マロウブルー 9
「お疲れ様、リーナ」
背は僕よりも低く、特徴的だった耳もなくなりすっかり人の姿となったリーナが暗闇から顔を出した。
そう。
リーナの正体は化ける狐。
どれほど前だったか思い出せないが、僕がこの店で支度をしているときに傷だらけのリーナがやってきた。手当をして数日、彼女は人の言葉を話し、さらには人間に化けることまでできると明かしてくれた。
リーナには不思議な力があった。
心に悩みや不安、絶望を抱える人を見分け、そんな人たちを魅了する不思議な力だ。
それを知った僕はリーナを店に迎え、お客様の案内役兼看板狐として働いてもらうことになった。
「煙草はやめたんじゃないの?」
鼻をつまんでリーナは言う。
「たまには、ね。今日のお客様を見ていたら、昔の自分を見ているようでさ」
「やけに自分語りが多いと思ったら、同情してたのね。あなたにしては珍しい」
「そんなこともないさ。僕だって同情くらいするよ。それができなきゃ、この店はやっていけない」
煙草もすっかり短くなってしまった。
名残惜しくたばこを地面に落とし、軽く踏んだ。火が完全に消えたのを確認して外にあるごみ箱の中に入れる。
リーナと一緒に店の中に入った。
「あの子、無事に家に帰ったわよ」
「そうかい。それはよかった」
「また来るって言ってたわね」
「ああ、そうだね」
「あなたも人が悪いわ。何もかも話さずにあのタイミングで出ていけ、なんて」
「僕は出ていけ、なんて言ってないよ。ただ、彼女にはもう十分だとわかったからね」
「あなたのその眼ね。まったく、私以上に妙ね」
「ああ……」
僕に備わっているこの眼。物心ついた頃から僕には人には見えないモヤに似た何かが見えていた。人の心臓のあたりに浮かぶ、人それぞれ異なる美しい色。これが何なのかわかるまで僕は随分と苦労した。
ある雨の日。高校時代、当時付き合っていた彼女に振られた。大好きだった彼女に「ほかに好きな人ができた」と別れを告げられ、僕は悲しみの底にいた。トイレに向かい、こぼれそうな涙を必死に拭った。
その時だった。
鏡越しに映る僕の心臓のあたりには、海よりも青く、夜空よりも黒い、まるで深海の底のような色が漂っていた。いつもは黄色や橙色、緑の日だってある。
そしてこの時僕は確信した。
僕に見えているこれは、感情の色なんだと。
僕がこれを理解すると、人以外にも感情の色が見えるようになった。犬や猫、鳥に建物まで。建物にも感情があるんだと知ったとき僕はどうしようもない高揚感と計り知れない恐怖心に襲われた。
そして今、この喫茶店で見ているのはお客様の感情だ。
茶葉を煎るときも、適切な時間になると色が変わる。なんともありがたいことだ。
「彼女は僕と違って、向き合い続けるはずさ。そして何度も心を折られることだろう。それでも彼女は立ち上がるしかない」
「彼女、そんなことできるかしら」
「できるさ……やるしかないんだ。この店には、もう二度と来れないのだから」
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