちゃった」
「そうだろう? 少しは見直したか?」
「うん、いっぱい見直した。
制服ってかっこいいね? キュンキュンしちゃう」
「鈴木は3本線、俺はまだ2本線だけどな?」
「金モールの数が階級なのよね?」
「キャプテンになると4本線になる」
「船長さんになるのがヒロの夢だもんね?」
それは自然に出た華絵の言葉だった。
私はそれには反応せず、ヒレステーキにナイフを入れた。
食事を終えると、私は華絵をとある場所へと連れて行った。
「ハナ、俺が手を引いて案内するから目を閉じているんだよ。
そして俺が「いいぞ」というまで目を開けちゃいけない。いいな?」
「うん、わかった」
私は目を閉じた華絵の手を引いて、フライング・デッキに続く階段を登って行った。
「階段だから、ゆっくりな。
左手はハンドレールを掴めばいいから」
「わかったわ、なんだかワクワクする。早く目を開けたいなあ」
私たちは階段を昇り切ってフライングデッキに出た。
そこは灯りはなく真っ暗で、ファンネル(船の煙突)からのエンジン音が聞こえ、いちゃついているカップルの気配だけがしていた。
「よし、ゆっくりと目を開けてごらん」
「何、これ・・・」
華絵は言葉を失った。
そこには陸からは決して見ることの出来ない、プラネタリウムのような星空が拡がっていた。
「あれが天の川だよ」
「はじめて、初めて見た!」
感動のあまり、華絵が涙ぐんでいるのがわかる。
私は華絵を背後から抱き締めた。
「ありがとう、ヒロ・・・」
私たちは星降る夜に泣いた。
第9話 親友
航海当直を終えた鈴木がラウンジで待っていてくれた。
「どうでした華絵さん? 天の川は?」
「感動しました! おとぎ話だけの世界だと思っていました。
本当にあるんですね? 天の川って」
「陸上では標高2,000m級の山に登らないと、中々見ることが出来ませんからね?
海で働く者たちの特権ですよ。
堂免はもっと美しい、世界中の海と空を知っているはずです」
「北米航路では、たまにオーロラも見えるからな?」
「オーロラの話、よくしてくれたもんね?」
「オーロラかあ、俺も見てみたいなあ」
「家に簡単に帰ることの出来ない、国際航路の船乗りへの褒美だよ」
「飛行機のパイロットとは違うからな? 俺たち船乗りは。
華絵さん、船乗りはね? 3回、船乗りを辞めることを考えるんですよ」
「3回? 船乗りを辞めることを考えるんですか?」
「そうです。まず1度目は結婚した時。
奥さんと一緒にいたいからです。
そして2回目は子供が生まれた時。
そして最後は子供が自分の後を追うようになった時です。
「パパー! 行っちゃいやだあー」とか言われると、もう駄目。余程の強い精神力のある奴じゃないと船乗りを続けることは出来ない。
私たちの同級生も、未だに船乗りをしているのは堂免と私、あとは5人くらいです。
堂免は意志が強い。
華絵さんみたいな美しい奥さんがいたら、私ならすぐに船から足を洗いますけどね? あはははは」
「私が素敵な奥さんじゃないから続けているのかもしれませんよ」
その言葉には華絵の複雑な想いが込められていた。
船乗りの私を理解しようとする自分と、一緒にいることが出来ない寂しい自分。
私も船を降りることを考えないわけではなかった。
日本を長く離れていると、色んなことを考える。
だが、国際航路の大型船のキャプテンになるのは私の子供の頃からの夢だった。
私は結婚などするべきではなかったのかもしれない。
華絵が病気になってしまった今、私はそんな自分を責めた。
「俺はバカだからな」
「おまえは意志が強いんだよ。俺は1カ月程度の乗船だし、国内航路だからやっていられる。
お前のように国際航路の航海士だったら、とっくに辞めていたよ。
家族と離れて生活するのは辛いからな?」
「俺たちには子供もいないし、華絵には寂しい想いをさせたよ」
「そんなことないわ。気楽なものよ、「亭主元気で留守がいい」って言うでしょう? うふっ」
華絵はしんみりとした雰囲気を笑いで変えようとした。
「小樽、楽しんで来いよ。
旨い鮨屋があるから行ってみるといい」
鈴木はその鮨屋の簡単な道順と電話番号を書いたメモを渡してくれた。
「小樽で休暇なら案内してやれたんだが、すまんな?」
「俺たちの2度目の新婚旅行をお前に邪魔されちゃ困るよ」
「そりゃそうだ。あはははは
じゃあ、早朝4時からワッチだから行くよ。
明日は忙しいから見送れないが、いい2度目の新婚旅行になるといいな?」
「ありがとう、鈴木」
「ありがとうございます」
「じゃあまたな?
今度はふたりでウチにも遊びに来て下さいね」
そう言って鈴木は自分のキャビンに戻って行った。
「売店でアイスでも買うか?」
「うん、いいわね」
売店で北海道の名物だというカップアイスを買い、私たちは部屋に戻った。
「鈴木さんってとてもいい人ね?」
「ああ、親友だからな? 海の男だよ、鈴木は」
「ヒロと似てる気がする。思い遣りでいっぱいな人」
「俺はやさしくなんかないよ、わがままなガキだ」
「私は好きよ、夢を追う永遠の少年って」
「もうオッサンだよ」
「じゃあ、私もオバサンだ」
「ハナは永遠の美女だよ」
「ありがとう」
華絵はうれしそうに微笑み、アイスを食べた。
「おいしいね? このアイス」
「北海道のアイスだからな?」
「そうかもね」
こうしてふたりでアイスを食べていることに、これ以上の幸福が他にあるだろうか?
私はこの時間がずっと続けばいいと願った。
私たちは風呂に入り、一緒に寝た。
「新婚初夜だね?」
「大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ、あんまり激しくしないでね、久しぶりだから」
「それではよろしくお願いします」
「どうぞ召し上がれ」
私はやさしく華絵を抱いた。
(どうか華絵の病気に奇跡が起きますように)
と、祈りを込めて。
鈴木には華絵のことは予め電話で話しておいた。
「そうか、大変なことになったな?」
「華絵がこんなことになるなんて、考えもしなかったよ」
「俺には何も出来ないが、船旅はまかせておけ、出来るだけのことはさせてもらうよ」
「世話になるよ鈴木、ありがとう」
「堂免、いい思い出を作れよ」
「ああ、そうだな。
俺は後悔しているんだ、なんで結婚した時に船を降りなかったのかと」
「それは結果論だ。堂免、自分を責めるな」
「そうでなければ俺は華絵と結婚するべきじゃなかったんだ」
「そうじゃない、お前は悪くない。
死ぬのは華絵さんだけじゃない、それは俺もお前も同じだ」
「だったら、俺が先だと良かったよ」
「そうなれば今度は華絵さんが悲しむ。堂免、最後まで希望を捨てるな。俺たちは船乗りじゃないか!
最後まで諦めるな!」
「なんで華絵なんだよ!」
「堂免・・・」
「すまん、つい・・・」
「新潟で待ってるからな? 気を付けて来いよ」
鈴木は忙しい中、出来る限りのもてなしをしてくれた。
早朝、船は小樽港に定刻通りに接岸した。
小樽は雪が降っており、気温はマイナス10℃を越えていた。
北海道に来るといつも思う。どうしてこんなに寂しいのかと。
北海道の港街にはロシア語の落書きと、広さゆえの荒涼感がある。
私の頭の中で、石川さゆりが歌う、『津軽海峡・冬景色』が鳴っていた。
第10話 ガラスのうさぎ
華絵と私はホテルにスーツケースを置いて、小樽運河沿いの道を手を繋いで歩いた。
「寒くないか?」
「大丈夫、でも流石に冬の北海道は寒いよね?」
私たちは新雪をギュギュと踏み締めながら、鈴木の教えてくれた鮨屋を探した。
その鮨屋はすぐに見つかった。
気取らないが清潔感のある和モダンの外観と藍染めの暖簾が掛かっている、小樽の風情が感じられる店だった。
店の前では女将らしい女性が和服に割烹着姿のまま、竹箒で新雪を掃いていた。
「こんにちは、お店に入ってもいいですか?」
「雪の中、ありがとうございます。
寒いですからどうぞ中で暖まって下さい」
引戸を開けると、さらに引戸があった。
寒い地方の知恵であろう、寒さの為の緩衝域が設けてある。
店内は白木のカウンターが10席ほどの店だったが、すでに6席が埋まっており、そのうちの2席には予約席のプレートが置かれていた。
「失礼ですけど、堂免様でいらっしゃいますか?」
「えっ?」
「鈴木様から「多分13時過ぎくらいにイケメンと美女がお店に行くからよろしくね」とご予約をいただいておりましたもので」
女将は予約席に私たちを案内してくれた。
さっき雪を掃いていてくれたのも、おそらく私たちへの配慮であろう。
そんな気配りのある鮨屋だった。
「熱燗とお茶をお願いします」
「かしこまりました」
店主は40歳位の物静かな歌舞伎役者の女形のような男だった。
鮨を握る手がとても優雅で美しかった。
「鈴木様にはいつもご贔屓にしていただいております。
わざわざ遠くからありがとうございました。
何か苦手な物はございますか?」
「私も家内も好き嫌いはありません。
お造りを2人前と、あとはお任せで」
「かしこまりました」
造りにはホッケの刺身が出て来た。
「ホッケは足が早いので、脂の乗った新鮮な物はここでしか召し上がれないかもしれません。
朝、市場で仕入れた物です」
華絵はめずらしそうにそれを口にすると、
「おいしい! 初めて食べました!」
「喜んでいただいて良かったです」
後から別々に2名の客も訪れ、店はすぐに満席になった。
それをまるでオーケストラの指揮者のように、店主はてきぱきと捌いていた。
「これは「オヒョウ」の握りになります」
「オヒョウってどんなお魚なんですか?」
「すごく大きなカレイなんです。塩をふってありますのでそのままお召し上がり下さい」
「北米やベーリング海にも生息していて、現地では「ハリバット」とも言うんだよ。
大きい物になると4m以上の物もいるらしい」
「よくご存じですね?」
「まさか日本でオヒョウが食べられるとは思いませんでしたよ」
鮨飯には赤酢を使っており、ネタに合わせてシャリの量を微妙に変えていた。
口の中でいい具合にほぐれるシャリ。
どれも一番美味しく食べられるようにと、そのネタに合う味付けがされていた。
銀座の高級店にも引けを取らない寿司だったが、それを誇示するような寿司ではなかった。
とてもやさしい味がした。
料理には作り手の人柄が伝わる物だ。
「ご旅行ですかな?」
カウンター席の隣にいた、品の良い老夫婦から声を掛けられた。
「ええ、夫婦で新潟からフェリーでやって来ました」
「船旅ですか? それは良かった。
私は商社で働いておったので、殆ど家にはおりませんでした。
ですから今はこうして家内を#接待__・__#しているというわけです。罪滅ぼしですな? あはははは」
「まるで母子家庭のようでしたのよ。3人の子供を必死に育てました。
でもね、人生なんてあっという間、気が付いたら結婚してもう50年ですもの」
「夫婦円満の秘訣は何ですか?」
華絵が訊ねた。
「それはお互いの良いところを認めることね? 嫌なところはなるべく見ない、いいところだけを見ること。
だって嫌なところはすぐに気付くでしょう?」
「喧嘩とかしないんですか?」
「たまにはするよ、くだらんことでな? 喧嘩もしない夫婦はおらん。
夫婦とは本音を言い合える関係だということでもあるからな?
あなたたちは喧嘩はしないのかね?」
「うちはケンカすることは少ないですね? 一緒にいる時間が少ないので」
「単身赴任ですか?」
「はい、長期の」
「それは大変ですな? 折角の小樽ですから十分楽しんで下さいね?
ではお先に。大将、おあいそして下さい」
老夫婦は店を出て行った。
「素敵なご夫婦だったわね?」
「うん・・・」
結婚して50年、その言葉が私に重く圧し掛かっていた。
私は今まで華絵と喧嘩をした記憶はなかった。
それは喧嘩をするほど長く一緒にいなかったからかもしれない。
「凄く美味しかったです! もうお腹いっぱい。
こんな美味しいお寿司、食べたことがありませんでした」
「ありがとうございます。是非またおいで下さい。お待ちしております」
「ではお勘定をお願いします」
すると女将が、
「お支払いは鈴木様から頂戴しております。お気をつけて小樽のご旅行をお楽しみ下さい」
店を出ると華絵が言った。
「お寿司、すごく美味しかったね? でもなんだか悪いわね? 鈴木さんにご馳走になっちゃって」
「あそこまで気を回してくれて、いかにも鈴木らしいよ。 学生の時からそうなんだよ、割り勘なんて俺たちはしない。ましてや女にカネを払わせるようなことは絶対にしないんだ。持ってるやつが払う。それが船乗りなんだよ」
「良かった、船乗りさんと結婚して。うふっ」
うれしそうに笑う華絵。
小樽には『帆船日本丸』の実習航海で来て以来だった。
その時はまだ10月だったがとても寒く、雪がちらついている中での裸足でのタンツー(椰子を半分に切った物をタワシ代わりにして甲板を磨くこと)はキツかった。
そして今、華絵とその小樽を歩いている。
「小樽ってなんだか寂しい街ね?」
「北海道はどこか物悲しいものだよ。
アメリカもそうだが、本国で夢敗れた者たちの、リベンジの場所だからかもな?
演歌の似合うところだよ、北海道は」
「でも、食べ物も美味しいし、広くて自然がいっぱいで、私は好きだな、北海道。
さっきのお鮨屋さんも、すごく親切だったし」
「この厳しい自然が人を優しくするのかもしれないな?」
小樽運河にはレンガ倉庫が映り、水面に揺れていた。
「小樽はね、昔は日本の「ウォール街」とも呼ばれていたらしい。北海道の経済の中心は小樽だったんだ。
ソビエトとの交易、樺太や満州との連携地としても栄え、石炭の積み出し、ニシン漁でも小樽は潤っていた。
日銀の支店も小樽にあったんだよ。
だが、ソビエトがロシアになり、樺太や中国との交易も縮小され、「黒いダイヤ」と言われた石炭は石油に代わり、ニシンも獲れなくなってしまった。
今では寂れた観光地だ」
「でも、繁栄しているからいいとも限らないでしょう?」
「もちろんそうだ。金持ちが必ずしもしあわせとは限らないからな?
家があって、仕事があって、飯が食えて。
そして温かい家族があればそれで十分だ」
「私は幸せよ、ヒロのお船での仕事がどんなものかもわかったし、北海道まで連れて来てもらえて。
ヒロの奥さんで本当に良かった」
私は人目を気にすることなく、華絵を抱き締めて泣いた。
「どうしたの? みんなが観てるよ」
「ごめん、ハナ。
俺は何も、何も今までハナにしてやれなかった・・・」
「そんなことないよ、私の方こそ、ヒロに奥さんらしいこと、何もしてあげられなかった。
ゴメンなさい・・・」
しばらくの間、私たちは石像のように雪の中で抱き合ったままでいた。
雪が私と華絵にやさしく降っていた。
私と華絵は『北一硝子』に寄った。
沢山のキラキラ光る、美しいガラス工芸が飾られていた。
華絵が小さなガラス製のうさぎを見つけた。
「わあ、これカワイイ!」
「家に飾ろうか? リビング? それとも玄関に?」
「仏壇。私のお仏壇に飾って欲しい・・・」
「華絵・・・」
私は言葉を失った。
「小さくて可愛いでしょ? 私みたいで?」
「・・・」
「このウサギさんがいいな」
私たちはそのガラスのうさぎを買った。
ガラス館を出ると、羽毛のような雪が降っていた。
「もうすぐクリスマスだね?」
「そうだな?」
私と華絵は片方の手袋を脱ぎ、恋人繋ぎをしてその手を私のコートのポケットに入れた。
どこからか、『ジングルベル』が聴こえていた。
第11話 温かいココア
小樽から札幌のホテルに着くと、華絵の体調が悪化した。
私たちは予定を繰り上げ、翌日の飛行機で東京に戻ることにした。
帰りの飛行機は穏やかなフライトだった。
「ごめんなさいね? 札幌観光が出来なくなってしまって」
「大都市はどこも同じだよ。俺は鈴木の船にハナと乗れたし、小樽で十分楽しかったよ」
「札幌の味噌ラーメン、食べたかったなあ」
「味噌ラーメンなら東京にも沢山あるよ。旨い味噌ラーメンが。
体調が良くなったらまた連れて来てやるよ」
「寒い札幌で食べるからいいんじゃないのー。
地元だからいいのよ。
お蕎麦だってそうでしょう? 東京にも美味しいお蕎麦屋さんはあるけど、信州の戸隠で食べるからいいんじゃない?」
「また行けばいいよ、札幌なんて飛行機ですぐだから」
「もう無理だよ、遠出は」
「じゃあ、近場でいいじゃないか? 何が食べたい?」
「考えておくね? 今は何も食べたくないから」
「東京に着いたらすぐに病院に行こうな?」
「もう少し待って、もう少しだけ家にいたいから」
私は華絵を病院のベッドではなく、家で看取ってやりたいと思っていた。
家のベッドで華絵と寄り添って見送ってあげたかった。
「心配しなくてもいいよ、家に帰らせてもらうから」
「ううん、病院の方がいいの。先生や看護師さんたちもいるし、痛みもやわらげてくれるから」
それは家にいれば私に面倒を掛けることになるからだ。
「華絵のためじゃなく、俺の為にそうしたいんだ。
家なら1日中一緒にいられるだろう? 病院だと面会時間が決まっているから」
「ありがとう。でもヒロにオムツの交換をしてもらうなんてイヤだよ」
「いいじゃないか? 夫婦なんだから。
だって俺がもしそうなったら、ハナもそうしてくれるだろう?」
「喜んでしてあげるわよ、「今日はいっぱい出たね?」とか言って」
華絵はかなり辛そうで、力なく笑った。
「俺も同じだよ、ハナのためならなんでも出来る。
お願いだ、もしそうなったら俺にハナの世話をさせてくれ」
「考えておくわ」
「それは俺が決めることだよ」
家に帰って来るとホッとしたのか華絵の体調も回復し、顔色も良くなった。
「お薬を飲んだら少し良くなったみたい」
「無理をするなよ。何か飲むか?」
「温かいココアが飲みたい」
「俺の愛情たっぷりのスペシャル・ココアを淹れてあげるよ」
私は牛乳を沸かすためにキッチンに立った。
「ココアはどこだ?」
華絵は戸棚からココアを取出すと、私の背中に抱き付いた。
「しあわせよ、とっても。
あなたが一緒にいてくれるだけで幸せなの。凄く心強い。
死ぬことなんて怖くない」
私は振り向き、華絵を強く抱き締めた。
「ずっと一緒だ、ずっと」
「私が死んだら、再婚してもいいからね?」
「もう、結婚はしないよ。
俺は女を幸せにすることが出来ないから。
これ以上、女を不幸にしたくないんだ。
俺の女房はハナだけだ」
「でも、もし好きなひとが出来たら、私に遠慮しないでいいからね?」
「もう止そう、そんな話は」
「そうね? あなたはやさしい人だから」
華絵の死など、私にはとても受け入れられるはずもない。
ただ華絵には出来るだけのことをしてやりたい。
私はカップに入れたココアに熱い牛乳を注いだ。
私と華絵は立ったまま、キッチンでそれを飲んだ。
それはほんのりと苦みのある、甘いココアだった。
第12話 里帰り
病気のことは義母にはまだ話してはいなかった。
心配を掛けたくはなかったが、言わないわけにはいかないとも思っていた。
「お義母さんにはまだ言ってはいないんだろう?」
「なかなか言い出せなくてね」
「お義母さんに会いに行こうか? 体調はどう?」
「この前、病院に行って薬を処方してもらったから大丈夫だけど、いいの?」
「クルマだから安心だし、ずっと帰っていないんだろう?」
「時間はあったんだけどね、お母さんも仕事していたから」
「田舎に帰るのは俺も久しぶりだし、明日、行こうか? 会津へ」
「うん、ありがとうヒロ」
私たちの地元は会津若松だった。
東北自動車道を走って行くと、景色は次第に山と田圃に移り変わっていった。
郡山から磐越自動車道に乗った。
「懐かしいなあ、お盆にもお正月にも帰らなかったから1年ぶりよ」
「俺は3年ぶりかなあ?
親父とお袋が死んでからは、俺には帰る理由もなくなったしね?」
「母が再婚してからはなんとなく帰りづらくて」
「そうだよな? 自分の親が再婚すると抵抗はあるよな?」
「悪い人じゃないんだけどね、私はお父さんが好きだったから複雑」
「お父さんにも会いに行こうよ」
「ううん、お父さんはいいよ。お父さんにも別な人がいるようだし」
「そうか?」
いくつもの長いトンネルを抜けると、そこは白い雪景色に変わった。
「スタッドレスにして来たけど、久しぶりの雪道は怖いよ」
「やっぱり雪国だね?」
「磐梯のサービスエリアでトイレ休憩して行こうか?」
「そうだね」
駐車場からは美しい磐梯山が見えていた。
会津人にとって、磐梯山は富士山と同じだった。会津人の誇りであり、母なる山なのだ。
雪化粧をした雄大な磐梯山は、所々にスキー場が点在し、山林が切り倒され、猪苗代湖側は山肌が見えていた。
私はそれが嫌だった。
学生の頃、何度か磐梯山にひとりで登ったが、磐梯山から眺める猪苗代湖はとても爽快な景色だった。
麓に走る磐越西線と磐越自動車道、そして49号国道を走るクルマが蟻のように見えた。
山登りはよく人生に例えられる。
登る前は希望に溢れ、登り始めるとその苦しさに登山を始めたことを後悔する。
「俺はどうしてこんなに過酷な山登りを始めてしまったのだろう」と。来た道を引き返すのも嫌だし、登るのも辛い。
それを考えながら登山を続けていると、次第に頂上の気配を感じて来る。
そして、突然広がる360度のパノラマ。
その風景に今までの苦痛や迷い、後悔が吹き飛んでしまう。
私は今、人生の登山の何合目にいるのだろうか?
あるいはもう既に頂上を越え、山道を下っているのかもしれない。
登山の醍醐味は、下山して自分の登った山を振り返った時にある。
私の人生の山は険しく、高い。
私と華絵はソフトクリームと温かいお茶を買った。
「冬なのについソフトクリームって買っちゃうよね?」
「クルマの中は暖かいからな?」
「炬燵で食べるラムレーズンは最高だよね?」
「そうだな」
幸福だった。そんな何気ないひと時が。
サービスエリアを出てドライブを続けていると、広大な会津盆地が眼前に広がった。
インターを降りて、クルマは市内へと入って行った。
道路には昨夜に降った雪がまだ残っていた。
所々凍結しており、私は慎重に運転を続けた。
そこは懐かしい街並みだった。
「ここの中華屋さんでレバニラ炒めを食べたよね?」
「まだあるんだな?」
実家では義母が出迎えてくれた。
「遠かったでしょう? どうしたの? 急に?」
「寛之さんが休暇で、どこかに行こうということになって、それで会津に来たの。
お母さんは元気そうね?」
「おかげさまでね。
でも私もあと3年で還暦よ、もうお婆ちゃんだわ」
「お母さんはまだ若いわよ。いつも笑っているし」
「お久しぶりです、お義母さん」
「いつ帰国したの?」
「10日ほど前です」
「そう、今日は泊まっていけるんでしょう?」
「はい、お世話になります」
夜、食卓には会津の地元料理が並んだ。
棒鱈煮、鰊の山椒漬、こづゆ、そして馬刺など。
懐かしい郷土料理とすき焼きをご馳走になった。
「懐かしい味でしょう? どんどん食べてね?」
「堂免君、いつまで日本に?」
「今回は少しゆっくり出来そうです」
「それは良かった。なんならずっとここにいてもいいんだよ。のんびりするといい。
いいもんだろう? 久しぶりの会津は?」
「ありがとうございます。
いいものですね? やはりふる里は?」
義母の夫がビールを注いでくれた。
「いいわよねー、東京は雪が降らないから。
会津は相変わらずよ」
「でも、私が子供の頃よりは降らなくなったわよね?」
「昔よりはね?」
「でも、帰ってくるとホッとするわ、ここには思い出がたくさんあるから」
食後、私たちは華絵のアルバムを広げた。
赤ん坊の時の華絵、幼稚園、小学校、中学、高校、そして大学、就職、結婚・・・。
笑っている華絵、怒っている華絵、泣いてる華絵。
いろんな華絵がそこにいた。
「人生なんてあっという間ね?」
「まだそんなことを言うには早いわよ、人生はこれからなんだから」
「そうだね? まだお母さんの半分だもんね?」
「人生はね、振り返っちゃ駄目。
過去はもう過ぎたことだもの。
大切なのは今。明日のことなんかわからないしね?」
「明日・・・」
「そうよ、辛いことは忘れて、楽しい明日を信じないと生きるのが苦しくなるでしょう?」
義母の人生は決して平坦ではなかった筈だが、この人はいつも笑っている。
寝床に就いて、私と華絵は手を繋いだ。
「病気のことはお母さんには黙っておくことにする」
「その方がいいかもしれないな?」
「ねえ、明日、観光客にならない?」
「観光客? いいねそれ」
「会津で旅人になるの、私たち」
「また新婚旅行だな?」
「そうだね」
私は華絵を抱き寄せ、背中を摩った。
華絵の背中がより小さくなったように感じた。
私は華絵の冷たくなった足を自分の足に挟んで温めてやった。
「ヒロの足、あったかい・・・」
「どういたしまして」
静かな夜だった。
外はまた、雪が降っているようだった。
第13話 雪降る城下町
「じゃあ、行くね?」
「気を付けて帰るのよ」
「うん、お母さん・・・」
「なーに?」
「ううん、なんでもない、元気でね」
「何よ、もう会えないみたいに」
私はそれを誤魔化すように言った。
「これから会津を散歩して帰ります。
今度はお義父さんと一緒に東京見物にも来て下さい」
「ありがとう、寛之さん。
ゴールデンウィークにでも遊びに行かせてもらうわね。
会津には何もないから。デパートも無くなったし」
「デパートなんか要らないわよ。
猪苗代湖があって磐梯山があって、おいしい空気があれば」
「華絵、悩みがあればいつでも言いなさいよ、親子なんだから」
「うん、ありがとう、お母さん」
華絵は心の中でこう言ったはずだ。
(私、死んじゃうんだよ。
お母さんと会えるのはこれが最後だと思う。
さようなら、お母さん)
親よりも先に死ぬ。
それほどの親不孝があるだろうか。
クルマの中で華絵は泣いていた。
「あれで良かったのか?」
「とても言えなかったわ・・・。
親子なのにね?」
「親子だから言えないこともあるよ」
「そうだね。
ねえ、お城に行ってみない?」
「懐かしいなあ、鶴ヶ城」
鶴ヶ城は平日ということもあり、観光客は疎らだった。
城も、本丸も真っ白な雪景色になっていた。
「高校生の時、よくお城を部活で走ったなあ」
「子供の頃、お城の市民プールで泳いだ帰りに、水飴を買ったっけなあ。
コンビニもない時代だったから、自転車で行商をしていた水飴売りのオッサンがいただけだもんな?」
「うん、私も覚えている。
ついつられて買っちゃうんだよね?
お花見にもよく来たよね?」
「華絵がプレゼントしてくれた、ペアルックの黄色いトレーナーを着てな? 若かったよなあ」
「ねえ覚えてる? お濠の手漕ぎボート?」
「もちろん。近くの女子高生たちに冷やかされたよな? 今もあるのかなあ? お濠のボート?」
「行ってみようよ」
だが、そこにはボートも店も無くなっていた。
「がっかり、またヒロとボートに乗りたかったのに」
「冬にか? ボートに乗って、帰りに店でところ天も食べたよな?」
「ところ天かあ、なんで食べたんだろうね?」
「それしかなかったんだよ。あと瓶のラムネぐらいしか」
凍った雪道で転ばぬようにと、私は華絵と手を繋ぎ、散策を続けた。
石綿のような重い灰色の空に、雪が舞い始めていた。
夫婦とは何だろう?
人生は海をゆく船のようなものだ。
晴れの穏やかな航海もあれば、荒れ狂い、牙を剥く海の中を進む航海もある。
そんな人生の航海を楽しみ、そして嵐の海を乗り越えるために夫婦がいるのではないのだろうか?
だが、その大切な人生のパートナーが、船から連れ去られようとしている。
航海士が夫なら、機関士は妻なのかもしれない。
機関士のいない船で、私はこれからどうやって人生の航海を続けて行けばいいのだろう。
俺はまだ、華絵に何もしてやれてはいない。
自分の船長になるという夢のために、私は今まで華絵の人生を犠牲にして来た。
それは夫婦とは言えない。俺は華絵をただの「お手伝いさん」にしてしまった。
「寒くなってきたから、何か温かい物でも食べよう。
何が食べたい?」
「お蕎麦でもいい?」
「それなら『桐屋』に行こうか?」
華絵はきつね蕎麦を、私は盛り蕎麦を食べた。
「この寒いのに盛り蕎麦? ヘンな人」
「蕎麦ならやっぱりこれなんだよなあ、俺は」
私は軽やかに音を立てて蕎麦を啜った。
「いつも感心するけど、ヒロはなんでも美味しそうに食べるね?」
「そうか? 江戸っ子は蕎麦を全部蕎麦猪口に浸けないで食べる人が多いが、そんな江戸っ子も、死ぬ前には一度でいいから蕎麦をタレにドボンと沈めて食べてみたいそうだ。
粋な江戸っ子の痩せ我慢なのかもしれないな?」
私は「死ぬ前に」と言ってしまったことを後悔した。
それを察した華絵が言った。
「お饅頭の天ぷら、食べる?」
「イカの天ぷらも頼むよ。塩イカの天ぷら」
「あれ、美味しいもんね? ねえ、お蕎麦を食べたら『スウィング・スクエア』でお茶してから帰らない?」
「まだあるのかなあ? あの店」
蕎麦を食べながら華絵に訊いた。
「身体、大丈夫か?」
「うん、行ってみたいの。ヒロとよく行った『スウィング・スクエア』に」
そこは昔の銀行を改装した、大正ロマンがコンセプトの地下にある純喫茶だった。
「あまり変わってはいないね? メニューも殆ど当時のままだし」
「変わらないということは、自信でもあるからな? 変えたくない、変えなくてもいいという自信。
よくデートに来たよな? この店に。
あの頃はクルマも免許も無くて、一日中歩き回っていろんな喫茶店に行ったよな?」
「水曜日の夜にはJAZZの生演奏もやっていたわよね? 今もまだやってるのかしら?」
「どうだろう? あれからかなり経つからな?」
「若かったね? 私たち」
「華絵は今も若いよ」
「もうおばさんだよ」
華絵はお気に入りのウインナーコーヒーを飲んだ。
青春の残骸の中に埋もれ、私はそんな華絵に見惚れていた。
第14話 妻の背中
日を追うごとに、華絵の体力は坂道を下るようにゆっくりと落ちて行った。
「風呂、一緒に入ろうか? 背中、洗ってあげるよ」
「いいよ、子供じゃないんだから」
「それなら俺の背中を洗ってくれよ」
「しょうがないなあ。それじゃあサービスしてやるかな?
高いわよ、華絵ソープランドは」
私たちは笑った。
「華絵、入るぞー」
「いいよー」
骸骨のように痩せ細った華絵のカラダに、私は戸惑った。
それを察知したように華絵が言った。
「私のカラダ、骸骨みたいでしょ? 骨と皮だけになっちゃった」
「俺はスレンダーな華絵も好きだよ」
「これはスレンダーとは言わないよ・・・」
私はスポンジにボディソープを付け、話題を変えた。
「この前会津に行った時、水羊羹を買って来るのを忘れたな? あれ、好きだったんだけどなあ」
「私も帰って来てから気付いた。会津若松の駅なら売ってることもあるんだけど、クルマだったからね? 今度、お母さんに送ってもらうよ」
「大変だからいいよ。美味しい水羊羹なら東京にいくらでもあるし。
ハナの体の調子がいい時に、一緒に買いに行こう」
「そうだね? 水まんじゅうも食べたいなー」
「でも、どちらもないかもしれないな? 今はまだ冬だから。
夏まで待つしかないね?」
「夏までは・・・、無理だよ」
私は華絵の背中を洗い始めた。
「ねえヒロ、外国の話をして」
「そうだなあ、華絵は何処の国に行ってみたい?」
「そうねえ、行くとすればヨーロッパかなー?」
「パリやロンドンもいいけど、アントワープは好きな街だったなあ。美しい中世の雰囲気が残る港町なんだ」
「ベルギーだよね? アントワープって?
『フランダースの犬』の舞台になった」
「現地の人間は知らなかったけどな?」
「へえー、そうなの?」
「ハナはチョコレートが好きだろう? おしゃれな小さいアーケードに、たくさんのチョコレートの店があって、チョコの甘い香りが色んな店から漂って来るんだよ。ハリーポッターの映画に出て来る、あの魔法の道具を売る商店街みたいな雰囲気で」
「いいなー、ヒロはベルギーワッフルも食べた?」
「見たような気もするけど、食べなかった」
「勿体ない」
「その代わり、酒はたくさん飲んだよ、ベルギービールとかね」
「ベルギーって名前が付いただけで美味しそうだもんね?
ベルギーチョコレートにベルギービール、それにベルギーワッフルも」
「神戸牛に長崎ちゃんぽん、横浜シュウマイとかもな?」
「あはは、そうだね? 『東京バナナ』とか」
「あはははは、それもあったよな?
ベルギーにはペケというジンがあって、それをひょうたんみたいな小さいショットグラスで飲むんだ」
「ベルギーはジン発祥の地なんでしょう? 前に本で読んだことがある」
「良く知ってるな? 肉や魚の味の濃い料理や、エルブのような強いクセのあるチーズとよく合うんだよ」
「ベルギーはお食事も美味しいの?」
「もちろんだよ。酒の旨いところはメシも旨い。
それに世界一のダイヤモンドのシンジケートがあるんだ。
世界中のダイヤの70%以上はアントワープで加工されているらしい。
ベルギーはフランスやドイツに占領されたり、その地理的な背景からも5か国語は話せないと生活が出来ないとも言われている」
「私には無理だなー、英語すら大学の時からご無沙汰だし。
ねえ、あのネロとパトラッシュの大聖堂にも行ったの?」
「ルーベンスの絵がある、あの大聖堂な?
行ったけど中には入れなかった。時間外だったのかな?
でも、外側からでもネロとパトラッシュが天使たちに連れられて、天国に昇っていくような美しい大聖堂だったなあ」
「いいなあ、私もネロになりたい・・・」
「じゃあ、俺はパトラッシュになって、ヒロを乗せて天に昇るよ」
「ダメよ、私と一緒に死んじゃうじゃない」
「・・・それでもいいよ、華絵となら」
「馬鹿なこと言わないの。ヒロは船長さんになるんでしょう?」
そう言って華絵は力なく笑った。
「ハナ・・・」
「ごめんなさいね、私が病気になってヒロに迷惑ばかり掛けて・・・」
私は背後から華絵を強く抱き締めた。
「迷惑なんかじゃない。 俺が、俺が華絵をこんな目に遭わせたんだ・・・」
すると華絵はそれを打ち消すかのように言った。
「今度は私が洗ってあげる」
華絵は私に向き直ると、私からスポンジを取り、首筋から下へと洗い始めた。
「立って」
私が立ち上がると、ペニスをやさしく洗い始めた。
「おいコラッ、君、ちょっと元気がないぞ。うふっ」
華絵は私のそこをお湯で流し、そこにやさしくキスをしてくれた。
痩せて小さくなった華絵の背中に触れ、私は泣いた。
ベッドに入り、私は労わるように華絵を抱いた。
「もっと強く、激しくして・・・」
「大丈夫なのか?」
「うん、寛之を自分のカラダに刻み付けたいから・・・」
「愛しているよ、華絵」
「大好きよ! 寛之!」
セックスとはただの男の排泄行為ではない。
愛が溶け合い、ひとつになることだ。
身も心もすべて。
その夜、私たちの愛はひとつになった。
第15話 鳴らないジングルベル
クリスマス・イブが近づいていた。
私と華絵は玄関にオーナメントを飾り、今年は私の背丈ほどもあるクリスマスツリーを飾っていた。
神の奇跡を信じて。
クリスマスは海外にいることが多く、華絵との日本でのクリスマスは久しぶりだった。
そしておそらく、これが最後の華絵とのクリスマスになるだろう。
「何年ぶりかしらね? 夫婦一緒のクリスマスなんて」
「海外では宗教的な儀式としての意味あいが強いが、日本でのクリスマスはファッションだからな?」
「外国のクリスマスって、素敵なんだろうなあ」
華絵は小さなサンタクロースをツリーに掛けた。
「ロンドンではクリスマスツリーを象ったイルミネーションが、まるで空中に浮かんでいるように飾られていたなあ。
でもね、ヨーロッパでのクリスマスは静かで荘厳な、「聖なる夜」なんだよ。
フランスのドーバー海峡の近くにあるディエッペのクリスマスの朝は、街に薄っすらと靄がかかり、街全体が青銅色になって、あちらこちらの教会の鐘が鳴るんだよ。とても幻想的なクリスマスの朝だった」
私と華絵は電飾をツリーに巻き付け始めた。
「そんなクリスマス、私も観てみたいなあ」
「行こうよ、今度一緒に」
「うん、楽しみにしてる」
華絵は寂しそうに笑った。
それは出来ない約束だったからだ。
ようやくツリーの飾り付けも終わり、私はツリーを点灯させてみた。
「きれい・・・」
私は華絵の肩を抱いた。
「ふたりで写真、撮ろうよ」
「じゃあ、ちょっと待ってて」
華絵は寝室に行くと、お気に入りの服に着替えて髪を整え、口紅も引いていた。
「お待たせ、お待たせ」
私たちは精一杯の笑顔で何枚も写真を撮った。
「今度は私一人だけで撮って」
華絵は自分の遺影を撮るつもりだったのだ。
私はカメラを構えた。
死を目前にした華絵は、儚くも美しかった。
私は何度もシャッターを切った。
「ねえ、見せて見せて」
私はデジカメの画像をスキップして華絵に見せた。
「うん、なかなか良く撮れてる」
「カメラマンの腕がいいからな?」
「モデルもね?」
こんなに楽しそうに笑う人間が、本当に死んでしまうのだろうか?
夕食を終え、私は食器を洗いながら華絵に話し掛けた。
「明日の朝はパンでいいかな?」
華絵は私に背を向けてソファに座り、テレビのグルメ番組を観ていた。
「うん、サンドイッチがいいなあ。
ごめんなさいね、ご飯まで作ってもらって、その上お皿まで洗わせちゃって」
「俺、キッチンに立つのは好きだから気にしなくてもいいよ。
船を下りてレストランでもやろうかな? ハナと一緒に」
それは半分本気だった。
私は航海士を辞めるつもりだった。
「ヒロはコックさんの帽子も似合いそうだもんね?」
「俺はなんでも似合う男だからな?」
「いいなあ、ヒロと一緒にレストランをやるなんて。
このテレビに出ている小さなレストランの夫婦みたいにね? 憧れるなあ」
「下町でお洒落なビストロをハナと一緒にやりたいなあ?」
「メニューは何にするの?」
「ハンバーグとミートソース、それからカレーとラーメン」
「ビストロでラーメン? おかしくない?」
「だってハナが好きだから」
「うふふ、ありがとう、ヒロ」
ハナは私を振り返って笑った。
その後、しばらく会話が途絶えたので、私は華絵の名を呼んだ。
「ハナ?」
返事がない。
「ハナ!」
私は洗い物の手を止め、ソファに駆け寄ると華絵が気を失っていた。
私はすぐに救急車を呼んだ。
「しっかりしろ、ハナ! 今、救急車を呼んだからな!」
「・・・あり、がと、う・・・、あなた・・・」
病院に着くと、すぐに救命処置が施されたが、私は医師から想定していた通りの言葉を告げられた。
「会わせてあげたい人がいらっしゃれば、ご連絡をしてあげて下さい」
沈痛な面持ちで医師は言った。
私はすぐに会津の義母に連絡をした。
「お義母さん、華絵が、華絵が危篤、です・・・」
「分かったわ、これからすぐに行くから病院の場所を教えて」
意外にも義母は冷静だった。
点滴や心臓のモニター、酸素吸入機などに繋がれた華絵。
意識は混濁していて、もう会話にはならなかった。
私はずっと手を握り、華絵を励まし続けた。
「華絵、お母さんが来るからな、がんばれ華絵」
毛布を掛けた華絵のカラダは、とても薄く感じた。
華絵との沢山の思い出が蘇って来る。
私たちは喧嘩らしい喧嘩などしたことがなかった。
思い浮かぶのは楽しかった思い出ばかりだった。
夫婦愛とは一緒にいる時間の長さではなく、相手を想う気持ちの深さだ。
華絵の穏やかな寝顔を見て、私はそう思うことにした。
義母夫婦が病院に到着した。
「華絵! お母さんよ!」
すると奇跡的に華絵の意識が戻った。
「お、母さん・・・」
義母は華絵の頬を撫で、涙を流した。
「どうしてなの? まだこれからじゃないの? ハナの人生は・・・。
私が代ってあげたい・・・、華絵と。
早すぎるでしょう? どうして、華絵が・・・」
義母は華絵に覆い被さるように縋って泣いた。
私と義母は華絵の手をそれぞれ握った。
「寛之、お母さん・・・、今まで、本当に、ありがとう。
しあわせだったよ、ずっと・・・」
「華絵!」
「華絵ちゃん! お母さんよ! ここにいるからね! 返事をして! お願い! 返事をして頂戴!」
「華絵ーーーーーーーーーっつ!」
華絵は天国へと旅立って逝った。
クリスマス・イブを待つこともなく、眠るように。
最終話 夫婦の絆
四十九日の法要が終わった。
2月の東京は小雪がちらついていた。
私と義母は缶コーヒーを飲んでいた。
「何だか何もする気にならないわね?」
「そうですね?」
「あの子、小さい頃から手の掛からない子でね?
大きな病気もせず、入院もしなかったのよ。
私に迷惑を掛けまいと、いつも我慢していたの。
まさか自分の娘が自分よりも先に死ぬなんて思ってもいなかった。
いつも自慢していたのよ、寛之さんのこと。
今まで娘を大切にしてくれて、本当にありがとうございました」
義母はそう言って私に頭を下げた。
「どうか頭を上げて下さい、お母さん。大切なお嬢さんを死なせてしまったのは私です。私が傍にいれさえすれば、病気にもっと早く気付いてあげることが出来たんです。
私は自分の夢を実現させるために、華絵の人生を犠牲にしたんです。
本当に申し訳ありませんでした」
私は義母に深く頭を下げた。
「夫婦ってね? 離れていても夫婦なのよ。
それに寛之さんが船長さんになることは、華絵の夢でもあったんだから。
だからお願い、自分を責めないで。
毎日顔を突き合わせていようと、一年のうちに少ししか会えなくても同じよ。
お互いを想う気持ちが大切なの。
私が前の夫と上手くいかなかったのは、お互いに相手に対する思い遣りが足りなかったからだと思う。
前の旦那ばかりを責めているわけじゃないのよ、私も同じ、お互い様だもの。
いつの間にかお互いが当たり前の存在になっていたんだと思う。何をしてもらって当たり前だとね?
感謝が無かったのよ。「ありがとう」がなかったの。
今の主人は一緒にいると凄くラクなの。だから続いているんだと思う。
若い頃は好きだとか嫌いだとか、会いたいとか会えないとかの無い物ねだりでしょう?
でもね? 歳を取って色んな欲が少なくなってくると、最後に残る物、それが夫婦の絆だと思う。
いちゃつかなくても、ただ一緒にいるだけでいい関係。
一緒にテレビを観て笑ったり、スーパーへ買物に行ったり、「これ、美味しいから食べてみる?」とかね?
華絵はあなたと結婚して本当にしあわせだったと思う。こんなに大切に想っていてくれたんですもの。
華絵を失ったあなたも私も、いつかは華絵のところに行くわ。だからお互いに精一杯生きましょうよ。
辛いことが多いのも人生だけど、だからこそ楽しまないとね? 華絵の分まで」
「ありがとうございます、お義母さん」
「あなたはお船だから、華絵の遺骨はこのまま会津に連れて帰ります。しばらくはお墓には入れず、家に置くけどね。
それでいいでしょう? 寛之さん」
「わかりました。
でも、お位牌は私に預からせて下さい。華絵と一緒に航海を続けたいので」
「わかったわ、ではそうしましょう。
元気でね? また会津の華絵に会いに来てあげてね?
もちろん私たちにも元気な顔を見せて頂戴。娘が亡くなっても、あなたはいつまでも私たちの息子なんだから」
「お義母さんもお元気で」
「寛之さんもね?」
「はい」
私は小さな仏壇に、小樽で買ったあのガラスのうさぎを置いて手を合わせた。
ツリーの前で撮った華絵の写真が笑っている。
私は華絵と飾ったクリスマスツリーを未だに仕舞うことが出来ず、ツリーの電飾を点けてみた。
華絵が傍にいるような気がした。
台所の引き出しから線香花火を見つけた。
私はバケツに水を入れ、仏壇のローソクを持ってベランダに出た。
私は線香花火に火を点け、じっとそれを眺めていた。
線香花火のささやかな煌めき。
パチパチと可憐に火花を咲かせ、それはすぐに小さくなって、ジュと音を立てて水に消えた。
それは華絵の人生のようだった。
義母が言うように、華絵は私と結婚して本当に幸福だったのだろうか?
私は再び線香花火に火を点けた。華絵を偲ぶために。
華絵の遺品の整理をしていると、ドレッサーの引き出しからエアメールに入った私宛の手紙を見つけた。
前略 愛する寛之様
どうしてエアメールなのかって?
天国からのお手紙だから航空便にしたの、素敵でしょう?
正直に言うとね? 病気になった時は死ぬのが怖かった。
ヒロと別れる哀しみで、たくさん泣きました。
でもヒロが帰って来てくれてからは、死と向き合うことが出来るようになりました。
覚悟が出来ました。死ぬのが怖くなくなりました。
いかに自分が今まであなたに愛され、恵まれていたのかを知りました。
ヒロのお船での生活や、グリーンフラッシュ、満天の星。天の川も見て、小樽も楽しかったなあ。
お寿司、すごく美味しかったね?
ガラスのうさぎ、ちゃんとお仏壇に飾って下さいね。
私だと思って。キレイでカワイイから(笑)
会津も楽しかったなあ。ふる里にはヒロとの楽しい思い出がいっぱい。
お墓は会津にお願いします。
そうすればあなたも里帰りが出来るでしょう?
あなたと結婚して本当にしあわせでした。
ありがとう寛之。
私はあなたの妻で幸福でした。
どうか私の分までしあわせになって下さい。
銀河一、大好きなヒロへ。
かしこ
天国から愛を込めて
堂免華絵
「華絵・・・」
後から後から涙が溢れた。
華絵は死んでしまったが、華絵が私を愛してくれていた事実は決して消えはしない。
私は手紙を強く抱き締めた。
私は2か月間の休暇を終え、チョフサー(一等航海士)に昇格して船に戻った。
今度の船は5万トンの鉱石運搬船で、アルミナ(アルミニウムの原料)を積んでカナダのキチマットに向かうため、オーストラリアのグラッドストーンに向けて航海を続けていた。
グアム島を確認して変針すると、太平洋を南下し、サザンクロス(南十字星)が輝き始めた。
夜の航海当直をしていると、キャプテンの大室がブリッジに上がって来た。
「会社から聞いたよ、大変だったな? 奥さん」
「お気遣いありがとうございます」
「俺も4年前に女房を亡くした。
航海中で死に目には遭えなかったよ」
「そうでしたか・・・」
「丁度休暇中だったのが、せめてもの幸いだったな?
船乗りの宿命だからな? 大切な人の冠婚葬祭に出られないのは」
「はい」
「でもな、俺は思うんだ。
傍にいることも大切だが、それ以上に大切なのはその大切な人を想う気持ちだと。
女房には苦労を掛けてばかりで、何もしてやれなかった。
だからせめて、死んだ女房のことは大切に想っている。
夫婦って、そういうもんだろう?
ワッチ(航海当直)が終わったら俺のキャビンで飲もう、お互いの奥さんの「のろけ話」でもしながら」
それだけ言うと、キャプテンはブリッジ(操舵室)を下りて行った。
私は左舷のウイングに出て、南太平洋の夜空を見上げた。
明るい月夜の穏やかな海だった。
「華絵、君は星になったんだね?」
一筋の流れ星が光った。
私は胸の前で手を組み、祈りを捧げた。
「どうか華絵が天国で、しあわせでありますように」
『冬の線香花火』完
【完結】冬の線香花火(作品230620) 菊池昭仁 @landfall0810
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