マロウブルー 10
「この店には、もう二度と来れないのだから」
この店「純喫茶ノワール」は一度来店されたお客様を再び迎え入れることができない。
単にリーナが連れてこないというわけではない。いくらリーナが連れてこようとしても、知らず知らずのうちに客人は彼女とはぐれてしまう。何度か試したことがあるが、そのどれもが失敗に終わった。
そして、そんな店の店主を務める僕は、この店から出ることができない。正確に言えば敷地から出ることができないのだ。ある意味で閉じ込められているといえるだろう。
だがそんなことすらどうでもいいと思えるほどに、この店に来た当初の僕は社会から、世の中から、この世界から逃げたかった。
僕の目に宿った不思議な能力はこの店の店主となるためのカギであり、その両者が僕への呪いなのだろう。
「あなたとは長い付き合いだけれど、昔の話は聞いたことがなかったわ」
「そうだね……あまり昔のことは思い出したくないんだよ」
「あの子にはかなり話していたようだけど?」
「起きてたのかい?」
「ええ。寝ようと思ったら面白そうな話だと思ったの」
「そうだったんだ……まあいつか話すよ」
「あなたのいつか、は信用できないのだけど?」
「今日は疲れたよ。そうだ! なにか温かい物でも飲もう。リクエストはあるかい?」
「......ホットミルクをいただこうかしら」
はぐらかされたと思っているだろう。
リーナとは長い付き合いだ。僕にとってもこの店にとっても彼女の存在は必要不可欠だと言っていい。出会えたのが奇跡だ。
だからこそ、僕の全てを打ち明けるが怖い。
「どうぞ」
牛乳を電子レンジで温め、リーナに渡す。
「ありがとう……それにしても、彼女にあれを出すなんてね」
ホットミルクの入ったマグカップを両手で包み込むように持ち、コーヒーを入れている僕を上目遣いで見てくる。
「ああ、マロウブルーのことかい? 彼女にはあれがぴったりだと思ったんだ。彼女はまるで戦場に立っているかのように緊張していた。ハーブの効能で少しでもリラックスしてくれれば話を引き出しやすいと思ってね」
「それだけなら普通のハーブティーでもいいんじゃないかしら?」
「確かにそうだね。カモミールやスイートバジルなんかでもよかったかもしれない。ただ……」
「ただ?」
珈琲をマグカップに入れ、角砂糖を一つ入れる。
ゆっくり持ち、リーナの正面に座った。
「ちょっとした願いもあったんだよ」
「願い?」
「うん。マロウブルーの花はウスベニアオイ。ヨーロッパで初夏から夏にかけて咲く花さ。お湯を注ぐと青く鮮やかな水色に染まる。そしてレモン果汁を数滴加えることで淡いピンクに変化していく。まるで朝日が昇る前の空色のような美しい色の変化からマロウブルーにはこんな別名がある。 ”夜明けのハーブティー” ロマンチックでしょ? これからの彼女の生きる道が明るく晴れやかなものになってほしい。そしていつかあのハーブティーを飲んだ時に今日のことを思い出してくれたら、彼女はどんな壁にも負けずに立ち向かうはず」
「随分と彼女を評価しているのね」
「まあね。本当に昔の自分にそっくりだったから見放せなかったのかもしれないよ」
僕が彼女のような状況にあったとき、僕を救ってくれた恩師が飲ませてくれたのもマロウブルーだった。あの日から僕は変わった。身勝手な願いをするのであれば、彼女もそうであってほしい。
「彼女は強いよ。きっと大丈夫さ」
* * *
深夜2時。
リーナは狐の姿で眠りについた。
店の二階に僕は住んでいる。
畳の張られた小さな部屋だ。机と座布団、花の刺さっていない花瓶に戸棚、布団しかない。
月の光を窓が吸い込み、大量の飲物に関する本が立ち並ぶ木の机を明るくしている。鍵のかかった戸棚を開け、中に入っているぼろぼろの手帖を取り出す。表紙には「来店手帖」と書かれている。背表紙に、は№5という文字も見えた。
これは「ノワール」が開店した当初から僕がつけている訪れた人と感情の色、悩み、そして提供した飲物を記録した手帖だ。何百、何千と来店されたお客様を全員記録している。やりたくてやっているわけではない。これも僕の仕事であり、使命なのだ。
「「4月25日(木) 午後5時25分
来店者:
悩み:家族、進路、いじめ
提供:ハーブティー (マロウブルー) 」」
書き終わると文字が月の光を受け淡く輝き、その光は窓から外に向かって浮かんでいった。
手帖を閉じ、元あった戸棚に入れ、鍵をかける。
「さてと、明日はどんなお客様が来られるのやら……」
布団を敷き、ゆっくりと眠りにつく。
机に無造作に置かれた花瓶からゆっくりと花の蕾が伸びている。その花は月明かりに照らされ涙のような露を落とし、美しい青紫の花を咲かせた。
まるで夜明けを待つかのように。
純喫茶ノワール来店手帖 Youg @ito-yuji
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